優等生と不良君
日常。
高校生になれば退屈な日常も少しは変わるかと思っていた。
そして俺の望み通り、それはほんの少し変わった。
早くなった起床時間。
着る制服。
乗る電車。
学校。
しかしそれも、1ヶ月と経たずに日常へと埋もれていく。
高校に入学して3ヶ月経ち、俺の立ち位置は決まった。
学年で1番頭が良くて話しかけづらい、クラスで少し浮いた優等生。
中学の頃と何ら変わらなかった。
元より変わる気なんかない。
持って生まれたこの平凡な容姿のおかげで、俺は目立たず平穏にただ毎日を過ごせている。
ただ、ほんの少し。
一欠片だけ、普段とは違うことがしてみたかった。
誰にでもある『魔がさした』というヤツだ。
***
朝の電車は心底うんざりする。
密着する他人の体温や歯磨き粉と香水の臭い。
目を閉じていても吐き気がする。
ふと、本当にふと、視線を横へと向けてみた。
やけに大きな奴がいるなと、ただそれだけだったと思う。
視界の端にその男が入った瞬間、俺の全身を落雷したかのような衝撃が走った。
何てことだ。
隣に居たのは白くなるまでブリーチした髪をアシメにし、紫のカラコンにピアスを無数に付けた高校生。
彼の有名な関東一巨大な不良チームの、…確かNO.2だったはず。
友達付き合いが希薄なため、噂話にはかなり疎い俺でさえ知っているほどの有名人。
まさかそんな男が朝の満員電車に乗っているとは…
勝手な想像だけど、こういった人種は皆バイクを乗り回しているものだと思っていた。
しかも、そんな不良高校生が右手に持っているのは、俺の好きな舞台作家の戯曲だったものだから更にビックリだ。
人は見た目じゃないとはまさにその通りだな。
だからと言って、フレンドリーに彼と接触を持つ気など更々ない。
例え自分と趣味が合うかもしれないとしても、満員電車に揉まれる姿に親近感を覚えたとしても、所詮は進学校の首席(平凡顔)と不良校のNO.2(美形)とでは同じ高校生でも住む世界が違うのだ。
それに何より、もし不慮の事故で彼の足でも踏んでしまえばそれこそ地獄を見ることになるだろう。
同じことの繰り返しである日常に退屈していたのは事実だけど、不良にボコボコにされる非日常なんて望んではいない。
俺はとにかく息をひそめて、ただひたすらに降りる駅の訪れを待ち望んでいた。
未だかつてこんなにも鬼気迫った直立不動があっただろうか。
カーブでの遠心力もブレーキによる揺れにも、俺の身体は全く動かない。
否、動いたら死ぬと思っているので全身を使って踏ん張っているのだ。
普段使い慣れない筋肉を使っているから、ひょっとしたら明日は筋肉痛になるかもしれないなどと考えている内に、ようやく次は学校の最寄り駅のようだ。
長かった…そして良く堪えた、自分。
ある意味高校受験よりも難関なミッションを、よく何事もなくやり遂げた!
そんな喜びを噛み締めていると、不意に斜め前に立っていた女子高生が身じろいだ。
よく見れば俺が通う学校の制服だったから、きっと次に降りるため動いたのだろうと思った。
しかし、あろうことか自分の後ろに立っている不良の手を掴み、そしてあろうことか声を上げたのだ。
「こっ、この人チカンです!!」
………馬鹿な。
いっきに周囲から視線が集まり、そして彼女が掴んでいる手の持ち主を確認するとすぐさまその目は逸らされる。
それはそうだろう。
誰だって自分から進んで不良と関わろうだなんて思うはずがない。
そしてタイミング良く電車は駅へと滑り込み、俺を含めた乗客の一部がドアから吐き出される。
さっきの女子高生が一体何を考えているのかはわからないけど、もしブチ切れた不良から暴行されでもしたらと思うと寝覚めが悪い。
どうしたものかと考えながらも、いつもの癖でホームを歩き階段を下りた俺だったが、何の因果か再びあの女子高生と不良を目撃してしまった。
人が流れていく改札口方面とは逆の、人目がつきにくい少し薄暗い一角で女子高生が不良に詰め寄っているようだ。
良く良く見ると、進学校には珍しくその女子高生は俗に言うギャル系と呼ばれる部類で、長い茶髪と濃い化粧が印象的だ。
派手な不良と相俟って、それはまるで痴話喧嘩をしているカップルのようにも見える。
「だからっ、警察に突き出されたくなかったらアタシと付き合ってよ!」
驚いた。
盗み聞きする気なんか全くなかったけれど、聞こえてきた女子高生の言葉に驚きと呆れを感じてしまうのは仕方がないだろう。
痴漢行為を盾にその痴漢相手に交際を強要するなんて、普通に考えて有り得るはずもない。
そこで何故か、俺は気まぐれを起こした。
こんな面倒臭いことに自分から首を突っ込むだなんて馬鹿がすることだ。
そんなことわかりきっているのに、俺はほんの少しの非日常に足を踏み入れてみたくなってしまった。
それが俺の人生に於ける、大きな分岐点だとも知らずに。
「ちょっと、聞いてるの!?」
「あの、少し良いですか?」
「何よ!!」
不意に声をかけられた女子高生は、不良に詰め寄る勢いのままに俺を睨み付けてきた。
思えばこんな有名な不良相手に、よくもこれだけ噛み付くことができるものだ。
女子高生の怖いもの知らずの度胸に感心しながらも、俺はあくまで淡々と話をはじめた。
「俺は貴方達の隣に居た者なんですけど、彼は無実ですよ」
「なっ、何言ってんのよ!」
「そもそも彼が痴漢行為を働くのは不可能です。左手に鞄を持って右手に本を持ったままどうやって貴方に触れるんですか? というか、貴方は彼に交際を強要するために冤罪をでっち上げたんでしょ? 大体彼が痴漢をするように見えますか? どう見たって女性には不自由しているはずないでしょう」
最後には少しひがみが入ってしまったが、恐らく俺の予想に間違いはないだろう。
現に女子高生の顔は青ざめ、反論しようと口を開いては出来ずに閉じたりを繰り返している。
ただ、不思議なことがひとつだけあった。
こんなにも理不尽な扱いを受けているにも関わらず、不良は一度も反論を口にしなかったのだ。
不良ならばブチ切れたって可笑しくない状況だったはずなのに怒る気配もなかったということは、もしかしたらこの女子高生に気でもあったのだろうか?
