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俺には選択肢が見えない  作者: 道野 一葉
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絶望の運命論

「ねぇ、運命論って信じるかしら?」


 時折吹く風が心地よく首元を通り過ぎ、照り付ける太陽も不快に感じなくなり始めた九月の終わり。他の三つの棟とは少し離れた場所に建っている、私立夢見が丘高校C棟の屋上で彼女が呟いた。


 彼女は隣に立つ俺の方を見向きもせずに、柵に背中を預けてしゃがんだまま首だけを回して柵越しに街を見下ろしていたから、俺は一瞬、彼女は夢見が丘の街に問いかけているのかと思った。


 だけど、俺と彼女以外は誰もいない屋上で、質問に答えられるのは俺だけだったから、


「運命? 神之園(かみのその)がそんなロマンチックな言葉を使うとは思わなかったな」


 そう言葉を返すと、彼女は街を見下ろしたまま、呆れたような、腹を立てたような、小さくて短い溜息をついた。


「私がロマンチックな言葉を使ったらいけないのかしら? 私はロマンなんて興味がなくて、縁がなくて、口から出るのは面白味のない現実の話ばかりだと思っているようね?」


 そこまでは言ってないのだが、彼女の淡々とした早口は機嫌が損なわれた合図であり、とりあえず怒りを抑えようと必死に否定の言葉を考える。


 彼女とはまだ一ヶ月弱の付き合いしかない。


 それは俺が高校二年の夏休み明けなんていう中途半端な時期に夢見が丘高校に転校してきたからなのだが、転校初日に偶然にもこのC棟の屋上で彼女と出会ってからほぼ毎日のようにあれこれと無駄話をしてきた末に彼女に抱いた印象は、正しく彼女の言った通りだったので、俺は恐らく呆けた顔で、彼女を見つめたまま沈黙した。


「……そう。貴方がどういう風に私を見ていたのか、よーくわかったわ。こんなロマンの欠片もない、つまらない人間の話に今まで付き合ってくれて、どうもありがとうございました」


 コツコツとローファーの音を鳴らしながら、階段へと続くドアに去っていく彼女の背中をしばらく見つめていたのだが、ドアノブにかけられた手がなかなか回り始めないのを見て声をかける。


「そんなこと思ってないぞ」


「遅いのよ!」


 いつも沈着冷静な彼女の珍しい大声は屋上では思いのほか響き渡り、思わず誰かに聞かれたんじゃないかと誰も居ないはずの屋上をキョロキョロと見渡したのだが、その様子があまりにも情けなく写ったのか、彼女は怒りの感情を深い溜息とともに体の外に排出してくれたようだった。


「大丈夫よ。ここは運動場からは離れているし、屋上に来るときにC棟に人が居ないのは確認したから」


「神之園みたいに練習をサボってC棟に逃げてきた奴がいるかもしれないだろ?」


「失礼ね。私はサボっているんじゃなくて、拒否しているの。あんな忌々しい行事を強制する権利なんて学校側は持っていないわ」


  そう言って、憎々しげに運動場の方向を睨む彼女は、石膏像のように白く、飛ばされそうな程に華奢で、腰まで伸びた黒髪は、水面に浮かぶ花弁のように揺蕩(たゆた)っている。


 確かに、()()()()()()()』なんていう行事に彼女が参加しようものなら、入場行進中に目眩で倒れ、周りの生徒に担がれながら入場門から退場していく姿が目にうかぶ。


 彼女は、少し強い風が吹けばそのままふわりと空に浮かんでいきそうな、しばらく眺めていたら後ろの景色がうっすらと透けて見えてきそうな、そんな空気を(まと)っている。


 そのせいか時折、彼女の周りを取り巻く空間の方が重く、圧縮されているかのように見え、ただ屋上に佇む彼女が、深いプールの底にいるように錯覚してしまう瞬間があるほど――


