第十二章:リストラから新たな人生へ
気絶したジークルーネを無責任にも置いて行った夜叉王丸達は人間界の鎌倉市にある喫茶店バロンで各々の時間を過ごしていた。
バロンに着くと相変わらず誰も客は居ないという悲しい状態ながら好きに過ごせると開き直っていた。
夜叉王丸は読書をダハーカ達はポーカーやビリヤードをジャンヌ、ヴァレンタイン、美夜、リリムは店内の掃除などをしていた。
ただ、一人クレセントだけは壁に背中を預けて夢想をしていた。
普通なら気になる事だが、生憎とこの場でそれを口にする者は誰もいなかった。
夜叉王丸は読み掛けの本を閉じてセブンスターを銜えた。
彼が読んでいたのはハードボイルドの大御所であるレイモンド・チャンドラーが書いた『長いお別れ』だった。
フィリップ・マーロウを主人公にした本でチャンドラーの遺作となった作品で現在でも多くの人々に読まれている名作である。
「・・・・いつ読んでも良い作品だな」
セブンスターにジッポで火を点けながら夜叉王丸はチャンドラーを褒め称えた。
「男はタフでなければ生きていけない。優しくなければ生きる資格はない、まさにその通りだ」
ふぅ、と息を吐く。
チャンドラーの作品には名言が多く登場するが、ハードボイルドの代名詞とも言える名言が、夜叉王丸が言った言葉だ。
彼自身、マーロウの生き方に強い感銘を受けている所があるため、この言葉が好きだった。
「飛天様は十分にフィリップ・マーロウですよ」
ジャンヌがブルーマウンテンの豆で捲いたコーヒーを差し出しながら言った。
「飛天様は優しいですし強いですもの」
「果たしてそうかな?」
微笑みながらコーヒーを口にする。
セブンスターは灰皿に置いた。
「ジャンヌ殿の言う通りです」
ヴァレンタインが何か夜叉王丸に怒るように言ってきた。
「夜叉王丸様はご自分を過小評価しています。夜叉王丸様は優しく強い素晴らしい男の方です」
随分と情熱的な言葉を言うなと思いながら夜叉王丸はありがとうと言った。
ヴァレンタインは頬を赤く染めた。
「あらあら。飛天さんったらダーリンよりも女の子を喜ばすのが得意ね」
美夜はモップを動かすのを止めて自分の夫より養子を褒めた。
「あのエロ爺よりは上手いと自負しているよ」
夜叉王丸の発言にまぁ、と笑う美夜。
時間は12時になっていた。
「そろそろ来るか?」
何時もの時間なら例の常連客である営業マンが来る筈だ。
バロンが開かれてから、ただ一人だけ毎日のように通ってくる中年の男。
まだ浅い付き合いだが、彼の人柄などを見ると十分に出世すると思うのだが、そうではないらしい。
更に家庭でもゴタゴタがあるらしいと夜のバロンを任せているルシュファーの忠実なる下僕、もといパシリのメフィスト・フェレスから聞かされた。
他人の事は極力、関わらないようにしているが彼の場合は付き合いがあるため真摯になっている。
「ジャンヌ。何時ものメニューを用意しておけ」
分かりましたと言ってジャンヌはヴァレンタインと一緒に消えた。
それから15分ほどしてドアが開いた。
中に入ってきたのはよれよれのグレーの背広を着た白髪が見える中年の男だった。
「・・・・どうした?」
夜叉王丸は何時もの彼と違う雰囲気に眉を顰めた。
ダハーカ達も上から降りて来て男を見て何やら心配そうにしていた。
クレセントだけが無表情で男を見ていた。
「実は会社を首にされまして・・・・・・」
男は力なく笑った。
会社を首にされた。
何とも言えない内容だった。
ジャンヌ達は押し黙った。
普通なら落ち込まないように励ますなどするが、そこは人間の数百倍も生きている悪魔だけあって冷静な対応だった。
「そうか。まぁ、座れ」
夜叉王丸は男を指定席となったカウンター席に座らせた。
カウンター席に座ると語り始めた。
「前々から言われていたんですけど、朝のミーティングが終わってからリストラを言い渡されまして・・・・・・」
男の顔は少し削げ落ちていた。
顔色もどこか青白く見えた。
「私って昔から運が無いんですよ」
男は力なく笑い喋り始めた。