もしそうなら俺は完璧に邪魔者なんだろうけど、女子高生の強要にも返事を返さなかったことからしてその気はなかったはずだ。
きっと、多分、迷惑になった訳ではないだろう。
もうそう信じるしかない。
悔しそうに俺を睨み付け走り去っていく女子高生の後ろ姿を確認すると、俺もそそくさと人込みに紛れて改札へと急いだ。
感情がよくわからない不良に、もし八つ当たり紛いに暴力を振るわれたら堪らないと思ったからだ。
あの不良、それにしても美形だった。
女子高生が無理矢理自分のものにしようとした気持ちがわかるほど、不良の容姿は整いまくっていた。
無表情な顔は良くできたマネキンのようで、それから数日経ってもその顔が焼き付いて離れなかった。
***
ほんの少しの非日常は、翌日にはもう余韻さえ消えていた。
ただあのやたらと存在感のある不良の姿だけが、俺の記憶にこびり付いている。
しかし日常は絶え間無く俺を追い掛け回し、彼の記憶に思いを巡らせる暇すら与えてはくれない。
そして、あの電車に彼が乗り合わせることもなかった。
確かにあんな経験をすれば、満員電車に嫌気を覚えても仕方がないだろう。
仕方ないとは思っていても、どうしてだか少し残念に感じている自分がいたりする。
あんなに恐ろしかったというのに、俺はまた彼に会いたいとでも思っているのだろうか。
平凡な俺があんなにも美形な不良に。
馬鹿げている。
彼と会ってどうしようというのか。
そもそも、こんな在り来りな容姿の俺なんかを彼のような人が覚えているはずもない。
きっと俺は、非日常を望んでいるだけなんだ。
彼という存在ではなく、彼が運んできた非日常を心待ちにしてしまっているんだろう。
そうでなければ説明がつかない。
モヤモヤとするこの気持ちはきっとストレスが溜まっているからに違いないと結論付けた俺は、放課後に繁華街へと足を伸ばすことにした。
目指すは、この街で1番大きな書店。
大型店舗に見合った充実した品揃えに、店内に足を踏み入れただけで気分が高揚してくるのを感じる。
俺は本なら何でも読む。
それこそ辞書から専門書から漫画まで。
興味があれば何にでも手を出してしまうものだから、常に財布の中身は真冬の猛吹雪状態だ。
それでもコツコツと貯めたお金で、今日は写真集を買った。
野良猫達が逞しく生きるその姿に、俺の人生を慰めてもらいたかったのかも知れない。
しかし、こんなことになるのならば繁華街になんか来なければ良かった。
そう、後になって悔やむから後悔なのだ。
書店を出てすぐ、急に腕を掴まれたかと思えば声を上げる間もなく路地裏に引っ張り込まれてしまった。
そのままの勢いで突き飛ばされ、コンクリートの壁に強か背中を打ち付ける。
「―――ッ!」
痛みに顔を歪ませる俺を見て、腕を掴んだ張本人なのだろう人物はニヤリと嫌な笑みを浮かべた。
どう見ても素行のよろしくなさそうな高校生が…6人。
一瞬で現状を理解してしまった俺は、これから我が身に降り懸かるであろう災いを想像して力が抜けてしまいそうになる。
これは所謂、カツアゲというヤツだろう。
しかし、今の俺に出せる金額はせいぜい380円程度。
それを知った彼等がとる行動なんて、たったひとつしかない。
逆ギレの後に集団暴行。
これは非日常へと足を踏み入れたいだなんて分不相応なことを思ってしまった俺への罰なのか。
「よぉ、兄ちゃん。その制服はお坊ちゃん学校のだよなぁ?」
「俺達お金なくて家に帰れねぇの、恵まれない子供にカンパしてくんね?」
「ブハッ! お前子供って歳かよ!」
予想通りの展開に、ついつい溜息が出てしまいそうになるのを懸命に堪えた。
ちなみに、俺が通う高校は進学校なだけで別に金持ちが通う学校な訳ではない。
とんでもなく迷惑な勘違いをしている男達の馬鹿笑いを聞きながら、刻一刻と迫る私刑という名のリンチに俺の身体は震えはじめる。
「お金は、さっき使ってしまってありませ……うぐぅっ!!」
言い終わるよりも先に、1番手前にいた金髪が俺の腹に拳を減り込ませてきた。
シルバーのゴツイ指輪が嵌まる拳の威力は相当で、貧弱な俺は簡単に地面へと崩れ落ちてしまう。
他人から初めて与えられた暴力に、吐き気を伴う痛みと絶望が込み上げ立つことすらできない。
ただ酷く痛む腹を抱え込むように丸くなり、この悪夢が一刻でも早く終わるように祈るばかりだ。
「ないならさぁ、仕方ないよねぇ?」
「俺達と遊んでくれよ、お坊ちゃん!」
茶髪の男が足を振り上げたのを視界の隅に捉え、踏まれることを覚悟した瞬間、
ドゴォッッ!!
凄まじい音と共に、茶髪の男が一瞬にして消えた。
いや、消えたというのには語弊があるかも知れない。
正確には吹き飛ばされたと言った方がいいだろう。
何の前触れもなく飛んでいった茶髪を見て、俺だけじゃなく他の男達も我が目を疑うように唖然としている。
人が吹き飛ぶだなんて、現実に起こり得るのか?