 彼女の存在はどこか、儚くて軽い。


 今も、ふと目を離したうちにどこかへ消えてしまうような気がして、手の届く距離まで近づこうと歩き出してしまっていた。


 馬鹿げた空想によって動かされた自分を誤魔化すように、手が届く一歩手前の距離で立ち止まると、彼女から視線を剥がして街を眺めた。


 夢見が丘高校は、小さな山の一角を切り開いた斜面に建っている。


 その山の頂上にあるC棟の屋上が俺と彼女が無駄話をする場所であり、ここからは夢見が丘の街が一望のもとに見下ろせる。


 C棟の周りをぐるりと囲む、鬱蒼(うっそう)としたアラカシ林の向こうに、その林に無限に落ちているどんぐり程に小さな家々が控えめに広がっているのが見える。その広くもなく狭くもない街並みから、木々の揺れが無数の葉のざわめきと一緒に近づいてきた。遠くに見えていた木々の揺れは、林一体のうねりになりながらC棟前まで到着して、一瞬の後、甲高い風が全身を吹き抜ける。


「ここにいると風が見えるようね」


 飛ばされずに立っていた彼女は、中身が見えそうなほどになびいているスカートを抑えもせず、両手を小さく広げて、空気の波に体を委ねていた。


 それを脇目に見ながら、俺も無言で風を感じる。


 こういう突然できた無言の時間も嫌いじゃない。ゆっくり鼻から空気を吸い込み、またゆっくりと吐き出す。アラカシ林のざわめきが心地よく、いつもならそれ以上広げないようなくだらない思考を、頭に浮かんでくるがまま遊ばせるにはもってこいの時間。


 


「それで、どうなの?」


 拒否することとサボることの端的な違いを考えていたところに投げかけられた質問は、俺に間抜けな声をあげさせた。


「え? じゃないわよ。運命論を信じるかって話」


  まだその話続いてたのか、なんて台詞は口に出さない。


「運命ねぇ……正直今まで生きてきて運命的な出来事ってのに遭遇した記憶はないんだよな……でも、いつかそう思えるようなことがあったらいいなとは思うよ」


 運命なんてものに特に一家言を持っているわけでもなかったから、当たり障りのないことを言っておいて彼女が自分の考えを話すのを待ってみる心積もりだったのだが、どうやら俺は質問の意図を読み違えていたようだった。


「私が訊いているのは『運命論』を信じるかどうかであって、『運命』を信じるかどうかではないわ」


 気を抜いていた頭にはてなが浮かぶ。


「……『運命』と『運命論』は違うってことか? てっきり運命は存在するっていう理論なのかと――」


「運命なんて都合のいい時に使うものでしょう? 悠岐前(ゆきさき)くん、貴方が私との出会いをロマンチックな運命だと信じたい気持ちはよく分かるけれど――」


「勝手に人の気持ちを断定するな」


「あら、違うの?」


 いたずらっぽく顔を覗き込んでくる彼女に、不覚にも否定するのが遅れる。


「ふふっ、まぁ一言に『運命論』といっても、いくつか立場があるのは事実ね。人智を超えた存在、神様なんかが運命を決めているって立場もあるし」


 否定する暇を与えないかのように続けざま話を進める彼女の顔にはからかいの笑みが浮かんでいた。


「……運命っていったら普通そういう文脈で使われるものだろ? 人の力の及ばない巡り合わせみたいな」


「そんなものはオカルトよ。私が言う運命論は科学的な見地から言う『運命論』よ。誤解を招かないように呼称するなら『決定論』と言った方がいいかもしれないわね」


「……それなら最初からそう言えばよかったんじゃないか?」


 決定論なんて聞いたこともないが、少なくともからかわれるような返答はしなかったはずだ。


「何を言っているの? 『運命論』の方がかっこいいじゃない」


 頭大丈夫? とでも言いたげな顔である。こんな顔を向けられる程おかしなことは言ってないはずなんだが。


「それに――」


 言いようのない不満を募らす俺をよそに、秋風に揺れる前髪を耳にかけ、嘲るように彼女は言う。


「神様だろうと科学だろうと、それを信仰している時点で同じようなものだわ」


 


 運命論――


 彼女が説明するに、『運命を信じること』と『運命論を信じること』、この二つの信仰は、正反対とは言わないまでも、かなり色合いの違うものらしかった。


 『運命を信じる少女』と言われれば、ロマンに溢れ、白馬に乗った王子様のお迎えを待ちかねているような、夢見がちな少女を想像したりするけれど、これがひとたび、『運命論を信じる少女』になると、夢も希望もない、絶望の少女へと様変わりしてしまうという。


「運命論は人間の自由意志を否定する理論なのよ」


  その言葉を聞いたとき、「神之園がそんなロマンチックな言葉を使うとは思わなかったな」という俺の返事はやはり間違っていなかった――と思ったが、やっぱり口には出さなかった。


