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俺には選択肢が見えない  作者: 道野 一葉
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隠された運命

 C棟の屋上で一人、夢見が丘の町を見下ろしていた。


 遠くの空で鳥の群れが綺麗なV字を描きながら飛んでいる。体育祭は明日を本番に控え、時折校庭から聞こえてくる声援にも熱がこもっている。


 神之園が俺の手を振り払い出て行った日から今日で三日目。あの日から、彼女が屋上に現れることはなくなった。


 冷たい風が制服の中を通り抜ける。両手を太ももにこすりつける。


 もともと何もない屋上だが、一人でいると輪を掛けて寂寥感に押しつぶされそうだ。


 この頃はずいぶんと肌寒くなって、来るかも分からない彼女を待ち続けるのもだんだんと辛くなり始めている。それでもここに来ない訳にはいかなかった。彼女の正体がなんであっても、俺と彼女の間にどんな事があったにしても、ただ、俺の手を振り払った理由を聞いて謝りたかった。そして、できるならもう一度、二人で無駄話をしたい。


 


 空白の一ヶ月になにがあったのか。目下解決すべき問題はそれだった。


 しかし彼女だけでなく、図書室の少女にもあれから会えていない。図書室に行っても少女の気配すらなくて、侑理さえも俺を避けているように目に入るとすぐに逃げ出してしまう。


 他に事情を知っていそうなのは両親と牧瀬だが、両親に関わるのは最終手段にしたかった。牧瀬はというと、知っている事情を話す交換条件に俺が実験に付き合うことを要求してきた。「ちょっと大変な実験になるかもしれない」なんてことを笑いながら言っていたので、相当危険なのだろうと思い断っていたが……


「もう実験を受けるしかないかもなぁ……」


 呟きながら溜息をついた。


 それとも……もう牧瀬に話してしまおうか。俺が屋上で誰と会っていたのか。頭のおかしな奴だと思われることくらい我慢して、それよりも牧瀬が興味を持って協力する方向に動いてくれるのを期待してみるのもありかもしれない。


 


『神之園楓という生徒はこの学校に在籍していない』


 


 そう担任から聞かされた俺は、なぜか素直に納得していた。


 彼女の纏っていた空気が普通の生徒とはまるで違うことを日々感じていたからか、図書室で散々非現実的な光景を目にしたからか――もしくは俺自身、本当は気づいていたのかもしれない。


 教室を訪ねれば会える。


 本来なら真っ先に考えるはずのそのことに気がついたのは今朝のことだった。どういうわけか俺は、彼女と会えるのはこの屋上だけだと理解していたらしい。


 校庭から一際大きな喝采があがる。


「今日は本番前のリハーサルだから教室に引きこもってないで侑真も見に来たらどうだ? 結果発表の時なんかけっこう盛り上がるんだぜ」と藤岡が言っていたから、その結果発表でもあったのだろう。だとすると、そろそろ合同練習が終わる時間か。


「――そうだ……」


 気づいた。もともと俺と神之園がここで無駄話をしてこれたのは体育祭の合同練習時間があったからだ。だが明日の本番でその時間はなくなってしまう。ということは、もしかして、今日がラストチャンスなんじゃないか? もし今日のうちに神之園が現れなければ、これからも現れないような気がする。だとすると俺にはどれだけの時間が残されている? 合同練習が終わるタイムリミットまであと何分だ? 


 時間を確認しようと修理から戻ってきたばかりの携帯を慌てて取り出す。すると、いつの間にかメールが一件届いていた。差出人は「妹」。あからさまに俺を避けていることに対しての言い訳でも書いてあるのだろうか、と何の気なしに開いた。


 


 〈 神之園楓って人のこと覚えてる? 〉


 


 直ぐに電話をかけた。


 今は合同練習中だから出ないかと思ったが、


『……お兄ちゃん?』


「侑理、神之園を知ってるのか?」


『え…………うん……。そっか…………お兄ちゃんも覚えてたんだね』


 意外な所から神之園の情報が出てきて、驚きながらも少し興奮し始めていた。


 少なくとも神之園は俺の妄想から出た人物ではなく、実在する人間だ。そんなことは当たり前なのだが、この屋上で待ち続けていた三日間で、もしかしたら神之園だけでなく図書室の少女もまとめて俺の幻想だったのではないか? という疑念が出なかったと言えば嘘になる。


 なにから尋ねればいいか悩んでいると、侑理が小声で誰かと話しているのが聞こえてきた。耳を澄ませてみると、後ろから微かに聞こえるのは牧瀬の声で、どうやら侑理は牧瀬に説得されながらしぶしぶ電話をしている様子だった。断片的に「でも……」「やっぱり……」と侑理が抵抗の声をあげるが、即座に牧瀬に言い負かされているのが微かに聞こえてくる。


 しばらくして言い訳が無くなったのか、侑理は沈んだ声で尋ねてきた。


『あのね、お兄ちゃん……神之園楓さんのこと、どこまで覚えてる?』


「どこまでって言われてもな……正直昔のことはあんまり覚えてない。ただ、先週も会って話をしたから最近の神之園のことなら分かるぞ」


 そう言うと、電話から一切返事がなくなった。


 呼びかけても反応はなく、電波がなくなったのかと思い画面を確認したが問題はなかった。


 一度切ってまたかけ直してみようか、と考えていると、


『お兄ちゃん、この話はさ、また今度にしよう? ちょっと用事がはいっちゃった』


 何事もなかったかのように侑理がそう言ってきた。


 しかし、俺には分かってしまう。妹が嘘をついていること。用事なんかなくて、ただ言葉に迷った挙句そう言って逃げようとしているだけだということ。


「侑理、気を遣う必要は無い」


『別に……気を遣ってる訳じゃ……ホントに用事が――』


「俺がおかしなことを言ったんだとしたら、たぶんそうなんだと思う。だから俺が言ったことのどこがおかしかったのか、正直に教えてくれ」


 しばらく、返事はなかった。無言の間、侑理が電話の向こうでためらっているような息づかいだけが伝わってきた。


 このまま電話を切ってしまうかもしれないな、そう思い始めた頃、


『侑真君。下りてくるといい。私が教えてあげよう。……いいね? 侑理君』


 いつもとは違う、静かな声で牧瀬が言った。


「わかりました。オカルト研に行けばいいですか?」


『いや、旧図書室に来てくれ。私もすぐに向かう』


 どうして図書室なのか、と思ったが、行けば分かるだろうとそのまま通話を終えた。


 携帯を内ポケットに入れ、空を見上げる。


 体育祭は小雨程度なら強行されるらしい。どしゃぶりにでもなれば延期になるのかもしれないが、合同練習の時間が新たに組まれることもないだろう。それならいっそ、快晴の下で盛大に盛り上がる体育祭を見ていたい。気の紛れるような陽気の中で、目の前の出来事に一喜一憂して、無責任な外野から、ヤジの一つでも飛ばしてやりたい。だが、そんな様子を全く想像できないのは、このどんよりと沈んだ空だけのせいだろうか。


 屋上の扉へと歩き出す。


 急に訪れた展開は、待ち望んでいたことのはずなのに、いざ直面してみると心躍るものではなかった。電話越しの侑理の戸惑い、牧瀬の重い口調が、この後の話が楽しいものにはならないことを暗示していた。


 やけに固いドアノブが嫌な音を立てて回る。心臓は徐々に速く、大きく鼓動し始めていた。


 


 ○


 


 扉が開けっ放しになっていた図書室に入ると、牧瀬が一人で立っていた。


「侑理君はオカルト研に置いてきたよ。どうしてもというなら呼んでくるがどうする?」


「いえ、大丈夫です」


「悪く思わないでやってくれ。彼女はずっと罪悪感を捨てずにいたんだ」


「……ええ」


 侑理はずっと自分を責め続けていた。それは、祖父の家に引き取られるまでの間、俺が小動(こゆるぎ)の家で受けていた扱いを、侑理も幼いながらに理解していた、ないしは成長とともに理解していったからだろう、そう思っていた。しかし、今考えるとそれだけではなかったのかもしれない。


「いくつか、聞いておきたいことがある」


 牧瀬はなんでも見透かしてしまいそうな瞳を俺に向けて、微笑むことなく言った。


「まず、君はどこまで覚えている?」


「……事故に遭う前のことですか?」


 牧瀬は頷いて、


「事故に遭う前のことで君が覚えている一番新しい記憶はなんだい?」


「一番新しい記憶……」


 三日前、屋上で昔のことを思い出してから、記憶の境界線はひどく曖昧になっていた。初めて町工場に侵入したあの日から、俺は毎日のように同じ場所で沈んでいく夕日を眺めるようになったと思う。おぼろげながら浮かんでくる懐かしい景色。ゆっくりと町を飲み込んでいく真っ暗な空。時には雨雲に覆われて、夕日の欠片さえ見せずにいた空。やけに明るい一番星がずっと片隅に輝いていた空。思い出す空はたくさんあるが、それのどれが一番新しい空なのかは分からない。しかし分からなくとも、言葉にすれば同じことになる。