怖いもの見たさで視線を巡らせれば、こちらを見下ろす紫色の瞳とぶつかった。
それは電車で見た瞳と酷似しているけど、あの日のような静けさは微塵も感じられず、あるのは…憤りとか後悔とか、とにかく苦しそうな色が浮かんでいるように見える。
「あ、赤羽さん…っ」
「これは、そのっ」
「俺は止めたんスよ!」
「テメェッ、一人だけ言い逃れしてんじゃねぇよ!!」
長身に白髪紫眼、着崩したブレザーと無数のピアス。
不良のNO.2はどうやら赤羽という名前らしい。
そんな赤羽君の登場に、それまでニヤけていた男達の間に緊張が走る。
言い争いや自己弁護をはじめる男達から察するに、彼等はどうやら赤羽君と知り合いのようだ。
よく見れば着ている制服も同じだ、何故気付かなかったんだろう。
「……黙れ」
それまで黙って、ただひたすらに俺を見下ろしていた赤羽君が口を開いた。
少し掠れた、それでいて甘い声。
初めて聞いた赤羽君の声は呟きと言って良いほどのボリュームだったにも関わらず、俺の耳にはしっかりと届いた。
そして何故か、ザワリと胸が騒いだ。
忘れかけていた不可解な気持ちが、また再び込み上げてくる。
赤羽君は一度目を閉じたかと思えば、鋭利な眼光を男達へと向けた。
その圧倒的なまでの威圧感に、それまで煩かった男達も瞬く間に凍り付く。
それからはまさにファンタジーだった。
赤羽君のやたらと長い足が驚くべき速さで繰り出されたかと思えば、また一人路地の奥へと吹き飛ばされる。
鋭く拳を繰り出せば、また一人飛んでいく。
また一人、また一人。
最後の一人がアッパーで吹き飛んでいくのを見届けて、俺は確信した。
やっぱりこの赤羽君という男が、非日常を引き連れているのだと。
非日常が服を着ていると言っても過言ではないかも知れない。
恐怖とは違う、でも喜びとも少し違う、この胸の高鳴りに何と名前を付ければいいのだろう。
俺は薄汚い路地裏で惨めに地面に横たわったまま、ビルの隙間から差し込む夕日を背に一人佇む男を見上げた。
白い髪が茜色に染まったその姿は、まるで夢のように綺麗で…
「これはただ、借りを返しただけだ」
低い声で言葉をかけられ、力強い腕で立たされ、服に付いた土埃を払われ、落ちていたバッグを手に持たされ、ついでに6人の財布から抜き取ったお札をポケットに突っ込まれても俺はボーッと見惚れるばかりで、ようやく我に返ったのは路地裏から出て行く赤羽君の背中を見送ってから数十分後のことだった。
そして次に茫然としてしまった。
すでにそこには赤羽君に吹き飛ばされたはずの6人の姿すらなく、俺のポケットには11万8千円もの大金が入っていたのだ。
困った。
こんなお金、受け取れるはずもない。
***
お金を返すチャンスは、意外にもすぐに訪れた。
急な夕立のせいでコンビニの前で立ち往生していると、何とあの赤羽君がふらりとやって来たのだ。
相変わらずの無表情な美貌に声をかけることを躊躇していると、予想外にも向こうから話し掛けてきた。
「傘、持って行け」
そう言って差し出されたのは、このコンビニで売っている半透明のビニール傘だった。
差し出されたものだからつい反射的に受け取ってしまったけど、もちろん傘なんて受け取れない。
「あ、あの、こんなことしてもらっちゃ悪いですから! それに、こ、この前のお金も返しますっ」
手に持った傘を赤羽君に突き出すけど、それは一向に受け取ってはもらえない。
ただ静かに見下ろしてくる瞳に、情けないけど段々と涙が滲んできた。
だって、物凄く緊張感する。
緊張感し過ぎると涙が出るのかと思考が逸れはじめた頃、ようやく赤羽君の腕が動いた。
と思えば、何故か俺の頭をポンポンと2回叩いてさっさとコンビニを出て行ってしまった。
何と言うことだ。
お金を返すタイミングを逃した上に、今度は傘まで返さなければならない。
俺は増えていく借りと何を考えているのかわからない赤羽君のことで混乱したまま、その日は温和しく真新しい傘をさして家路についた。
これはおかしい。
俺がそれに気付いたのは、赤羽君が俺の目の前で川に落ちた野良犬を助け、道に迷った時に案内してくれ、携帯を落とした時に届けてくれたその後だった。
毎回声をかけるけど『ただ借りを返しただけだ』と言うばかりで、一向に傘とお金の返却に応じてくれない。
そりゃ、赤羽君が俺なんかを覚えてくれていたのは嬉しいけど、ここまでしてもらえるような大恩ではなかったと思う。
だから俺は心に決めていた。
もし次に会った時には、もう借りなんかないときっぱり言おうと。
そして今日、また赤羽君に助けられた。
いつものようにすぐに背を向けた赤羽君に、俺は持てる全ての勇気を振り絞って詰め寄った。
「貴方から返してもらった恩への借りは、もう十分過ぎます。この傘とお金も返しますから、貴方はもう恩とか気にしないで下さい。今までもさっきも、本当にありがとうございました」
差し出したものを受け取ってもらえないのはこれまでの経験上わかっていたから、俺がそうされたように素早く赤羽君のポケットに封筒を捩り込んで、傘も柄の部分をポケットに引っ掛けた。
これで、俺と赤羽君とを繋ぐものはなくなった。
赤羽君と俺はまたそれぞれの世界に戻り、そしてまた訪れる何の変哲もない日常に埋没していく。
それが当たり前なんだ。
わかってはいたけど、いざこうして別れを告げるとやっぱり寂しいものがある。
あの不可解な胸の高鳴りもなくなってしまうのだと思えば、立ち去ろうとする足がやたらと重く感じてしまう。
