振り払われた右手
「どうしたんだ侑真? なんか今日のお前、めちゃくちゃ影が薄いぞ」
クラスメイトの藤岡が、机に突っ伏していた俺の頭をグラグラと揺すりながら声を掛けてきた。
「――ん? もう昼休みは終わりか?」
「とっくに終わってるよ。チャイム聞こえなかったか?」
「……全く気づかなかった」
「おいおい…………っ! もしかして……昨日は何ともなかったって言ってたけど、やっぱり牧瀬摩耶にヤバい薬でも打ち込まれたか!?」
本気でそんなことを思っていそうなほど大げさに目を見開いた藤岡の頭をはたく。
「んなわけあるか。牧瀬摩耶はお前がいうほど狂人ではなかったぞ」
まぁ、そう思わせるほどの人物であったのは間違いないが……。
「じゃあなんでそんなにボンヤリしてるんだよ。寝不足か?」
「まぁな」
昨日は一睡もできなかった。考えることが多すぎて、一晩中働かせ続けた脳は、ついに一瞬たりとも意識を手放してはくれなかった。
屋上で見せた神之園のただならぬ運命論への拘り。
侑理が隠しているという事故の真相。
そして、牧瀬の言葉。
――侑真君、図書室でも屋上でも、君は一体誰と会っているんだ?
「おい、侑真、マジで大丈夫か? 顔色悪いぞ? 保健室行った方がいいんじゃねーか?」
「そこまでじゃ…………いや、そうだな……」
席から立ち上がると一瞬立ちくらみがした。心配そうな藤岡の表情を見るに、今の俺は本当に病人のような顔色なのだろう。
「なんならもう帰っちまえよ。先生には言っといてやるから」
「……そうだな……ホームルームの時間になっても戻ってなかったら、その時は頼むよ」
そう言って、着替えを始めているクラスメイト達の間を縫うように教室から出た。しかし、向かうのは保健室ではなく、もちろん屋上だ。
いつもなら皆が着替え終え、教室からいなくなるまで待ってからC棟に向かうのだが、今日ばかりは待っていられなかった。
靴箱で靴に履き替え、外に出る。
昨日から続く曇天は、まだ降り出していないのが不思議なくらいに禍々しいまでのどす黒さだった。夢見が丘の街一帯を陰々滅々とした空気で覆い尽くし、あの雲の上には今でも青空が広がっているというのが馬鹿げた冗談に思える。
他の生徒達が笑い合いながら運動場へと歩いていく中、一人だけ逆の方向へと進んだ。
いつものようにアラカシのトンネルに入り、ガタガタなレンガ道を登っていく。
始めのうちはただただ長く感じたC棟までの道のりも、今では無心で歩いているうちに気がつけば着いていると感じるほど慣れきったものになっていた。しかし、さすがに今は足が重い。
林の中を強風が吹き抜け、辺りを包む葉のざわめきが喚くように音を荒げた。いつもなら聞こえる野鳥の鳴き声も、怒号のようなざわめきを恐れ、どこかへ行ってしまったかのように思える。
初日以上に疲労しながらも、やっと林を抜けて、C棟を見上げた。
わずかに見える屋上の柵際、いつも柵の近くで街を見下ろしている彼女の姿は見えない。今までだってこんな風に屋上を見上げた覚えはないのに、それが少し不安を煽った。
C棟に入り、長い廊下を歩く。思い立ってオカルト研の前で立ち止まり、扉の上をよく観察してみた。確かに小さな黒い点がついているのが見える。あれがカメラなのだろう。今も牧瀬がオカルト研の中にいてモニターを覗き込んでいるなら、画面越しの俺と目が合っているのかもしれない。
だが、こうやっていても何の反応もないということは、今はいないのだろうか。もし、居るのなら聞いてみたい気もする。
まだ誰も通っていないのか? と。
牧瀬が昨日言っていたことを完全に信じているわけではないが、もし『さっき女の子が一人通ったよ』と聞くことができたら、このもやもやとした不安も消えてくれるはずだ。
階段を上る前に、廊下の奥に小さく見える図書室の扉に目を向ける。磨りガラスの奥は暗く、誰かが中にいるようには見えない。今は合同練習中なのだから誰も居ないのは当たり前のことなのに、それすら心に小さな痛みを生んだ。
階段を上る。
始めは埃で覆われていた階段も、今では足跡が広がり、手すり側と壁際で二色に分かれている。
ふと、思った。
神之園の足跡は?
埃の積もった部分と、広がった足跡で本来の階段の色が見える部分の境界に、不完全な形で残った足跡を見つけ、そっと上履きの先を合わせてみる――ピッタリと重なった。数段上にまた半分だけはみ出た足跡があり、そこでも合わせる――重なる。次も、その次も――
自分の上履きとは合わない足跡を探しながら階段を上っていると、いつの間にか最後の一往復まで来ていた。
汗でベタついている首元のボタンを一つ外し、一度ゆっくりと息を吐く。
別に彼女のものらしき足跡がなくても、それはきっと既に踏み重ねられて消えてしまっているだけであって、彼女がこの階段を上ったことがないということに直結するわけじゃない――とは分かっている。だが、もし一つでも自分より小さな足跡を見つけられたなら、この心臓の音も少しは落ち着いてくれるだろう。
数段上がったところでまた思う。
そういえば、俺が初めて屋上の扉を開けたとき、彼女はすでにそこにいた。だとすると、初めに俺が上った階段には、まだ消えていない彼女の足跡があったはず――
…………あったか?