「仕事でもミスばっかりして上司のゴマ擦りも出来ないし家庭でも妻にも娘にも馬鹿にされて家を追い出される始末・・・・・・」
本当に運がないと笑う男。
夜叉王丸達は黙って男を見た。
この男は確かに運がないと言えば運がない。
更に付け加えれば世渡りが下手だ。
上司のゴマ擦りも上手く出来ないとなれば出世は望めない。
しかし、上司や客へのゴマ擦りなどより営業マンに大事なのは客の気持ちを真摯に捉えて最適な商品を進める事だ。
それが営業マンとして大事な事で基本だ。
この男は少なくとも基本を護っているし営業マンとしての素質もある。
しかしリストラにされた。
現実とは厳しく悲しいものだ。
だが、この男は完全に運に見放された訳でない。
「お前、さっき自分は運が無いって言ったな」
えぇ、と頷く男。
「自分で言っているほど運に見放されていないぞ。お前」
男は分からないという顔をしていた。
「俺の店、バロンに来た事は運がある」
悪魔である自分に出会ったこと。
それがこの男にとって運は見放していないという事を意味している。
それに男には常人にはない特殊な気があるのを感じ取っていたから、それさえ刺激すればバラ色の人生が待っている。
夜叉王丸の発言にそうだな、と頷くダハーカ。
ジャンヌ達は分からない様子だった。
「俺らの店に来た事は、運があるぜ」
「どういう事ですか?」
男は聞いた。
「まぁ、簡単に言えば・・・・・・」
「俺の元で働かないか?」
ダハーカが何かを言おうとしたのを遮って夜叉王丸が言った。
「俺が言おうとしてたのに」
文句を言う相棒を無視して夜叉王丸は男を見た。
夜叉王丸の言葉にジャンヌ達は驚いたが、ゼオン達は納得している様子だった。
「働くというと、ここで?」
「まぁ、ここでも良いが今の自分に嫌になっているだろ?」
図星を指されて男は頷いた。
「今の自分で働くか、または新たに生まれ変わって別な世界で働くかの2択だ」
「新たに生まれ変わるとは?」
「あんたには常人にはない“野性”がある」
「野性ですか?私は会社の中で野性が一番ないと言われている男ですが」
「それは人間から見たからだ。お前にはあるし、それを出せば確実に変われる」
「・・・・・・」
男は黙った。
「変われると言っても具体的に言わないと分からないだろうから、説明する」
ダハーカ、と言う夜叉王丸。
「俺にバトン・タッチか」
「あぁ。頼む」
了解と言ってダハーカは説明を始めた。
「野性ってのは簡単に言っちまえば人間に誰もが持っている」
「皆が持っているが、お前さんの野性はその中でも一際に強い」
「一際に強い?」
「あぁ。一際に強いから普通は鎖みたいな物で縛られている。しかし、少し刺激を与えっちまえば、お前は変われる」
「どういう風に、ですか?」
普段からは信じられない位に真剣な顔になるダハーカに男も真剣になって聞いてきた。
「まぁ、容姿も変わるし身体的にも変わるな」
「お前さんの場合は、野生の中でも数少ない獣を宿しているな」
「獣・・・・・・?」
「そうだ。言っておくが、獣って言っても伝説で悪と言われている獣だぞ」
狼然り獅子然り蛇然り狐然り蜥蜴然り・・・・・・・全て伝説などでは悪と例えられる獣たちだ。
「その獣の野性が私の中に宿っている・・・・・・・・」
男は困惑しているように見える。
「その獣を解放すれば、お前は変われる。本当の意味で自由になれる」
「・・・・・・・」
ダハーカの言葉は男の心に何かを刺激したのか男の眼つきが一瞬だけ獣の瞳になったのを夜叉王丸は見逃さなかった。
もう一押しだ。
「どうする?新しく生まれ変わるか。それとも死ぬまで今の自分で生きるか」
「・・・・私は、今の自分が嫌いです。新しく生まれ変わりたいです」
「決まりだな」
ダハーカは真剣な顔からニヤリと笑った。
何時もの馬鹿な笑みではなく口端を上げて笑った。
その時から男の人生は大きく変わる事となるのを男はまだ知らない。
しかし、それは決して悪い方向に変わったのではなく良い方向に変わったのだ。