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ありふれた宝物

もしも、あなたの『思い出』に値段がつくとしたら。

愛する人と見た夕焼け。

笑い合って食べたスープの味。

繋いだ手の温もり。

誰にとっても、値段などつけようのない、かけがえのない宝物。

この街では、そんなありふれた宝物にさえ、値札がつけられている。

人々は未来を掴むために過去を売り、

命を救うために魂を差し出す。

これは、たった一つの宝物を守るために、自らの幸福を売り払った少年の物語。

軋む階段が、疲弊した体にはやけに堪えた。三階の突き当たり、古い木製のドアから漏れる頼りない光だけが、レオの帰るべき場所を示している。日雇いの荷揚げ作業で稼いだわずかな硬貨をポケットの中で握りしめ、彼はゆっくりとドアノブに手をかけた。

「おかえり、お兄ちゃん」

ドアを開けると、ランプの温かい光と、コトコトと煮える野菜スープの優しい匂いが彼を迎えた。エプロンをつけた妹のニーナが、小さなキッチンの奥でふわりと笑う。それだけで、レオの体にずしりと溜まっていた鉛のような疲労が、少しだけ軽くなる気がした。

食卓に並ぶのは、安売りの固いパンと、具材の少ない野菜スープだけ。貴族街のレストランから漂ってくるような、食欲を掻き立てる肉の匂いはない。それでも、レオにとっては世界で一番のご馳走だった。

「今日のスープ、なんだかいつもより美味しいな」

木製のスプーンで一口運び、レオが言うと、ニーナは嬉しそうに目を細めた。

「ふふ、八百屋さんのおじさんがね、売れ残りのハーブを少しだけ分けてくれたの。隠し味」

他愛ない会話。温かいスープが、冷え切った体をじんわりと内側から温めていく。この街では誰もが生きるのに必死で、隣人どころか家族の顔さえ忘れていく。そんな世界で、こうして妹と食卓を囲める時間は、レオにとって魂の灯火そのものだった。

食事が終わると、二人は並んで洗い物をする。レオが洗い、ニーナが拭く。それが二人の間の決まり事だった。ニーナが静かに鼻歌を歌う。どこで覚えたのかも分からない、素朴なメロディ。時折、レオの指についた泡をニーナの鼻につけて、二人で子供のように笑い合った。

「見て見て、お兄ちゃん。今日ね、描いてみたんだ」

片付けが終わり、ニーナが持ってきたのは一枚のスケッチブックの切れ端だった。そこに描かれていたのは、窓辺に置かれた一輪挿しの花。上手くはない。線のところどころは歪んでいる。けれど、その一枚に込められた優しい眼差しが、レオには痛いほど伝わってきた。

「すごいな、ニーナは。天才じゃないか?」

「もう、大げさだよ」

照れる妹の頭をくしゃりとかき混ぜ、レオはその絵を、すでに何枚かの絵が貼られている壁の一番良い場所に、大切に貼り付けた。貧しいアパートの殺風景な壁が、ニーナの絵のおかげで、世界で一つだけのギャラリーに変わる。