「夕日を見上げていました。廃屋になった町工場の屋根の上で」


「一人で?」


「……いえ」


 そう、確かに最初は一人だった。でも、思い出される景色の中で、いつからか隣に――


「神之園楓さんと一緒に?」


「……はい……たぶんですが」


「C棟の屋上で会っていたのは、その神之園楓さんなんだね?」


 頷くのに手間取った。なにしろ神之園はこの学校にはいない。


「数年越しの感動の再会となったわけだ。君はそのことに気づいていたのかい? 彼女の方は?」


 もちろん牧瀬は神之園がこの学校にいないことなんて分かって聞いているのだろう。アリバイに矛盾がないか事情聴取される犯人のような気持ちになる。


「俺が気づいたのは三日前です。神之園が気づいていたかは分かりません。ただ……」


「ただ?」


「神之園も、俺と同じ日に気づいたのかもしれません。それで――」


 俺が伸ばした手を、怯えた顔で振り払って、


「君の前に現れなくなった――と」


 どうして神之園が現れなくなったことを知っているのか不思議だったが、俺の行動から予想でもしていたのだろうと思いそのまま頷いた。俺が頷く様子を見届けるようにじっとしていた牧瀬は突然、


「その彼女は本当に神之園楓さんだったかい? 別人ということは考えられないか?」


 思いがけない問いに戸惑う。


「別人? ……いえ、名前は本人から聞きましたし」


「彼女が神之園楓さんの名前を騙っていたとしたら?」


「……どういうことです? 神之園の名前を騙る意味がわかりません。そもそも神之園のことを知っている人さえいるかどうか……先輩も分かっているんでしょう? 神之園は……」


 この学校にいないんです。その事実を自分で口にすることが躊躇われて、眉間に皺を寄せたまま言葉に詰まった俺を、牧瀬はしばらく無言で見つめた後で小さく息をついた。その溜息はどこか俺を哀れんでいるように聞こえた。


「私はね、君が完全に嘘を言っているとは思っていないよ。だが……」


 今度は牧瀬が珍しく言葉に迷っているように視線を落とした。少しの間思案するように沈黙していたが、すっと顔を上げると、


「やはり、まずは君が会っていたという女生徒の正体を突き止めるのが先だ。私も少し調べてみたんだよ。体育祭の合同練習に参加していなかった女生徒をね。欠席も含めて九人いた。オカルト研にその生徒達の写真を用意したから一度見て欲しい」


 そう言って図書室の扉へと向かって歩き始め――


「先輩」


 思わず声をかけた。振り向いた牧瀬の目は険しかった。


「大丈夫です。本来話すつもりだったことを話してください」


 牧瀬は固まった――ように見えた。今まで見てきたようなこちらの様子を覗うための沈黙ではなく、どうすればいいのか分からずに動けずにいる、そんな普通の生徒のような立ち姿だった。いつもなら逸らしてしまいたくなる視線のぶつかり合いも、今はなんともなく続けられるくらいに。


「……着いてくるといい」


 しばしの静寂の後、牧瀬は図書室の奥へ向かって歩き出した。俺が着替えた背の高い本棚がある方向とは逆の、司書が図書室利用者の対応をするカウンターのある方。突っ立ったままの俺を振り向きもせず、そのままカウンターに入ると、その後ろにある扉を開けて中へと消えた。


 一度ゆっくりと息を吐いてから後を追う。もう使われていないカウンターには何もなかったが、月日の流れが積もっているような、空っぽとはいいにくい奇妙な感覚を覚えた。その後ろにひっそりとある扉。正面には味気ないゴシック体で書かれた『関係者以外立入禁止』のプラスチック板が接着されている。


 ドアノブに手をかけて、もう一度だけ息を吐き、扉を開けた。


 中は部屋と言うより物置と言った方がいいくらいに小さな部屋だった。ドアの前以外の全ての壁際に古い蔵書が積まれているせいで人が動ける範囲は中央に一畳ほどしかない。


 先に入っていた牧瀬はしゃがみこんで、スチール製の引き出しの中を調べているようだった。手伝おうにも何を探しているのかも分からないし、隣にしゃがみこむだけのスペースもなく、黙って足下の牧瀬を見下ろしたまま立ち尽くす。


「侑真君、さっきの質問に答えておく」


「質問?」


「君が会ったのは本当に神之園楓さんなのか、と私が訊いたとき、その質問の意図を聞いてきただろう? 名前を騙る意味が分からないし、そもそも知っている人がいるかどうかも分からないと」


「……はい」


「名前を騙る意味は私にも判断できない。だが、神之園楓さんのことを知っている人間はいてもおかしくない」


 俺が理由を問う前に、立ち上がった牧瀬はこちらへ振り返った。そして、一枚の大きな紙を差し出しながら、


「これが理由だ」


 古い新聞だった。日付は今から八年前になる。いきなり渡された新聞を訳も分からぬまま眺める俺を、牧瀬は息を殺すようにして待っていた。


 馴染みのない文字の羅列。この新聞を手渡してきた牧瀬の真意を計りかねて、紙面から目を離そうとしたとき、隅にあった見出しに目がとまった。


【廃町工場火災で児童2人死傷 落雷が原因か】


 読んだ瞬間、痛いほどに心臓が鳴った。なぜかは自分でも分からなかった。何かを察した訳でもなく、予想した訳でもない。ただ、火に触れた指先を無意識に引っ込めるように、俺は紙面から視線を引き離していた。


 目の前の牧瀬と視線が交わる。牧瀬の険しい眼差しが言いようのない不安を煽った。いつしか早鐘のように鼓動している胸にゆっくりと空気を送り込みながら、もう一度紙面に視線を戻した。


 


【6日午後6時ごろ、夢見が丘にある廃町工場で火災が発生していると近隣の男性から110番があった。火はまもなく消し止められたが、焼け跡から中で遊んでいたとみられる子ども2人が倒れているのが発見され病院へ搬送された。搬送先の病院で1人の死亡が確認され、もう1人は意識不明の重体。警察によると、死亡したのは近くに住む神之園楓(かみのその かえで)さん(9)であることが所持品などから判明した。同署はもう1人の重体の男児の身元確認を急ぐとともに、出火原因は落雷とみて調査を進める方針】


 


 理解が追いつかなかった。


 何かを読み間違えているのかと何度か読み返してみたが、やはり書いてあることは変わらなかった。意味が分からなすぎて思考が停止したのかと思う。


「小さな町だ。火事のあった翌日はその話で持ちきりだった」


 ――――?


「驚くべきことに、君が病院に運び込まれてからほぼ二日が経って警察が自宅を訪ねてくるまで、君の両親は君が家に帰っていないことにさえ気づいていなかった。それで小動(こゆるぎ)家の君に対するネグレクトが発覚したわけだ。君は交通事故に遭って必要な治療を受けるためにこの町を離れたと教えられていたようだが……家庭内での君に対する扱いを知ったお祖父様が無理やり君を引き取ったというのが真相だ」


 ――――ダメだ……


「お祖父様が亡くなって君が戻ってくることになったのを侑理君はひどく心配していた。君ももう分かっていたかもしれないが、小動(こゆるぎ)家での君の扱いが異常なものだと理解できるようになって、侑理君はひどく自分を責めた。君がまだこの町の病院にいる間、何も知らずに毎日お見舞いに行っていた自分が恥ずかしいと泣いていたようだ」


 ――――理解できない……


「侑理君は同時にひどく恐れてもいた。家の中ではいつも暗かった君が少しずつ元気になっていった時期があったそうだ。それが神之園楓さんと出会ってからのことだと気づいて以来、いつ君が彼女のことを思い出してしまうのかと、ずっと怖がっていた。君がお祖父様が残してくれたアパートに一人暮らしすることになったのは不幸中の幸いだったが、それでもこの不安は消えることはなかった。もし、この町に戻ったことがきっかけで神之園楓さんが亡くなった経緯を思い出してしまったら、優しいお兄ちゃんはきっと自分を責めてしまうと」


 ――――何を言っているんだ……?


「今、侑理君はオカルト研の中でひどく困惑している。正直に言って私もそうだ。君が嘘を言っているようには見えないし、復讐のためにタチの悪い冗談を言うような人間ではないことも分かっている。だから私が言った『神之園楓さんの名前を誰かが騙っているかもしれない』という話は私の願望でもある。そうでなければ私は、年を取る幽霊の存在を信じるか、もしくは、君の気が触れてしまったと考えるか、どちらかを選ばなくてはいけない」


 ――――気が触れた? 俺が?