「運命論を詳しく説明しようとすると、古代ギリシャの哲学者達から話すことになるのだけれど――」


 そう言って彼女が長々と教えてくれた『運命論』を至極簡潔にまとめると、握っている石ころを手放せば、その石ころは地面に向かって落下するのが当たり前なように、物理法則の支配下では何事もその後の動きが決められている。


 それは人間にとっても例外ではなく、人間の身体も、言ってしまえば原子や分子の集まりであり、人間の感情や意志も、脳内での電気信号やら脳内物質などといった実体のある物の物理現象なのだから、人がどんな行動をとるかも、どんな感情を持つかも、結局は物理法則の結果に過ぎず、あらかじめ決まっていることなのだ――という話だった。


「それは確かに、怖い話だな……その運命論と言うのが正しいなら、今俺が喋っている言葉も言うことが決まっていたことになるんだろ?」


「そう。自分で考えて話しているつもりでも、それはただ、物理法則の結果分かり切っていた現象を再現しているだけってことになるの。だからこそ、運命論は人間の意志を否定する理論なのよ」


 彼女はそう言い切ると、腕を前に突き出したり、片足で立ってみたり、体をひねってみたりと不思議な動きをしながら、「これも」「この動きも」「決まっていた」「ことに」「なって」「しまうのよ」と、表情だけは変えずに宣うのだった。


 ふと思う。そんな彼女の奇行も、物理法則の避けられない結果なのだとしたら、彼女は物理法則によって奇行を強いられていることになるのだろうか。


 もしそうなら、俺は今までの彼女に対する印象を『何を考えているのか分からなくて、学校生活に馴染めずにいる、孤独で、どこか神妙な雰囲気を纏った謎の少女』から『物理法則によって周りから浮いてしまうような人生を享受させられた、同情すべき女の子』に変更しなくてはなるまい。運命論ってのは残酷だな。


 もっとも、俺の目の前にいる少女、『神之園楓(かみのそのかえで)』が、実際のところ周りから浮いているのかどうかは――屋上で彼女と話した日々の中で、半ば確信してはいるが――俺は知らない。と言うのも、俺は彼女と、この屋上以外では会ったことがないのだ。屋上以外では見かけたことすらない。


 


 ○


 


 夢見が丘高校へ転校してきた初日。


 俺は当り障りのない挨拶を済ませ、クラスメイトからの一通りの質問攻めをやり過ごし、前の学校より進みの早い授業にやっとの思いで食らいついていた。


 その日の午後は、体育祭の行進やらダンスやらの全校生徒での合同練習になっていたのだが、俺が既に前の学校で今年度の体育祭を終えていたことや、ダンスなどの人数調整や各競技の選手決めが完了していたこと、前の学校より授業が進んでいたことなんかが考慮され、「体育祭の練習の時間は遅れている科目の勉強の時間にしなさい」と、担任から『練習に参加しなくて良い』というお墨付きを貰えたのだ。


 だから俺は体育祭の練習をサボっているのではない。サボっているのは神之園(かみのその)だけだ。


 皆が運動場に行き静かになった教室で、始めの一時間ほどは真面目に勉強をしていたのだが、退屈を感じ始めた俺はまだ把握しきれていない校内を見て回ることにして早々に教科書を閉じたのだった。


 夢見が丘高校は『中等部の生徒が通う通称、中学棟』が山の麓にあり、そこから斜面を登るように、『職員室や音楽室、化学室、図書室などの特殊な教室があるA棟』、『靴箱と、一年から三年までの教室があるB棟』、『旧校舎であり、今はもっぱら古くなって使わなくなった教材や机などの物置として使われているC棟』――以上合計4棟の校舎がある。


 自分が利用することになるであろう中学棟以外の三つの棟を探索することにして、まずA棟の一階から四階まで見て回り、密かに期待していた屋上へと向かった……のだが、屋上へ出る扉には鍵が掛かっていた。今時は屋上を開放している学校の方が珍しいことは知っていたから、アテが外れたという程ではなかったけれど、「A棟がダメでも、生徒たちが多くの時間を過ごすB棟なら屋上が開放されているかもしれない」という甘い期待を捨てきれずに、そのままB棟の屋上を目指すことにした。