結局、この感情に名前を付けることは出来なかったけど、それでも平凡な俺の人生にキラリと光るアクセントにはなったはずだ。
動く気配のない赤羽君からの視線を背中に感じながら、俺は心の中でもう一度ありがとうとお礼を言った。
ありがとう、赤羽君。
貴方がくれたほんの少しの非日常に、凄く胸がドキドキしました。
もう会うこともないだろうけど、貴方の噂なら遠くにいても聞こえてくるから、これからも元気に暴れ回って噂を轟かせて下さい。
俺はまたつまらない日常に戻るけど、貴方のおかげで胸に刻まれた思い出は決して忘れません。
ありがとう、赤羽君。
俺の非日常。
さようなら。
***
かなりの覚悟を持ってしてお別れをしたのは昨日のこと。
そして今、何故か有名進学校の校門に有名不良学校の有名不良チームの有名不良高校生が立っています。
下校する生徒が溢れる校門に寄り掛かる彼は、ただ黙っているだけなのに物凄いオーラを放っている。
赤羽君から半径3m離れてそそくさと学校を後にする生徒達に紛れて、俺もどうにか校門をくぐり抜けた。
と思いきや、やはりと言うか何と言うか、あっさりと俺の腕は掴まれてしまった。
誰に、などと確認するまでもない。
「おい、顔を貸せ」
「……………はい…」
渋々返事した俺を確認すると、赤羽君は腕を掴んだままズンズンと歩きはじめた。
もしかしてボッコボコにされるのだろうか。
昨日の俺の言葉が気に入らなくて、いつぞやの男達のように一撃で宙を飛ばされる羽目に遭うのだろうか。
あの男に殴られた腹の痣だってまだ完全に治りきっていないというのに、赤羽君に殴られたら確実に俺は死ねる自信がある。
ダラダラと冷汗を垂れ流していると、そこは意外にも薄暗い路地裏ではなく小さな公園だった。
まだ夕方というには早い時間だから、子供達の姿もちらほら見える。
こんな人目につく場所で暴行する訳もないから、もしかしたら呼出しの内容はリンチではないのかも知れない。
ベンチに座らされると、ようやくそれまで強張っていた身体から力を抜くことができた。
リンチじゃないなら、取り敢えずは一安心だ。
ただ、隣に座った赤羽との距離が近いことだけが、少しだけ気になったけど。
「俺はお前に助けられた。そして俺はお前に借りを返した。だが昨日お前は言ったな、十分過ぎるって」
静かな紫色の瞳が、俺をジッと見詰めている。
だけど俺は内心それどころじゃなかった。
赤羽君がこんなに長く話しているのを初めて目の当たりにして、俺はある種の感動すら抱いているのだ。
やっぱり赤羽君は凄くいい声だと思う。
話すスピードも心地良いし、少しクールだけど冷たい物言いでもないし。
無口だなんて勿体ないな。
「だから、返し過ぎた借りを返せ」
不良なだけあって命令形も様になっている。
こんな美形な不良に命令されて断れる者なんかいない………ん?
今、何て?
「……あの、今…」
「返し過ぎた借りの分、明日付き合え」
明日といえば土曜日だ。
しかし問題はそこではない。
一体何に付き合わされるのか、それこそが唯一にして最大の問題だ。
少し理不尽だと思わないでもないけど、赤羽君にかなり助けてもらったのは事実だから俺も借りを返すのは当然だと思う。
思う、けど…
どうしても不安が俺の肩に重くのしかかってくる。
「明日の11時、駅前だ」
全ては彼のせいだ。
何を考えているのか全くわからない赤羽君が、俺を落ち着かない気持ちにさせる。
気付いてはいけない気持ちが、ひたひたと俺の後ろを追い掛けてくる。
俺が困惑しているのを知ってか知らずか、赤羽君はそのまま足早に公園を出て行ってしまった。
これでは断ることもできないじゃないか。
結局俺は、腹を括るしかないのだろうか。
***
翌日。
俺は言われた時間の30分前に、駅に着いていた。
天下のNO.2様を俺が待たせる訳にはいかないと思ったから…のはずが、待ち合わせの場所にはすでに赤羽君がいた。
休みなんだから当たり前だけど、いつものブレザーではなく黒のパンツにグレーのシャツという随分とシンプルな服装に驚きを隠せない。
日頃あれだけピアス塗れのシルバーアクセ塗れにも関わらず、今日に限っては装飾品を一切身につけていないのもかなりの驚きだ。
しかし、それでも目立つ髪色と瞳に加え類い稀なる美貌を兼ね備えている赤羽君は、人で賑わう駅前の中にあって一際視線を集めている。
冷たく近寄りがたい雰囲気を持つ赤羽君の手前声こそかけられないものの、女の人達は一様に頬を赤らめキラキラとした視線を一心に向けているようだ。
女性からすると少し危険な感じの異性の方が魅力的に映るって言ってたけど、あれって本当だったんだとこんなところで痛感させられてしまった。
……というか、あんなに注目されまくっている人に声をかけるだなんて凡人の俺には無理だ。
それに、あれだけの容姿を持った人間が待つ相手が俺みたいな平凡だと知られれば、ブーイングか闇討ちは免れないだろう。
だからと言ってこのまま逃げたら後が怖い。
激しい葛藤を繰り広げながら傍目から見ればボーッと突っ立っていると、それまで柱に凭れかかり腕を組んでいた赤羽君の視線がスィッと俺へと向けられた。
―――ドクンッ
この時の衝撃を何と表現すればいいんだろう。
途端に跳ね上がった鼓動を怪訝に思う間もなく、俺を見付けてしまった赤羽君が長い足でどんどんと距離を縮めてくるものだから、何故かそわそわと落ち着かない気持ちになってしまう。