「もう一度聞きたい。君が会っていたのは本当に神之園楓さんなのか? 別人ではないのか? もしくは……。君は記憶を失った訳ではないんだ。ただ、思い出せないだけで記憶というものは確実に残っている。自分と一緒にいた時に彼女を死なせてしまったという罪悪感によって、心の底に沈んだ記憶の上澄みが見せた『無事に成長した彼女』というイメージ――幻想を、君はただ望んで――――どうした?」


 ――意味がわからない


「……侑真君? ――っ!」


 ――牧瀬がなにを言いたいのかわからない


「待てっ! 侑真君! どこへ行く!」


 ――神之園は死んだ? そんな訳ない。生きている。屋上にいたじゃないか。神之園が別人? ありえない。彼女は神之園楓だ。だってあの日、俺が雨のなか空を見上げたあの日。彼女はまた――――そうだ、別人じゃない。幻想でもない。俺は――そう、この階段を上がれば――彼女が――


「侑理君! 聞こえるか! 今すぐ出てきて兄を止めろ!!」


 ――この階段さえのぼってしまえば、真実がわかる。神之園が生きているということが証明できる――


「お兄ちゃん? ……どうしたの? ……お兄ちゃん! 待って!!」


 ――いつだってそうだった。彼女は俺より先にいて、俺は階段を駆け上った。始めは俺だけだったあの場所が、俺だけの場所じゃなくなって、最初はそれが嫌だった――


「侑真君! 話を聞いてくれ!」


 ――でもいつからか――彼女がいない日がつまらなくなった。はじめは鬱陶しかった彼女の質問も――冗談に聞こえない冗談も――嘘みたいな家族の話も――


「止まって! お兄ちゃん! お願い!!」


 ――認めたくなかった感情も――見せたくなかった表情も――思い出したくない記憶も――


「っ! 早まるな! 侑真君!」


 ――全部が繋がる――俺が覚えている感情を持った記憶は全て――――


「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」


 ――この先にいる。この扉の先に彼女はいる。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


 ――このドアノブにかけた手を回せば――その先には――


「はぁ、はぁ……」


 ――必ず――


 あっけなく開いた扉の先には、今にも降り出しそうな暗い空が広がっていた。


 C棟を囲むアラカシ林のざわめきがうるさいほどに耳を覆った。


 どこかで一羽の鳥が何かを叫ぶように鳴いた。


 強風が顔面を打ち付けた。


 彼女はいなかった。


「………………どこだよ」


 最初からいなかった?


「――くそっ! 神之園! おい! 来てくれ!」


 頭のおかしくなった俺の幻想?


「出てきてくれ! 生きてるってことを教えてやれ!」


 ぽつりと頬に雨が落ちた。


「死んでるわけない! そんな訳ない! お前はっ……確かに……」


 降り出した雨に押しつけられるように屋上の床に倒れ込むと、ふと声が聞こえた気がした。


『――寂しい?』


 それはずっと思い出せずにいた、まだ幼い頃の彼女の声――


 


 


 廃町工場の小さな屋上。


 初めてここに来た日から比べると夜になるのもだんだんと早くなってきて、学校が終わってから急いで来てもすぐに暗くなってしまう。


 だけど、家に帰るのはどんどん遅くなっていた。


 ここで影に飲まれていく町を見るのは楽しかったし、それに、


 僕がどんなに遅く帰っても、きっと何も言われない。


 


 夕日が町の裏側に消えていくのを待っているうちに少し寒くなってきた。


 体をさする。それでも我慢できずに一度建物の中に戻って、うち捨てられていたボロボロのタオルを持ってきて羽織った。やっとマンションの影にかかり始めた夕日を見ながら、


 明日からは上着を持ってこよう。


 そう決めたとき、


「ねえ! ここ入っちゃいけないんだよ!」


 ビックリして思わず体を伏せた。口を押さえて息を潜める。


 声は下から聞こえてきた。女の子の声だったけど油断はできない。大人にバラされるかもしれない。


 そのまましばらくじっとしていた。けど、女の子はそれから何も言ってこない。


 大人を呼びに行ったのだろうか。それなら今のうちに逃げるべきだろうか? 


 考えていると、建物の中から小さな音が聞こえてきた。耳を澄ませる。リズム良く聞こえてくるのは、たぶん階段を上ってきている音。


 顔を見られたらマズい。もし顔がバレなくても、ここに子供がいたことが大人の耳に入ったら、町内会の夜の見回りルートにここが追加されてしまうかもしれない。それだけは避けないと。あの見回りのせいで今までいくつの遊び場が潰されたかわからない。


 どこか隠れるところは? あのタンクの隙間に入る? いや、正面に来られたら見つかる。他には……そうだ、あっちの壁にハシゴがあったはずだからそこから下りれば――


 走りだしたときにはもう遅かった。


 扉が開いて、出てきた女の子とばっちり目が合ってしまった。


 走る格好のまま固まっている僕をじっと見つめるその女の子は、同い年くらいだろうか、学校で見たことはないから、隣の小学校の生徒かもしれない。


「何やってるの?」


「別に、何も……」


「嘘。だって毎日来てるじゃん」


「え?」


「いっつも自転車に乗って来てるでしょ? 私ここの目の前のウチだから私の部屋の窓から見えてたんだよ」


 ……致命的だ。これは言い逃れできない。しらばっくれるのは止めて、素直にお願いするしかないかもしれない。


 腕組みをして立っているその子に向き直り、両手を合わせて頭を下げた。


「……黙っててくれない? 僕がここに来てること」


「何しに来てるのか教えてくれたら考える」


「……町を見てるだけだよ」


「毎日あんなに遅くまで? 昨日なんて私が寝る時間になってやっと帰っていったじゃない」


「ホントだって……あ、ほら! こっち来てみなよ」


 少女の手を取っていつもの位置に無理矢理連れて行った。


「あの夕日がさ、もう少ししたら沈むんだけど、そしたら町全体が影に飲み込まれていくみたいに見えるんだ。その景色が好きでさ。だから僕はホントに――」


「ちょっと、痛い」


 そう言われて、慌てて手を離した。説得することに必死で思わず手を握ってしまっていたけど、すぐに恥ずかしさがこみ上げてくる。


「ごめん……」


「……別にいいけど」


 何も言えなくなってしまった。


 その子も何も言わないから、僕は顔を上げることもできずに立ち尽くす。


 でも、しばらくして、


「ホントだ……すごいね」


 その声を聞いたとき、金縛りがとけた。


 顔を上げると、残り物の夕日を浴びたその子の横顔が目の前にあって、その横顔には本当の笑顔が浮かんでいた。


「……でしょ?」


 得意になってそう言って、僕も視線を夕日に向けた。


 


 次の日も、その子はやってきた。


 その次の日も、やってきた。


 そしてその内に、その子は何も言わずに僕の隣に座るようになって、いつの間にか、二人並んで夕日を見るのが当たり前みたいになっていった。


 その子は夕日が沈めば帰ってしまったけど、それは仕方がないこと。


 その子の両親は帰りが遅くなったら心配する。今だって、もう少し早く帰れと小言を言われるのだと、不機嫌そうに言っていた。


「ねぇ、君の親は?」


 そんな質問をされたとき、僕はいつも「ウチ、放任主義だから」と言った。それを聞いた相手は決まって羨ましいと言い、そしていかにもうんざりしたように自分の親の愚痴を話し始めるのだった。僕はそれに相槌を打ち、「ウチは厳しくなくて良かった」と笑う。


 その子に聞かれたときも、僕は同じように答えた。


「嘘でしょ」


「え?」


「放任主義っていうのはよくわからないけど、嘘ついてるでしょ」


「ついてないよ」


「絶対嘘だ」


「嘘じゃないって!」


 始めてそんな風に言い返されて、そんなつもりはなかったのに、大きな声を出してしまった。その子は驚いたように口を閉じ、そのまま俯いて黙る。気まずくて、ひどく居心地が悪かった。


 夕日はまだ沈んではいない。でも、朝から空には真っ黒な雲が立ちこめていて、町は既に影の中に飲み込まれていた。ずっと暗いままの空を見ていても何も楽しくはないはずなのに、その子は黙ったまま隣から動こうとしなかった。


 


「寂しい?」


 ぽつりとその子が言った。


 なんのことを言っているのか最初はわからなかった。


 もしかしてこの子は本当は帰りたいけど僕が寂しがると思って帰ると言い出せないんじゃないか、そう思ったから、首を振った。


「――じゃあ、悲しい?」


 続いて来た質問もやっぱり意味がわからなくて、同じように首を振った。


「じゃあ、どうして帰りたくないの?」


 そう聞かれて、やっと自分の家のことを聞かれているのだと分かった。


 どうして帰りたくないのか、自分でもちゃんと考えたことはなかった。僕にとっては当たり前のことだったし、そんなことを聞いてくる人もいなかった。


 僕は本当の子どもじゃないからだよ。


 そんなことを言うつもりもなかった。説明が面倒だったし、それを言われた人の反応もだいたい分かっていた。


「家に帰っても、別にやることないから」


 だから、そう返事をした。それだって嘘ではなかった。


「親と、仲良くないの?」


「……普通だよ」


 嘘。


「一緒に夜ご飯食べてる?」


「……たまには」


 これも嘘。


「休みの日に家族でどこかに遊びに行ったりとかは?」


「……行くよ」


 自分以外は。


「どんなとこ行くの?」


「……つまらないところばっかりだよ」


 本当は知らないだけ。


「行きたいところお願いすれば?」


「……するよ」


 これは本当。一度だけお願いしたことがあった。


「それって――」


 それ以上聞かれるのは嫌だったから、もう帰ってもらおうと振り向いたとき、


「あ」


 突然その子が空を見上げた。つられて僕も顔を上げると、何かがまぶたに当たった。驚いて頭を思いっきり振り下ろすと、その子は笑いながら、


「振ってきたね。今日は帰ろっか」


 笑われたのが恥ずかしくて、僕は俯いたまま言った。


「先に帰っていいよ。僕はもう少しいるから」


「風邪ひくよ?」


「大丈夫。雨好きだし」


 何度も振り返るその子が見えなくなってから、一人になった廃工場の屋根の上で空を見上げた。落ちてくる雨をじっと見る。いつもなら、そのまま空に向かって落ちていけるのに、その日はダメだった。さっきの問いかけがずっと頭に残っていた。