 A棟の四階からB棟の三階へと伸びる渡り廊下を抜け、すぐ目の前にあった階段を上へと進む。B棟はどの階も似たような構造だろうと判断し、下の階の探索は省略した。少しでも早く屋上に行きたいと気が急いていたのかもしれない。しかし、その思いが浮かばれることはなく、一階分上っただけで階段は終わっていた。B棟にはそもそも屋上がなくて、俺の『屋上でのんびりと休み時間を過してみたい』といういつからか持ち続けていた小さな夢は阻まれたのだった。


 最後の望みのC棟は、A棟とB棟からは離れていて、一度上履きから靴に履き替え、アラカシ林のトンネルになっている古いレンガ道を登っていかねばならない。


 しかし、転校初日の人間がそんなことを知る由もなく、C棟は隣接しているものだと思い込んでいた俺は、C棟へと続く廊下を探しまわった挙句、「そんなものはない」ということに、三十分以上経ってようやく思い至った。思い込みってのは厄介だ。


 その時点で程よい疲労を足に感じていたのだが、ここまで探しまわった苦労が無駄になるのも癪である。悩んだ末にA棟にある事務室まで戻り、「今日転校してきたばかりだから」と、来客用の小さな地図を貰いうけた後、すごすごと外に出たのだった。


 


 外は突き刺すように照らす日差しが地面の砂を白く反射していて、そのせいでアラカシ林に伸びていくレンガ道は、林の影に入ると同時に暗闇の中に途切れて無くなっているように見えた。


 林の下から見上げても、木立に隠れてC棟の姿を見ることはできない。引き返すことも考えたが、引き返したところで残るものは疲労のみ。林の奥に隠された未知の場所、という少しの興味も手伝って、がたがたなレンガ道を登っていくことにした。


 数えきれないほどのどんぐりが転がるアラカシのトンネルを抜け、しばらくぶりの眩しさの中に姿を見せたC棟は、「ここの屋上は絶対に開放されていないだろうな」と思わせた。


 というのも、今時の多くの学校が屋上を開放していないのは、安全面のことや、教師の目が届かない場所をなくすためだろうから、他の三つの棟から離れていて人目につきにくいのはもちろん、建物自体の老朽化がひと目で見て取れるこのC棟は一番厳重に管理されているだろうと思ったからだ。こんなところの屋上を解放していたら生徒たちの非行の聖地になっているだろう。


 見るからに歴史を感じるC棟の校舎は不気味だった。コンクリートの壁は、もとは何色だったのか想像が付かないほど黒ずみ、至る所にヒビと補修の跡がある。ガラスは全て曇りきっていて、割れている窓こそないものの、ヒビの走ったものはいくつかあった。正面玄関から覗く靴箱の列は、奥に進むにつれ外の日差しに似合わぬ影を濃くしており、重く暗い世界に繋がっているように見えた。


 不気味な圧力に後ずさりそうになったが、ここまで来て引き返すわけにもいかない。鼓動が少し早くなったのを感じながらも、恐る恐る棟内に入った。


 適当な靴箱に履いてきた靴を突っ込み、持ってきていた上履きに履き替える。いつの間にか靴擦れを起こしていた右足を引きずりながら、巧妙に机が積み重ねられた埃っぽい元教室や、黒いカーテンで中が見えず、やたらポップな字体で『オカルト研究会』と書かれた看板が掛けられている扉を横目に見ながら進み、至る所に蜘蛛の巣が張っていて足跡が付くほど埃が積もった階段を、屋上の扉が()()()()()()()確認するために上っていった。


 夢見が丘高校の校舎は、元々はこの旧校舎だけだったようで、林を切り開いてつくった限られた敷地に全ての施設を押し込めたために建物自体が縦に伸びるほかなく、俺は折り返しの階段を五回も登らされる羽目になった。無駄に歴史のあるこの旧校舎には、もちろんエレベーターなんて代物はあるはずもない。仮にあったとしても建物の老朽具合を考えると是非とも遠慮しただろうが。


 なんとか屋上への扉の前まで辿り着いた頃には、汗でシャツが素肌に張り付き、その場で座り込みたくなる程の疲労が全身にのしかかっていて、「どうかこの扉が開きませんように」と祈らずにはいられなかった。


 こんな苦行の伴う可能性は綺麗さっぱり消し去りたかった。いっそドアノブにかけた手をこのまま引っ込めて、今ではもう愛しの空間だとさえ思える、二年八組の教室へと帰還してしまおうかとも思った。


