それぞれの支え
遅刻ぎりぎりまでたっぷり睡眠をとったにもかかわらずどうも疲労の抜けきららない体に鞭打って、俺はまた上り階段を五往復していた。
いつもの屋上。いつもの体育祭合同練習中。
見上げた空は、暗く分厚い雲に覆われて、すぐにでも降り出しそうな気配を漂わせていた。
「量子論? いつの間にそんなことを覚えたの悠岐前君? もしかして昨日私が教えてあげた運命論に不満でも持ったのかしら? 量子論なんて持ち出してきて、わざわざ反論しに来たって訳ね?」
昨日オカルト研で牧瀬に教えられた『量子論』とやらを話すと、柵に両肘を乗せて夢見が丘の町を見下ろしていた神之園は、実に嫌そうな顔で振り返りながらそんなことをまくし立てた。
「なんだ、知ってたのか」
「知ってるわよ。量子論くらい」
「運命論を語る上で量子論ってのは避けて通れないものなんだろ? 昨日あれだけ熱心に運命論を語ってたのに量子論の話なんて出てこなかったじゃないか」
昨日の牧瀬から聞かされた量子論講義とネットで囓っただけの付け焼き刃な知識だが、どうにも運命論――もとい決定論を語る上で、量子論の話をしないというのは不自然なことらしい。
「私は知らないことは話さないの」
「……知ってたんだろ?」
「知らないわよ。量子論なんて訳分からない理論」
言い放つと、神之園はぷいと柵の外に視線を戻した。直前に言ったことと真逆のことを言っているように聞こえるが、言いたいことはわかる。量子論の存在自体を知っていたとしても、量子論を知っているとは簡単には言えない。俺も牧瀬に説明された時、あまりに常識外れなその理論を理解するのに時間がかかった。いや、理解など今もできていない。量子論は俺なんかが理解できる代物ではない。それどころか、量子論を理解できている人間など地球上どこにもいないのかもしれない。
『量子論とは、量子力学をもとに物理現象を解明しようとする理論のことだ』
昨日、オカルト研で、牧瀬はそう言って量子論の説明を始めた。
『量子力学とはミクロな世界での物理学。ミクロな世界とは、原子や電子といったレベルの小さな物質の世界――つまり、量子力学とはただ、「小さな世界での物理学」ということになる。では何故、「小さな世界での物理学」をわざわざ「量子力学」なんて名前で他と区別するのか? それは、そこでの物理現象が、私たちが日ごろ目にしているようなマクロ世界の物理学や常識が全く通用しないものだからだ』
常識が通用しないとはどういうことなのか。当然のようにそう思った。胡散臭くもあり、誇大表現のようにも聞こえた。しかし、牧瀬が話したミクロ世界での現象は、確かに不可解で、信じがたいものだった。
「量子論において運命論は否定されるんだってな」
背を向けたままだんまりを決め込んでしまった神之園は、俺の問いかけにも反応を示さないまま、ただ町を見下ろしていた。
相変わらずの儚さを纏った背中が、薄暗い曇り空を背景に静止して、風にそよぐ髪だけが、かろうじて彼女の時を顕している。
いつもと違う。
なぜかそう感じた。
いつもの彼女なら、不機嫌になったときほど饒舌になるはずだから、なんていう理由じゃなくて、なにか、もっと、芯の部分。
今まで見せたことのなかった彼女の心の影が、急に顔を出した気がした。
「――神之園」
呼びかけても、返事はない。
表情を窺うこともできない。
今、彼女はどんな顔をしているのか、何を考えているのか、全く見当が付かなかった。
目の前にいる彼女のことを俺は何も知らない。名前と、この学校の生徒だということしか知らない。友達がいるのかもわからないし、どこに住んでいるのかもわからない。兄弟がいるのかも、部活に入っているのかも、なぜ屋上にいたのかも。
彼女は自分のことを語ろうとしなかったし、俺も尋ねなかった。屋上ではいつも、どちらからともなく発生したくだらない話を続け、チャイムがなったら別れる。
互いに互いのことを何も知らない。それが心地よかった。余計な詮索も、気遣いも、偏見も、思い違いもなく、ただ意見を交わしあって、たまにふざけあう、普段とは孤立した時間。なんとなく、彼女も同じなんだろうと思っていた。
だけど、違ったのかもしれない。
彼女には、なにか知られたくない事情があるのかもしれない――そんな気がした。
改めて見ると、目の前に立つ彼女がひどく遠くに感じた。一瞬、俺とは違う世界にいるような感覚さえ覚えた。
彼女の肩に手を伸ばす。馬鹿げた妄想が頭をかすめる。あり得ないと分かっているのに心臓の鼓動が少しだけ速まった。
自分に対する嘲笑か、馬鹿げた妄想にすぎなかったことへの安堵か、たぶんどちらも混ざったため息が漏れる。
伸ばした手はすり抜けることなく彼女の肩に触れた。
「……なに?」
「いや……」
「なによ?」
神之園は街を見下ろしていた顔を少しだけこちらに向けた。鋭い横目で俺を睨んでいるつもりなのかもしれなかったが、俺には、彼女が俺と正面から向き合うのを嫌って顔を背けているように見えた。
「量子論の話が嫌なのか?」
「……なんでそういうことになるのよ?」
「ほら、不機嫌な声だし」
俺の手を振りほどくように勢いよく振り向く彼女。
「そんなことないわよ」
「顔も不機嫌だ」
「そんなことないわよ!」
ここまで感情が露わに漏れ出ている彼女は初めてだった。大抵は喜怒哀楽の内どれであっても、表に出したかと思うとすぐにひっこめて澄ました態度になるのだが。
「そもそも、貴方はちゃんと量子論を理解しているの? 昨日今日知ったばかりの人が議論できるほど量子論は単純じゃないのよ?」
「それは、まぁ、うわべだけしか知らないってのは否定できないけど」
「言ってみなさいよ。貴方が知っている量子論のこと。ほら、量子論の話がしたかったんでしょう? 聞いてあげるから言ってみなさいよ」
やはり、彼女にとって量子論の話が不愉快なものだということは間違いないようだ。
しかし、いきなり話してみろと言われるとなかなか難しい。ただでさえ明るいわけでもない物理学の中で、最も摩訶不思議な分野だと言っても過言ではないのが量子論なのだ。その上、俺がその存在を知ったのはつい昨日のことで、しかも、話の流れで軽く説明されただけなのである。
説明したオカルト研会長の牧瀬自身、何が本気で何が冗談なのか分かりづらいような捉えどころのない人物であり、話の途中途中で俺をからかうような言動も挟んできたから、家に帰ってネットで調べてみるまで正直、半分も信じていなかった。いや、家に帰り着いた時には半分どころか、全てが冗談だったのでは? とまで疑い始めていた。だから牧瀬の話を肯定する内容が書かれたサイトを見つけた時、自分でもわかるほど間抜けな声が漏れたのは仕方のないことだと思う。
「――量子論は、相対性理論と並んで、現代物理学の二大柱だ」
「……それで?」
「えーと、量子論の始まりは一九〇〇年頃で、どこかの国の……プランクトンみたいな名前の人が」
「成り立ちの話はいいわよ。中身の話をして」
「……量子論はとても小さな、原子とか電子レベルの物質に見られる特殊な現象を扱う学問で」
「特殊な現象って具体的には?」
「……具体的には……えー……量子は、あぁ量子ってのはとにかく小さい粒だと考えてもらっていいんだが、電子とか原子とかな、あー最近だとある程度の大きさの分子も量子的な動きをするのが分かっているらしいが……まぁ、その量子の位置と……速さ? いや、運動量だったか……を同時に予測……もとい確定させることができない? ……という不確定性が」
「あーもう! まどろっこしいわね! 細かい表現の違いなんかは気にしなくていいわよ! 少しくらい間違えたって揚げ足をとったりしないから。貴方の言葉で話して」
なに? 揚げ足を取らない? 神之園の口からそんな言葉が飛び出してくるなんて……。
やはりおかしい。相手の足を引っかけてでも揚げ足をとるのが神之園楓なのだ。
もしかして俺がまだ聞いていない七不思議が関係していたりするのだろうか?