もう…何でこんなに早く来てるんだよ。
心の準備くらいさせてくれたっていいじゃないか。
「行くぞ」
赤羽君が声をかけてきたことで、俺にまで視線が集中する。
さっきまであんなに周りの反応を気にしていたのに、いざ赤羽君を目の前にした俺はそのあまりのオーラに飲み込まれてしまった。
待たせてしまったことのお詫びとか、挨拶とか、どこに行くのかとか、言わなきゃいけないことがたくさんあったはずなのに、さっさと歩き出してしまった赤羽君のせいで完全にタイミングを逃してしまった。
慌てて追い掛けてせめて挨拶だけでもしようと口を開いた瞬間、
「あ、あの……ッ…う、わ…!」
歩道の僅かな段差に足を取られて、ぐらりと身体が傾いていく。
どうしてこんなところでこんなドジをやらかしてしまうんだろう。
まるでスローモーションのように景色が傾くのをどうすることも出来ずに茫然と見ていたら、不意に腰を圧迫され続け様に腕を掴まれ物凄い勢いで倒れる方向とは反対側に引っ張られた。
身体がぶつかる軽い衝撃。
そして遅れて漂ってくる、少しだけ甘い香り。
目の前には壁。
ではなく、温かい身体。
機能を停止した頭が徐々に動きはじめ、俺は現在我が身に起こっている状況を正確に把握して今度こそ頭が真っ白になってしまった。
左の二の腕を掴んでいる大きな手。
腰を引き寄せる逞しい腕。
密着しているしなやかな身体。
すっぽりと俺を抱き締めるように庇ってくれたのが誰かなんて、それこそ確かめなくてもわかる。
「早過ぎたか?」
庇ってくれた恩人こと赤羽君が話すのと同時に、俺の髪が揺れて頬を擽る。
裏を返せばそれだけ赤羽君との距離が近いというわけで、それはもう恥ずかしいなんてもんじゃない。
周囲の人達が見ているとか、男同士だとかどうでもいいくらい、俺は今赤羽君に抱き締められている事実が堪えられなかった。
恥ずかしいのか、悔しいのか、情けないのか、怒っているのか、嬉しいのか、悲しいのか、それとも全部なのかはわからないけど、とにかく複雑な感情が間欠泉の如く凄まじい勢いで噴出した。
もちろん心の中だけで、だけど。
「…す、みません……」
もしかしたら俺が返事をするまで離してくれないのかも知れないとようやく気付き、決死の覚悟で僅かに顔を上げて近過ぎる赤羽君の目を見て小さく謝ってみる。
すると、離すどころか逆に抱き寄せてくる腕に力が込められた。
「…………かわ…」
「かわ…?」
ぎゅうっと強く抱き締められたことでどぎまぎしながらも、呟かれた不可解な言葉を拾い上げその意味を探ろうと今度はしっかりと赤羽君を見上げた。
やっぱり無表情だ。
だけど、いつもは真っ直ぐに見詰めてくる紫の瞳が、今は何故か斜め上へと逸らされている。
それどころか…
「……ほら、足元に気を付けろ」
腰に回った腕を解いてさっさと歩き出す赤羽君だけど、二の腕を掴んでいた手は手首へと移りそのまま手を引くようにして今度はゆっくりとだけど歩きはじめてしまった。
俺の思考なんて置いてきぼりの行動に、とにかくついて行かなければと頭よりも先に足が動きだす。
そこで俺は初めて気が付いた。
後ろから僅かに見える形の良い赤羽君の耳が、真っ赤になっていることに。
赤くなる赤羽君につられて何故か俺までカァッと顔が熱くなってしまい、足元を見る振りをして顔を下げた。
痛くない力で引っ張られる腕だけを頼りに、俺は無理矢理足を動かしていく。
握られた手首が熱い。
高鳴り過ぎる心臓が痛い。
時折気遣うように振り返る赤羽君の優しさが擽ったい。
俺はどうしてしまったんだろう。
間欠泉のように噴き出した不可解な感情は、大洪水となって俺の心を容赦なく蹂躙していく。
俺の日常を、跡形もなく押し流してしまう。
抗えないのか抗いたくないのかはわからないけど、俺の心が赤羽君で満ち溢れているのは確かだ。
赤羽君という非日常を、俺は受け入れようと…いや、望んでいるのかも知れない。
はじめはほんの少しで良いと思っていたのに、まるで麻薬のように求めてしまう。
そうなる前に縁を切ろうとしたのに、どうやら手遅れだったようだ。
俺は、これから赤羽君が行く場所がどんな所でも構わないと腹を括った。
赤羽君に連れて来られたのは、ステーキ専門のチェーン店だった
結構な覚悟をしたのに出鼻をくじかれた感じだけど、実は緊張のあまり朝ご飯を食べていなかったから正直な話し有り難い。
店内に立ち込める美味しそうな匂いで鳴ってしまいそうになるお腹を抑え、角の席に赤羽君と向かい合うようにして腰を下ろした。
「ほら、好きなの頼め」
差し出されたメニューを反射的に受け取ったものの、赤羽君の言葉に引っ掛かりを覚えて仕方がない。
これじゃまるで、赤羽君の奢りみたいじゃないか?
「えーっと、もしかしてこれって…」
「俺が連れて来たんだ、金のことは心配するな」
さも当然だとばかりに言って退ける赤羽君に、つい大きな溜息が出てしまいそうになった。
借りを返すために来たのに、これじゃ意味がないじゃないか。
だけどここで頑なに拒むのは感じが悪いだろうし、だからといって奢られっぱなしはフェアじゃない。
「……それじゃ、この後映画にでも行きませんか? 今度は俺が奢ります。…あ、もちろんこの後に予定があるんなら別ですけど」
「………あぁ、わかった」
あれ、メニューを見てるから俯いててよくわからないけど、もしかしてまた赤羽君の耳赤くなってないか?