 だが待て。このまま確かめずに帰ってしまえば、『この扉は開いているかもしれない』なんていう考えを頭から完全に追い出すことができないのだ。このまま帰っても、明くる日、屋上への誘惑によって俺自身にまたこの苦行を強いてしまうかもしれない。


 なあに、どうせ開きはしない。さっさとこのドアノブにかけた手を回して『屋上への扉は閉じられている』という事実を確定させよう――――――――


 


 ○


 


 扉の先の彼女に出会ったのは、彼女の言うとおり運命か、はたまた宿命か。


 それともただの偶然であり、数ある可能性のうちのひとつだったのか。


 もしそうなら、幾多の未来の中から神之園楓(かみのそのかえで)との出会いを選んだのは誰なのか。


 俺か。神か。運命か。


「物理法則か……」


 新たな容疑者はある程度の説得力を持って現れたが、今の俺には、どことなく現実味のないものだった。


 


 体育祭の合同練習の終わりを告げるチャイムが鳴り、俺は慌てて屋上を後にして、一人急いでC棟の階段を駆け下りる。


「一緒に戻る所を見られたら恥ずかしいじゃない」とは彼女の言で、俺たちはいつも別々に教室へと戻る。恥じらいなどないような言動を取る彼女だが、『恥らい』と『恥』は違うのだろう。俺と一緒にいるところを見られるのは『恥』だと思われているのかもしれないと考えると少し凹むが、彼女は存外、「普段は大人しい優等生なのよ」と自称しているので、男子生徒と二人、人気のない屋上でサボっているのが露呈するのは避けたいのかもしれない。


 


 B棟まで走って戻ってきたために乱れた呼吸を整えながら教室に入ると、既に運動場から戻ってきた男子が体育着から着替えているところだった。女子はB棟の一階に女子更衣室があるのでそこで着替える。男子更衣室もあるらしいのだが使ってる生徒は見たことがない。


 男の汗の匂いが漂う中こっそりと自分の席に座ろうとしたところで、藤岡が制汗スプレーを裸のままの上半身に噴きかけながら近づいてきた。体からモクモクと煙が立っている。


「ドライアイスかお前は」


「どこいってたんだよ侑真(ゆうま)! さっきすっげー面白いことあったんだぜ!」


 俺のツッコミにも気づかない程にテンション高めな藤岡は、そのまま俺の机に両肘をついた。


「あと一分早く戻ってきてたらなー! いやー、あれを見逃したのはマジでもったいねえ!」


 そんなことを喚きながら、そのすっげー面白いことを思い出したのか笑い出すドライアイス。もとい藤岡。


 彼は転校初日から馴れ馴れしくも不快には感じない絶妙な距離感で絡んできた男だ。休み時間を使って校内の案内を買って出てくれたのもこいつだった。つまりこいつがC棟の説明をちゃんとしてくれていれば、その後俺が無駄に歩き回らずに済んだことになるが、その場合、意地を張ってC棟への長い道のりを登っていくこともなく、屋上で神之園に出会うこともなかっただろうから、結果的には良かったのかもしれないと今では思う。


 藤岡は常に面白いことを探しまわっては、逐一報告してくれる愉快な奴である。話の始めに毎回、「すっげー面白いことがあったんだぜ」と自らハードルを上げてくるが、俺の集めた統計上、八割は少しクスリとくる程度の話だ。残りの二割はクスリともこない。


 案の定今回の話も、クラス委員長の田口君が体操着のズボンを脱ごうとしたところ、汗で張り付いていたパンツまで一緒に下ろしてしまった、という他愛のない話だった。


 ――いや、これは想像すると結構面白いな。いつもお堅い田中君が慌てふためく姿が目に浮かぶ。統計を更新しておこう。


 藤岡は話し終えてまた笑いがぶり返していた様子だったが、思い出したように「それでどこ行ってたんだよ」と問いかけてきた。


 合同練習のときにC棟の屋上で神之園と無駄話をしていることは、お互いの内申点のために口外禁止の極秘事項になっているため、適当に「図書室で自習していた」と嘘をついた。だが、藤岡はその『図書室』というワードに食いついた。


「図書室!? なぁ! 図書室では一人だったか?」


 しまった、と思った。俺はまだ図書室に入ったことがない。話を合わせられるかどうか。


「おう……一人だったな、確か」


「妙な物音とか聞こえなかったか? 話声とかさ」


 妙な物音? 話し声? どういうことだ?