「なによもう……いちいち馬鹿にして……」
「いや、してないしてない」
思考が表情に出てしまっていたようだ。出さないように気をつけてはいたが、普段からポーカーフェイス気味の彼女は僅かな表情の変化にも敏感なのかもしれない。
とはいえ、今の彼女は普段のポーカーフェイスなどどこへやら。どこか悔しそうに口を結んで俺を睨み付けている。そんな豹変ともいえる変化に正直かなり困惑はしたが、しばらく彼女の顔を見ているうちに決して悪いことではないように思えてきた。たとえ読み取れる感情が怒りであったとしても、終始無表情でいるよりは遥かに魅力的に写る。今の彼女は、なんと言えばいいのだろうか、そう、まるで、少しヒステリックだけど本当は繊細な心を持っている、普通の美少女のような……
……はて、普通とは?
「……やっぱり絶対馬鹿にしてるでしょう?」
「してないしてない。ただ驚いてるだけであって、」
「もういい。言い訳は後にして早く説明の続きを話して。合同練習が終わってしまうかもしれないわ」
不機嫌な顔で彼女が見上げた空は、屋上に来た時よりも重苦しい色に変わっていた。
雨が降り出せば体育祭の練習は中止になる。みんなが教室に戻ってくるころには勉強をしていたフリをしなくてはいけないから、彼女とのおしゃべりもお開きとなる。
運動場からは、マイクで増幅された女生徒の声が、小さな山彦となって聞こえていた。藤岡が言っていた「とくに重要なことも言わないのに毎回必ず行われる体育祭実行委員会の形式的な挨拶」が始まっているのだろう。
「自分の言葉で話せと言われてもなぁ。浅はかな知識しかない身で話そうとするとすごく嘘くさくなってしまいそうなんだよな」
「それでいいから」
「それでいいって言われてもな……」
「いいって言っているの!」
「わかったわかった」
付け焼き刃の知識を整理しながら、なんと説明すれば良いか考えていると、女生徒の声に代わって陽気なJ‐POPが聴こえ始めた。あちらでは生徒たちが青春をかけたダンスを踊っているのだろう。
ふと、目の前にいる神之園と聴こえてくる音楽が混ざって、彼女が無表情で踊っている映像が頭に浮かんできた。シュールでありながらも意外と容易に想像できてしまうその映像は、頭の中で組み立てていた説明を一気に崩し去ってしまう。
仕方ない。説明を練り直すのは諦めて、俺が実際に牧瀬から聞かされた話を、俺なりの言葉に直しながら話すことにしよう。
昨日のオカルト研での会話を思い出す。
どこから話すべきだろうか。昨日はたくさんのことを聞いた。そのほとんどが初めて聞く内容で、どれもが嘘っぽいほどの強烈さを持っていた。
だが、その中でも、特に印象に残っているのは……
そう、あの単語だ――
○
「確率の波?」
オカルト研で牧瀬から量子論の説明を受けている最中に突然出て来たその未知の単語を俺は当然聞き返した。
「そう。観測される前の量子は確率の波として広範囲に存在している」
それだけの説明でそのまま話を進めようとする牧瀬に、
「だから、その確率の波ってのはなんなんですか?」
「そのままだよ。量子はもともと、『それ以上分解できない粒』という意味だが、その『粒』である量子は、観測者が見ていないところでは『粒』ではなく『波』になっている。その波というのが観測後に量子が発見される位置の確率を表す、ということだ」
「…………」
意味が分からないのは俺が悪いわけではないと思う。
「間抜けな顔だな侑真君。まぁ当然か」
笑って言うと、牧瀬はテーブルの上にあったノートになにやら描き始めた。ソファに座っている俺の目線の先に、牧瀬の妖艶な太もも裏がしばし留まる。描き終わったかと思うと、俺の隣の、わざわざ狭い方に回り込んできて腰を下ろし、ノートに描かれた絵を指さした。
……近い。肩が触れている。
「密閉された箱の中で、『量子の代表である電子』を一つ放ったとしよう」
ノートには、長方形の中にある拳銃の絵から一つの丸が飛び出していた。拳銃といえるのかわからない抽象的な図形だが、隣に小さく『ばきゅん』と書かれているからおそらく拳銃なのだろう。
「電子が放たれた後に箱を開けて中を観測すると、当然、放った電子は箱の中にある。ではその時、電子が箱の中のどこに、どんな状態であるのか――侑真君、分かるかい?」
質問が頭に入ってこない。俺の神経は肩に集中している。
「……聞いているのか?」
見上げるな。上目遣いで見るな。
「どうしたんだ? 君のお兄ちゃんは」
話を振られた侑理は大きなため息をついて、「だから会わせたくなかったのに」と呟いた。どうやら我が妹は、俺を騙すことが嫌だったわけではなく、俺が牧瀬に狼狽えることが目に見えていたから実験を渋っていたらしい。
「先輩、少し離れてください。お兄ちゃん、年上の女の人に弱いんです」
年上なら誰にでもこうなのではないが、それを言うと更に状況が悪くなるだけだから黙っておく。
「おや、それはいいことを聞いた。侑真君、今度私の家で食事でもどうだろう。世界中の珍味佳肴を用意しよう。なに遠慮はいらない。少し実験に付き合ってくれるだけでいい」
肩の感触が増えた。なにか、さらに柔らかいものが追加されたような気がする。
「先輩、ふざけないで説明してください」
侑理の言葉に頷くことで同意を示す。すぐ横に迫った牧瀬の顔を視界の隅に追いやるように首をひねっていたからずいぶんとみっともない動きになった。
「ふふっ、可愛い兄妹だ」
肩の感触がなくなり体から緊張が解けると、すぐに牧瀬から距離をとる。
……この人は危ない。藤岡から聞かされていた以上に。
「それで、侑真君。電子はこの箱のどこにあるかわかるかい?」
笑いを堪えながら立ち上がった牧瀬は、部屋の中央にあるテーブルの周りを、ゆっくりと歩き始めた。
雑念を振りほどくために一度深呼吸した後、落ち着いて質問の意味を考えてみる。
電子が箱の中で放たれた後、箱を開けて電子の位置を確認する。当然、箱の大きさや電子の速度、箱を開けるタイミング、その他諸々の情報が正確に分かっているなら、電子の位置を知ることはできるのだろう。
昨日神之園から運命論の話を聞いていた俺はそう考えた。だが、牧瀬の質問ではそのような情報は与えられていないのだから答えようがない。
「分からないです――」
それだけの情報では――と続ける前に、牧瀬は満足そうに頷いた。しかし、その次に続けられた言葉に俺は混乱した。
「量子力学が生まれる前の古典力学では、箱の大きさや電子の速度などの諸条件が分かれば、放たれた電子の位置と速度を計算することができると考えられていた。
しかし、量子力学では『分からない』というのが真実だ。どんなに初期条件を厳密に設定できたとしても、電子の位置と運動量を同時に確定させることは不可能」
妙な言い方だと思った。牧瀬は断言したのだ。「不可能」と。「難しい」でもなく、「現時点では」のような前置きもなく。