 ずいぶんとたくさん嘘をついてしまったけど、最後の質問の答え。それだけは嘘じゃなかった。


 僕は一度だけ、お願いしたことがあった。


 学校でクラスの男子が言った。


 ――次の日曜に、隣の市でブルーインパクトの航空ショーがある。


 それを聞いたとき、思わず息をのんだ。いつも図書室で暇さえあれば航空機の図鑑を眺めていた僕にとって、それだけは見逃せなかった。家に帰って、いつもならすぐに部屋に入るけど、その日はリビングの椅子に座った。何度か親に声をかけようとしたけど、どうしてもタイミングが合わなくて、学校から帰ってからずっと椅子に座り続けていた。とうとう、親も寝る時間になって、思いきって親の前に立つと頭を下げた。


『次の日曜に航空ショーに連れて行ってください』


 小動の家に来て、初めてしたお願いだった。ものすごく緊張した。下げた頭を上げられなかった。親がどんな顔をしているのか見るのが怖かった。何十秒か下げたままだった気がする。ずっと心臓が痛かった。だから、


『わかった』


 その返事が聞こえたとき、思わず親には見えないようにお腹の前で小さくガッツポーズした。その夜は嬉しくて眠れずに、次の日曜のことを考えつづけた。その日から、日曜になるのを指折り待った。たった三日の間だったけど、今までで一番長い三日間だった。そして、ついにその日がやってきて、


 親は朝から侑理のピアノの発表会に行った。


 その時理解した。あの『わかった』という返事がなんの意味も無い言葉だったということ。たぶん僕が何をお願いしているのかさえ聞いていなかった。ピアノの発表会があることなんて、三日前には分かっていたはずだった。


 あの時の気持ちは怒りだと思っていたけど、


 ――じゃあ、悲しい?


 あの子に聞かれた意味が分かった。


「――そっか、悲しかったのか」


 そう言葉にした瞬間、目の奥がじんとした。でも、顔を上げて、泣くのは我慢した。


 家のことで泣くのは嫌だった。涙を流さないように我慢していると、流れなかった涙は鼻水になってどんどん垂れてきた。鼻を啜りながらも、涙が出そうになるのが止むまで空を見上げ続けた。


「泣いてるの?」


 すぐ後ろで声がして、驚いて振り返る。


「……帰ったんじゃなかったの?」


「だって、傘持ってきてなかったから。今から帰ってもどうせ濡れると思って」


 涙は我慢していたけど、目は赤くなってしまっているかもしれない。僕はすぐ振り返った頭を元に戻して俯いた。


 その子は僕の隣に座ると、


「ねぇ、泣いてたの?」


 また振り向かないと泣いてたってことにされるかもしれない。そう思ったけど、目が赤くなっていたら余計に泣いていたように見えるかもしれなくて、なかなか振り向けずにいた。


「私が泣いたときはね。よくお姉ちゃんが抱きしめてくれる」


 また嘘みたいな家族の話が始まるのかと思った。家族の話をされたときはいつも、どう返事をすればいいのか分からなかった。


「ねぇ、君って何歳?」


 いきなりだったけどこれなら返事ができた。


「……八歳」


「私は九歳だから私の方がお姉さんだね」


 そういって笑った後、その子は少しの間黙っていたけど、


「抱きしめてあげよっか?」


 今度はわざとらしく笑いながらそう言った。冗談だと思ったから僕も笑った。だけどすぐに、


「ねぇ、抱きしめてもらったことある?」


 急に真面目な声になった質問にやっぱり僕はすぐに返事をできなかった。


 あるよ。と言ってしまえば終わりだった。でも、僕を抱きしめるどころか頭を撫でたこともないあの人を、優しい親だというような嘘だけは、どうしてもつきたくなかった。


 そうして黙ったままでいると、


「はは、びちゃびちゃだね」


 そう言って笑いながら、その子は本当に抱きしめてきた。


 突然のことで僕の体は固まったように動かなくなった。


 しばらくしても何の反応もしない僕に不満でも持ったのか、一度顔を覗き込んできて、慣れていない手つきで頭まで撫で始めた。


 そんなことをされながらも僕は、ずいぶんと細い指だな、とか、中途半端に投げ出された腕が疲れてきたな、なんてことを思っていた。いつまでこうしてるんだろう、とも思った。


 それなのに、


 別に悲しくなった訳でもないのに、いきなり鼻の奥がつんとして――また鼻水が垂れてきて――のどの奥で勝手に声が漏れて――


「よーしよーし」


 耳元でわざとらしくそんな声が聞こえて、固まっていた体から力が抜けた。そして少しずつ、漏れ出てくる声を抑えることができなくなっていった。


 人前で泣いたのは初めてだった。


 


 


 ……そうだった。


 俺はあの日神之園の前で泣いたんだ。それまでなんとも思っていなかったことまで急に悲しかったことのように思えて、恥ずかしさも途中から忘れて――


 そして――それから――――どうなった?


 たしか……涙が止まってからまた恥ずかしさがこみ上げてきた俺は、何も話せずに黙っていたはず。神之園も何も言わずに隣にいてくれて、そうして無言のままでいると雨がどんどんと激しくなってきて――そうだ、町工場の中で雨宿りしようと言ったんだ。そして――


 


 


「ここもすごい音だね」


 女の子は一階が見渡せる広場の柵の所まで行って、笑いながら言った。


 トタンの屋根が雨に打たれてけたたましい音をたてていた。


「外よりこっちのほうがうるさいんじゃない?」


 わざとらしくも明るく振る舞うその子に、僕も無理矢理笑顔をつくりながら隣に行こうと歩き出した時、


 真っ暗な建物の中が一瞬だけ昼間のように明るくなって、鼓膜が破れそうなほどの轟音が鳴り響いた。二人同時に声をあげその場にしゃがみこんで、


「なに……?」


「……たぶん……雷?」


 二人ともなんともないことが分かると、どちらからともなく、くすくすと笑い合った。


 だけど、その後、


「あ!」


 壁の方を指さしながらその子が僕の肩を何度も叩いた。目を大きく開けながら慌てた様子の彼女を見て、急いで振り向くと、


 木くずの山が燃えていた。


 驚いているうちに、その火は一瞬で天井まで届く大きさになって、


 急いで逃げようとその子の手を取った――瞬間、


 何が起きたのか分からなかった。何か大きなものが全身にぶつかってきて、少ししてまた体の右側に固いものがものすごい強さでぶつかった。


 今まで感じたことのない痛みにしばらく息ができなかった。


 目を開けると、さっきまで居たはずの二階の広場の裏側が見えて、上から落ちてきたんだと分かった。工場の中は燃えさかる炎でさっきまでの暗さが嘘のように明るくて、雨で濡れた服の上からでもひりつくような熱さを感じた。


 右足がうまく動かなかった。でも急がないといけなかった。ものすごい勢いで火が建物に広がり始めていた。


 あの子はどこにいったのかと辺りを見渡した。少し離れたところに倒れていたのを見つけ、右足を引きずりながらも走って行って声を掛けた。女の子は薄く目を開けて、何かを言おうとしていたけど、聞き取れないくらいの弱々しさだった。


 背負おうとして諦めた。右足に力が入らなかった。背中から脇の下に両手を入れて引きずって行くことにした。左足で踏ん張るときにしか前に進めずに、出口までが物凄く遠くに見えた。


 もう少し、もう少し、そう言い聞かせながら彼女を引きずって行った。そしてやっと出口の少し前まで来たとき、また爆発が起きて、上から――


 


「そうだ……」


 思い出した。


 崩れてきた天井を見て、俺は動けなかった。恐怖で足がすくんで何もできなかった。そして、落ちてきた鉄骨が彼女の頭を――


 全身を悪寒が走った。俺がこの町に越してきてから、毎日のように見ていた悪夢。目が覚めた時には息苦しさと最悪の気分だけを残していく夢の正体。それはこの激しい恐怖と後悔の記憶だった。


「俺は……覚えていたのか」


 視線の先には屋上の柵がある。あの柵を越えてしまえば、この最悪な気分もなくなる。それが救いに思えるほどに、思い出したくない記憶だった。


 でも、それじゃあ、この屋上で無駄話をしていた相手は誰だ?


 神之園を騙った偽物? 牧瀬の言っていた年を取る幽霊ってやつか?


 ばかばかしい。あれは神之園だ。


 自分でも矛盾していることはよく分かる。どうにかしてその矛盾を解決できないかと必死に頭を動かすが、そんな都合のいいことは思いつかず、次第に考えることすら面倒になり始めた頃、背後で屋上の扉が開く音がした。


 彼女が来た。


 疑いもせず振り返った。


 だが、


「思い出したんだね」


 そこにいたのは、図書室の少女だった。


「お前……なんで……」


「もしかして気づいてない?」


「気づいてない? 何に――」


 言ったところで、すぐに異変に気づいた。こちらに向かってゆっくりと歩いてくる少女の周りで――無数の雨粒が、停止していた。


 慌てて辺りを見渡す。いつの間にか振っていたらしい雨、その全てが空中で止まっていた。


 言葉が出ない俺をかまいもせずに少女は歩きながら続ける。


「最近は、引き戻される間隔がずいぶんと短かった。進むスピードもどんどん遅くなって、止まることも多くなってた」


「……どういう意味だ?」


「戻る速さが加速してる。きっと限界が来ちゃったんだ」


「限界……?」


「今までもギリギリのバランスだったんだよ。ここまで耐えていたのが不思議なくらい。でも、たぶんこれが最後」


 少女は俺の目の前まで来ると、初めて会った日に一瞬だけ見せた大人びた表情になって俺の顔をしっかりと見据えながら言った。


「世界は夢から醒めようとしてる」


「は……?」


 疲れ切った頭のせいか、少女の話が全く入ってこない。戻る? 最後? 夢から醒める?