 思い返している風を装った後、何も聞こえなかったと返事をした。


「やっぱりそうだよなぁ……図書室っても旧校舎の方ってのが本命だしなぁ……」


 がっかりしている藤岡に今度はこちらが質問する。


「どういうことだよ? 図書室には幽霊でも出るのか?」


「お、侑真(ゆうま)はまだ知らないのか」


「知らないって何をだよ」


「夢見が丘高校の七不思議だよ」


 七不思議! 心霊番組やオカルト番組が絶滅しかけている昨今に、この高校にはまだそんなものが存在しているのか!


「図書室に一人でいると聞こえるらしいんだよ。ページをめくる音だったり、話し声だったりがさ。この話は七不思議の中でも有名だぜ。なんたって先生の中にも聞いた人がいるくらいだからな」


 したり顔で話す藤岡だが、噂ってのはどこで尾ひれがついているのか分からない。大抵の真相は実に下らないものだったりする。実際、俺が小学生のころ創りだした怪談話が、翌年には実際あった出来事としてまことしやかに語られていた。


 しかし藤岡が言うには夢見が丘高校の七不思議はどれもそこそこの信憑性があるらしい。


「まず第一に!」


 と、藤岡は夢見が丘高校七不思議がいかに信用に足るかを得意気に解説し始めた。


「夢見が丘高校七不思議は七つもないんだ」


 いきなり前提を覆すようなことを言ってくる。クイズか? 哲学か? 哲学の話はさっき屋上で散々聞かされたから勘弁してくれ。


「この意味がわかるか? 侑真」


「わからないよ。とんちは苦手だ」


「とんちじゃねーよ! つまりだな、もし、七不思議が作り話なら、適当に七つ分取り繕うだろ? 七不思議なんて色々定番の話があるんだからさ、そいつらを数合わせに使っちまえばいい」


「まぁ、それもそうだな」


「だがしかし! 夢見が丘高校七不思議はずっと少ないままだ。確か三つか四つだったかな? いや、五つだったか」


 随分と曖昧だな。果たして七不思議と呼ぶ必要があるのか? それは。


「俺もそんなに詳しい訳じゃないんだよ。だけど、この中途半端さが、語り継がれてきた話は実体験に基づいてるっていう、なによりの証拠だと思わないか?」


「思わないか? って言われてもなぁ」


 なんだか悪徳業者が使いそうな理論だ。奥さんに信用してもらいたいから正直に話すんですがね、この羽毛布団は百パーセント天然もののマザーグースダウンってわけじゃないんですよ。一割程はランクの落ちるもんです。でも残りは正真正銘の最高級品! 本当に素晴らしい品質なんですよ! どうです? 奥さん。


「……納得いかないって顔だな。それじゃあ根拠二つ目だ。これはさっきも言ったが、先生や、それに嘘なんてつかないような真面目な生徒も七不思議のことを証言している!」


 どうだ? と言わんばかりの顔で覗きこんでくる藤岡。近い。制汗スプレーの匂いが目に染みる。


「その先生ってのは誰なんだ?」


「確か古文の滝川先生だったかな。あと体育の土田」


「滝川先生? 古文の先生は、確か……田村先生だったよな? 違う学年の先生か?」


「いや、十年くらい前に定年退職になった先生らしい」


「土田ってのは?」


「土田は二年前に転勤した。噂じゃセクハラして飛ばされたんじゃないかって話だ」


 ……おや? 雲行きが怪しいぞ。


「じゃあ嘘をつかなそうな生徒っていうのは?」


「俺が知ってるのは三年前に卒業した小松先輩だな。小松先輩の言うことなら間違いない。なんてったって先輩は生徒会の会計もやってたんだぜ?」


 さも生徒会の会計をやってたことが嘘をつかない人格者たる所以だと言いたげである。生徒会の人、どうなの?