いや、あったんだろう。記憶なんてアテにならないものに答えを求めていても仕方ない。
一段上がっては、形の残った足跡を探す。五段目にかなり綺麗に残った足跡があった。見るからに今までさんざん見てきた俺の足跡だったが、念のため合わせる……やっぱり重なる。
残りの段数に反比例するように心臓の鼓動が早まった。馬鹿げていることは分かっている。不安になること自体が、彼女の存在をほんの少しでも疑っているという証拠だ。それでも、最後の一段が近づくたびに、目をこらす時間は増えていった。
そして、とうとう最後の一段――――そこにも、彼女の足跡は見つけられなかった。
登り切った先。顔を上げればいつもと変わらないアルミの扉。
気づけば、汗でシャツが素肌に張り付き、その場で座り込みたくなる程の疲労が全身にのしかかっていた。
ドアノブに手をかける。
この先に、彼女はいるのか。
急に不安が心を覆い尽くし、このままこの手を引っ込めて、二年八組の教室へと帰還してしまおうか、なんてことも頭をよぎった。
自嘲の息が漏れる。これじゃあ侑理のことも笑えない。
さっさとこのドアノブにかけた手を回して、先の景色を確かめればいいだけの話だ。きっとそこにはいつもの様に、柵に両肘を掛けた彼女が夢見が丘の町を見下ろしているだろう。
そう言い聞かせ、扉を開けた。
まだ開ききっていない隙間から強風が吹き込む。甲高い風音が耳元で響き、思わず目をつぶってしまうほどの風圧が顔面にかかる。押し返されてまた閉まりそうになる扉に慌てて肩を当てると、体重をかけて思いっきり押し返した。
その瞬間、風が止んだ。
力をいなされた俺は前のめりになりながら屋上に飛び出す。勢いを殺しきれずにたたらを踏んで、数メートルほど進んだ末に結局両手をついた俺の姿はさぞ無様だっただろう。
だが、
「遅かったわね」
そう声が聞こえてきたとき、思わず吹き出してしまった。
「なに? 笑うなら私のほうだと思うのだけど」
一気に力が抜けて、四つん這いの体勢からそのまま地面に転げ落ちる。
「ねぇ、ちょっと、だいぶ気味が悪いわよ?」
笑いが止まらずにいる俺を彼女は不審そうな顔で見下ろしていた。
○
「昨日、何を言おうとしたんだ?」
二人並んで柵に背を預けて座ると、俺はずっと気になっていたことを聞いた。
「昨日?」
「俺が多世界解釈の話をしたとき、何か言おうとしただろ?」
「……そんなこと、あったかしら」
「雷が落ちる前に言いかけたことだよ」
「……この世界の他にも別の世界があるのかって話?」
「それは代わりに出した質問だろ?」
雷光によって封殺された言葉は、彼女の心底から漏れ出かかった言葉。彼女に聞きたいことは他にもあったが、なぜか、あの時彼女が飲み込んだものこそ、全ての疑問を解決する糸口になる気がした。
「……それじゃあ先に私に質問させて」
「なんだ?」
「悠岐前君って転校してきたのよね?」
予想外の言葉に少しだけ驚いた。
散々ここで無駄話をしておきながら、俺は転校生であることすら彼女には話していない。それだけ俺と彼女は互いのことを話さなかった。
俺が意外そうな顔をしていたからだろう。彼女は、呆れたようにため息をつくと、
「言われなくてもそれくらい分かるわよ。貴方が初めて屋上に来たとき、もう二学期なのに制服も上履きも新品同然だったし、シャツの胸にある校章は私と同じ二年生の色なのに貴方の顔に全く見覚えがなかったもの」
「色?」
自分の胸元を見ると、左胸についた校章は確かに彼女と同じ緑色だった。学年によって色が違うことすら俺は気づいていなかったが……そうか、俺と神之園は同学年なのか。なぜか勝手に年上なんだろうと考えていた。
「やっぱり」
彼女は満足そうに言った。
「なんか嬉しそうだな」
「そうね、一つ分かったのよ」
「……何が分かったんだ?」
「やっぱり私が馬鹿みたいな妄想をしていただけってこと」
「なんだよ、妄想って」
「貴方が言う『私が雷が落ちる前に聞こうとしてたこと』――かもね。よかった。言わなくて」
「ちょっと待て、先に質問させてって言うから譲ったんだぞ。そっちもちゃんと答えろって」
彼女は急に立ち上がると、俺の追求から逃げるように距離をあけた後、空を仰いだ。
そのまま深呼吸をするように胸一杯に空気を吸い込み、大きく息を吐く。
ゆっくりと上下する女性らしい小さな背中に見とれそうになる自分を抑えていると、軽やかに振り返った彼女は言った。
「言わない。絶対馬鹿にするもの」
見た瞬間に不意に心臓が跳ねた。
弱気な様子で微笑んだ彼女の表情には、初めて見せる無防備さがあり、今までの彼女とはまるで違う優しい空気を纏っていて、俺は思わず、膝の上で組んだ両腕の中に顔を埋めた。
何度か呼吸を繰り返しながら心臓が落ち着くのを待っていると、
「ねぇ、どうしたの? 大丈夫?」
想定外の近さで聞こえた声に驚いて顔をあげると、すぐ目の前に彼女の顔があった。
俺をのぞき込む彼女の顔には、これまで付けていた仮面を取り外したような新鮮な表情があって――
「――神之園」
自分でもなにを言おうとしているのか分からなかった。
「ん?」
彼女の微笑んだ表情を見た瞬間、なぜか頭をよぎったのは幼い女の子で、
「俺たち――」
今まで忘れていたことが信じられないほど鮮明に再生されたその子の笑顔は懐かしくて、
「前に――」
目の前の彼女に――よく似ている気がした。
「あ」
突然、彼女が空を見上げた。
つられて俺も顔を上げる、と同時に何かがまぶたに直撃した。反射的に頭を振り下ろしながら手でまぶたを払ったが、指先に感じたのは、なんてことない、ただの水滴だった。
