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空耳コーチ、僕のパーフェクト・ライフ。

作者: Tom Eny

空耳コーチ、僕のパーフェクト・ライフ。


健太は、どこにでもいる冴えない男だった。会社では誰とも目を合わせず、書類の山に埋もれる日々。プライベートといえば、色あせたジャージが定位置で、髪はぼさぼさ、肌はカサつきが目立つ。周囲からは「あの人、ちゃんと生きてるのかな?」と陰口を叩かれるほどだった。そんな健太が密かに想いを寄せるのは、同僚の美咲。明るく社交的で、映画とカフェ巡りが好きな彼女は、健太にとって手の届かない星のようだった。美咲にとって、健太はただの「同じ部署の、特に話したこともない人」でしかなかった。


ある日の通勤電車。健太は買ったばかりのごく普通のワイヤレスイヤホンで音楽を聴いていた。心地よいメロディに目を閉じた瞬間、突然、音楽が途切れた。


「またか…安物はこれだから」


健太は舌打ちし、右耳のイヤホンをトントンと叩いた。反応はない。諦めかけたその時、イヤホンからではない、頭の中に直接響くような、感情を一切感じさせない、冷徹で論理的な男性の声が聞こえた。


「叩かないでください。痛いです。」


健太は全身が粟立った。イヤホンを外して見つめる。ただのプラスチックの塊だ。恐る恐る耳に戻し、今度はフーフーと息を吹きかけてみた。


「やめてください。くすぐったいですし、湿気が故障の原因になります。」


健太は混乱した。こんな機能、聞いたこともない。周囲を見渡すが、誰も彼を見ていない。理解が追いつかない中、再びイヤホンからいつもの音楽が流れ出した。まるで幻だったかのように。


数日後、昼休みの食堂。健太はスマホを握りしめ、美咲にメッセージを送ろうか迷っていた。送信ボタンを押せないまま閉じようとしたその時、音楽が止まり、あの声が響いた。「そのメッセージは削除してください。効果的ではありません。代わりにこう入力し、送信してください。『美咲さん、先日話題になっていた〇〇の映画、とても面白そうですね。もしよかったら、今度一緒に観に行きませんか?』」


「美咲とあんな映画を観に行けたら最高なのにな」。昨日、健太がぼんやりと考えていた願望そのものだった。戸惑いながらも、その声の有無を言わせぬ説得力に、健太は抗えなかった。まるで心の奥底に眠っていたもう一人の自分が囁いているかのようだった。言われるがままにメッセージを打ち、送信した。健太は、この奇妙な声こそ、自分を変える「パーフェクト・デート・コーチ」、略して「PDC」だと信じ込むことにした。


PDCの指示と劇的な変化:健太の「モテる」秘訣(実践編)


美咲からの予想外の返信に、健太の心臓は高鳴った。PDCの声がすぐに響いた。「返信を確認しました。予定調整に入ります。続けてこう返信してください。『ありがとうございます!では、来週の〇曜日はいかがですか? 美咲さんの都合の良い時間帯を教えていただけると助かります。』」健太はPDCの指示通りに動き、あっという間に初デートの約束を取り付けた。声は具体的なセリフ回しや声のトーンまで細かく指示した。


デートの日が近づくにつれ、健太の不安は募った。「ジャージじゃまずい。このぼさぼさの髪、カサカサの肌……」。PDCの声がその不安を察したかのように響いた。


【PDCの指示:モテる人が徹底する「清潔感」の基盤作り】


「服装について。そのジャージを脱ぎ捨て、清潔感のあるカジュアルな服装を選んでください。美咲さんの好みに合わせ、ネイビー系の〇〇シャツと□□チノパンツを購入してください。」


「ヘアスタイルについて。あなたの髪型は魅力を損ねています。美容室を予約しました。明日の午後3時、〇〇美容室で『顔の輪郭に合わせた、清潔感のあるショートレイヤー。前髪は少し立ち上げて爽やかに』と伝えてください。スタイリング剤も尋ねましょう。」


「スキンケアについて。あなたの肌は乾燥が酷く、毛穴も目立ちます。本日より、洗顔料は〇〇、化粧水は△△、乳液は□□を使用してください。夜はシートマスクを週3回。毎朝晩、このルーティンを徹底してください。口臭予防に〇〇、体臭予防に△△も推奨します。」