 いきなりやってきて何を言い出すかと思えば、そんな意味の分からないことばかり。ただでさえ神之園のことで混乱しているところに………………そうだ――こいつは――


「お前は神之園のことを知っていたよな!?」


 少女は頷いた。


「屋上にいるときの神之園を見たんだよな!?」


 また、頷いた。


「じゃあ、やっぱり神之園はいるんだな? 生きてるんだな!?」


 すぐに頷かない少女を見て息が苦しくなった。だが、


「…………生きてるよ」


 確かに少女はそう言った。その言葉で今までの最悪の気分が一気に吹き飛んで、思わず空を仰いで息を吐いた。


「でも――」


 少女は覚悟を決めたように息を吐くと静かに言った。


「それは二手に分かれた世界のもう一方での話。君のいるこちら側では彼女は……死んでる」


「…………は?」


「言ったでしょ? 世界が夢を見るようになったきっかけは君と彼女なんじゃないかって。今、世界には、君が生きて彼女が死んだ世界と、彼女が生きて君が死んだ世界が両方存在してる。相容れない二つの世界はお互いに引っ張り合いながらここまで来た。でももうそれも限界。世界はどちらに進むのかを決めようとしている」


「待ってくれ……何を言ってるんだ」


「楓ちゃんから聞いたんだ。火事のあったあの日、君は楓ちゃんを助けようとした。でも助けられずに君だけが生き残ったのが今君がいるこの世界。そして楓ちゃんを助けられたけど君が死んでしまったのが、楓ちゃんが生きているもう一つの世界。それが今この世界が引っかかってる原因。きっと、たぶん、そういうこと」


「もう一つの世界……?」


 その時、視界中で静止していた雨粒が一斉に少しだけ動いた気がした。


「ごめん、もう時間がないみたい……。いい? 急いで言うからよく聞いて。君はこれから引き戻される。世界が二手に分かれた時間まで。そして次こそ決まる。世界がどっちに進むのか」


「ちょっと待ってくれ――」


「引き戻されたときには全てを忘れてるかもしれない。時間の進みと一緒に積み上げられた記憶は、時間が戻れば反対に抜けていくから。でもね、世界の時間からズレていれば、戻った先でも抜けきらなかった記憶が残っているかもしれない。だからこれから君をぎりぎりのところまで連れて行く。世界の時間から完全に外れてしまう一歩手前まで。僕の手を握って」


 捲し立てるように言う少女を訳が分からず茫然と見つめる。


「早く! 手を握って!!」


 少女の険相に戸惑いながらも手を握った。瞬間、全身が今まで感じたことがない感覚に曝された。その場から一歩も動いていないのに、確かに移動しているような感覚。空で停止していた雨粒が上下に不規則な動きをしているのが目に入り、今、自分は時間の中を動いているのだと直感した。


「ここまでかな」


 そう言って少女が手を離す。周りの景色は何一つ変わっていなかった。だが、ひどく遠くから眺めているような心細さがある。


「これで、戻った先で今までの記憶が少しだけでも残ってるかもしれない。だからもし憶えていたら、よく考えて」


「……考える?」


 尋ねた時には、少女は目の前から消えていた。


 混乱したまま叫んだ。


「俺はどうすればいい!?」


「君は――選ばなくちゃいけない」


 声だけが聞こえ、急いで辺りを見渡したが姿はない。


 そのとき、視界の端の景色が激しく歪んだように見えて、


 振り向くと、


 雨が――


 空に――


 落ちて――


 


 あ


 ら


 く


 れ――


          た――


 


 ○


 


 全身が燃えるような熱さで目を醒ました。廃工場の二階の広場の裏側が見えて、上から落ちてきたんだと分かった。右足がうまく動かない。でも急がないといけない。すごい勢いで火が建物に広がり始めている。


 女の子はどこにいったのかと辺りを見渡す。少し離れたところに倒れていた。右足を引きずりながらも走って行って声を掛ける。女の子は薄く目を開けて、何かを言おうとしていたけど、聞き取れないくらいの弱々しさだった。背負おうとして諦める。右足に力が入らない。背中から脇の下に両手を入れて引きずって行った。左足で踏ん張るときにしか前に進めずに、出口までが物凄く遠くに見えた。


 もう少し、もう少し、そう言い聞かせながら引きずって行った。そしてやっと出口の少し前まで来たとき、なぜか分かった。


 ――そうだ、ここでもう一度爆発が起きて、僕の目の前でこの子に鉄骨が落ちる。


 


『君は選ばなくちゃいけない』


 


 誰かの声が聞こえた気がした。だけど考える暇はなかった。


 僕は痛む右足も使って体を回転させながら女の子を出口に向かって放り投げた。女の子はほとんど飛ばなかった。でもぎりぎり外までは転がってくれた。僕も立ち上がろうとしたけど、出来なかった。右足が全然動かなくなっていた。


 諦めて倒れ込んだ。


 あの子が助かればそれでよかった。


 なのに、


 女の子がこちらに向かって這ってきていた。そして、僕の方に手を伸ばしながら、


「ゆ……きさ……き……くん」


 なぜか昔の僕の名字を呼んで――


 


『もし憶えていたら、よく考えて』


 


 ――ああ――そうか――――――――でも――――


 


 俺は伸ばされた彼女の手を振り払った。


 そして、まだ動く左足で、


 神之園の胸を――蹴飛ばした。


 


 ○


 


 気がつくと、屋上にいた。


 一切の音が聞こえない無音の中、空中に雨粒が停止したままで、C棟を取り囲むアラカシ林も揺らぐことなく固まっている。


「やっぱり、君はあの子を選んだんだね」


 すぐ側に図書室の少女が立っていた。


「神之園は……助かったんだな?」


「うん。君のお陰でね」


 力が抜けた。床にへたり込んだ俺を、少女はしばらくそっとしておいてくれた。


「俺は……死んでないのか?」


「死んだよ。君が選んだ世界では」


「じゃあ、なんで俺はここにいるんだ? もしかして死後の世界ってやつか?」


 もしそうなら、この少女は俺を天界に送る天使だろうか、半ば本気でそんなことを考えながら言った。


「君はあの子が生きる世界を選んだけど、それで君が生きていたこの世界がなくなるわけじゃない」


「……どういうことだ?」


「たぶん、もうすぐ始まるよ」


 意味がわからないまま、少女がするように俺も夢見が丘の町を見下ろしていた。


 しばらくそうしていると、ふと足下に違和感を覚えた。


 見ると、地面が――動いていた。


 屋上の薄汚れたタイルが、左から右へ少しずつ、ひっぱられるように動いていく。だが、そこに立っている俺は動かないまま、まるで浮かんでいるかのように何の抵抗も感じない。


「ほら、見てよ。すごいでしょ?」


 少女の声で顔を上げると――全てが動いていた。


 夢見が丘の町全体が、ゆっくりと、景色を歪ませながら流れていた。


 目の前で止まっていた雨粒も左右に揺れながら空へと帰って行く。


「君が選ばなかったこの世界が、君の選んだ世界に引っ張られてるんだ。でもね、君はあっちの世界にはいないから、同じように引っ張ってもらえない。君は世界の時間から外されてしまったんだよ」


 世界の時間から外されてしまった――その言葉には聞き覚えがあった。


「それって――」


「そう、僕と同じ」


 少女は笑って言った。


「僕もね、君と同じだった。僕が死んじゃう世界か、友達が死んじゃう世界か、どちらか選ばなくちゃいけなかった。そして――」


 お前も友達を選んだんだな。


 思っただけで言葉にはしなかったが、少女は俺の顔を見てにっこり笑って頷いた。


「……迷わなかったのか?」


「君は迷った?」


 逆に問われて、俺は彼女の胸を蹴飛ばした時のことを思い返す。


 あの時に俺は迷っただろうか。彼女が生きる世界を選ぶと言うことは、自分が死ぬ世界を選ぶということ。誰だって死ぬのは怖いし、人によっては迷わず自分が生きる道を選ぶかもしれない。


 ただ、俺は、


「……迷わなかったな」


 俺にとって、迷う余地のない二択だった。思い返せば、記憶が抜けていた八年の間もずっと、無意識のうちに後悔し続けていたのだと今では分かる。その後悔を無くせるかもしれないと分かったあの瞬間、俺が感じたのは死への恐怖ではなく、純粋な喜びだった。