夜が更け、隙間風が部屋を冷やし始めると、二人は古い毛布を一緒に肩からかける。窓の外には、無数の街の灯りが星のように広がっていた。

「あそこの一番明るいビル、いつか二人で行ってみたいな」

「ああ。もっと稼いで、ニーナに綺麗な服を買ってやるからな。そしたら、一番上のレストランに行こう」

叶うはずもない、と心のどこかで分かっている。それでも、こうして夢を語り合う時間は、二人にとって何物にも代えがたい宝物だった。

「ふふ、楽しみだな」

ニーナが楽しそうに笑った、その瞬間だった。

「……っ、けほっ、ごほっ!」

突然、彼女の華奢な体が鋭く折れ曲がる。堰を切ったように激しい咳が、静かな部屋に響いた。レオは心臓が凍るような感覚に襲われ、咄嗟に妹の背中をさする。

「ニーナ!?大丈夫か!?」

「……ん、大丈夫、へいき。……変なところに、入っちゃっただけ」

数秒後、咳は嘘のように収まった。ニーナは涙目になりながらも、いつものように笑顔を作って見せる。その笑顔に、レオは張り詰めかけていた息をそっと吐き出した。

「…そうか。気をつけてくれよ」

胸の中に生まれた小さな棘に気づかないふりをして、レオは妹の頭を優しく撫でた。

そんな日々が、永遠に続くものだと信じていた。信じようとしていた。

その数日後。レオの目の前で、ニーナは糸が切れた人形のように、音もなく崩れ落ちた。

診療所の消毒液の匂いが、やけに鼻についた。

待合室の硬い椅子で、レオはただ小さく体を震わせる。時間の感覚はとうに失われていた。

「レオさん」

白衣を着た老医師に呼ばれ、彼は弾かれたように顔を上げる。医師の疲れた顔には、同情の色が浮かんでいた。

「……妹は」

「……落ち着いて聞いてください。診断結果ですが……『記憶減衰症』です」

記憶減衰症。初めて聞く病名だった。医師は淡々と説明を続ける。脳の機能が徐々に失われ、記憶が失われていく原因不明の病。特効薬はなく、進行を遅らせる高価な治療を続けるしかない、と。

「この病気は厄介でしてね」

医師はカルテを見ながら、独り言のように呟いた。

「進行がどうも不規則なんです。安定しているかと思えば、何か**『引き金』**でもあるかのように、特定の記憶領域がごっそりと抜け落ちることがある。まるで…嵐が過ぎ去った後のようにね。その原因はまだ…」

だが、その言葉はもはやレオの耳には届いていなかった。彼が理解できたのは、提示された治療費の桁外れの数字と、「このままではいずれ、君の顔も忘れてしまうだろう」という、残酷な事実だけだった。

どうやって家に帰ったのか、覚えていない。気づけば、冷たい雨が降りしきる路地裏に、レオは一人で立ち尽くしていた。

スープの温もり。壁の絵。毛布の暖かさ。

僕たちの「ありふれた宝物」。

それが、消える?ニーナの中から、僕が、消える?

冗談じゃない。そんなこと、あっていいはずがない。

守ると誓ったんだ。この手で、必ず。

その時だった。軒下で雨宿りをしていた男たちの、ひそひそ声が耳に届いたのは。

「…だからよぉ、『交易所』に行きゃ一発だって。担保もいらねぇ。テメェの『思い出』が、綺麗な札束に化けるんだぜ…?」

思い出が、金に?

レオは、その言葉に呪いをかけられたかのように、ぴたりと動きを止めた。

雨に濡れ、うなだれていた彼の顔が、ゆっくりと持ち上がる。

その瞳から先ほどまでの絶望の色は消え、代わりに、全てを焼き尽くすかのような、昏い決意の光が灯っていた。

第一話『ありふれた宝物』、お読みいただき、誠にありがとうございます。

作者のやかんです。

この物語は、レオとニーナのささやかで、どうしようもなく愛おしい日常を描くことから始まります。

本当の幸福とは何か。守るべきもののために、人は何を差し出せるのか。

これから彼らが辿る運命は、その問いを皆様の心に深く突き刺すものになるかと思います。

もし少しでも「続きが気になる」「この世界観、好きかもしれない」と感じていただけましたら、ぜひブックマークや、いいねで評価をいただけますと、今後の執筆の大きな、大きな励みになります。

皆様からの応援が、この物語を紡ぐ一番の力です。

次回、レオはニーナを救う決意を胸に、ついに『記憶交易所』の扉を叩きます。

そこは、希望と絶望が取引される場所――。

彼の運命が、大きく動き始めます。

それでは、また次のお話でお会いできることを願っております。

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