「やっぱり降ってきたわね」
大げさに反応してしまうほど、大きな雨粒だった。そんな雨は得てして、一度降り出すとみるみるうちに激しくなる。一粒一粒が主張するように音を鳴らし、屋上の乾いた地面にほんの少しのあいだ水玉模様を作ったかと思えば、瞬きする間に陰鬱としたモノトーンへ塗りつぶしていく。
「今日はここまでね。これは急いで戻らないと、校庭にいる人たちも今頃騒ぎながら走りだしてるはずよ」
自分が何を言おうとしたのかはっきりとしない奇妙な感覚に曝されて、座り込んだままの俺は、扉に向かって駆けていく彼女の背中をぼんやりと眺めるだけだった。扉の前には小さな庇がついているから、そこまで行けばある程度は雨に打たれずに済むのだろうけど、どうしても直ぐに立ち上がる気になれない。
「なにしてるの! 早くもどるわよ!」
扉の前で振り返り、激しく打ち鳴らされる雨音に負けないように声を張り上げた彼女を意外に思う。見慣れない光景に感じた。俺と彼女はいつも別々に教室へと戻るが、初めて会った日からずっと彼女が先で、俺はしばらく待ってから行くようにしている。彼女は毎回、一度背を向けると振り返ることなく扉へと歩いて行き、錆び付いているのかなかなか回らないドアノブを両手で掴むと、肩を上げて「えい」という声が聞こえてきそうな開け方をするのだが――――そうか、俺はその後ろ姿をいつも見ていたのか。
後から行くから。そう言おうとして口を開くと、
「この雨の中待たせるほど私は非情じゃないわよ!」
叫んだ彼女は、庇で塞ぎきれずに顔に降りかかっている雨を気にする様子もなく、俺が立ち上がるのを待っていた。
正直に言ってしまえば、これまで頑なに別々に戻りたがる彼女に寂しさのようなものを感じていなかったといえば嘘になるし、そんなに俺といるところを見られたくないのかと、少しだけ苛立ったこともあった。だが、実際にこうして待たれてしまうと、気恥ずかしさが一気に湧いてきて、素直に彼女の元まで行くのがためらわれてしまう。
「俺は大丈夫だから先に戻っていいぞ!」
「大丈夫じゃないでしょう! 濡れちゃうわよ!」
既に扉の前に立つ彼女の姿が霞んで見えるほどの激しさになっている雨を目の前に掲げた手のひらで感じながら、最低限の強がりで、笑って言った。
「もう濡れてる」
彼女は肩を上げて、また何か言い返そうとしたようだったが、言うべき言葉が見つからなかったのか、怒らせた肩のまま振り返り、両手でドアノブを掴んだ。
顔だけ振り向いて、
「風邪ひいても知らないからね!」
言い残すと、「えい」ではなく、「ふん」という声が聞こえてきそうな開け方をした後、足早に去って行った。
一人になった屋上で空を見上げる。
空間を絶え間なく埋め尽くしている灰色の粒が、次々とこちらに向かって直進してくる様を見ていると、自分が空に向かって落ちているような気がした。瞳に雨粒が当たるたびに、瞬きによってリセットされるその感覚は、俺がまだ小さかったときにした発見だった。
――あれはいつのことだっただろうか。
そうだ、事故に遭う少し前のことだから、小学四年の頃か。
家に帰りたくなくて、一人になれる場所を探して、日が暮れかかった町をひたすら自転車で走っていた。もう、東の空は夜の帳が下りていて、西の空だけが、高くもないマンションに今にも隠れてしまいそうな夕日によってオレンジ色の光を残していた。
自分がどこを目指しているのかも分からず、ただ、夕日に背を向けて、夜の始まりに向かってペダルを回した。
道の両脇に建ち並ぶ民家の背景は既に夜空の闇になっているのに、背後にいる夕日によって真正面から照らされた建物の側面は明るく、やけに輪郭がはっきりと見えて、中で営まれている暖かな家庭を見せつけられているように感じた。
少し先に、周りの建物から浮くように木々が残った小さな丘があった。その中腹にぽつんと光る錆び付いた建物を見つけると、一瞬で目的地に決定し、夕日が完全に沈んで見えなくなってしまう前にたどり着こうとペダルをこぐ足に力を入れた。
急ぐ必要はなかったかもしれない。俺はその建物を知っていたから、近くまで行けば道は分かった。確か、家具なんかを作っていた古い町工場だったと思う。
俺が小学校に入学してしばらくした頃に潰れてしまったその町工場は、既に中学に上がった上級生達がよくモデルガンの対戦に使っていたらしい。どうも潰れてからもまだ電気が通っていたらしく、対戦に夢中になっていた上級生達は外が暗くなり始めても工場内の電灯をつけたままにしていて、漏れ出た明かりを近隣の人に見られて警察を呼ばれてしまい、駆けつけた警官にお説教をくらった上に、先生達にも相当油を絞られたあげく、全校生徒の前で頭を下げさせられてからは近寄る者はいなくなったはずだった。
立ち入り禁止の看板が付けられたフェンスに自転車を立てかけ、チェーンがかけられた門の間をすり抜ける。雑草の中の轍道を少しだけ歩くと、町工場の前に着くのはすぐだった。
継ぎはぎの波板で覆われた壁は、錆と黒ずみのパッチワークで、周りに並べられた錆一色の機械達が廃棄されてからの短くない年月を物語っていた。
正面の鉄扉に手を掛ける。引き戸の溝には砂利が入り込んでいるようで、小学生一人の力ではなかなか動いてくれなかったが、それでも踏ん張り続けてやっと出来た小さな隙間に片足を入れ込み、両手と肩で二枚の扉を突き放すように押すことでなんとか通り抜けるだけの幅を確保できた。
肋骨を削られそうになりながらも、なんとか体をねじ込む。