 そう、俺は羨ましかった。彼女を救えた、もう一つの世界の自分のことが。憎いほどに羨ましくて仕方なかった。


「でしょ?」


 少女は微笑んで、


「僕もね、迷わなかったよ。そして今でも、間違ってなかったと思ってる。後悔したこともない」


 穏やかに、少しだけ誇らしげに、そう言った。


「でも――」


 後ろを向いた少女は、その後の言葉を飲み込んだように見えた。代わりに、


「いつまでもね、終わらなければいいなって思ってたんだ」


「……終わらなければいい?」


 少女はこちらを振り向かないまま、


「世界の夢だよ――今から醒めるこの夢――君が僕を見つけてくれたあの日、僕はただ君を帰したくなくて――とっさにわがまま言ったんだ――一緒にゲームしようって」


 少女の話し方はまるで遠い日の思い出を語るようだった。


「僕が泣きそうになったら君は渋々頷いてくれた。それがほんとに嬉しくて、図書室にあった見たこともないゲームをぜーんぶ持ってきた。でもね、全然勝てないんだもん。大人げないよね君って」


 楽しそうに笑いながら話す少女に思わず、


「何言ってんだ。お前の方が勝ち越し――」


 そこまで言って、気がついた。


 途切れた俺の言葉で振り向いた少女はクスクスと笑って、


「そう――君にとっては一日だけの出来事かもしれないけど、世界は何度も何度もその一日を僕にくれた。君とあの子の世界はお互いに同じ力で引っ張って、シーソーみたいに何度も何度も同じ日を繰り返してた」


 俺が神之園との会話を隅々まで覚えていたことも、少女に昔から会っていたような感覚も、やけにゲームが強かったのも――全部当たり前のことだった。


「びしょ濡れの君がゲームの合図――君にわがまま言うのも板に付いてきて――調子に乗りすぎてたまに君を怒らせて――でも君は結局、どんなときでも一緒に遊んでくれた」


 そう言って少女は俺の右手を両手で掴んで微笑んだ。


「初めてだったんだ。君にゲームで勝ち越したの。だからね、ちょっとだけ思ったの。もういいかなって。何度も続いた夢も、僕のわがままも、いつかは終わる。いつか終わるなら、これが最後でいいかなって。君が図書室から出て行った後、君に勝ったコリドールの盤面を眺めてたら、初めて、そう思った」


 話しながら俯いた少女の、俺の手を握る力が強くなっては、すぐに抜ける。


「でもね、また君がびしょ濡れで入ってきたとき――嬉しかった。やっぱり終わって欲しくないって思った。でも……君は着替えを持ってなかった。初めてだったんだ。だから、あーもう終わっちゃうのかなーって……」


 少女の声は少しずつ震えだしていた。目の前で俯いている少女のつむじに言う。


「リベンジ」


「え?」


 見上げた顔は案の定ぐしゃぐしゃだった。


「できるか? リベンジ」


 みるみるうちに塗り替えられていく少女の表情は今までで一番の笑顔になって、


「もちろん! そうとなったらこうしちゃいられん! さぁ! 我らも向かうぞ!」


「向かう? どこに?」


「あっちの世界にだよ! 今ひっぱられてるこの世界を追いかけていれば付いていける」


「このままここに居たらどうなるんだ?」


「それは怖くて試したことない。もし、世界を追いかけるのに飽きたら一緒に試してみる?」


「……遠慮しとく」


 少女は声を上げて笑うと、握ったままの右手を前に突き出して、


「ほら、行こう。時間の移動は今の君なら分かるはず。慣れるまではなかなか難しいかもしれないから僕が手伝ってあげる」


 そう少女が言うと、ゆっくり動き続けていた景色がピタリと止まった。


「ほら、分かる? こうやって世界と一緒に自分も動くの」


 不思議な感覚だった。今まで感じたことのない体の使いかたをしているのに、すぐにやり方がわかった。むしろなぜ今まで出来なかったのかと疑問に感じる程だった。


「うまいね」


「才能あるか?」


「調子に乗らない! ここは元から半分ズレてた世界だから付いていくのも簡単だけど、これがあっちの世界と合わさって一つになったらぐんと難しくなるよ」


「ズレてたほうが簡単なのか?」


「うん。だからズレてる場所は貴重なの。この屋上なんてこれ以上ないほど簡単だよ。ズレすぎてあっちの世界と重なっちゃってたくらいだし」


 それを聞いて、最後のひっかかりがとれた気がした。どうして神之園とは屋上以外で出会わなかったのか。世界が二手に分かれた先で、重なっていた場所がこの屋上だったのだろう。


 偶然なのか、運命なのか、俺はここで成長した彼女と無駄話をする時間を得た。


 もしこの場所で彼女と出会い、再度惹かれていく体験をしていなかったら、今こうして晴れ晴れとした気持ちにはなれていなかったかもしれない。それにもしかしたら、焼けるほどに熱く苦しかった炎のなかで、一瞬のうちでは彼女を助ける決断が出来なかったかもしれない。


 実際、俺は一度彼女を救えなかったのだ。


 少女は自分のした選択を後悔していないと言った。


 俺はどうだろうか。


 俺はこの選択を後悔する時が来るのだろうか。


 しばらく考えたが、答えは変わらなかった。


 俺は、彼女を救えたことが――


 


「ふざけないでっ!!」


 


 心臓を握りつぶすような絶叫で振り返る。


 彼女がいた。


 屋上の扉の前で、苦しそうに肩で息をしながら、神之園が俺を睨み付けていた。


「楓ちゃん……どうして……」


「認めない!!」


 悲鳴にも似た叫び声は、屋上全体に響き渡る。


「貴方一人満足して、また私に苦しめって言うの!? ……また私に、後悔しながら生きろっていうの!? 貴方は忘れてたからいいかもしれない! でもね! 私は全部憶えてた! あの時貴方が振り払った手の感触も! 蹴られた胸の痛みも! 落ちてきた鉄柱にぶつかって倒れていく貴方の後ろ姿も!」


 彼女は叫びながら、俺の前まで歩いてきて、


「ずっと忘れられなかった……倒れた後も少しの間動いていた貴方の手も…………貴方の……頭からこぼれていく…………薄茶色の…………」


 俺の胸にすがりつきながら言葉に詰まる彼女。その顔には苦痛しか見いだせない。


 全身が一気に冷たくなった。


 俺は、彼女が生きてくれることを願った。あの日、自分でも気づいていなかった悲しみを掬い上げてくれた彼女を、初めて抱きしめてくれた彼女を、今度は俺が救いたいと思った。


 だが、それは彼女にこんな顔をさせることだったのか……?


「毎日貴方が息絶えていく瞬間を夢に見た……あんなに苦しい時間が続くなんて思ってなかった……でも、それでも! 運命論を信じていればなんとか生きていられた……あの時私のせいで貴方が死んでしまったことも、全ては決められていたことなんだからどうしようもなかったんだって……人間の意思なんてなんの力もないのだから仕方ないことなんだって……」


 泣き出しそうな声が胸を圧迫する。


「でも……もう……運命論にも頼れない……そんな中で貴方は、私に生きろって言うの……?」


 聞いたこともない彼女の声は、今すぐにでも耳を塞ぎたくなるほど苦しかった。


「私は……認めないから……貴方が諦めているなら、私が……」


 彼女は俺の体を突き放し、一気に駆けだした。


 屋上の縁まで走って行った彼女は一度俺と少女を睨み付けてから、


 屋上の柵を乗り越えた。


「……おい……神之園……なにをして――」


「私がここで死ねば、世界はまた別の道を探す。私が生きる世界がなくなれば向かう先がなくなるんだから。――違う?」


 そう言った彼女の目は、佇んでいた少女に向けられていた。


 少女は口を開いたまましばらく茫然としていたが、


「わ、わからないよ……そんなの……」


「わからないのね? それなら試す価値はある」


 すぐに俺に鋭い視線を向けて、


悠岐前(ゆきさき)君。もう一度よ。二度と同じ選択はしないで」


 言い残すと、そのまま後ろに倒れ――――――柵の外へと落ちていった。


 


 動けなかった。


 俺は何も出来ずにその場で立ち尽くしていた。


 一体何が起こった? 彼女はどこへ行った? あの柵の下には何がある?


 静寂の中、彼女が飛び降りた先に駆けつけて何が起きているのかを確認することもできずに、心臓の音だけが壊れそうなほどに打ち鳴らされていた。


「――ダメだったんだね」


 どのくらい立ち尽くしていたか分からない。隣に立つ少女の声が辛うじて聞こえた。。


「ダメだった……? 何がだ……?」


 自分のものだとは思えないほどに掠れた声しか出なかった。


「君の選択は間違ってたみたい……」


「間違ってた……? 俺の選択が……?」


「うん……。だから、戻らなきゃ……」


「……戻る? また、戻れるのか?」


「分からない……けど、まだ世界は一つになりきってない。今ならまだ、間に合うかもしれない…………」


 まだ間に合うかもしれない。その言葉に、ふらついていた体に少しだけ力が戻るのを感じた。


「でも、どうやって戻るんだ?」


「一度目の時の感覚をよく思い出して。時間の移動、さっき一緒にやったでしょ? 今の君なら出来るかもしれない…………僕も……手伝うから」


 しばらく上げられずにいた顔を上げると、少女は今にも泣き出しそうな顔で微笑んでいた。


 何か言わなくちゃいけない。そう思った。それなのに、俺が口を開く前に少女は、


「二人が幸せになれる道を探してきて」


 そう言って俺の背中を押した。


 振り向くと、涙が――


 空に――


 


 ○


 


 肌を焼くような熱さ。


 トタンの屋根を打ち付ける雨の音。


 赤い炎で満たされた室内。


 戻ってきたことを認識しながら、耳には少女の声が残っていた。


 ――もう、やるしかない。


 状況を理解するために辺りを見渡す。


 床に倒れている神之園が見えた。一瞬だけ考える。どうすればいい? どうすれば二人とも助かる?


