赤いメイドと紫のメイド
3月が終わり学校は春休みに入った、私の9月1日の入学式はソビエトと一緒に消えた、ソビエトの入学式は夏だけど、日本は春になった4月7日火曜日に入学式が行われる。
もうすぐ私も学校に通い始めないといけない。
今日は皆が春休みで家にいるので朝から庭掃除をしている、高い塀で囲まれた広い庭は大資本家の豚小屋というより私たち奴隷が逃げないための収容所なんだろうな。
美壽々は何か変な生き物を庭に放牧していた、爬虫類なのか哺乳類なのかよくわからない謎の生物が地面に穴を掘ってるし、派手な模様の大きな鶏みたいな鳥が歩き回っている。
虎だけかと思ったら蜂蜜を舐める者までいた。
庭の池には巨大な魚がいるんだけど、イルカとも鯨とも違うし、アザラシかアシカみたいにも見える変な生き物だった。
美壽々がキャベツを放り込んで食べさせている、肉食じゃないみたいだけど池には入りたくない。
花壇には奇麗な紫色のスミレが咲いていた、花壇の手入れをしているのはメイド服姿のジャミラだった。
私の故郷は5月にならないと花が咲かない、シャクナゲの花が好きだった。日本は3月には花が咲き始める、もう上着が無くても寒くない、日本は本当に暖かい国だった。
ジャミラは日焼けしているけど地肌は色白で白人ぽくもみえる、でも顔つきや体格は黒人ぽい、たしかアルジェリア人だと言っていたけど、アルジェリアってどこにある国なんだろう?
私も花壇の手入れを手伝おうとしたら、ジャミラは触らないでと断ってきた。一緒に庭掃除をしていた蝶子にも「スミレが植えてある花壇はジャミラ専用だから触っちゃダメ」と怒られた。
ジャミラは拒否した事を悪いと思ったみたいで「スミレは私の国の花なの、これは国から持って来た種から育てた」と花を慈しむように言った。
私はアルジェリアが分からないので訊ねた「ジャミラの祖国はどこにあるのですか?」
「ヨーロッパの地中海は知ってる?地中海の下の方の真ん中あたりだよ」と漠然とした場所を答えてきた。私は欧州の地図を頭に浮かべてみた、なんとなくサハラ砂漠の海岸線あたりなのかな?
私が「ジャミラって珍しい名前ですね」と聞いたら「日本じゃ全く違う意味で有名な名前だった」と意外な答えが返ってきた。
「日本に来て一番驚いたのは私が怪獣だった事だね」
「ジャミラってアラビア語で美しいって意味でね、私の名前ジャミラ・マンジェリカ・ユーフォルビアを無理やり日本語に訳せば美子・満州・灯台草みたいになるんだけど、日本だと醜い怪獣扱いなんだよ」
「どこにも醜いとか怪獣の要素が無いのに、私は醜い怪獣なんだよ」
「学校じゃ男子はシャッツを頭にかぶってジャミラーとか、からかってくるし、違うと言ったらコレがジャミラだって化け物の写真を見せられたよ」
「カタカナ表記が同じだけで違う言葉だって言ったら、本当にアラビア語由来の同じ言葉で絶望したよ」
「日本人は意地でも私を醜い怪物にしようとした、美しい娘に育って欲しい願いを込めて名付けてくれた親に言えないよ」
私の目からみてもジャミラはけっこう美人だと思うのに、私も日本で醜い怪物になった理由が理解できなかった、あいかわらず資本主義の国は腐っている。
ジャミラは諦めたか達観したように話をした。
「正直言って、親からもらった大切な名前を侮辱されるのは嫌だし、自分の名前を名乗れないのは屈辱だけどさ、日本の社会になじまないといけないから」
「めんどくさくて、迷惑だと思うけど、学校で会ったらユーフォルビア先輩って呼んでね」
「ユーフォルビアはラテン語だから西洋人ぽく聞こえるから日本人はそっちの方が好意的になるし、本当に面倒でゴメンね」と謝ってきた。
そういえば、ジャミラは来月から二年生になるから、私とは学校でも先輩と後輩になるんだ。
ジャミラは人権も尊厳も奪われて名前すら名乗れないんだ…
私はまだマシだったことを痛感した…
私は祖国の花を大切にするジャミラを尊敬する、他人の祖国を平気で踏みにじって金銭の価値でしか物を見ない資本主義者を軽蔑する。
私は尊敬のまなざしで訊ねた「ジャミラは祖国を愛しているんですね、どんなところなんですか?」
しかし、ジャミラの答は意外だった。
「祖国がどんなところかって言われても、そんな立派な物はないよ」
「アルジェリアは内戦真っ盛りで国の形をしてないから」
私はうかつなことを聞いてしまい、頭を金づちで殴られたような衝撃を受けた。
まさか、アニータの祖国みたいに資本家に踏みにじられていた…
酷い、かわいそうだ、ジャミラは人権も尊厳も祖国まで踏みにじられていた!