ピンポーン
俺の視線に気が付いたのか、おもむろにテーブルに置いてあるブザーを押し、ふて腐れたように外方を向く赤羽君は少し、いや…かなり可笑しかった。
さっきもしかしたらって思ったけど、これで確信した。
きっと赤羽君は物凄い照れ屋なんだ。
無表情だし天下の不良だし美形だしかなり近寄りがたい印象を持っていたけど、今の赤羽君なら親近感が湧く。
きっと自分でも知らないうちに笑っていたんだと思う。
不意に変わった俺の雰囲気に気が付いたのか、少しだけ視線を寄越した赤羽君が驚いたように目を見開いていく。
俺が笑っているのがそんなに意外だったのかと更に笑いが込み上げてきた途端、赤羽君の顔がさっきの俺のように見る見るうちに真っ赤っ赤になってしまった。
「お待たせ致しました。ご注文をお伺いします」
物凄いタイミングでやって来たウエイトレスのお姉さんに、赤羽君はバレバレの照れ隠しでメニューを指差したのだった。
それからはもう大変だった。
赤羽君は俺の分まで頼んでくれたんだけど、それがもう半端じゃない大きさのステーキで…
もう一度メニューを見ればそれは『期間限定特大サーロインステーキ1kg!!ライス+サラダバー+スープバー付き』という超ヘビーな商品だということが判明した。
鉄板に乗り切れていないステーキをたったの5分で完食した赤羽君は、ただ者ではないとは思っていたけどやっぱり超人なんだと思う。
何とか頑張って500gを食べ終わったところでギブアップした俺の分も、ものの2分で食べ切った姿はまさにフードファイターか肉食獣の様相を呈していた。
しかも、俺が食べている間はサラダバーとスープバーを何度も往復していたのだ。
身長の割には細身なのに、よくもまぁこれだけ食べられるものだ。
そしてここまで気持ち良く食べられると、何故か清々しさまで感じてしまうのだから不思議だ。
食事の時の教訓は『赤羽君を照れさせない』に決定した。
もし夕食を共にすることになったら、今度こそきっちり自分で注文しなければと俺は心の中で固く決意したのだった。
昼食の後は宣言通りに駅前の映画館へと向かった。
丁度観たかった話題のアクション映画がロードショーされていて、俺も観たかったという赤羽君の後押しもあって作品はあっさりと決まった。
映画館にはポップコーンが必需品の俺だけど、さすがにあれだけ食べた後に胃袋に空きがあるはずもなく敢え無く断念。
だけど赤羽はといえばやはりと言うか何と言うか、ラージサイズのチーズポップコーンにホットドッグまで購入し、更にはラージサイズのコーラとメロンソーダまで頼んでいた。
これを開始30分で完食してしまったのだから、呆れを通り越していっそ感心してしまった。
結果的に言えば映画は面白かったんだけど、何故か劇場が明るくなった時に赤羽君の顔がまた赤くなっていたのには驚いた。
照れるようなことはなかったし、空調も暑かった訳じゃない。
その原因が、夢中になり過ぎた俺が赤羽君のコーラを間違って飲んでしまったせいだと知ったのは、それからかなり後のことだった。
赤羽君は優しい。
疲れてないかとか、行きたいところはないかとか、とにかく気を使ってくれる。
車道側を歩いたり、転んだり逸れたりしないように手首を掴んできたり、やたらと物を買ってくれようとしたりするのは行き過ぎのような気もするけど、それも赤羽君なりに俺のことを考えてくれているからなんだと思うとちょっと嬉しい。
段々と周りが赤羽君に見惚れていたりするのも面白くなったりして、昼までの緊張などどこへやら俺は赤羽君と過ごす時間を楽しむ余裕すら出てきた。
自分自身の変化には多少の戸惑いはあるけど、照れ屋で大食いで優しい赤羽君をもう拒むことなんて俺には出来そうにない。
正直浮かれていた。
この楽しい時間は、俺にとっては今日限りの非日常なのだと忘れてしまうほどに。
それを思い出したのは、夕日が差し込む公園の古びたベンチに腰を下ろしてからだった。
そこは路地裏を抜けるとぽっかりと現れる寂れた公園だった。
遊具は鉄棒しかない小さな公園には、俺達以外に誰もいない。
公園というよりも空き地といった方がしっくりくるかも知れない。
ビルの隙間から差し込む茜色の夕日は、不良達に絡まれたところを助けてもらったあの日を彷彿とさせる。
逆光に照らされて綺麗だと思ったその人が、今は俺の隣に静かに座っているのはちょっと不思議な感じだ。
でも、これで本当におしまいだ。
痴漢に仕立て上げられたところを助けて、恩を感じたらしい赤羽君にたくさん助けられて、貰いすぎたそれを返すために今日一日赤羽君に付き合った。
これでもう、俺達には貸し借りなんか存在しないことになる。
俺と赤羽君を繋ぐ唯一の糸が、今まさに断ち切られようとしている。
昨日まではそれでいいと思っていたはずなのに。
だけど今は、もっと赤羽君を知りたいと思う。
彼が連れて来る非日常も、長く居れば日常に変わるとわかっているのに、そんなことを度外視にしても一緒にいたいと思ってしまう。
この胸に渦巻く感情は物凄く複雑で未だに名前を付けられないけど、でもそれは確実に好意の形へと変化している。
だから、ここでさよならなんて嫌だ。
途中の自動販売機で買ったペットボトルを握り締め、俺は意を決して口を開いた。
今度は貸しも借りもない『友達』になってくれと言おうと思って。
しかしそれは、眼前に突き出された掌によって阻まれてしまった。
「ちょっと待て! 言うな……頼むから、何も言わないでくれ…」
赤羽君の声は、微かに震えていた気がする。
これは、何なんだろう?