 まぁ何にせよ、


「証言したのは今はもう学校にいない人達ってことだな?」


「な、なんだよ。疑ってんのか? ちゃんと実在する人たちだぜ? 小松先輩なんて俺の憧れの人で、ちゃんとこの目に焼き付いてる」


「……俺は別に小松先輩の存在自体を疑ってるわけじゃないぞ?」


 三割くらいしか疑ってなかった。


「わかってるよ。あれだろ? 証言が嘘かもしんないってことだろ? そこんとこは心配すんな。小松先輩は、絶対に、嘘をつくような人じゃないぜ」


「絶対に」の部分をえらく強調しながら藤岡は胸を張る。


「……随分と自信満々だな。仲よかったのか?」


「いや……そういう訳じゃないけどよ……」


「ないのかよ」


「見たらわかんだよ! 小松先輩は大人しくて、真面目で、可憐で、でもそれを鼻にかけずに誰にでも分け隔てない態度でさぁ。俺が初めて先輩を見たのは中等部入学式での生徒会挨拶だったんだけどな? その時の衝撃ったらないね――」


 つらつらと入学式での出会いから小松先輩の卒業までの、半ばストーカー的な学校生活を語りながら、ルーベンスが描いたキリストの絵に想いを馳せるネロもかくや、という表情になる藤岡。つまり小松先輩のことが好きだったんだな。小学校卒業したての男の子に女子高生というのはさぞ神々しく見えたのだろう。


「……小松先輩がいかに聖女だったのかはわかったよ。嘘をつくような人ではないってこともな」


「おお! わかってくれたか」


 力強く俺の肩を両手で掴む藤岡。薩長同盟が締結した瞬間の坂本龍馬もかくや、という表情だ。そのまま三日三晩、小松先輩の高貴さを語りだしそうな勢いの藤岡を制止する。


「それでも、小松先輩が本当に妙なことってのを体験したかどうかは分からないだろ」


「何言ってんだよ! 説明足りなかったか? 小松先輩は嘘をつくような人じゃないって!」


 アナーニで囚われたボニファティウス八世もかくや――いや、これは言いすぎだな。


「それはわかったって。俺が言いたいのは、小松先輩が嘘をついたんじゃなかったとしても、『小松先輩が妙な体験をした』と他の人間が噂を広めた可能性があるってことだ」


「なにぃ……っ! ……なんだって?」


「別の誰かが、小松先輩の名前を騙って嘘の噂を流したのかもしれないだろ? そんだけ信用できる人なら名前だけでも効果はありそうだ」


「それは……ないとは言い切れねーけどよ……俺も本人から聞いた訳じゃないし……」


 物陰から見つめてただけだもんな。毎日。


「……お前、疑り深いやつだな」


 疑り深くもなる。ついさっき運命論なんていうオカルトとは真逆の話を延々と聞かされたばかりだ。


「他にはないのか? 信用できる根拠ってのは」


「ん? あ、ああ……一応あるぞ。でも小松先輩ほどの説得力はないぜ?」


 どれだけ小松先輩を信仰してるんだよ。少し会いたくなってきたじゃねーか。


「七不思議の物的証拠をな、掴んだって人がいるんだよ」


 先ほどの恍惚の表情とは打って変わって渋い顔で言う藤岡。


「物的証拠?」


「なんか『図書室の物音の録音に成功した』とか『幽霊の姿を写真に抑えた』とか」


「へー。それが本当なら一番の証明になるだろ」


「本当ならなぁ」


「嘘なのか?」


「嘘と決まった訳じゃないんだが、それ言ってんのオカルト研究会の会長なんだよ」


 オカルト研究会……。確かに手放しでは信用できないな。


 C棟の屋上に行く途中、黒いカーテンで中の見えない教室の扉にかかった『オカルト研究会』という看板はよく見る。あのやたらポップな字体は胡散臭さマックスだ。


「もし興味あるなら放課後にでも話を聴きに行ってみたらどうだ?」


「藤岡はなんで行かないんだ? お前ならすぐ飛びつきそうなもんなのに」


「いやぁ、あの人はなー。なんというか近寄りがたいっていうか……」


 意外な返答だ。藤岡ほどのコミュ力を持ってして躊躇してしまうような人物なのだろうか。


「どんな人なんだ?」


 藤岡は妙に実感のこもった声でため息交じりに言った。


「一言で言うなら、天才だな」


「天才?」


「ああ、それにすっげー美人でもある」


「ほぉ」


「でもな? それ以上に危ない噂が尽きないんだよ。最近オカルト研に新しく入った中等部の女の子も会長の実験台にされてるんじゃないかって専らの噂だ」


「実験台……?」


「オカルト研究会なんて名乗っちゃあいるがな、会員はずっと会長一人きりなんだよ。会長に近づく目的でオカルト研に入ろうとする奴は今まで何人もいたらしいんだけどさ、そのほとんどが門前払いされて、たまに入れたやつがいても一週間としないうちに逃げ出してくるんだよ。どうも入ったやつらは全員命に関わるほど危険な実験に付き合わされるらしい」