「ちょっと待ってください、条件が決まっていれば分かるんじゃないですか? 俺が分からないと言ったのは条件を与えられていなかったからで――」
「おや、君は決定論者か?」
言葉に詰まった。
『決定論者』という単語が分からなかった訳ではない。屋上で、「誤解を招かないように運命論を呼称するなら決定論と言った方がいい」と神之園は言っていた。
すなわち決定論者とは運命論者のことだ。言葉に詰まったのは、牧瀬が「決定論者」という言い方をしたことで、決定論は物理学の一説に過ぎず、決定論を否定するような別の説もあるということに考えが至ったからだ。
神之園に運命論の説明を受けたときは特に深くも考えず、なるほど、そういうことになるんだろう、と納得していたから、そんな当たり前に思えることに少し驚いてしまった。
神之園も言っていたではないか。運命論を『信じるか?』と。『信じない』という立場も当然あったのだ。
「別に積極的に決定論を信じているわけじゃなくて……それしか知らないんです」
「すまない。意地の悪いことを言った」
牧瀬は笑って、不可能と言った意味を説明し始めた。
「不可能というのは言い間違いでも誇張でもない。量子論では箱の中の量子の位置を確率的にしか予言できないんだよ。なぜなら、さっき言ったように、量子は観測されていない時には確率の波として存在しているからだ。確率の波というのがイメージしにくかったらこう考えればいい。観測されていない時の量子は分身の術をしている忍者のごとく、あちこちに同時に存在している、と」
……やはり意味がわからない。
分身の術なんて言葉が物理学の説明にでてくることに俺が不審を抱いたのが分かったのだろう。牧瀬はさらに話を続けた。
「箱の中の量子はどこか一カ所に存在しているわけではなく、ある所には二〇%存在し、またあるところには三%存在する、という風に考えるんだ。
重要なのは『本当はどこか一カ所に存在しているが、その場所を特定することができないから、ここにある確率は二〇%、ここにある確率は三%という風に考える』という訳ではなく、『ここには二〇%の存在、ここには三%の存在として同時に存在している』と考えるところだ。
日本語では『重ね合わせ』と呼ばれる状態だが、英語では『Super Position』と言われる。『位置』という概念を『越えた』概念という訳だ」
位置を越えた概念? 重ね合わせ? ずいぶんと無茶苦茶な考え方に思える。
しかし、その考えならば牧瀬が言ったことも一応は納得できる。
「電子は、そもそもどこか一カ所に存在している訳ではないから、位置を特定することは不可能、ってことですか?」
「そういうことになる」
ゆっくりとテーブルの周りを歩いていた牧瀬は足を止め、そのままテーブルに腰掛けた。ソファに座っている俺の正面で、すらりとした足を組む。高さ的に、牧瀬の膝がちょうど俺の目線の先に来て、その二つの膝の間に肌色以外のものが一瞬だけ見えたような気がしたが、決して故意ではない。
「……理屈はなんとなく分かったんですが、やっぱりその、重ね合わせってのがよく分かりません。重ね合わせの状態ってのはどう見えるんです? うっすら透けて見えたりするんですか?」
「わからない。誰も見たことはないからね」
「……見たことがない?」
「そう、見たことがない。いや、見ることができない」
ゆっくりと足を組み変えながら牧瀬は答えた。目線がその動きを追う。動物は目の前で動くものがあると自然とそちらに注視してしまうのだ。決して故意ではない。
「どうして見ることができないのか――」
膝の滑らかな曲線運動が終わる――と、視界の上から両手が降りてきて膝の前に添えられた。慌てて視線を上げる。
「どうしてだと思う?」
見上げた先に牧瀬の顔が近づいていた。前屈姿勢で俺を見下ろすその顔には意地悪げな笑みが浮かんでいる。
やはりわざとか……。
咄嗟に頭を切り替えようとしたものの、
「えっと……小さすぎて見えないから?」
と、単純すぎる答えを口にしてしまったのは、絶妙な塩梅で隠された魅惑のデルタ帯を視界の端に感じていたからかもしれない。
「ふふふっ、そうだね、それも正解だ、ふふふふふ」
俺の挙動がよほど可笑しかったのか肩を震わせる牧瀬。
意外にも、的外れというわけではなかったらしい……が、少し笑いすぎではないだろうか。
「だけど、ふふっ、もっと、ふふふっ、原理的な――」
顔を両手で覆いながら何度も肩で呼吸して、やっと落ち着いたらしい牧瀬は、「ふぅ」と息を吐き、
「物理的に目で見ることができない、というのも間違いとは言えないが、もっと原理的な理由があるんだよ」
「……それは?」
笑いのツボはおさまったらしく、今しがたまでとは違う妖しげな笑みを浮かべながら牧瀬は答えた。
「量子の世界では、『観測』という行為が実験の結果に影響を与えてしまうんだ」
「…………」
観測が、結果に影響を与える?
どのように受け取ったら良いのかわからない。
だが――そうか――
「おや、ノーリアクションか? もっと驚いたり、意味が分からず呆けたりするかと思ったが……得心がいったかい?」
「いえ、そういう訳ではないんですが……ただ、さっきから気になってはいたんです。先輩は『観測される前の』とか『観測者が見ていないところでは』とか『観測されていない時には』という前置きを毎回付けていたから」
牧瀬は腰掛けていたテーブルから勢いよく飛び降り、
「きちんと聞いていたようで大変よろしい」
と嬉しそうに笑った。不意に無垢な笑顔を向けられて思わず身を引いてしまう。
「侑理君。君のお兄さんも君に劣らずなかなかに筋がいい」
また急に話を振られた侑理は何故か俺を睨んでくる。
「優秀な生徒というのは実に可愛らしいものだ」
そのまま頭でも撫でられそうになったのでソファの背に埋もれるまでさらに身を引いた。さすがに妹の前で頭を撫でられるのは恥ずかしい。
追随して面白がるように距離を詰めてきた牧瀬に慌てて質問する。
「か、観測が影響を与えるってのはどういう意味なんですか?」
必死な俺の抵抗に、牧瀬は笑いながら立ち上がると、テーブルの周りをさっきとは逆回りに歩き始めた。
「観測を行うと、量子の不可思議さは見られなくなる」
「……と、いうと?」
「観測を行わなければ、量子は不可解な実験結果を残す。
具体的には、本来『粒』であるはずの量子が、『波』の性質を示すような結果を出す。これが重ね合わせによって生まれる量子の二重性だ。
しかし、『なぜ波の性質を示すような実験結果に至ったのか』すなわち、『重ね合わせの状態とはどのようになっているのか』、その過程を観測しようとすると――その途端に、『波』の性質は現れなくなり、なんの変哲もない『粒』の動きに戻ってしまう――」
テーブルの向こう側を歩いていた牧瀬はこちらに顔を向け、いたずらっぽい笑顔で言った。
「まるで見られていることが分かっているみたいにね」
「それは……」
どういう意味だ? もしかして、無意識にパンツを覗こうとしてしまった俺をからかっているのか?