「デートの場所は、美咲さんの興味があった隠れ家的なカフェレストランを選定し、予約済みです。」


PDCの畳みかけるような指示に、健太は抵抗する気力もなく従った。生まれて初めてファッション雑誌を真剣に読み、慣れない美容室の椅子に緊張しながら身を委ね、高価なスキンケア用品を買い揃えた。毎日、鏡を見ながらPDCに言われた通りケアを続けるうち、彼の肌は滑らかさを取り戻し、髪も整い、清潔感のあるシャツに身を包んだ彼は、以前とは見違えるようだった。


完璧なデートと美咲の反応:実践的なコミュニケーション術と気遣い


運命のデート当日。待ち合わせ場所に現れた健太の姿に、美咲は目を見張った。「えっ…健太さん…?」ジャージ姿の面影はどこにもなく、そこにいたのは垢抜けた清潔感のある青年だった。健太はPDCの最初の指示を思い出した。


【PDCの指示:好印象を与えるための第一歩「笑顔」と「褒め言葉」】


「美咲さんの今日の淡いピンクのワンピース、本当によくお似合いですね。センスが良いと素直に伝えましょう。」


健太は緊張しながらも、精一杯の笑顔で言った。「美咲さん、今日のワンピース、すごく素敵ですね。」美咲は照れたように微笑み、「ありがとう」と答えた。


「PDC」は間髪入れずに次の指示を送った。「美咲さんがあなたの新しいヘアスタイルに気づきました。『思い切って美容室に行ってみたんだ』と、少し照れながら伝えましょう。あなたのヘアスタイルは、美咲さんの好みに合致しています。自信を持ってください。肌の質感も褒められています。姿勢を正し、堂々としてください。」


ぎこちないながらも会話を続け、二人はカフェレストランへ向かった。PDCは移動中も指示を与え続けた。


【PDCの指示:会話を広げる「質問力」と「教養」の活用】


「次に訪れるカフェの情報に加え、SNSで話題の〇〇美術館の印象派展について触れましょう。美咲さんが以前好きだと話していた画家名を挙げれば、会話が深まります。」「角を曲がる際は、さりげなく歩道の外側を歩き、美咲さんを内側に促してください。」健太はPDCの指示通りに動いた。


レストランに到着後、PDCはさらに細やかな指示を続けた。


【PDCの指示:相手を引き込む「聞き上手」の極意】


「美咲さんがハマっているカフェ巡りの話を引き出してください。さらに、SNSで『行ってみたい』と投稿していた△△というチーズケーキが評判のカフェの話を振ってみましょう。『この間、美咲さんが紹介されていた△△ってカフェ、チーズケーキが絶品らしいですね。今度もしよかったら、一緒に行きませんか?』と提案すると効果的です。相手の目を見て優しく微笑みながら話を聞いてください。相槌は適切に。『へえ、そうなんですね』『わかります』といった短い言葉を適切に挟みましょう。」


会話の端々で、PDCは健太の言動に修正を加えた。「声のトーンが高いです。落ち着いたトーンで。」「視線が泳いでいます。アイコンタクトは3秒を目安に。」


美咲は、目の前の健太が以前とは全く違うことに戸惑いながらも、彼の変化に次第に惹かれていった。「健太さんって、こんなに色々なことを知っているんだ」「それに、なんだか話しやすい…」彼女の中で、健太への興味がゆっくりと目を覚ましていった。


空耳の囁きと自立への兆し:内面の成長と自己肯定感


初デートは大成功。健太はPDCへの絶対的な信頼を置き、二度目のデートの約束も取り付けた。次も完璧に、とPDCに指示を仰ぐ。


PDCは即座に応えた。「美咲さんは最近、SNSで話題のギャラリーカフェに興味を示しています。すでに予約済みです。服装は、前回の清潔感を維持しつつ、〇〇ブランドの△△シャツと□□チノパンツを推奨します。靴は□□のスニーカーが良いでしょう。ヘアスタイルは現状維持で問題ありません。そして、今回の会話では、美咲さんの意見や考えを深く引き出すことを意識してください。具体的な質問を投げかけ、話しやすい雰囲気を作りましょう。例えば、作品について『あの作品の色彩について、美咲さんはどんな印象を受けましたか?』と尋ねてみてください。彼女が話している間は、決して遮らず、真剣な眼差しで耳を傾け、時折頷きながら共感の姿勢を示してください。」