 瞬時に確実と思えるようなアイディアは出てこなかった。だが考えている時間も無い。このまま何もしないくらいなら――


 ――爆発するな!


 そう、心の中で念じた。


 爆発なんて起きずに、二人とも助かる未来を強く思い描いた。


 心の中で願うだけでは心許なくて、


「爆発すんな! 爆発すんじゃねえええ!」


 叫びながら、倒れている神之園に駆け寄る。痛む右足なんてどうでもいい。


 俺の叫び声を聞いていたのか、神之園も掠れた声で必死になにかを呟いているように見えた。


 爆発がなければ二人とも助かるなんて馬鹿みたいに単純な考え。


 ――だが、それに賭けるしかなかった。牧瀬の言うように感情に力があるのなら、今だけでも働いてくれ。爆発をなくすまではいかなくても、少しだけでも遅らせることができれば出口に間に合う。


 神之園を引きずりながらも叫んた。


 少女の泣き顔を追い払うように叫び続けた。


 あそこまで、あの椅子が倒れているところまで、前回超えられなかったあそこを超えれば、きっと二人とも助かる。あと、七メートル……六メートル……五メートル――


 あと、三メートル――その時、


 爆発音とともに衝撃が全身を襲った。


「――なんで……」


 崩れてくる天井を見上げながら、俺の頭は真っ白になった――


 


 崩れた瓦礫に埋もれる直前、声が聞こえた気がした。


 極限の精神状態による空耳だったかもしれない。


 


 ――おめでとう――


 ――ごめんなさい――――


 


 ○


 


「おい、侑真起きろ! 遅れるぞ!」


「んあ?」


「んあ? じゃねーよ! みんなもう行っちまったぞ。早く着替えろって」


 気がつくと、見慣れた二年八組の教室だった。俺の肩をバシバシたたいているのは藤岡で、状況が理解できないままぼーっとした頭を上げる。


「やっと起きたか! ほら、早く着替えろって。遅れたら俺までどやされる。さっさと着替えてダッシュで行くぞ!」


「……行くってどこへ?」


「さては寝ぼけてんな? 合同練習に決まってるだろ?」


「……合同練習って体育祭のか?」


「他になにがあるんだよ」


「……なに言ってんだよ藤岡。俺は転校してきたから参加しなくていいんだよ」


「はぁ? 転校? 侑真が? おいおい、マジで寝ぼけてんな。お前がいつ転校してきたってんだよ」


「……はぁ? いつってお前こそぼけたんじゃ……」


 ……いや……俺は…………


 言われてみれば、俺は最初から夢見が丘高校の生徒だ。


 ……おかしい。頭が混乱する。確かに転校なんてしていないはずなのに、転校してきた気がするのはどうしてだ……?


「お前……大丈夫か? 頭おかしくなったのか?」


「……なったかもしれん」


 なにか重要なことを忘れている。どうしても確認しなくちゃいけないこと……


「そうだ!」


「なんだよいきなり! びっくりするだろ!」


「藤岡、神之園楓って分かるか?」


「かみのその……かえで……? 誰だよ。アイドルかなにかか?」


「知らない……のか……」


 それじゃあ神之園は……助かってないのか…………?


「おい侑真大丈夫か? すげー顔色悪いぞ。保健室行った方がいいんじゃねーか? 俺から先生には言っとくからよ?」


「………………ああ……そうだな…………頼む」


 心配そうにしながらも合同練習に向かった藤岡を見送って、一人になった教室で考える。


 藤岡が知らないということは神之園はこの学校にはいないのか? やっぱり彼女は死んでしまった?


 いや、まだそうと決まったわけじゃない。どうも記憶が混濁してはっきりしないが、確認する方法はあるはず――――――そうだ。


 俺は急いでC棟へと向かった。


 


 ○


 


 確か、牧瀬はここを探してたはず――


 図書室のカウンターの後ろにある小部屋に入ると、うすぼけた記憶を頼りにスチール製の引き出しの中を物色した。なかなか見つからずに苛立ち始めた頃になってようやく、


「――これだ」


 


【廃町工場火災で児童二人けが 落雷が原因か


 6日午後6時ごろ、夢見が丘にある廃町工場で火災が発生していると近隣の男性から110番があった。火はまもなく消し止められたが、焼け跡から中で遊んでいたとみられる子ども2人が倒れているのが発見され病院へ搬送された。2人の子どもは意識不明の重傷だが、崩れた鉄骨の間にできた空間にいたおかげで命に別状はない模様。警察は、身元がわかっていない男児の身元確認を急ぐとともに、出火原因は落雷とみて調査を進める方針】


 


 記事を読んだ瞬間、混濁して忘れていた記憶が一気に蘇ってきた。


 火事の後、病院で目覚めた俺はすぐに彼女のことを看護師に尋ねた。その瞬間に気まずい顔をした看護師を見て心臓が押しつぶされそうになったのを覚えている。だがよく話を聞いてみると彼女は別の病院に移動した後で、頭を強く打って記憶に混乱が見られているから落ち着くまでは会うことは控えて欲しい、ということだった。


 いわゆる脳しんとうによる逆行性健忘。


 俺が抱えていた症状を今度は彼女が抱えることになってしまったのだ。


 看護師はひどく気の毒そうに俺を見ていた。だけど俺は、例え彼女が俺のことを忘れていようとも、そんなことはどうでもよかった。


 ただ、彼女が生きている。


 そして、俺も生きていた。


 


 図書室を出る前にどうしてか俺は後ろを振り返った。窓際に置かれたテーブルには何か木でできた駒のようなものがあった。近づいて手に取ってみる。見たこともない駒。シンプルな形だがどこか品があるその駒が無性に気に入って、こっそりとポケットに忍ばせた。


 ポケットの中の駒を握りしめながら図書室からでると、廊下の向こうから牧瀬が歩いてくるのが見えた。


 そういえば、侑理は変わらずオカルト研に入っているのだろうか。この世界で侑理からオカルト研のことを聞かされた記憶はないが、前の世界で侑理はオカルト研に入ったことを隠したがっていたことを考えるとまだ分からない。


 牧瀬とちょうどオカルト研の前で向かい合う形になり、一応ここでは初対面なのだから知らないフリをした方がいいのだろうかと迷っていると、


「おや、君は侑理君の兄上じゃないか。合同練習はサボりかい?」


 相変わらずの色っぽい声で当然のようにそう声をかけてきた牧瀬に苦笑する。


「すこし調べ物をしたくて」


 答えた俺のことを牧瀬はなめるように見つめていた。この人に見られると何もかも見破られているような気がするのはなぜだろう。


「そうか、それではオカルト研に招待しよう。なかなか入れないぞ、ここは」


「どうしてそうなるんですか……」


「いいから、遠慮せずに入りたまえ。今更練習に参加するつもりもないんだろう?」


 有無を言わさぬ牧瀬の圧に負けて、おずおずとオカルト研に入る。


「適当に座っててくれ。お茶を淹れよう」


 そう言って、お茶の用意を始めた牧瀬をソファに腰掛けて待っていると、


「君は侑理君がオカルト研に入っていることを知っていたのかい?」


「え? ……あ、はい。話に聞いていたので……先輩のことも……」


 もちろん嘘である。あとで侑理に口裏を合わせるように言っておかないと……。


「ほう、侑理君はどんなことを言っていた?」


「えっと……先輩は――量子論のことを調べてるって、聞いてます」


 少し言葉に詰まってしまった。それを誤魔化そうと慌てて言葉を重ねる。


「実は、俺も少し興味があって。少し話してみたいこともあって、先輩の意見を聞いてみたいなーと、思ってたりも……」


 誤魔化すどころか墓穴を掘ってしまった。今の間は明らかに怪しい。


 だが牧瀬は特に気にする様子もなく淹れたお茶を差し出してきた。


「もちろんいいよ。話してみたまえ」


 この不敵な笑みを浮かべた口元を見るに、恐らく怪しさに気づきながらもスルーしているのだろうが。


 


 ○


 


「――面白い仮説だね。時間の流れとは空間が時間の広がりの中を移動すること――か」


 自ら掘った墓穴によってなぜか物理談義することになってしまったが、牧瀬の意見を聞いてみたいというのは嘘ではなかったため、俺は自らが体験したことを一つの仮説として話してみた。


「その仮説が正しいとすると、予言や予知夢、強烈な既視感なんかは、君の言う時間の中を戻ったときに取り払われなかった記憶の残滓なのかもしれないね。幽霊の存在だってその理屈なら説明できる。それに時間の広がりというのは面白い」


「面白い……ですか」


「ああ、君は既に聞いていたようだが――」


 俺の反応を見るようにわざとらしく間を取る牧瀬。なんでもないフリを鋼の心で貫く。


「私は感情に力があるのではないかと考えている。もう少し具体的に言い換えれば、感情によって生み出される波のようなもの――仮に感情波としておこう――その感情波が作用するような場が存在するのではないかと思っているんだ。君の言う時間の広がりというのはその場になりうるかもしれないね」