中は、もう使われなくなっているとは思えないほどたくさんの物があり、今にも奥に見える小部屋の電気が点いて鬼の形相をしたオヤジが怒鳴り声を上げながら出てきそうだった。
馬鹿らしい。誰かいるなら扉を開けようとしていたときに気づいたはずだ。そう言い聞かせて一歩踏み出すと、あとはもう何も怖くなかった。
高い位置にある窓から入り込む夕日のお陰でそこまで暗くなかったし、見上げるほど大きな機械も、作りかけのまま放置された家具も、むき出しになった鉄骨も、高い天井も、眺めるだけでわくわくした。それに、壁に沿って伸びる狭い階段は工場全体を見渡せる広場のような所に続いていて、その広場を横切った先の壁には更に外へと出られる扉がついていた。
一通り歩き回った後、階段を上り、段ボールやら何かの部品やらが乱雑に積み上げられた広場を通り抜け、外へと続く扉を開ける。期待していた通り、屋根の上の小さな屋上に出られるようになっていた。
町工場がある丘は決して高いわけではなかった。それでも、屋上の上は眼前に広がる町の、ほとんどの建物よりは高く、周りを取り囲む林のお陰でほどよく距離もあって、今立っている場所が自分だけの空間に思えた。ぽつぽつと灯り始めた民家の明かりや、遠くで動く車のライトによって自分だけだと感じすぎずに済んだのも良かったのかもしれない。
夕日はもう見えなくなっていたけど、まだ沈みきってはいないようで、来たときとは反対に、オレンジ色の背景に建物達が黒く浮かび上がっていた。
一斉に灯りだした街灯も、窓から光りを漏らす民家も、一つの大きな影に飲み込まれているようだった。
左右に広がる大きな影は、もうすぐきっと、夕日の残光さえも飲み込んで、町全体を飲み込んで、学校も、駅も、商店街も飲み込んで、病院も、映画館も、公園も、銭湯も、古本屋も、コンビニも、駄菓子屋も、家も――
頬に雫が落ちた。
見上げると、雨が降っていた。西の淵がオレンジに染められた真っ暗な雲から、弱々しい雨がぱらぱらと、風に流されながら落ちていた。
見ている内に、雨は少しずつ強くなって、まっすぐ落ちてくるようになって、雨がこちらに向かって来ているのか、自分が真っ黒な空に落ちているのか分からなくなる瞬間があった。目に雨粒が入って瞬きするたびになくなってしまうその感覚を誰かに教えたくなったけど、ここには誰もいない。
瞬きを我慢して、空を見続けた。
――そっか、これでもいいのか。
影に飲み込まれるのは町じゃなくて、あの真っ暗な空に――僕が――
「遅い!」
すぐ後ろから聞こえた声で一気に追憶から引き戻される。
「いつまでぼーっとしているの?」
振り向くと、仁王立ちした神之園が見下ろしていた。
「……戻ったんじゃないのか?」
「貴方がいつまで経っても来ないから」
夢から醒めたばかりのような頭では、その言葉の意味を理解するのに時間がかかった。
「……待っててくれたのか」
彼女はそれには答えず、溜息をつくと、濡れた地面を気にすることもなく、黙って俺の隣に座った。
「……濡れるぞ?」
「……もう濡れてる」
隣で膝を抱えて座る彼女は、こちらを見向きもせず、少し俯いたままそれ以上何も言ってこなかった。
整った横顔の、すっと通った鼻筋を、雫が伝い、ぽとりと落ちる。
不思議と驚かなかった。
昨日までの彼女に対して抱く印象では、考えられない行動のはずなのに、今、黙って隣にいてくれる彼女を、どこか当然のことのように感じている自分がいる。
土砂降りの屋上で、空は暗く、雨音に包まれ、肌に張り付くシャツの鬱陶しさも絶え間なく打ち付ける雨によって紛らわされる。視界の隅には彼女がいて、あの日誰かに伝えたかった感覚を大したことない発見のように話すこともできる。
でも、今はただ黙ったままで、土砂降りの檻の中に二人で閉じ込められているような気分から醒めたくなかった。
ずいぶんと無言のままでいたような気がする。
でも実際はほんの数分のことだったかもしれない。
時折空が光っては、少しして轟音が鳴り響いていた。
「ねぇ」
一際近くに落ちたらしい雷が、光にほとんど追いつく早さで耳に届いたとき、彼女が話しかけてきた。
返事をする代わりに顔を向ける。
「さっき、なにを考えていたの?」
「……さっき?」
「私が声をかけるまでの間、雨の中で空を見上げながら」
「…………」
「ねぇ」
「…………小さいときのことだよ……あんまり憶えてないんだけどな」
「憶えてない?」
本当はあんまりどころではなく、すっぽりと抜けたように憶えていない。
初めてあの町工場に行って空を見上げた夜から、病院のベッドで目覚めた朝まで、俺の記憶は飛んでいる。あの日、土砂降りの空を必死に目を開けたまま見上げ続けた俺は、次第に暗い空に落ちていった。そのままどこまでも落ちていた最中に、いきなり見知らぬ天井が現れたのだった。
「事故に遭ったらしくてな、脳しんとうによる逆行性健忘っていうらしい」
「逆行性……けんぼう……?」
「頭にダメージを負った瞬間から遡って記憶が抜けてしまう記憶障害だってさ」
「そう……」
彼女は聞いてはいけないことを聞いてしまったと思ったのか、なにやら考え込むように黙り込んでしまった。俺はなるべく軽い調子になるように苦笑を漏らしながら、
「でもな、憶えてないって言っても大したレベルじゃないんだよ。もちろん入院もしたし、退院した後も県外のでかい病院に通ったし、よく分からない薬もたくさん飲んだ。でも抜けてる記憶は一ヶ月にも満たないから、今まではほとんど気にすることなく過ごしてきたんだ。抜けた記憶だって時間の経過とともに始めのほうから回復していくこともよくあるって言われてたしな」