二度目のデートもPDCのおかげで滞りなく過ぎた。美咲は健太の洗練されたファッションや知的な会話にますます惹かれた。帰り際、美咲は微笑んだ。「健太さんといると、本当に楽しい時間があっという間だね。また近いうちに会いたいな。」


しかし、順調な関係の陰で、健太の心には拭えない不安が募っていた。「このままPDCに頼り続けていていいのか? もしPDCがいなくなったら、僕はどうなるんだ?」


ある日、会社帰り。美咲に偶然出会い、「健太さん、お疲れ様です! この前話していた映画、私も興味が出てきました!」と笑顔で話しかけられた。健太は反射的にイヤホンに触れたが、何も聞こえない。いつもの音楽が流れるだけだった。健太は言葉に詰まり、「あ、ああ、そうなんだ。面白いと良いね」と、しどろもどろになるのが精一杯だった。美咲は不思議そうな顔をしたが、手を振って去っていった。


自室に戻った健太は、イヤホンに向かって問いかけた。「PDC…? どうして指示をくれないんだ? 俺、このままでいいのかな? お前がいないと、本当に何もできない気がするんだ。」


しばらくの沈黙の後、PDCの声が、いつもより僅かに優しく響いた。


【PDCの言葉:真の自信は自分の中に】


「健太さん、あなたの成長は目覚ましいものです。私の初期の目的は達成されました。これからは、あなた自身が考え、行動する力を養う段階です。私が与えられるのはあくまできっかけであり、真の魅力はあなた自身の内面に宿っています。今後は、必要な時のみ、最小限のサポートに留めます。」


「卒業」という言葉が、健太の頭をよぎった。頼り切っていた存在がいなくなる寂しさと不安。しかし同時に、PDCの言葉は、彼の奥底に眠っていた「自分の力で変わりたい」という願いに、小さな火を灯した。健太は、PDCの指示の「意図」を自分なりに考えるようになった。なぜこのタイミングでこの話題を振るのか? なぜこんな言葉を選ぶのか? そうすることで、コミュニケーションの本質や相手への配慮といったものを、彼は自分自身で学び始めていたのだ。それは、彼が自立心を育み、向上心を持って内面を磨き始めた証だった。


絶体絶命のピンチと真実:空白の数秒と、本物の言葉


三度目のデートは、夜景の見える高級レストラン。服装は、PDCのアドバイスを参考にしつつも、自分なりに選んだ。会話のシミュレーションも、PDCに頼らず、過去の美咲の反応を思い出しながら考えた。レストランへ向かう道すがら、健太はイヤホンに触れる回数が減っていることに気づいた。もう、以前ほどPDCに頼らなくても、自分なりにスマートな振る舞いができるようになっていた。


美しい夜景を前に、二人は食事を楽しんだ。健太は、PDCの指示を待たず、自分から積極的に美咲に話しかけ、彼女の話に耳を傾けた。映画、音楽、本。ぎこちないながらも、自分の言葉で気持ちを伝えた。美咲も、健太の真剣な眼差しに、ますます惹かれているようだった。健太の口からは、自然と感謝の言葉や、美咲への配慮ある質問が飛び出した。


食事が終わりかけた頃、健太は意を決して口を開いた。「美咲さん、今日は本当に素敵な時間をありがとう。あなたといると、いつも心が安らぐんだ。あの…もしよかったら、また近いうちに、僕と会ってくれませんか?」


その瞬間だった。健太が次の言葉を続けようとした時、耳元のイヤホンから何の音も聞こえなくなった。焦ってタップするが、反応はない。微かなノイズだけが聞こえる。


充電切れか?