もしかして、俺が友達になりたがっているのに気付いて先回りしたのか?
そんなに嫌なのだろうか。
「あーっ、クソッ! わかってんだよ、俺だって……けどよ、それでもどうしようもねぇんだっ」
赤羽君が怒っている、いや…戸惑ってる?
いつものクールさはどこへ行ったのか、今の赤羽君は普通の高校生に見える。
ズキリと痛む胸から意識を逸らすようにそんなことを考えていたら、あの力強い手に両肩を掴まれてしまった。
上半身を捻ってお互いに向き合うような体勢になってはじめて、赤羽君が思いの外近くにいたんだと気が付いた。
違う。
近付いて来ている、現在進行形で。
僅かに揺れる紫色の瞳に目を奪われているうちに、俺の唇に柔らかな何かが触れた。
ぱちりと瞬きをしてみても、視界からは何の情報も得られない。
逆を言えば、見えないくらい赤羽君の顔が近くにあるということだ。
状況を判断するよりも前に反射的に顔を引こうとするけど、いつの間にか腰と後頭部に腕が回っていて逃げることは叶わない。
俺は今、昼間の時のように抱き締められている。
だけど、あの時とは全く違う。
身体だけじゃなくて、唇が触れ合っている。
奪われている。
手から滑り落ちたペットボトルが、鈍い音を立てて地面へと落ちた。
何が何だかわからない俺は赤羽君を退けようと胸を押すけど、それ以上の力でぎゅうぎゅうと抱き締められてしまい余計に混乱してしまう。
「んーっ、……ッ…んぅ!」
抗議の声を上げようと口を開いたのがまずかった。
唇の隙間から入り込んできたものが、口の中を好き勝手に暴れはじめたのだ。
歯をなぞり歯茎を舐め、舌に絡まり軽く吸われ、時折唇を噛まれる。
いくら頭が真っ白だからって、ここまでされて気付かない俺ではない。
これは俗に言うキスというものに違いない。
しかも、ディープキス。
一瞬その生々しさに顔を歪ませるけど、それ以上に痺れるような甘い疼きが肌を粟立たせ徐々に抵抗の力を奪っていく。
軽く吸い上げられてからようやく唇が離れると、焦点があった視界には酷く切羽詰まったような余裕を感じさせない端正な顔があった。
何でこんなことをしたんだとか言いたいことは山ほどあったけど、真っ直ぐな瞳からは揶揄いや軽い気持ちなんか全く感じなくて、俺はじっと赤羽君が口を開いてくれるのを待つ。
何も言わない俺をどう思ったのか、赤羽君はまた腕の中に俺を閉じ込めた。
今度はさっきとは違う、強いけどどこか縋るような抱擁。
そんな風に抱き着かれたら、抱き返したくなるじゃないか。
「……八尋」
不意に名前を呼ばれて、回しかけていた腕をぴたりと止めた。
八尋、それは俺の名字ではなく紛れも無い名前。
まさか赤羽君が名前を知ってくれていただなんて思わなくて、俺はさっきのキス以上に目を瞬かせて驚いてしまった。
「さよならになんかしたくねぇ。やっと掴んだチャンスなんだ……中学の頃から3年、ずっと八尋を見てきただけの俺に、やっとこさ降って湧いたチャンスなんだよ!」
苦しそうに紡がれた言葉は本当に予想外のことばかりで、我が耳を疑おうにも耳元で言われては聞き間違えるなんて有り得ない。
3年も前から赤羽君は俺を知っていた?
でも俺はあの日、電車の中で初めて赤羽君を見たはずだ。
「電車の中でたまたま俺と同じ本を読んでる奴がいて、気になって顔を見たらそいつ…目に涙をいっぱい溜めてて、それでも泣かねぇように唇噛んでてさ。もうアレはマジでヤバかった」
覚えてる。
中学に入学したばかりの頃、本を読んでいて車内だというのに泣きそうになった恥ずかしい思い出。
いつもなら感動的な部分は一人きりの時に読むんだけど、あの日は続きがどうしても気になって電車の中で読んでしまったんだ。
まさかそれを赤羽君に見られていただなんて、今なら恥ずかし死にできるかも知れない。
「それからどうやって声をかけたらいいのか、悩みまくった。八尋みたいな真っ当な人間から見れば、俺は係わり合いたくない人種だってわかってたしな。そのままズルズル3年も経っちまって…もう一生このままなのかもって思ったりもした」
赤羽君がたくさん喋っていることに違和感を感じないほど、今の俺はテンパっている。
最早パニックと言ってもいい。
赤羽君に抱き締められたまま身動きひとつせずに、俺は半ば茫然と耳に囁かれる言葉を聞くことしかできなかった。
「八尋の隣に初めて立てただけでメチャクチャ嬉しかったのに、いきなり痴漢扱いされた時には正直かなりキた。お前に痴漢だと思われたことがショック過ぎて茫然としてたのに、それを八尋に庇われて…俺、あの瞬間で幸運全部使い切ったってマジで思った。幸せ過ぎて、礼を言うこともできなかった。あの時はありがとな」
俺は赤羽君の肩越しに見えるビルに視線を向けたまま小さく頷いた。
それが赤羽君に伝わったのか、肩に顎を乗せるようにして更に深く抱き込んでくる。
「借りを返すって大義名分ができた訳だから、それからはもうストーカーだ。八尋が困ってる度に助けた。でも何話したら良いかわかんねぇし、お前を怯えさせたくねぇしで中々距離縮まんなくてよ。そしたらお前はもう十分とか言い出すし…あん時どれだけショックだったかわかるか? この俺が晩飯食えなかったほどなんだぞ」
あれだけ大食いの赤羽君が食欲なくなるだなんて余程だ。
でも、ストーカーだなんて大袈裟だと思う。