「……それじゃあ、さっきは思い出していたの? その時のこと」
「ああ、お陰で自分が何を言おうとしたのか分かった」
「……?」
「なぁ、神之園――」
雨が降り出す前は、自分でも何を言おうとしているのかわからなかった。しかし、町工場のことを思い出しているうちに確信できた。
「――俺たち、前に会ったことあるよな?」
「……え?」
「たぶんさ、俺の記憶が抜けてるときに会ったことあるんじゃないか?」
「…………でも、転校してきたって……」
「もともとはこの街に住んでたんだよ俺。記憶が抜けてるのはこっちに居た頃の話だ」
「…………」
「あそこにさ、廃墟化した町工場があっただろ?」
屋上の柵越しに、雨でぼやけた夢見が丘の町並みの、町工場の当たりを指さしながら言った。
「そこの屋上で、今と同じように二人で雨の中空を見上げた気がするんだよ」
「…………」
「……違ったか?」
なかなか返事がないのを不思議に思って、視線を隣に向ける。
「……どう、したんだ……?」
目を見開いた彼女が、俺から距離をとるように体を引いていた。
その表情が物語っているのは単純な驚きではなく、明らかに――恐怖。
あまりの様子に戸惑いながらも、思わず伸ばした俺の手を、
「やっ……」
彼女は勢いよく振り払うと、そのまま飛び跳ねるように立ち上がり、逃げるように扉に向かって走り出した。
「――神之園?」
ドアノブに飛びついた彼女は振り向くことなく、
「どうしたんだよ!」
叫んだ時にはすでに、ゆっくりと閉じていく扉と、彼女に振り払われた手首のじんわりとした痛みだけが残されていた。
○
「はぁ……」
重い溜息が埃っぽい階段の踊り場に響く。
考えるべきは、彼女のあの反応の意味。たぶん、俺たちが昔会ったことがあるのは間違いないのだろう。そしてそれは俺の記憶が抜けている一ヶ月の間のことで、その時に俺は――
あそこまで怯えさせる何かを、彼女にしてしまったんだ……。
そうじゃなきゃあの反応は考えられない。
そうだ。もともと彼女が俺との間に一線を引いていたのは、目の前の男が過去にひどいことをしてきたやつかもしれないという疑念があったからじゃないか? 俺のことを転校生だと予想していたんだとしても、完全に別人だと確信できるまでは安心出来なかった……そう考えれば筋が通る。
「はぁ……」
足下には、ずぶ濡れの体から落ちる雫で小さな水たまりが出来ていた。
ただ一階まで下りるだけのことにどれだけ時間がかかっているのか。階段を数段下りるたびに、彼女の怯えた顔が頭に浮かんできて何度立ち止まったかわからない。きっと屋上からここまでの間にこんな水たまりがいくつもできているんだろう。
やっとのことで一階までたどり着き、時間を見ようとポケットに手を入れた。が、時計代わりの携帯は侑理を助けるために飛び込んだ水槽の中で壊れ、自室の引き出しに置いてきたことを思い出す。
「はぁ……」
今更教室に戻る気にもなれなかった。できるなら今すぐ横になりたい。
藤岡に伝言を頼んでいるからこのまま帰ってしまおうか。鞄ももう置きっ放しでいいだろう。そう思って歩き出した。だが、ふと思い立って振り返る。廊下の奥に小さく図書室の扉が見えた。
この雨の中B棟まで戻るのも気が引けるし、図書室ならば疲れた体を横に出来るような大きな長椅子もある。まぁ、このびしょ濡れのままでゆっくり休めるかといわれれば自信はないが、それでも一息くらいはつけるだろう。
濡れているからというだけでは説明できないほど重く感じる足を図書室へと向けた。歩きながらも頭は、過去の自分が神之園にしてしまったことを想像するので忙しかった。恐ろしい仮説がいくつも浮かんでは、その度にうずくまりたくなるのを我慢する。もっとマシな仮説はないかと必死に考えたが、結局なんの結論もだせないまま図書室の前に着いてしまった。
沈みきった気持ちのまま両開きの扉を押して中に入り――
想定外の光景に思わず立ち止まってしまった。
誰もいないだろうと思っていたのに、窓際の椅子に少女が座っていて、初めて見たときと同じように膝に置いた本を静かに見下ろしていた。
そして、
「やぁ」
前と同じように少女は少しだけ首を動かして、
「着替えるならあっちがいいよ。あの背の高い本棚の向こう」
前と全く同じ台詞を言った。
ひとつだけ違うのは正面の大きな窓。オレンジ色の光を降らせていた窓には薄汚れた白いカーテンがひかれ、あれだけ暖かな光で満たされていた図書室とは思えないほどの薄暗さだった。
戸惑っている俺に、少女はまた、前と同じように俺の腕のあたりを指さして、
「ほら、着替える――」
やっぱり前と同じ台詞を言おうとした途中で、
「あ……れ……?」
まるで俺が着替えとタオルを持っていないことがあり得ないと言わんばかりに目を見開くと、ハッとしたように窓を振り返った。
最初はふざけているのかと思った。が、どうやらそういう訳ではないらしい。カーテンによって閉ざされた窓をしばらく眺めていた少女はゆっくりとこちらに向き直り、ひどく困惑した顔で俺を見つめた。……そんな顔をしたいのは俺の方なんだが。
「お前までおかしな反応しないでくれよ……」
「…………えっと……どうして濡れてるの?」
言葉を詰まらせる様子は、前の馴れ馴れしい少女とはまるで違い、どこか他人行儀に見えた。
「雨に打たれたんだよ。それより、なんでそんなにおどおどしてるんだ? 昨日約束をすっぽかしたの気にしてるのか?」
「…………昨日……そっか……」
少女はなにやら納得したように呟くと、一転して笑顔になって、椅子からぴょんと立ち上がり胸の前で両手をぱちんっと合わせた。