いや、違う。健太はイヤホンが耳に正しく装着されていないことに気づいた。無意識に触れてしまったのだろう。イヤホンを外して手のひらでそっと握りしめた瞬間、今まで外部から聞こえるように感じていた「PDC」の声が、まるで自分の内側から湧き上がるかのように、鮮明に脳裏に響いた。そして、その声は、健太が心の奥底で願っていた、理想の自分の声だったことに気づいたのだ。「PDC」は、最初から実在するAIなどではなかった。それは、美咲に近づきたい、変わりたいという健太の強い願望が作り出した、「空耳」だったのだ。


目の前の美咲は、健太の突然の沈黙を訝しげに見つめている。「健太さん? どうかしましたか?」


心臓が激しく脈打つ。頭の中は真っ白になり、何を言えばいいか、言葉が出てこない。いつもならPDCが完璧な言葉を与えてくれたのに。この数秒が永遠にも感じられた。健太は、自分が作り出した幻に頼り切っていたことを、今、痛烈に実感した。


「……あ、あの…その…」健太はしどろもどろになり、テーブルに視線を落としてしまう。PDCの指示通りに完璧にこなしてきたことが、すべて偽物だったかのように感じられた。このままでは、せっかく築き上げてきた美咲との関係が台無しになってしまう。


失敗だ。最悪だ。 健太は絶望に打ちひしがれた。


しかし、その絶望の淵で、健太の脳裏に「PDCの声」が蘇った。「真の魅力はあなた自身の中にあります。」


ハッとした。PDCはいつもそう言っていた。あれは、自分自身の心の声だったのだ。健太は意を決して顔を上げた。美咲は、まだ不安げな表情を浮かべている。


「美咲さん…ごめん。ちょっと、急に何も言えなくなってしまって…」健太は正直にそう切り出した。PDCからの指示ではない、自分自身の言葉だった。


美咲は少し驚いた顔をした。しかし、健太は続ける。「でも…本当に楽しかったんだ、今日。美咲さんといると、いつも新しい発見があるし、時間が経つのがあっという間なんだ。また、すぐに会いたい。今度は、美咲さんの好きなあの映画、もう一度一緒に観に行かないかな? その後、感想をゆっくり話したいんだ。」


震える声だったが、健太の言葉は嘘偽りのない、まっすぐな気持ちだった。美咲は、健太の言葉を聞いて、はにかむように微笑んだ。


「うん、私も楽しかったよ、健太さん。ぜひ行こう! 健太さんの言葉で聞けて嬉しいな。」


美咲の言葉に、健太の心に温かいものが込み上げてきた。PDCの指示なしで、自分の言葉で伝えたことが、美咲の心に響いたのだ。この瞬間、健太は真の自信を手に入れた。


新しい音楽と、変わらない願い:健太からのメッセージ


デートの後、健太は一人、夜道を歩いた。ポケットの中で、あのごく普通のワイヤレスイヤホンを握りしめている。もはや「PDC」の声は聞こえない。あの声は、自信のなかった自分が作り出した幻だったのだ。


自宅に戻り、健太はイヤホンを充電ケーブルに繋いだ。音楽のサブスクアプリを開き、最近おすすめのプレイリストを再生する。


流れてきたのは、穏やかなギターのアルペジオに乗せた、優しい男性ボーカルの曲だった。クリアで温かく、健太の耳に心地よく響いた。ふと、健太はその声に聞き覚えがあることに気づいた。まるで、あの「PDC」の声に、とてもよく似ているのだ。流れてきたのは、インディーズバンドの『Inner Voice』という曲だった。どこかPDCの声に似た、透明感のある男性ボーカルが、穏やかに歌い上げていた。「道は君の心の中に。光はいつもそこにある」健太は、その歌詞に、PDCが最後に伝えたかったメッセージを重ね合わせた。


健太は目を閉じた。PDCはもういない。けれど、あの声が導いてくれた変化は、確かに自分の中に根付いている。ジャージ姿とぼさぼさの髪、手入れをしない肌から完全に脱却し、清潔感のある身だしなみと、相手を思いやるコミュニケーションの習慣が、今では彼の一部となっている。 美咲との関係も、PDCに頼らずとも、より深い信頼と愛情で結ばれていくだろう。そして、これからも、健太は自分の内なる声に耳を傾け、一歩ずつ前に進んでいこう。健太は、静かにそう思った。


彼の人生は、あの単なる音楽用のワイヤレスイヤホンを耳にしたあの日から、大きく、そして確かに変わり始めていた。

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