私はあまりの悲しみに涙を流していた。
ジャミラは私の頬を涙がつたわっているのを見て「ごめん、泣かないで、イリーナもソビエトを無くしちゃったんだよね」と慰めてきた。
「言い方が悪かったかな、私には祖国は無いけど故郷はあるの」
「お父さんは自分の街を守るだけで手いっぱい、政府軍にも反政府軍にも中立を保って街を戦火から守るのに必死になってる」
「家族を国に残して私だけ平和な日本で暮らしてるのが申し訳ないよ」
「帰りたいと思わないの?」
ジャミラは悲しそうに言った「帰れないの、街が中立を保つためには政府軍と反政府軍の両方に睨みが効く後ろ盾が必要だから、御屋形様の援助がないと家族は一瞬で両方から皆殺しにされる」
ジャミラも人質なんだ…、私がここを逃げ出したら、お父さんもお母さんも、ドゥドニクおじさんもユーリーもみんなが食べていけなくなる…
私の足に鎖は繋がれていないけど、見えない鎖をつながれている、わたしたち奴隷の鎖は絶対に切れないモノで出来ていた。
ジャミラは話を続けた「ウチは寓話に出てくる蝙蝠なの」
「私達ベルベル人は白人と黒人の中間でどっちでもない」
「ヨーロッパ人でもあり、アフリカ人でもある」
「ウチはイスラム教でもキリスト教でもない、その時で都合の良い方になる」
「政治的な主義主張もない、ローマ帝国からフランスまで紀元前からずっと強い者に媚びて生きてきた」
「別に奴隷になりたいわけじゃない、自分たちの街が戦争で焼かれたり、搾取されて貧困で苦しんだりしたくない」
「みんなで幸せに暮らしたい、それだけしか考えないで紀元前から生き残ってきたの」
「だから私たちは思想の為に死んだりしない」
「人間なんてみんな同じなのに、みんな勝手に白だの黒だの、赤だの青だのレッテルを張って支配にきて、逆らえば殺そうとする」
「フランス人から黒人と呼ばれ、アラブ人から白人と呼ばれたけど、日本に来て怪獣と呼ばれたのは初めてだよ」
「蝙蝠は本当は哺乳類だけど、私は地球の生物ですら無いみたい」
「あえて私の祖国と呼べるものがあるなら先祖代々暮らしてきた街だけよ」
「赤い国のイリーナには悪いけど、私は赤でも青でもない紫なの…」
私は赤こそ唯一絶対の正義だと思ってきた。でも、お父さんはみんなを助けるために青になった。
私もみんなと幸せに暮らしたい、それが本音だし、クレムリン宮殿で暮らす連中がどうなっても私には関係ない…
ソビエトが崩壊して四カ月余りが過ぎている、今はもうロシア連邦だけど、ロシア連邦は私の祖国とは呼べない。
私が愛する祖国はどこにあるんだろう…
日本は私たちの新しい祖国になってくれるのか、考えはまとまらない…
私がホウキを持ったまま立ちすくんでいると、蝶子が腕時計を指さして怒鳴ってきた「11時、今日はイリーナとジャミラがお昼ごはんの当番でしょ」
ジャミラはザルに一杯のスミレの花を摘んで立っていた「今日のお昼は葉っぱの天ぷらに、おひたし、和え物、酢の物、吸い物でスミレ尽くしよ」
私は驚いて声を上げた「えぇ、祖国を食べるの?」
私は今日、スミレの花が食べられる野草だと初めて知った…
ジャミラのスミレ料理は美味しくて、お母さんに作り方を教えて上げたかった。
夕方まで一日かけてみんなで掃除した庭は奇麗だった。
奴隷労働でも何とも言えない達成感があった。
夕食の時間が終わると、美壽々が皆に給料を手渡した。
ありがたいことに私の分もあった、袋の中には壱万円と書かれた日本の紙幣が30枚入っていた。
これで600ルーブルぐらいなのかな?
安物のワンピースが18万7千円だから、ちゃんとした服を一枚買ったら無くなってしまう。
お父さんやユーリーはちゃんとお給料もらえてるのか心配になった、仕送りしたかったけど送り方がわからなかった。
蜂蜜を舐める者(Медведева)はロシア語で熊を意味する言葉です、ロシア語が女性形なのは雌の熊だからです。