「からかっているわけではないよ。量子は正に自分が見られていることがわかっているかのように振る舞う。観測されていない時には波、見られた瞬間に粒。変わり身の術をする忍者のようだ」
見透かされたような言葉に、たくさんの疑問が湧いてきて返答に困る。
牧瀬が言っていることは本当なのか? 俺が何か勘違いしているだけなのだろうか? そうでもないと、牧瀬の言っていることはとても――
「信じられないかい?」
……やはり、俺の考えていることはお見通しらしい。
「信じられなくても、これは実験で確かめられる厳然たる事実だよ」
ここまで見抜かれているなら、俺が何か勘違いをしているというわけでもなく、量子は本当に見られているかいないかで挙動が変化するということなのだろう。
だけど……本当に? やっぱり簡単には信じられない。だって、それではまるで、
「観測という行為に物理的な力が……?」
「どうなんだろうね」
口に出た疑問に、牧瀬はあくまで軽い調子で答えた。
「どうなんだろうねって……わからないんですか?」
「わからないよ。そもそも重ね合わせの状態を一つの状態へと収束させているのが観測という行為なのかどうかさえ分からない。
ただ、『観測によって波動関数が収縮する』と考えるにしても、『観測装置が作動することによってデコヒーレンスが起こる』と考えるにしても、はたまた『人間の意識によって状態が決定される』なんて考えるにしても、重要なのは『量子論はニュートン力学とは異なり、最初の状態が与えられれば、その後の運動が方程式によって完全に決定されるような決定論ではない』、ということだ」
「……随分と曖昧なんですね」
「ふふ、そうだね。観測するまでの過程で量子がなにかしらの影響を受けているというのは間違いない。しかし、それがいつ、どんな要因によってのものなのか、それは――」
相変わらず口元に笑みを浮かべたまま、しかし、少しだけ困ったような表情で牧瀬は言った。
「神のみぞ知る――――今のところはね」
○
正直に言って、牧瀬の説明をちゃんと理解できたとは思えない。そもそも世界中の天才たちにとっても量子の世界については謎だらけなのだから俺なんかが理解できる訳もない。
けれど、高校物理程度でさんざん頭を悩ませているような人間は、理屈が分かっていなくとも結論さえ分かっていれば十分だろう。
俺が牧瀬の説明から得た結論。
運命論を信じるか、と問いかけてきた神之園への答え――
「重ね合わせという現象が起きている以上、量子は決定論的に動きが決められるものではない。だから量子論において運命論は否定されるんだ」
風が強くなり、肌寒さを感じ始めた屋上で、俺はそう結論づけて話を終えた。
息をのんで神之園の言葉を待つ。
オカルト研での会話を自分なりの言葉に直しながら話している間、彼女は口を挟むことなく黙って聴いていた。だが、説明が進むにつれ彼女の眉間にシワが寄っていくのを俺はちゃんと見ている。だから、
「……それで説明は終わり?」
思いの外冷静に彼女がそう聞いてきたのは意外だった。
怒っているように見えたのは勘違いだったのか、と少しだけほっとしながら頷いたのだが、
「やっぱり貴方はわかってないわ」
冷静どころか冷たすぎるほどの声でそう断言した彼女を見て、勘違いではなかったことを知った。
「貴方がどこで量子論を知ったのかしらないけれど、大方ネットか半端なSF好きにでも聞いたんでしょう? なにが確率の波よ。なにが重ね合わせよ」
彼女の言葉には憎しみともいえるほどの侮蔑がこもっていた。苛立たしげに唇を噛む彼女を前に、俺はしばらく言葉を発することができなかった。
なにが彼女をここまで反発させるのだろうか。俺が量子論の話を始めた途端、今までの彼女からは想像できないほどに感情を露わにし始めたのには理由があるはずだ。そしてその理由は決して軽いものではなく、神之園楓という人間の根幹に関わるほど重要なことに思えてならない。
「どうしてそんなに否定するんだ? 量子論はやっぱり嫌いなのか?」
「量子論自体が嫌いな訳じゃないわ。不可解な現象も、実際に観測されているのだから文句を言ったって仕方ない。でも、不可解な現象が起きるのにも理由があるはずでしょう? 私は理由を考えることを放棄するのが許せないの」
「重ね合わせが起きる理由ってことか?」
「重ね合わせ?」
彼女は鼻で笑った。
「悠岐前くん、どうして重ね合わせなんていう考えが生まれたんだと思う?」
「それは……」
答えようと、オカルト研での会話を再度思い返してみた。しかし、答えられなかった。牧瀬はただ、観測されていないときの量子は重ね合わせの状態になっている、としか言っていない。牧瀬ほどの天才が断言しているのだから、てっきり俺が想像も及ばないような方法で証明でもされているのかと思っていたのだが……。
「量子が二重性を示すのは事実よ。ただし、どうしてそんな結果になるのかは今でも分かっていないの。量子論が生まれてから百年以上、世界中の天才たちが理由を考えた。でも誰一人として合理的かつ実証可能な説明はできていない」
「そう……なのか」
彼女の不自然なほど具体的な反論に戸惑う。
「そうなの! 今まで色々な仮説が提唱され、科学者同士の派閥も生まれた。そんな派閥のうちのひとつがこう主張したの。『実験で確かめることのできない仮説は、言うなれば想像に過ぎないもの。実証性を重視するなら不可解な実験結果の理由を想像するよりも、実験結果をそのまま受け入れるべきだ』とね。そんな主張から生まれたのが重ね合わせという新たな概念なのよ」
そこまで言って、彼女は俺の返事を待つように視線をよこした。
だが俺は、やはり彼女が俺なんかよりも量子論について知っていたということ、そして知っていながらも今まで一切口に出さなかったということに思考を占領されていて、彼女の言った言葉は半分以上が頭の中を素通りしていた。
一度空を見上げて再度彼女が言った内容を反芻しようとしたものの、なんだか奇妙に思えるほどに流れの早い黒雲に気が散ってしまって、顔をおろした後に間抜けな返事をせざるを得なかった。
「……何がいいたいんだ?」
「だから! 重ね合わせは量子に関する不可解な実験結果をそのまま受け入れるために考え出された概念ってことよ。重ね合わせという概念を作り出せば一応は実験結果を説明できるし、実践的に量子に関する計算をするにも不都合があるわけじゃない。理由に納得がいかなくても、根拠のない仮説を作り出すより実証性を大事にする科学には相応しい考え方ってわけ!」
「えーと……?」
「つ、ま、り! 重ね合わせなんて考え方はただのつじつま合わせってことよ!」
言い放った彼女は興奮を抑えようとしているのだろう、ゆっくりと呼吸を繰り返す。だが、呼吸に合わせて少し怒らせた肩が上下している様子はとても冷静とは言い難い。
転校初日からこれまで屋上で無駄話をしてきた中で、彼女が哲学や物理学に興味があるというのはなんとなく察しがついていた。
ただそれはここまで熱量を伴うほどの印象だっただろうか? 牧瀬摩耶ならばまだしも、神之園楓は普通の女子高生だ。彼女の纏う空気は確かに異質だが、中身は牧瀬のようにぶっとんじゃいない。たまにする奇行だって俺に対するからかいか彼女なりのおふざけだってことは分かっている。
疑問は膨らんでいくが、俺を睨み続けている彼女に気づき、彼女が言いたがっているであろうことだけを慎重に考えて言葉を返した。
「……重ね合わせは実際に起きている現象ではないって言いたいんだな?」
「そうよ、そもそもの姿勢として重ね合わせを唱えたコペンハーゲン派は原因を探求することに重きを置いていないし彼等が用いた理論の目的は物理的な実体の解明ではなくて実験観測によって得られるデータ間の関係を明らかにすることなんだから確かに途中から彼らも意地になって自分たちの主張こそが正しいと感情的な論文を――」
「分かった分かった、信じるから」
止まらなくなった彼女を慌てて制止して、落ち着いてもらうために意図的に間を取った。
なぜ彼女はここまで量子論について詳しいのだろうか。どうにも腑に落ちない。
ここまでムキになって重ね合わせを否定するのも、ただの一介の高校生である彼女が自分の理論に自信と誇りをもっているから、とは考えにくい。
少しのあいだ頭をひねったがさっぱり見当がつかない。直接理由を聞いたところで彼女が素直に答えてくれるとも思えず、とりあえず話を続けることにした。
「それじゃあさ、神之園はどう思ってるんだ? 重ね合わせが絵空事だとして、実際はどんな法則に従っているのか」
「それは…………どんな法則なのかまでは分からない……。でも、重ね合わせなんて曖昧な解釈とは違って、確固たる法則によって世界は成り立っているはずよ。ランダムに見える動きも、莫大な数の要因が複雑に作用しあっているからそう見えるだけであって、どんな結果も、そうなるべくしてなっているの。偶然なんてない。すべてのことは始めからそうなるように決まっているのよ」
そこまで聞いて、やっと、なんとなくだが腑に落ちた。彼女が反発しているのは彼女が言った通り量子論自体ではない。量子論が色濃く持つ性質――ランダム性。彼女が受け入れられないのはこのランダム性なのだろう。
彼女は牧瀬が言っていたところによる、『決定論者』なのだ。
そう考えると、なぜ彼女がここまで量子論について詳しくなったのかも分かる気がした。
なにかきっかけがあって決定論者になった彼女は、決定論を否定することに繋がる量子論を徹底的に調べたのだろう。しかし、ミクロの世界で不可思議な現象が見られるのは事実であり、今までの物理学だけでは決定論を肯定し切れないということを知った彼女は、量子論自体に嫌悪感を抱くようになったのかもしれない。
でもそれなら、打ってつけの理論がある。
彼女がなぜその理論を今まで口にしなかったのかが不思議なくらいだ。昨日見つけた個人サイトで紹介されていた『多世界解釈』。簡単に言えば量子がとりうる状態の数だけパラレルワールドが存在するという理論だ。一見ファンタジーに思えるこの理論は、実は超物理学原理主義的だといえるらしい。数学的に破綻なく、矛盾もださぬまま、決定論的な解釈ができるというのだ。
パラレルワールドなんていう夢のある解釈のためによくSFなんかで使われたりするが、SF好きだけでなく、高名な物理学者の中にもこの多世界解釈を支持するものはいて、案外馬鹿にできないものだ――と、博士のキャラクターが髭を撫でながら講釈を垂れていた。
「神之園、そんなに運命論を否定したくないなら、多世界解釈はどうだ? 多世界解釈なら運命論と量子論の両立が――」
「そんなものっ‼」
今までにない程の勢いで俺の言葉は遮られた。
思わず息を止めてしまうほどの剣幕に俺は二の句が継げない。驚きながらも、先ほどから耳にうるさくなり始めた風の音によって、彼女の口から続けられるであろう言葉を聞き逃さないように身構えたのだが、彼女は一度俺を睨みつけるとすぐに顔を伏せて、それっきり黙ってしまった。
C棟を囲むアラカシ林の葉音が耳を覆う。
どこかで一羽の鳥が何かを叫ぶように鳴いた。
正面から吹き付ける風に目を閉じてしまいそうになるのを我慢しながら、俯いた彼女の、激しくなびく黒髪をただ見つめ続けた。
「あなたは――」
瞬間、夢見が丘の町を光が包んだ。
なびく前髪の間で、一瞬だけ照らされた彼女の表情は、いくつかの感情がない交ぜになって躊躇っているように見えた。
彼女の言葉はそこで途切れ、代わりに、遠くで雷鳴が轟く。
その後、ゆっくりと上げられた彼女の顔には落ち着きが戻っていたが、わずかに躊躇いの残滓が見えた気がした。
「あなたは……この世界とは別の世界が存在すると思うの?」
――違う。彼女が言おうとしていたことはこれじゃない。
もちろん、本当は何を言おうとしていたのか俺には想像もつかない。だが、雷光から雷鳴までの僅かな間、彼女の表情から躊躇いが取り払われたように、本来の言葉も別のものに置き換えられたように思えた。
彼女が浮かべていた複雑な表情は何を意味するのか。どうして口にすることを止めてしまったのか。問いかけようと口を開いた。しかし、彼女が思いあぐねた末にうち捨てた部分に、俺が踏み込んでいいのだろうか?