「それじゃあ、その場というのが本当に存在することを証明できたら、決定論を否定できるってことですね?」


「いや、そういう訳ではないよ侑真君。むしろ逆かもしれない」


「え……? 逆……ですか……」


「例え感情波が作用するような場――感情場のようなものが存在していたのだとしても、そこでの作用は厳密なルールによって定まっているのかもしれない。


 願えばその願いを叶えるように変幻自在に作用するような便利なものではなく、数式によって厳密に表されるものだとしたら、それは決定論を否定するものではなくなる。感情の及ぼす影響が計算できてしまうと、その結果生み出される感情も計算によって求められてしまうからね。


 ということは元々の感情もやはり計算通り生まれたものだということになる。いくら感情が物理的に影響を与える力を持っていたのだとしても、それが法則化され、物理学の範疇に取り込まれた瞬間、感情も物理学の単なるパラメーターに成り下がってしまうんだよ」


 牧瀬はそこまで言って、今聞いた話を咀嚼している俺を待つように手に持ったマグカップに口をつけた。少しして俺が続きを促す視線を向けると、牧瀬はゆっくりとマグカップを机に置いて話を続けた。


「結局重要なのはランダム性――突き詰めれば『謎』なんだ。


 量子論が決定論を否定すると言われているのは、量子力学が未だ不完全で謎に包まれているからなのかもしれない。


 だからもし、感情場の存在が量子力学の不足していたパーツを埋めるようなことがあれば、量子論は不完全なものではなくなり、人々はまた、決定論を否定するために新たな謎を見つけ出す必要が出てくる。そしてまた、その謎が解明できてしまったら、次の謎が必要となり、そしてまたその謎も解明されれば、また次の謎が必要になり――ふふ、まるでイタチごっこだ。


 私はね、このイタチごっこを終わらせるもの、即ち絶対的に法則化できないものを求めている。そして、全く法則の見いだせない謎があったとしたら、それはこう呼ばれるんだ。」


 牧瀬はいつもの不敵な笑みを浮かべながらも少し物憂げに天を仰ぎながら言った。


「『オカルト』とね」


 席を立った牧瀬が新しいお茶を淹れる作業に入ったのを見て、俺は今聞いた話を頭の中で繰り返した。


 人の感情に力があったとしても、それが直接、決定論を否定する証拠にはならない。


 結局、人生で一番頭を悩ませたあの夢の日々も、あらかじめ用意されたシナリオであり、俺はただ決められていたことを自分の意思でやり遂げた気になっていただけなのかもしれない。


 二人とも生き延びることのできたこの世界を選べたのは、あの時、あの燃えさかる町工場の中で強く願ったからだと信じていた。そうじゃなくちゃいけないと感じていた。理由は分からないが何故だかそうでないと報われないような気持ちになる。でもあの時爆発が早まったのは俺たちを助ける結果になったものの爆発するなという願いとは真逆の方向だ。


 決定論が怖いと言った牧瀬の気持ちが、ここに来て、やっと分かった気がした。


 果たしてこの結末は、俺が選んだものなのか、選んだように思わされているだけなのか。


 そんなことを考えていると突然、オカルト研の扉が開いた。反射的に視線を向ける。


「なんでお兄ちゃんがここにいるわけ?」


 体操着姿のまま両手を腰に当て、これ以上無いほどに分かりやすくご立腹の妹が立っていた。


「お前こそ……なんで合同練習サボってんだよ」


「摩耶先輩がお兄ちゃんが来てるって言うからわざわざ抜けてきたの!」


「いつの間に……」


 牧瀬は新しく淹れたお茶を優雅に注ぎながら俺の視線を受け流した。もちろん口元には笑みがある。


「……もしかしてお兄ちゃんもう知ってたの?」


「何をだよ」


「……へ~、知らないんだ。へぇ~」


 心底嬉しそうにニヤついて、侑理はソファにドスンと座って足を組んだ。


「教えて欲しい? それなら私の要求に応えてもらうよ?」


「別に教えてくれなくていいぞ。大したことじゃないんだろどうせ」


「今回ばかりは聞いておいたほうがいいと思うなぁ」


「そうだぞ、侑真君」


 牧瀬が横から口を挟んできた。その口調はあからさまにわざとらしい。


「先輩はなんのことか知っているんですか?」


「ちょっと! お兄ちゃんズルしないで!」


「さぁ、知らないよ。ただ今日は珍しい日だと思っているだけだ」


「ちょ、ちょっと摩耶先輩!」


「珍しいって何がですか?」


「もう! お兄ちゃん黙って!」


「C棟で二度も侑理君以外の人間に会うのは初めてのことなんだよ」


「摩耶先輩! 面白がってるでしょう!」


 楽しげに声を上げて牧瀬は笑った。


「俺の他にもいたんですか?」


「ああ、今朝この町に着いたらしい。この学校に転校する予定だから見学に来たと言っていた。初めての見学でC棟にまで足を運ぶとは見所がある」


「もーーーー!! 摩耶先輩!!」


 いてもたってもいられず立ち上がって口を塞ごうと飛びかかってきた侑理を上から押さえつけながら牧瀬は言った。


「一番の当事者をさしおいて秘密裏に連絡をとりあうことこそズルだと思わないかい? 侑理君」


「思わないですね! 私はただ友達になってくださいと頼んだだけです! お兄ちゃんは関係ないです!」


「おい――それって――」


「それじゃあ私はただ独り言を言おう」


 口を塞ごうと必死に伸ばされていた侑理の手首を華麗につかみ取り、侑理を半回転させながら自分の体へと抱き寄せた牧瀬は、逆に侑理の口を両手で覆ってから言った。


 


「彼女はまだ、C棟にいる。階段を上った先に」


 


 背後で侑理のくぐもった叫び声が聞こえた。いつもなら同情の一つでもしてやるところだが、今回ばかりは気にもならない。


 オカルト研のすぐ隣にある階段を駆け上る。


 躓く心配などしてられない。二段飛ばしで駆け上る。


 心臓はすでに聞いたこともないほどの速度で打ち鳴らされている。ただでさえ長い階段を今までの何倍も憎らしく思う。踊り場を折り返すたび、まだ着かないのかと落胆する。


 呼吸は過剰なほどに荒く、全身が微かに震え、視界だけが鮮明になっていった。


 そして、ついに、目の前に現れたアルミの扉。


 言うまでもなく、汗でシャツが素肌に張り付き、その場で座り込みたくなる程の疲労が全身にのしかかっていた。


 重力に負けそうになる頭を意地で持ち上げる。


 目の前の扉から視線を外したくなかった。


 この扉は俺と彼女の世界を繋げる門だ。初めてこの扉の前に立ったとき、俺は「どうかこの扉が開きませんように」と祈り、いっそこのまま教室に帰ってしまおうかとまで考えていた。ずいぶんと昔のことに思える。


 今はもう、祈らない。一刻も早く扉の先の景色を見たくてしょうがない。だけど、呼吸が落ち着くまでは我慢しよう。息も絶え絶えで現れたりしたら絶対に馬鹿にされるから。


 しばらく待って、心臓を落ち着かせるのは諦めた。深呼吸してドアノブに手をかける。


 そのまま一気に扉を開け、目が眩むほどにまぶしい青空が広がる屋上を見渡して――


 


『この世界は決められたものなのか、そうではないのか』


 


 そんなことはどうでもよくなった。


 扉を出て左側の柵際。


 いつもの場所。


 そこに、彼女が立っていた。


 彼女を見たときに一気に湧いてきた感情は紛れもなく本物で、その感情を抱くことが決まっていたことだろうが、俺の選択によって勝ち取ったものだろうが、その価値が変わるものではないと心から思えた。


 もし、これが決まっていたことだったなら、物理法則なのか、神なのかは知らないが、俺はそのシナリオを書いたやつに礼を言ってやってもいい。


 それに――


 牧瀬の話を聞いた後、結局俺には関係ない話なんじゃないか、という思いも生まれていた。


 もし、この世界が決定論に支配されているのだとしても、やるべきことは変わらない。決定論とは因果関係を絶対とする理論。結果には原因が必要で、なにか目標があったとしてそれを達成したいと思うのならば、達成という結果を得るための十分な原因を作る必要がある。


 即ち、頭を悩ませながら最善を尽くそうとするしかない。


 変わらないのだ、今までと。


 いくら未来が決まっていようと、俺には選択肢が見えないのだから。


 


 俺が屋上に現れたというのに、彼女は気づいてもいないように柵の上に頬杖をついて夢見が丘の町を見下ろしていた。その態度からは、八年、あるいはそれ以上続いていた長い夢のことを彼女が忘れたままなのか、思い出しているが得意の演技で虚勢を張っているだけなのか、俺には読み取れない。


 でもそれは、聞いてみれば分かるだろう。


 運動場から微かに届く楽しげな歓声を聞きながら、彼女のもとへ向かう。


 隣に立つと、彼女はゆっくりとこちらを向いた。


 無言で見つめてくる彼女は相変わらずの無表情。


 少しだけ腰を屈めて、その無表情に目線を合わせた。


 これからする質問によって彼女の表情にどんな変化が生まれるのか、見逃さないように、しっかりと観察してやろう。


 見つめた彼女に問いかける。


「なぁ、運命論って信じるか?」

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