148 真夜中の逃亡劇
◇原山良作72歳◇
俺は11歳でお袋が死んで、生まれた村から逃げようとしてた。
政府からの助けの手か・・
厚生省の役人は来なかった。職務怠慢じゃねえよ。
俺が11歳の時は昭和38年。東京オリンピックを2年後の40年に控えてた。
開催が決まったのが昭和34年。だから、誘致できる条件を整えるため、準備始めたのが俺が生まれた年の前後だ。
誘致の第一条件『男子でも安心して歩ける都市』を満たすため、小さな村に目を向ける余裕もねえわな。
あとで聞いたら、オリンピック誘致の第一歩で、昭和30年から関東とか関西の調査をしたらしい。
すっとな、大きな街で男子監禁、男子売買を組織立ってやってたやつが見つかったらしい。
警察はフル稼働。
厚生省の役人も、地方から人を借りて男子保護に走りまくってた。
国際オリンピック委員会の調査をクリアしたあとも、福岡、仙台、千葉で同じ問題が見つかった。
男子保護もできてる国をアピールせにゃならん。大きくは人権侵害のない国のアピール。
都市部の大掃除、真っ最中だ。
全国の不遇男子救済で日本は評価されてるけど、国の隅々の救済は昭和40年の10月から始まったんだよ。
ま、それはいい。俺は知識がなさすぎて、誰を信用していいか分かってなかった。
お袋との計画では、最低でもどっかの都道府県の県庁所在地の役所に逃げ込もうって打ち合わせてた。
近くにも小さな役場はあった。そこは、村長の親戚筋と仲間ばっか。駐在さんも同じ感じ。相談しに行ったらカモネギだ。
逃げ込むなら、とにかく大きな役所だろうって。
厚生省の大きな建物が東京、大阪、名古屋、札幌、福岡なら確実にあるだろう。
そこなら、絶対に村長の手が届かねえんじゃねえか。
その程度の知識だ。
本当は15キロ隣の市に行って、警察か市役所から厚生省に連絡してもらう。そんだけで、あんな村の村長なんて手出しできない。
俺は当時、村長はたくさんの村や街と繋がり持ってるって勘違いしてた。
5つの小さな村同士だけで種馬男子を回してるって思わなんだ。
だから遠くに逃げる選択肢しかなかった。
覚えてるよ。7月29日の夜。お袋の通夜もせず、大急ぎで荷物をまとめた。
そんで家の裏に流れる暗い川に入った。
まさかのために板を組み合わせて、サーフボードと小舟の中間みたいなもん作ってた。川遊び用に見せかけた脱出アイテムだ。
荷物は着替え一式なんか入れた風呂敷。首に吊るした巾着の中の通帳、現金、ハンコ、お袋の形見の指輪くらいか。
ゆっくり下流に出た。
村長の息がかかった人間が医者を連れて来たら、逃げられる確率が下がる。
捕まったら監禁コースまである。それが恐怖だった。日本国憲法とか、なにそれ?って村だったからな。
なんで川かというと、道路から外れてたからだ。もし追手が来ても見つかりにくい。
眠いのこらえて、4時間くらい川流れしたさ。お袋のこと思って泣いてたよ。
そんで目的の鉄橋の高架下で仮眠取った。
そこの近くの駅は、村から近い駅から2つ先にあった。
髪はお袋の言い付けで伸ばしてた。だから、ワンピース着て深めの帽子被ったら女の子に変装できた。
二次性徴を迎える前だから、ごまかせたな。
念の入れすぎ?村しか知らねえ子供が、何を信じていいか分からねえ。全てが怖かったんだぜ。
朝イチで始発の列車に乗った。初めての大冒険だ。
干しイモが最初の逃亡メシ。それが尽きたら駅ホームの売店でパン買ったよ。
車掌さんに、とりあえず買った切符でどこまで行けるか聞いたら、すごい変な顔された。
なんかマズイと思って、車両を移った。そして陰から見てたら3つ目の少し大きな駅で車掌さんと違う制服着た女の人が、俺がいた席に来た。
あとから知ったよ。
その違う制服の人に素直に付いていけば保護されてたって。とにかくナンカの追手が来たくらいの恐怖を感じてた。
当時の俺は男に『希少』って感覚はなかった。『道具に使える異物』って思ってたよ。
無知ってすげえな。
とにかく行き着いた駅で列車を降りて、ホームに立った。そんで大人に付いて、違う列車に乗った。
夜行の普通列車もあった時代なんだよ。で、世間は夏休み。
貧乏旅行の女学生もたくさんいたから、そんなのに紛れて2日くらい駅を出ずに移動した。
行き着いたのはパラレル市だった。原礼留駅って漢字が読めんかったけど、なんかここだって思った。
夕方のラッシュ時間帯に人混みに紛れ、はるかに金額が足りない切符を駅員に渡して外に出た。
やっと逃げられたと思った。