今まで、俺と彼女の間には一定の距離が保たれていた。示し合わせたわけでもないのに、始めから超えてはいけない一線が引かれていた。
たぶん、それは、お互いのことを知ろうとすること。
日々の会話で、彼女は自分のことを一切語ることがなかったし、俺の私生活のことを尋ねるようなこともしなかった。今彼女が押しとどめた言葉は、その一線を越えることなのではないだろうか。彼女が守りたがっている距離感を、俺が無闇に侵すことはしたくない。
それに俺自身も、予感というほどでもない小さな不安があった。彼女に近づくことで、二人の関係が変わってしまうかもしれないという根拠のない不安。気軽にくだらない話ができなくなる可能性、それを俺は無視することができなかった。
最初はあんなに辛かった、教室からこの屋上までの長い道のりが今では全く苦に思えなくなるほどに、俺は、彼女と過ごす時間が好きになっていた。
「パラレルワールドがあったらいいなとは思うぞ。ロマンがあるしな」
自分で発した声が白々しく耳に届く。平静を装った口調が、臆病さを強調していた。
だけど、それでもいい。彼女の見せた普通ではない態度に俺が触れずにいれば、彼女も、これまでと同じようにからかいの言葉を返してくれるかもしれない――そう期待した。
だが、
「……ロマン? ロマンってなに?」
そう呟いた彼女の声は震えていた。
「なにって……」
「多世界解釈がどうしてSFの域をでない理論なのか分かってる?」
「いや……」
「確認できないからよ。技術的に無理っていう話ではなく、原理的に不可能なの。これがどういうことか分かる? どんなに頑張ったって、正しいのか間違っているのか分からないってこと。そんなの神様はいるのかいないのかっていう話と何もかわらないじゃない!」
彼女の声は次第に悲痛を帯びていった。
声に痛々しさが増すにつれて、風の吹きすさぶ音、アラカシ林のざわめき、鳥たちの鳴き声、運動場から時折届く歓声、それら周囲の音が耳から離れ、彼女の叫びだけが頭の中に響いていく――
「どんなに理論に破綻がなくても、パラレルワールドの存在を確認する術はないの。それはつまり、それぞれの世界は完全に独立していて、交わることがないってこと。この世界が別の世界に影響を及ぼすこともなければ、別の世界がこの世界に影響を与えることもない! なにも変わらないのよ! 私たちが生きているこの世界は!」
次々と吐き出される彼女の言葉。その一つ一つの意味を理解している訳ではなかった。
でもどうしてか、元から俺自身もそうだったのかもしれないと思えるほど自然に、彼女の心が伝わってくるのを感じていた。
「ねぇ、そんな理論のどこにロマンを感じればいいの? 別の世界で幸せに生きている自分を妄想して現実の自分を慰める? それともひどい世界を想像して今の自分はマシだと言い聞かせる? あるかも分からない世界に期待することがロマンなら、そんなの空しいだけじゃない!」
――あぁ、そうか。ようやく分かった。
「百歩譲ってこの世界以外にも別の世界が存在しているとしてもいいわ。確認出来ないからといって存在しない根拠にはならないものね。多世界解釈には理屈上無限の世界が存在するから、もしかしたらその中に夢のような世界もあるかもしれない。……でも! それなら!」
――彼女がなぜ運命論にこだわるのか。
「…………どうして私はこの世界に居るの?」
――嫌いなんだ。自分の生きている世界が。
「この世界の他にも可能性があるのなら、どうして他の世界じゃいけなかったの?」
――そして、彼女はきっと――
「偶然なんて言葉じゃ、納得できないじゃない…………」
――運命論に求めているんだ。自分が生きている世界を、諦めるための理由を。
すべての出来事が物理によってあらかじめ決められているのならば、後悔は生まれない。
そう決まっていたのだから仕方がない。
他の選択肢なんて無かったのだから、「もし」なんて考える必要がない。
運命論を信じれば、今生きている自分を、取り巻く環境を、完全に肯定できてしまう。
彼女にとって運命論は、自由意志を否定する絶望の理論ではなく、受け入れがたい世界を諦観するための救いの教義なのかもしれない。
彼女は俯いたまましばらく黙っていたが、急に顔を上げると、
「戻るわ。雨が降り出してから戻っても遅いし、貴方も早く戻った方がいいわよ」
そう言って、立ち尽くす俺の横を通り過ぎていった。
背後で扉の閉まる音が聞こえて、何の言葉も掛けられなかった俺は屋上に一人寝転がった。
一切身じろぎせずに、重く暗い空を眺める。
そうしている内に、合同練習の終わりを告げるチャイムが鳴った。
それでもしばらく空を睨み続けたが、遠くで一羽のカラスが弱々しい鳴き声をあげたのと同時に起き上がり、屋上を後にする。
結局、雨は降らなかった。
○
放課後。
昨日、「また遊びに行く」と約束した少女が待つ図書室に向かう途中、これまた昨日「一緒に来てもいい」と約束した侑理に声を掛けるためオカルト研の前で立ち止った。
神之園と別れてから頭の中は屋上での出来事でいっぱいだった。初めて見た彼女の表情。初めて聞いた彼女の激昂。そして恐らく、初めて顔を覗かせたこの世界への嫌悪感。次に会うとき俺は彼女に何を言ってあげられるのか。これから俺に彼女のためにしてあげられることはあるのか。いくら考えても答えがでない状態で、図書室の少女との約束はありがたかった。少女とのゲームが気晴らし以上のものになることは実証済みだ。
オカルト研の扉をノックしようと手を上げると、見計らった様に勝手に開いた扉の奥から牧瀬の声が聞こえてきた。
「侑理君ならまだ来ていないよ。もうすぐ来るはずだから中で待っているといい」
この人のやることにいちいち驚いていたらキリがないということを昨日の内に学習していた俺は、軽く頭を下げてから言われた通り中に入り、ソファに座って一息ついた。
こちらに背中を向けたまま壁際の椅子に座っている牧瀬は、相変わらず何が映し出されてるのか分からないモニターを覗き込んでいた。時折、鋭い目をした黒猫が描かれたマグカップに口を付けては、長い足を組み替えながら何やら思考している様子だったが、一段落ついたのかくるりと椅子を回転させると声を掛けてきた。
「君も何か飲むかい?」
「いえ……お構いなく」
牧瀬は数秒こちらを見つめると、訝しげな顔で問いかけてきた。
「どうしたんだい? ずいぶんと気落ちしているようだが」
「そう……見えますか」
「ああ、まるで気になる異性から突然価値観の違いを見せつけられたような顔をしている」
……この人の言うことにいちいち驚いていたら身が持たないのだ。
一つ息を吐いて、尋ねた。
「……先輩は、非・決定論者なんですよね?」
「昨日さんざん話したろう?」
「……やっぱりあれ、本気なんですか?」
「もちろんだとも」
神之園には話さなかったが――というより、あの状況で話せる内容ではなかったのだが――牧瀬は決定論者である神之園とはまるで逆の、言うなれば自由意志論者であり、『人の感情や意思が、量子の振る舞いに影響を及ぼす』と考えているらしい。そして昨日俺に対して行った実験によってその思いは更に強まったという。溺れている侑理を目撃してから、侑理の意識が戻るまでの間に量子乱数発生器に生じた偏りは、俺の感情の高まりが量子の振る舞いに影響を及ぼしたなによりの証拠だと言うのだ。
もともと俺に興味を持ったきっかけだという侑理のじゃんけん28連勝も、量子を媒介とした一種のテレパシーのようなものだ、と訳の分からない用語混じりで力説していた。
「感情なんて実体のないものでしょう? そんなものがどうやって物理的な影響を及ぼすんですか」