「ごめん! 間違えちゃった!」
「間違えた?」
「そ! 気にしないで! とりあえずさ、ゲームしよう!」
言うが早いか少女は本棚の裏に消え、しばらくゴソゴソしていたかと思えば、両手に抱えきれないほどのゲームを抱えながら現れた。あまりの切換の早さに直ぐに反応できなかったが、ゲームを落とさないように慎重に歩いてくる少女の前まで行き、今にも落ちてしまいそうな箱を二つ手に取った後、
「……悪い、今はゲームする気分にはなれない」
「何かあったの?」
「……少しな」
少女は俺の顔を覗き込み、そのせいでいくつかの箱がずり落ちたのも気にせずに、
「落ち込んでる?」
俺は答えずに、落ちた箱を拾い上げる。少女はその沈黙を肯定と受け取ったらしく、
「じゃあ、なおさらだよ! ゲームして気分転換といこうじゃないか!」
「いや、今は――」
「いーからいーから! ね?」
「だから…………」
どうしてか、俺はその強引な誘いを断れなかった。
それは、こぼれ落ちそうな数のゲームを抱きかかえて立っている少女の笑顔が、なぜか今にも泣き出してしまいそうに見えたからかもしれない。
○
「あの子と……なにかあった?」
薄暗い図書室でテーブルを挟みながら、俺が特別気に入ったコリドールをしていると、少女がいきなりそう聞いてきた。
「あの子?」
「わかってるでしょ? 屋上の子――楓ちゃんだよ」
「……別になにも」
図星をつかれた俺は盤面を見下ろしたまま答えた。
「それしか考えられないよ」
「……なんでそう言い切れる」
「今ここに君がいるから」
「……意味が分からん」
俺が進めた駒の前に少女は迷い無く壁を置く。この迷いのなさは何かある。単純に道を塞ぐためだけとは思えない。少女の狙いを読み切ろうと頭を回転させるうちに、だんだん盤面に顔が近づいていった。
「昨日さ、僕、約束破った訳じゃないんだよ。君が二人を連れてきたのが悪いんだ」
顔をあげた。
少女は顔をあげようとはしなかった。
「どういうことだ?」
「…………」
「もしかして、図書室の前まで来てたのか? 俺が勝手に二人を連れてきてたから怒って帰ったとか?」
「…………」
盤面を見つめたまま固まったように動かない少女に痺れを切らしそうになったころ、
すー、と息を吸い込んで、ふー、と深呼吸とも溜息ともつかない息を吐くと、
「そろそろ終わりみたい」
ほとんど声にならない声で、俺に対してというより自分に言い聞かせるように少女は言った。
訳が分からないままでいる俺に、少女はやっと顔を上げて、また同じことを問いかけてきた。
「ねぇ、屋上で何があったの?」
「だから……それを知ってどうする?」
「聞いてからじゃないと僕も話ができない」
「なんで」
「なんででも! とにかくさ、あの子と何があったのか話してみてよ」
興味本位、という訳ではないようだった。少女の表情には切実な色さえ浮かんでいた。
「……話せば、ちゃんと説明してくれるんだな?」
頷く少女を見て、俺は神之園との屋上での会話を少女に話し始めた。
少女は途中で何度も質問をしてきて、俺がそれに答えると、その答えに対してさらに質問するといった具合で、なかなか話が進まなかった。不思議なのは、俺が神之園との会話をどんなにささいなことでも完璧に憶えていたということ。どんな質問にも迷うことなく答えられる自分のことをだんだんと気味が悪いと感じ始めるほどだった。
「……うん。だいたい分かったよ」
少女がそう言ったときにはもう、神之園と出会ってからの一ヶ月間のことをほとんど話し終えてしまっていた。ずいぶんと長話になってしまったが、これを聞いた少女が一体何を理解したのかは全くわからない。
「次はお前の番だからな。こんなに丁寧に話したんだ。お前も誤魔化すのはなしだ」
居直って身を乗り出した俺に、少女は苦笑いを浮かべる。
「……すごいプレッシャー感じちゃうな。そんなに見つめないでよ。照れちゃうでしょ」
「だから誤魔化すなって」
「へへへ……そうだね。うん……どう話せばいいんだろう」
少女はしばらく思案した後、急にこんなことを言い出した。
「今、世界はね、夢を見てるんだ」
「はぁ?」
釘を刺したにもかかわらず訳の分からないことを言って煙に巻こうとしているのかと思った俺は少女を睨み付けたが、
「誤魔化してるんじゃないよ」
少女は俺の目をじっと見据えながら続けた。
「今は世界が見てる夢の途中なんだ。だから――僕がいる」
口調はあくまで軽く、だからこそ冗談を言っているようには見えなかった。
「僕はね、本当なら世界にいちゃいけない存在なんだよ」
まっすぐこちらを見つめてくる少女の目からはなんの感情も見いだせなかった。
「……いきなり何を言ってるんだ?」
「たぶん、この学校でも噂になってるんだと思う。たまにね、見に来る人いるんだ。何人か引き連れて、肝試しなんだろうね、楽しそうにこの図書室を見て回るんだよ、わーわー言いながらさ、本棚の裏をのぞき込んだりしてるの」
「だから何の話を――」
「そんなとき、僕はその子たちの目の前まで行って言うんだ。昨日もね、君の前で言ってたんだよ。こうやって、手を振りながら――」
椅子から降りた少女は俺の隣に立つと、座っている俺の顔をのぞき込むように腰を屈め、笑いながら言った。
「ここにいるよー」
「…………」
ここまで言えば、少女が何を言おうとしているのかは俺にも分かった。もともと俺がオカルト研に行くことになったきっかけで、妹にも直接言われたこと。
――その子ってさ、図書室の幽霊なんじゃないの?