確かに思い返して見れば、物凄く良いタイミングで助けられたような気がしなくもないけど。
「今日が最後のチャンスなんだ。俺は、お前を手放したくない。一緒にいてぇ…さよならなんて無理だ。八尋、頼むから傍に居させてくれ」
赤羽君は俺と友達になりたくない訳じゃなくて、俺の口からさよならを聞きたくなかっただけだったんだ。
耳が熱い。
勘違いしてるって言ってあげたいけど、どうしていいかわからないくらい心臓はドキドキしてるし身体はカッカしてるし。
だってこれじゃ、まるで…
「好きなんだよ八尋…! 初めて見た時からずっと、ずっとお前だけを…っ」
『まるで』じゃない、明かな告白。
赤羽君が好きだって言った。
俺のことが好きだって。
どうしよう……俺自身自分の感情がわからないのに、もっと訳がわからなくなってしまう。
だけどひとつだけ言えることは、嫌じゃない。
キスも告白も、嫌じゃない。
物凄く落ち着かない気持ちになるけど、それはとても心地良くて…
嫌どころか、嬉しいのかも知れない。
俺の心の中でどんどんと変化していった気持ちは、もしかしたら赤羽君の気持ちの形と似ているのかも。
ということは、ひょっとしたら俺も赤羽君がスキ…なのかも知れない。
ずっと黙り込んでいる俺に不安になったのか、抱き締めてくる赤羽君の腕が段々と強くなっていく。
もう互いの上半身はべったりとくっ付いていて、この激しい鼓動が自分のものなのか赤羽君のものなのかすらわからない。
俺はもう一度赤羽君の背中に腕を回して、今度こそちゃんと抱き返した。
途端にビクッと震えた赤羽君の身体に、きっと物凄く緊張しているんだろうなって伝わって来て。
「俺も赤羽君のことが、好きです。……多分」
悩むよりも先に口が開いていた。
恥ずかしくて最後に余分な単語を入れてしまったけど、それでもこれが俺の精一杯。
………
……
…
あれ?
しばらく待っても赤羽君の反応がなくて、言い表せない不安がじわりじわりと込み上げてきた。
身動きひとつしない赤羽君の顔を見ようと首を傾けたら、そこには真っ赤になった耳があって。
もうそれだけで、赤羽君がどんな顔をしているのか想像できてしまった。
「ふはっ、赤羽君の耳、真っ赤」
堪えきれずに笑ってしまえば仕返しとばかりに強く抱き締められるけど、その間にもどんどん赤みが増していく耳に笑いが止まらない。
こんなにカッコイイのに、こんなに可愛いだなんて反則だ。
自覚したばかりの赤羽君への愛おしさを持て余して、俺も自分より大きな背中をぎゅうぎゅう抱き締めた。
それによって更に赤羽君の耳が赤くなるけど、きっと俺も負けないくらい赤くなってると思う。
「……ヤベェッ、どうしよう…メチャクチャ嬉しい…! 好きだ八尋っ、好き好き好き、スゲェ好きっ好き過ぎる!」
あぁ、ダメだ。
そんなこと言われたら、脳みそが溶けてしまう。
「八尋、ヤリてぇ…っ」
………はい?
不意にゴリッと硬い何かが太腿に当たった瞬間、俺は高揚していた気持ちが一気に現実へと引き戻されてしまった。
確かに赤羽君のことは好きだ。
だからと言って、その日の内になんて絶対に無理!!
「八尋っ、八尋…ッ、我慢できねぇ…! 今すぐ食いてぇ…お前の全部食ってしゃぶって、メチャクチャにしてぇ…」
「あっ、赤羽君!!」
赤羽君の腕が不穏な動きをはじめたことに気付いて、俺は渾身の力で目の前の身体を突き放した。
きっと油断していたんだろう赤羽君の身体は簡単に引き剥がせたけど、不満を隠そうともしていないその顔に一瞬怯んでしまった。
流石はNO.2様。
だけど、それでも俺は負けじと口を開いた。
ここだけはどうしても譲れない!
「3年待ってくれてたんだから、もう少しくらい待って下さい!」
「3年待ったんだからもう1分1秒も待てねぇ!」
「おっ、俺…まだ心の準備もできてないのに、無理矢理するんですか…?」
「―――ッッ!!」
狡いとは思ったけど、こうなれば泣き落としだ。
だってまだ、ひとつになるのはさすがに怖い…
「俺は赤羽君の優しいところが好き…なのに……」
「~~~~っっ、わかったよ!! クソッ、惚れたら負けってこのことかよ! 生殺しじゃねぇか!! 八尋っ、その代わり1ヶ月しか待たねぇからな! それ以上待ったら欲求不満で暴走して、お前をグッチャグチャに犯す自信があっからな!! 1ヶ月だからなっ、1ヶ月!!」
何だかんだ言って待ってくれるらしい。
俺みたいな平凡相手にその気になってくれるだけで嬉しいんだけど、こんな状態でお預けを喰らった赤羽君は堪ったものじゃないと思う。
「ありがとうっ、赤羽君!」
それでも我慢してくれているのは偏に俺への愛情だと思うと堪らなくて、つい勢いよく抱き着いてしまった。
「やっ、八尋…ッ…これ、なんつー拷問だよ…!」
苦しそうに呻きながらもしっかりと抱き返してくれる赤羽君が好き。
今までクールだと思っていたのに、本当はただ不器用で照れ臭かっただけなんだと知った今、前よりももっと赤羽君を好きになっていく。
俺が望んだほんの少しの非日常は、思いの外大きな非日常になってしまった。
だけど今は、これが日常へと変わればいいとさえ思う。
こんな幸せな日常なら大歓迎だから。
「好きです、赤羽君」
「名前で呼べよ、八尋」
「………えっと、下の名前って何でしたっけ?」
「………」
「………」
【end】