昨日は、精神的にも、下校時間的にも余裕が無かったために聞けなかった疑問を牧瀬にぶつける。
「実体がなくても影響を及ぼすものなんて身の回りにあふれているよ。そこのホワイトボードにくっついている磁石だって、磁力という実体のないものの影響を受けているし、そのホワイトボードが立っているのも重力という実体のないものが地面に引きつけているからだ。私達が今会話できているのもそう。声そのものに実体はないだろう? 実体がなくとも周りに及ぼす影響から存在を確かめているわけだ」
「それは……音は耳で、重力や磁力の影響は目に見える形で確認できますからね。でもだからといって人の感情がそれと同じだとは……」
「確認できなければ存在しないと考えることは考え方として間違いではない。だが同時に、現在常識とされていることの多くも始めは確認できなかったものだ。確かめることの出来なかったことが長い年月の末に確認――つまり観測できるようになることは珍しくない。というより、それこそが科学だと言っても良いかもしれない。つい最近も百年以上前にアインシュタインが予言した重力波を初めて観測した功績に対してノーベル賞が与えられている」
「……でもそれは理論が先にあったからこそ予言もできたんですよね? 感情にもそんな理論が存在するんですか?」
「ふむ、君はなかなかに手強いね。確かに今現在、意識や感情の影響に関して十分な完成度を持つ理論が確立されているとはいえない」
「……それじゃあどうして先輩は感情が影響力を持つと考えているんですか?」
牧瀬は手に持っていたマグカップをそっと机に置くと、カップの中身を覗くように視線を固定したまま言った。
「私は自分のことを合理的な人間だと思っていたんだよ」
脈略のない告白に呆気にとられる。牧瀬は返事をしない俺を一瞥すると、椅子から立ち上がり、昨日と同じようにテーブルの周りを歩き始めた。
「侑真君。テストで良い点数を取りたいと思ったらどうする?」
「え?」
「素直に答えてくれればいい。仮に明日、英単語の小テストがあったとして、そのテストで満点を取るために君は帰宅してから何をする?」
「そりゃあ、勉強しますけど」
「腹筋は?」
「は?」
「腹筋はしないのかい?」
「……しませんよ。どうして腹筋なんですか」
「うむ。腹筋をしたところで英単語を覚えられる訳じゃない。無意味だ。だから腹筋はしない。実に合理的だ」
……何がいいたいのか全然分からない。
茫然としている俺をよそに、牧瀬は向かいの壁の前で足を止め、こちらに背を向けるようにテーブルに腰掛けると、
「私は昔仲のいい友人がいた」
またもや話の流れをぶった切るようなことを言いだした。
「ある日、その友人が命にかかわるほどの大けがをしてね。すぐに緊急手術が行われた。病院に駆けつけた私は、廊下の長いすに座って手術が終わるのを何時間も待ち続けたんだ」
迂闊に口を挟める内容でもなく、黙って耳を傾ける。
「すでに消灯時間も過ぎた夜中のことでね、薄暗い廊下の先にある非常口のランプが深碧の光を落としていて、不安に押しつぶされそうだった私は時折明滅するその弱々しい光をただ眺めることに没頭した。どれほどの時間が経っていただろう。人生で一番長い時間を過ごしていた私は、ふと視線を落としたときに、自分の両手が硬く組まれていることに気がついた。そう、私は無心でランプを眺めていたと思っていたが、違ったんだ」
その時のことを思い出しているのだろうか、両手が一瞬だけ組まれ、すぐに解かれた。
「私は……強く祈っていた。手術が成功することを、食い込んだ爪で手の甲に血がにじむほどに願っていた。そのときだ、疑問が湧いたのは」
牧瀬は自分の手のひらを見つめながら言った。
「……どうして祈っているのだろう……どうして祈らずにはいられないのだろう」
そこで言葉を止め、両手を後ろにつくと、天井を少しだけ見上げるように顔を上げた。制服の襟に引っかかってふわりと膨らんだ後ろ髪の間から、壁際にあるモニターの青白い光が透けて見える。
俺はソファに浅く腰掛けたまま、話が再開されるのをしばらく待っていたが、長い沈黙は、俺が口を開くまで終わらない気がした。
「……友人の無事を祈るのは、当然じゃないですか?」
面白みもない陳腐な言葉しか掛けられない自分を内心で罵る。だが、牧瀬は見上げていた顔を下ろすと、何事もなかったかのように話を再開した。
「人種や国籍に関わらず、ほとんど全ての人は、大切な人のために祈ることをおかしな行為だとは考えないだろう。太古の時代から現代まで途切れることなく世界中に存在し続けるこの『祈る』という行為は、人間にとって最も基本的で純粋な心の動きだと言えるかもしれない。
しかし、不思議に思わないかい? どうして『祈る』という行為は、こうも当然のように受け入れられているのだろう。テストで良い点を取るために腹筋に勤しむことはおかしいと誰もが思うのに、大切な人の幸福を離れた場所から祈ることに疑念を抱くものは少ない。
自分のことを無駄なことはしない合理的な人間だと信じていた幼い頃の私も、友人の手術の成功を、壁を隔てた薄暗い廊下で祈っていた。まるで祈りが現実に影響を及ぼすと信じているみたいに。だが、果たしてそんなことがありえるのだろうか?」
問いかけられても、もちろん俺なんかに答えられるはずもない。
「湧いて出た疑問は気を紛らわせるには丁度良かった。幼い私は思考しつづけ、たくさんの理屈をこねた末に、ふと、こう思ったんだ。もし、『祈る』という行為が何の意味もないのなら、ここまで普遍的なものになっていただろうか? 『祈る』という行為はただの精神の保身だと思っていた……が、もしかしたら、人間は無意識のうちに知っているのではないか? 感情――人の思いには、世界に影響を与えるような力があると」
牧瀬はテーブルから大げさに飛び降りると、くるりとこちらを振り向いて、
「そういう訳だ。私が今でも人の感情に力があるという考えに拘る根底には、そんな幼い少女の苦い思い出があるのだよ」
先ほどまでとはまるで違う調子の良い口調でそう言うと、にやりと笑みを浮かべ、こちらに向かって歩き出した。
「それに君は昨日の実験を忘れたのかい? 既に有力な証拠があるじゃないか。君がもたらしてくれた実験結果には実に興奮させられたよ。できればもう二、三度似たような実験に付き合って欲しいんだがどうだろう?」
「絶対に嫌です」
「そんなこと言わずに。私にできることなら何でもするぞ?」
わざとらしく体をくねらせながらにじり寄ってくる牧瀬を、突き出した両手でけん制する。
「他を当たってください。俺はもう二度とあんな体験は御免です」
「言っただろう? 今まで別の被験者で行ってきた実験では、あれほどの結果はでなかったんだよ。君でなくてはダメなんだ」
牧瀬は突き出された手を避けるようにして俺の隣に腰掛けると、潤んだ瞳で見つめてくる。演技だと分かっていても破壊力抜群だ。
しかし、今の俺には狼狽えるより前にどうしても聞きたいことがあった。今の牧瀬の話を聞いて余計に言い出しづらくなってしまったが、それはずっと心の隅で、ずっしりと重く居座り続けていることだった。
「あの、先輩」
「……なんだい?」
俺の表情に深刻さを感じ取ったのか、からかいの態度を止めて姿勢を正した牧瀬に尋ねる。
「――世界が決定論的であることを願うというのは……間違っているんでしょうか?」
決定論は自由意志を否定する理論。世界が決定論的であることを願っているというのはつまり、自由意志が存在しないことを願っていることになる。自ら物理法則の傀儡であることを望むというのは、普通に考えれば不健全な思想なのかもしれない。
「それは私には決められないことだ」
薄く微笑みながら答えた牧瀬に、食い下がるように問う。