俺が一蹴した妹の言葉が生々しく再生される。
「あれ? もしかして見えてない?」
「……見えてるよ」
「へへへ、知ってる」
そのまま窓際まで歩いて行った少女の背中に、俺は本心から言った。
「お前が幽霊だとは、到底思えない」
「それはね、君がズレてるからだよ」
振り向くことなく、少女はそんなことを言い返してきた。
「……ズレてる? 俺は至極全うな人間だと自負しているんだが」
「ズレてる人ほどそーゆーよね」
「…………」
「ごめんごめん。今のはまるっきり冗談……って訳でもないけど……君が思ってるような意味で言ったんじゃないよ? ズレてるってのは常識とか世間からってことじゃなくて、世界からだよ。君は世界からズレてる!」
「余計ひどくないかそれ……」
「論より証拠! ね、外は雨が降ってるんだよね?」
「……ん? あ、ああ。あの様子だとまだ止んでないと思うが」
「じゃあさ、何か気づかない?」
そう言ったまま、少女は黙り込んだ。いきなりそんなことを言われても、全く見当がつかなかった。
「何に気づくんだよ」
少女は何も答えずに、身じろぎもせず立っている。さっきから一切こちらを振り向かず、カーテンで閉ざされた窓を見つめるばかり。
静寂が続いた。俺は少女が何を言いたいのか分からず、立ち上がろうと椅子を引いた。
引き方が悪かったのか、ずいぶんとうるさい音が図書室内に響いて、ようやく気づく。
「――雨、止んでるのか?」
雨音が聞こえなかった。
というより、物音が一切聞こえない。俺と少女さえ音を立てなければ、異様なほどに静かだった。
「やっと気づいたね。それじゃあ、正解を見てみよう」
そう言って少女が勢いよく開けたカーテンの奥、
俺は思わず走り寄り、窓に両手をついて外を見渡した。
「降ってるね、雨。これはかなり激しそう」
同じように少女も窓に両手をついて言った。
言葉が出なかった。目の前の光景を理解することが出来ずに、ただ眺め続けるしかなかった。
静止していた。
雨粒一つ一つが宙に浮かんだまま空間を埋め尽くし、奥に見えるアラカシ林も、禍々しく空を覆っている黒雲も、写真のように動きを止めていた。
「分かった? 自分が世界からズレてるって」
そんな少女の声は、嫌というほど耳元で響いた。
○
理解不能の光景も、見続けていれば驚きを持続させることは難しいらしい。
開け放たれたカーテンの外には相変わらず動きのない景色があって、自分の心臓の音や少女の衣擦れの音さえ、意識せずとも鼓膜に届く。
「あのね、君は世界と同じ時間の中にいないんだよ」
二人とも椅子に座り直し、俺が少し落ち着いたところで、少女は話し始めた。
「今、世界は時間の中で立ち止まってるの。普通は世界が止まれば自分も止まるのに、君は世界がいる時間からはみ出してるからこうして動けちゃう」
「はみ出してるからって言われてもな……」
あまりに非現実的な光景を目の当たりにしたせいか、どこか夢見心地の気分から抜けられないでいる俺は、指先でコリドールの駒を弄びながら投げやりに呟いた。もちろんゲームを再開している訳ではない。まだゲームに頭を使えるほどには混乱は解けていない。
「まぁ、ここに来ちゃったってのも影響してると思うけどさ」
「ここ? 図書室のことか?」
「図書室だけじゃなくてこの辺り一帯だよ。たぶん、この夢見が丘の町自体がもともと時間の中では外側にあるんだと思う。だからこの町では不思議なことがよく起こるし、この建物はきっとこの町の中でも特にズレてる。ほとんど外れてるって言っていいくらい」
「…………」
先ほどから少女が何を言っているのか全然分からない。この子は説明が下手なのかもしれない。全ての言葉が分からなすぎてなにから聞けばいいのかすら分からないが、一つずつ解消していくしかあるまい。
「……そもそもその『ズレてる』ってのはどういう意味なんだ?」
俺の問いに、少女は少し考えるように唸った後、逆に尋ねてきた。
「時間ってさ、なんだと思う?」
「……時間は時間だろ? 時の流れのことじゃないのか?」
「だから、時の流れって何か考えたことある?」
「それは……」
ない、とは言えないが、答えが出ない問題だ。どうしたって時間は流れていくものだと受け入れるしかないという結論に行き着く。
答えられずにいると、少女はこう言い切った。
「時の流れっていうのはね、空間が移動することだよ」
何かしらの反応を待っているようだったが、さっぱり理解できない俺は眉間にシワを寄せることしかできない。
「えーとね? あの窓からこの椅子まで、僕たちは空間を移動してきたでしょ? 君が今そうやって駒をくるくるさせているのも、駒が空間を移動してるってこと」
「……そうだな」
「でね、時間ってのはその空間自体が移動することなの」
説明を終えたつもりでいるらしい少女は俺の顔を見つめているが、恐らく俺の顔には少女の期待した表情は浮かんでいなかったのだろう、
「……違い、分かる?」
小さな驚きをなんとか隠したような少女の態度を見て、なんだか俺の理解力がないのがいけない気がしてくる。
それでも分からないものは分からない。少女の言ったことを頭の中で反芻し、言葉を変えて問い返した。
「俺たちが移動するのは空間だけど、その空間もまた俺たちと同じように移動する……ってことか?」
ちゃんと伝わっていて安心したというように頷いた少女に、
「でも、それなら空間はどこを移動するんだ?」
そんな当たり前の質問をしたのだが、
「時間だよ?」
少女は当たり前のことのように答えた。
……禅問答か? なんとなく言いたいことは分かる気がするが、やっぱり腑に落ちない。そんな俺の様子を見て、少女は慌てて付け加える。
「時間は流れてるんじゃなくて、広がってるの。その中を世界が移動するから流れてるように見えるだけ」
時間は流れているのではなく、広がっている……それは時間も空間のようなものだと考えていいのだろうか? 俺には斬新すぎて想像できないが……。
そもそも、少女の言うことをそのまま信じてもいいのだろうか? この少女が俺の知らない何かを知っているのは間違いないし、俺のことを騙そうとしているわけでもないとは思うのだが、聞いたことのない理論をさも当然のように話す姿には疑問を持たざるを得ない。
「……どうしてお前にそんなことが分かるんだ?」
少女はニッと笑って、得意げに言った。
「外から見ないと分からないことってあるでしょ? 僕は完全に世界がいる時間の外にいるからね」
どういう反応をすればいいのか分からなかった。得意げな笑顔は、俺にはどこか自虐めいて見えた。
口元に笑みを残したまま、目だけを伏せると、少女は続けた。
「内側にいるうちは、気づかない。世界が時間の中で立ち止まっても、逆戻りしても、走り出しても。世界の時間の流れに乗ってるうちは、ずっと同じように時間が流れてると思ってる。だけど、一度外にでたら、そうじゃなくなる。全部気づく。誰に教えられるわけでもないのに自然と分かっちゃう。早さが一定じゃないことも、一度止まるとなかなか動き出さないことも、たまに、同じところを何度も何度も行ったり来たりしてることも」
少女の言うことを素直に信じていいのか分からなかった。というより、あまりにも常識からかけ離れていて受け入れることが難しかった。それが真実だと言われても、まるで現実味がない。
だが、少し視線を動かせば、そんな現実味を真っ向から否定するような光景がある。
「……話が脱線しちゃったね。つまり君は世界と同じ『空間の中』に居ながら、世界がいる『時間の広がりの中』からは外れてしまってるってことだよ」
「時間の広がり…………やっぱりピンとこない……この場所が特別だということは分かったけど……」
「違うよ。確かにどこでもって訳じゃないけど、ここみたいにズレてる場所は他にもある」
伏せていた目を上げて、少女は言った。
「特別なのは君。普通ならここまでズレた場所には来れないんだよ。元々、君自身が世界の時間からズレてたから入って来れちゃったんだ」
「俺が元々ズレてる……? なんで――」
「そんなの僕にも分からないよ」
投げやりに答えた少女は、ふぅ、と息をついて、
「でも、きっかけがあるはず。たぶん君の場合は、記憶が抜けてる一ヶ月の間に何かあったんじゃないかな」
……やはり、行き着く先はそこらしい。空白の一ヶ月で俺は一体何をしでかしたのだろうか?