「でも、先輩は決定論を否定しているんですよね?」
「否定することと、是非を決めることは別の話だよ」
諭すように言った後、一つ息を吐き、
「それにね、私は確固たる理論を持って決定論に反対しているというより…………きっと……怖いんだ」
「……怖い?」
「私はね、今までの人生、全てのことを自分自身で選択してきたと思っているんだよ。私だけじゃない。人間は誰しも全て自分自身で選択していると私は考えている。
例え道が一つだけに思えても、その道を進むしかなかったのだとしても、人は進むことを選択しているんだ。選べる道が全て不幸に繋がっていても、マシだと思える道がなかったのだとしても、やはり選択するんだ。もし、道を進まなくとも、それは進まないという選択をしたということ」
「でも現実には選べないこともあるじゃないですか? 環境が許さなかったり、規則で禁止されていたり、法律だってある訳ですし――」
「仮に、ある行動が法律に反するものだったとしても、それを選択することができない訳じゃない。その行動を選択して得られる対価と、法律を犯して被る代償を天秤にかけて、行動しないという選択をしているだけだ。法律に選択肢を奪われているわけじゃない。人の意思を阻むものなど存在しないんだよ。そう――例えば――」
牧瀬はいきなり両手で俺の首を掴んだ。細い指の、ひんやりとした感触が首筋を包む。
「この手に力を入れて、私は今すぐ君を殺すことだってできる」
牧瀬の声と表情には一切の欺瞞がなかった。例えだとは分かっていても、今は優しく包まれている首元が、次の瞬間には締め付けられているのではないかと全身が固くなる。
ふふ、と笑って手を離した牧瀬はソファから立ち上がり、
「ただ、君を殺して得られるものがないから殺さないという選択をしているだけだ。逃げ回る人生は嫌だからね。それに君の妹に恨まれるのも厄介そうだ」
そう言って入り口を振り返った。直後に扉が開き、侑理が姿を見せる。
オカルト研の室内に漂う少し張り詰めた空気を感じ取ったのか、入り口に立ったまま怪訝な視線を俺と牧瀬の間で往復させている侑理に、牧瀬は手を上げて気にせず中に入るよう促す。
「法律だけじゃない。環境であっても、マナーであっても、周囲の視線であっても、道徳であっても、家庭であっても同じことだ。人は誰しも天秤にかけて選択している。残酷な物言いに聞こえるかもしれないけどね……。しかし、だからこそ私は自由だと、生きていると思えるんだ。ただ一つ、私の選択を阻むものがあるとするなら――」
振り向いた牧瀬の顔に浮かぶのは、初めて見る弱気な笑みだった。
「それは私自身か――物理法則だけだ」
牧瀬の主張は当然のものなのかもしれない。行動や感情の全てが物理法則に支配されているという話は、誰だって多かれ少なかれ受け入れがたい印象を持つだろう。
だが、牧瀬ほど厳格に意思の強さを信じ、自分以外の何者にもその自由さを侵すものはないと言い切れる人間は恐らく多くないのではないだろうか。牧瀬摩耶という人間が纏う底の知れない空気感は、この強堅な思想によって形成されているのかもしれないと感じた。
「……話、終わりました?」
会話に入ってこれず、部屋の隅でじっと座っていた侑理が不機嫌そうに言うと、牧瀬は笑いながら近づいていった。
からかうつもりなのが透けて見えるような背中にもう一度声を掛ける。
「先輩、最後にもう一つ聞いてもいいですか?」
「なんだい?」
歩みを止めずに返事をした牧瀬は侑理の前で仁王立ちした。
「最初から思ってたんですが――」
「ちょっと、摩耶先輩、何ですか……ちょ、痛い痛い!」
気にせず続ける。
「どうしてオカルト研なんて名乗っているんですか? この部屋の設備にしても、量子論の話にしても、先輩が話す内容にしても、どれも俺が抱いてたオカルトのイメージとはかけ離れてるんです。どちらかというと科学研究会のほうが合っているような気がするんですが」
「いや、オカルト研究会のほうが相応しいさ。私は人の感情が世界に物理的な影響を及ぼしているんじゃないか、などと言っているんだよ。そうであれば良いとも思っている。現代科学の観点から言えば――」
侑理のほっぺたを掴んだ両手は離さないまま、顔だけ振り向いて、
「そんなもの、オカルトだ」
そう言って牧瀬は不敵に笑った。
○
オカルト研を出た俺たちは図書室への長い廊下を進む。
知らぬ間に牧瀬もついてくることになっていたが、『図書室の少女は幽霊なのではないか』と侑理が主張している以上、仮にもオカルト研会長を名乗っている牧瀬がついてくるのは当然かもしれないと思ったから特に何も言わなかった。
先頭を歩く侑理の後ろに俺、そのまた後ろに牧瀬が続く。
侑理は少し緊張しながらも好奇心を抑えられていないようで、一人だけ足早に廊下を先に進んでは、振り返って「早く」と急かす。まぁ、侑理は昔から妙に好奇心旺盛で周りを気にせず先走るところがあったから別に驚くこともないのだが、意外なのは牧瀬である。侑理とは違い、落ち着いたようにゆっくりと後ろを歩く牧瀬は、図書室に行くことにあまり乗り気ではなさそうな――というより、何か別のことを考え込んでいるような、そんな真剣な顔をしていた。
一足先に図書室前までたどり着き、磨りガラス越しに中を覗き込んでいた侑理が、たらたら歩く二人に痺れを切らしたように扉に手を掛けた。しかし、そのまま固まったように動きを止め、なかなか押そうとしない。勢いよく飛び出していったはいいものの、中にいるのが初対面の相手だと気づいて怖じけついたのだろう。
「人見知りはまだ治ってないのか?」
追いついた俺がそう言うと、侑理はムッとした目で睨み付けてきた後、覚悟を決めたように一気に扉を開けた。
「し、失礼します!」
面接室にでも入るかのように威勢良く突入した侑理の後に俺と牧瀬も続く。
天気が曇りのために、昨日とは違って薄暗い室内。
窓際の席に少女の姿はなく、「約束通り来たぞー」と呼びかけたが返事はない。どこか本棚の裏にでも隠れているのかと思い、不満げな侑理をたしなめながらも二人で室内を見て回ったのだが――――
「……いないじゃん」
侑理の言う通り、少女はいなかった。
「まだ来てないんだろ。待ってればそのうち来るさ」
軽い気持ちでそう言って、窓際のテーブルを三人で囲んで座り、しばらく待つことにした。
しかし――
「やっぱり幽霊だったんだよ! 三人で来たから怖がって出てこないんじゃない?」
少女を待つことにしてから五分もしないうちに侑理が退屈を訴えたため、唯一侑理もルールを知っていたオセロを取り出してきて遊んでいたのだが、それにも飽きた侑理はそんなことを言い出した。
幽霊が怖がるというのも滑稽な話だが、今の状況では笑いながらはねつけることもできない。
日が暮れ始めてもまだ、少女は姿を見せていなかった。
「お兄ちゃん、ホントに約束したんだよね?」
「……ああ」
「じゃあ、やっぱり幽霊なんだよ」
「どうしてそうなる……。約束を忘れて帰ってしまったとか、急用が出来てどうしても来れなくなったとかあるだろ」
「摩耶先輩はどう思います?」
話を振られて、オカルト研を出てからほとんど無言だった牧瀬が口を開いた。
「やはり嘘をついている訳ではないんだね?」
鋭い目でじっと見つめられ、一瞬だけ怯んでしまう。
「……ついてないですって」
牧瀬は顎に手を添えて考えるような仕草をした後、少し俯いたまま話し出した。
「侑理君から君が出会ったという少女の話を聞いたとき、正直にいうと私は、君が侑理君をからかったのだと思っていた。しかし、先ほどオカルト研に来た時から君のことを観察していたが、嘘をついている様にも見えない。だとすると、先ほど君が言ったように、その少女はここに来られなかったというだけの話なのか……もしくは侑理君の言うようにその少女は――」
「まさか、侑理の言うことなんかを真に受けてるんですか?」
「ちょっとお兄ちゃん! それどういう――」
「それは今から私が質問することに君がどう答えるかで変わる」
発言を中断された侑理はブスッとして押し黙ってしまったが、牧瀬はそんな侑理に一瞥もくれず、視線を俺に固定したまま話を続けた。
「図書室に行くにはオカルト研の前を必ず通らなくてはならない。正面口から入らずに窓から侵入すればその限りではないが、一応念のため全ての窓が施錠されているのは昨晩確認した」
「……用事があるから残るって言ってましたけど、そんなことしてたんですか?」
呆れた様子の侑理をまたもや無視して牧瀬は続ける。
「オカルト研の扉の上にはカメラがついていてね、扉の前を誰かが通るとセンサーが反応して室内のモニターに映像を映し出すようになっているんだよ。あくまでオカルト研に来た人物を確認するためのものだから録画はしていないが、私が部室にいるときに誰かが前を通ればだいたい気づく。そして、私は一日中オカルト研に籠もっていることも珍しくない――にも関わらず、私はその少女というのを今まで見たことがない」
「……ただ見逃してただけなんじゃないですか?」
「そうかもしれない」
牧瀬はあっさりと肯定した。
……少女の存在を疑っている訳では無い? この人の話は始めのうち何を言おうとしているのか全然分からない。
戸惑う俺の様子をじっと眺めていた牧瀬は、ゆっくりと口を開いた。
「実を言うとね、私は侑理君から話を聞く前から、君に興味があったんだ。というより、君に興味があったから侑理君に君の話を振ったと言う方が正しい。話の中でじゃんけんの一件を知り、昨日の実験をしようと決めてからは、実行するまで接触しない方がいいと判断して敢えて声を掛けてこなかったけどね」
俺の中でお馴染みになりつつあるこの突然の暴露も、きっと何かのフリなのだ。わざわざ理由を問わなくとも、牧瀬なら最後には説明するだろうと考えてそのまま話を聞く。
「君が置かれていた家庭環境のことを聞いたときは少しだけ不安になって声を掛けそうになってしまったよ。一度離れたこの町にわざわざ君が戻ってきたのは、何かやり残したことを最後にやりに来たためなのかもしれない、なんて思ってね」
「なんですかそれ。俺がここを離れたのは検査のために必要な機械がこの町の病院にはなかったからですよ。祖父の家の居心地が良くて必要以上に長居してしまったのは事実ですけど、別にこの町に戻ってくるのが嫌だったわけじゃない。先輩は俺が死にに来たとでも思ってたんですか?」
牧瀬が俺の家庭環境のことを知っているらしいと分かり、全くの冗談のつもりで笑って言ったのだが、
「十分考えられると思っていたさ。あんなことがあったんだ。普通なら戻ってきたいとは思わないだろう?」
「摩耶先輩!!」
侑理が叫んだ。
突然のことに驚いているのは俺だけのようで、牧瀬は何でも無いような表情で侑理に視線を向けると、
「まだ話していないのか?」
侑理は、怒ったような、泣き出しそうな、複雑な顔になって何かを言いかけたが、俺の方をチラリと見ると、何も言わないまま俯いた。
「侑理君、隠していてもいずれは彼の耳にも入ることだよ。君が入学早々ビンタを食らわせたのも、相手が無神経にその話を始めたからだろう?」
「それでも、まだ……」
「私なら話して欲しいけどね」
「それは先輩が強いからです! お兄ちゃんはこう見えて繊細だから、ちゃんとタイミングとか考えてからじゃないと……」
「私には君が話したくないだけに見える。家庭内で彼の居場所がなかったことに気がつけなかった自分に責任を感じているというのは想像できる。気づいていればあの事故も起きなかったと思っているんだろう? だが、君だって幼かったんだ。大人に幻想を抱いていてもおかしくない。誰も責められないさ」
「……時期が来ればちゃんと話します……だから今はまだ待ってください……せめてお兄ちゃんがここの生活に慣れるまで」
「それは私に言ってもしょうがないよ」
置いてけぼりにされた俺は、二人のやりとりをただ茫然と眺めることしかできなかった。
二人は一体何を話しているんだ? 考えてみても、俺には分からないことが多すぎる。
あんなこととは何だ? まだ話していないとはどういうことだ? 侑理が気づいていれば事故も起きなかった? ただの交通事故じゃなかったのか?
しばらく葛藤したように立ち尽くしていた侑理は、俯いたままおどおどと俺に近づいてくると、
「……お兄ちゃん。気になるだろうけど、もう少し待っててくれる?」
視線を合わせようとしない侑理の顔は今まで見たこともないほどに憔悴していた。状況が把握できない俺はそんな初めて見る妹に対して、何が何だか分からないまま頷くほかなかった。
数秒間、沈黙が流れ、
「よし、少々脱線してしまったが私の話を続けよう」
手を鳴らしてそう言うと、牧瀬は本当に何事も無かったかのように話を再開した。
「結局私の心配は的外れだったようだが、そうすると疑問は更に深まる。君ももう気づいているだろうがね」
「……なにがですか?」
未だ思考が停止していた俺はそんな返事しかできなかった。しかし、次に掛けられた言葉は、ぶん殴られたような衝撃を俺に与えた。
「君は体育祭の合同練習中にいつもここの屋上に来ているよね?」
「えっ――」
「え! そうなんですか摩耶先輩?」
俺以上に驚いた侑理を見て、少しだけ考える余裕が出来た。……そうか。
――オカルト研の扉の上にはカメラがついていてね――
――私がいるときに誰かがオカルト研の前を通ればだいたい気づく――
先ほど牧瀬が言っていたことを考えれば当然のことだ。なぜ俺はそのことに全く考えが及んでいなかったんだ? 毎日通っていたんだ。気づかれない訳がない。
「いや、その、まぁ……」
人間全くの想定外のことを言われると本当に頭が真っ白になるということを、お手本のようにしどろもどろになっている自分の声を聞きながら思った。
別に焦ることはないじゃないか、と理性の半分は言うのだが、残ったもう半分の理性が、毎日女生徒と落ち合っていて、しかもそれを、どこか二人だけの秘密の逢い引きのように頭の片隅で考えてしまっていた自分にとてつもない羞恥を抱かせる。
「なんだ、気づかれてないと思っていたのか。意外と抜けているね君も」
「……もともとC棟には誰も居ないと思ってましたからね……一度そう思ってしまうとなかなか修正できないものですよ」
やはり、思い込みってのは厄介だ。
「それで、何が疑問なんですか? どうして来ているのかーなんて今更聞かないでくださいよ? あと、からかうのも止めてください。そういうの慣れてないんですから」
「何を言っているんだ侑真君? 私は君が屋上に来ている理由に見当もついていないよ?」
「え……?」
「私は、君が毎日足繁くC棟に通う理由は一体どんなものだろうと不思議に思ったからこそ君に興味を持ったんだ」
「いや、だって見ていたんでしょう?」
牧瀬は似合わないほど間の抜けた表情で一時停止した後、これまた似合わないほど自信なさげな口調で尋ねてきた。
「……半分以上あり得ないと思っていたのだが……もしかして君は誰かと会っていたのかい?」
「……からかってます?」
「からかってなどいない。私はこれまで幾度となくオカルト研の前を通り過ぎる君を見てきた。だが――君以外の人物は一度も見たことがない」
「……は?」
……やっぱりからかっているのか…………?
判断しかねている俺に、これ以上ないほど深刻な声で、同時に興味を隠しきれない表情で、牧瀬は言った。
「侑真君、図書室でも屋上でも、君は一体誰と会っているんだ?」