改めて考えてみても……答えは出そうにない。過去の俺がやらかしたことは、神之園に恐怖を与えただけでなく、世界の時間とやらからもズレてしまうレベルのことらしい。
「たぶん、あの子もそうなんだろうね」
「……あの子? 俺以外にもズレてる奴ってのがいるのか?」
「もう……本当は分かってるんでしょ?」
少女の言った通り、次の言葉をなぜか俺は当然のことだと感じた。
「楓ちゃんもそう。あの子も君と同じくらいズレてる」
初めて会ったときから、神之園の存在はどこか希薄だった。ふと目を離したうちに消えてしまいそうな、強めの風が吹けば飛んで行ってしまいそうな、そんな雰囲気を纏っていた。もし、その原因が少女の言う時間の中でのズレによるものだったとしたら、彼女も俺に対して同じ印象を持っていたのかもしれない。
俺と彼女は時間の中ではみ出した者同士、互いの奇妙な空気感に引かれあって、毎日飽きもせず屋上までの長い道のりを上り下りしていた――と、今思えば、そんな気もしてくる。
「きっとね、君とあの子がきっかけなんだよ」
いつの間にか席を離れ、窓際で外を眺めていた少女がぽつりと呟いた。
「きっかけ?」
「今この世界が夢を見ることになったきっかけ」
「……さっきも言ってたな、世界が夢を見てるって。それはどういう意味なんだ?」
俺の問いかけに少女はしばらく答えなかった。
もう一度声をかけようと口を開きかけて止める。
外を眺める少女の小さな背中は、静止した風景と相まって写実的な絵画のようで、思わず見入ってしまった。
図書室内の時間も止まってしまったかのように錯覚し始めた頃、少女の声が静かに響いた。
「空を漂うシャボン玉が電線に引っかかってるような感じかなぁ」
「……シャボン玉?」
俺の方に向き直り、窓枠に座るように体重を預けると、少女はゆっくりと言葉を紡ぎ始める。
「大きくて、絶対に割れないシャボン玉。それが時間の中での世界の形。ぐにゃぐにゃ形を変えながら、時間の中を漂ってる。いつもなら、何かにぶつかっても形を変えてすり抜けるように流れていくだけなんだけど、たまーにね、ひっかかっちゃうことがある。ひっかかったまま進もうとした世界は二手に分かれて、分かれた世界は別々の時間を移動して、お互いに引っ張り合って、伸びたり縮んだりしながらもどんどん進んでいって、そしてそれも――」
少女の言葉はそこで途切れた。唐突に振り向いてまた窓の外を見つめる。
つられて俺も視線を窓に移すが、そこには相変わらず静止したままの景色が――
「――まだ、大丈夫みたいだね」
違った。
止まっていると勘違いしてしまうほどの速さではあるが、ゆっくりと、微かに、景色が動き始めていた。俺も椅子から立ち上がり、少女の隣に立って外を眺める。
空間を埋め尽くしていた雨粒が少しずつ地面に吸い寄せられて、生い茂った雑草の影に消えていく。
しばらくその奇妙な光景に目を奪われていた。
だが、ふと、何か鼓膜が震えるような感覚に気づき、その内に、ひどく聞こえづらい地鳴りのような低音が室内に響き始めた。
そこはかとない恐ろしさに思わず少女に顔を向けてしまったが、少女は驚く様子もなく外を眺めたまま動かない。外に視線を戻すと、眺め続けている内は気づかないほどの微少な加速をしていたのだろうか、雨粒は先ほどよりも落ちる速度が上がっているように見える。
聞こえづらかった低音も徐々に認識できるようになり、しばらくすると、それが雨音なのだと気づいた。
「これは、時間の中で止まっていた世界が、また動き出したってことか?」
「……そうだね」
ほんの少しずつ速度を上げていく景色。聞き覚えのあるものに変化していく雨音。視線を窓の外から外せぬまま、少女に尋ねる。
「『まだ、大丈夫』ってのはどういうことだ?」
『まだ』というのは、まるでいつかは大丈夫ではなくなるかのような言い草だ。
「それは――――」
今ではもう、聞きなれた雨音が図書室に響き渡り、少女の声は聞こえ辛くなっていた。
「……たぶんもうすぐ分かるよ」
かろうじて聞き取れた小さな声に、
「もうすぐ?」
聞き返しながら隣を見た。
「もうすぐっていつだよ……」
もう驚く気力すらなかった。
少女の姿は消えていた。