「……命に関わる?」


 かなり嘘臭いんだが。


「俺だって噂が大げさになっただけだとは思うんだけどよ、あの人ならなにやってもおかしくないって思えちまうんだよ。そういう雰囲気とゆーか空気みたいなのがあってだな」


「空気――か」


 ずいぶんと曖昧な理由だが、妙に納得できてしまった。人が持つ空気。それをC棟の屋上で俺も感じている。


 神之園楓――具体的には説明できないが、彼女には、なにか特別な空気を感じる。とても儚くて軽いなにか。種類は違えど、藤岡がオカルト研会長に感じているのも似たようなものなのかもしれない。少しだけ、その会長に興味が湧いた。


「まぁ、気が向いたら行ってみるよ」


 オカルト研の前はいつも通っているし、機会があれば少しくらい覗いてみてもいいかもしれない。そんな軽い気持ちで言った言葉だったのだが、


「お! ホントか! 意外とアクティブだな侑真!」


 藤岡は目を見開いて、嬉しそうに声を上げた。


 肩をばしばし叩かれながら、迂闊なことを言ってしまったかと後悔していると、その後悔を後押しするように、藤岡は叩いていた手をそのまま肩を組むように移動させた後、声を下げ、


「だけど、行くときは覚悟して行けよ? あの人はマジでぶっ飛んでるから」


 怖いことを言う。前言撤回してもいいだろうか。


「いやぁでも侑真が行ってくれるのは嬉しいぜ。実は俺もちょっと気になってたんだよ」


 既に藤岡の中では俺が行くことが確定したらしい。嬉しそうに笑っている藤岡を見ると生け贄にされたんじゃないかと思えてくる。


「……それより藤岡」


「お? なんだ? 会長の逸話でも聞きたいか?」


「それはまた後で」


「あ、オカルト研究会の場所か?」


 それはもう知ってる。


「とりあえず、すぐに着替えを済ませた方がいい」


 話に夢中で上半身裸のままの藤岡を、着替えを終えて戻ってきた女子達が教室の入口から睨んでいた。


 


 ○


 


 高等部三年一組、牧瀬摩耶(まきせまや)


 藤岡曰く七不思議に加えてもいいレベルの変人だというオカルト研究会の現会長は、藤岡と同様、中等部からそのまま高等部に進んだエスカレーター組であり、そのぶっ飛び具合は藤岡が中等部に入学して一年ほど経った頃から顕著になり始めたという。


 学校に来ない日が増え、来たとしてもすぐに授業を抜け出すようになった。授業中にいきなり立ち上がり、そのまま教室を出て行くのだそうだ。当然抜け出そうとする彼女に教師は理由を聞くのだが、「生理です」とだけ答えると、笑顔で去っていく。


「それでいて、成績は全国トップレベルなんだぜ? 人生不平等だよなぁ」


 放課後の教室で藤岡はため息をついた。


 牧瀬摩耶(まきせまや)は中学三年になると一日学校にいる日はほとんどなくなったのだが、入学以来受けたテストで満点以外取ったことがないという規格外の天才だったため、留年することなく卒業したらしい。


「先生達も途中から何も注意しなくなってたって話だ。逆に牧瀬摩耶が居なくなったらホッとしてたんだってさ」


 授業を抜け出すだけなら可愛いもので、しょっちゅう事件を起こすために先生達からは腫れ物扱いだったらしい。


「牧瀬摩耶の逸話は数えだしたら切りがないぜ? 二階の教室での授業中にいきなり窓から飛び降りたり、近所中の野良猫を学校に連れ込んだり、誰かが話しかけても意味不明な返事をするなんてしょっちゅうで、泣かせた教育実習生は三人もいる。でも一番インパクトがあったのはあれだな。鏡事件」


「鏡?」


「あぁ、学校中の鏡を黒いペンキで塗りつぶしたんだよ。男子トイレの鏡も全部だぜ? ありゃあ大騒ぎだったなぁ」


「……なんでそんなことしたんだ?」


「わかんねぇよ。学年違うし、話したことはないからな。牧瀬摩耶と同じクラスのサッカー部の先輩だって『あいつが何考えてるのかわかるやつなんていない』って言ってたぜ」


 そんな変人がいるオカルト研の前を俺は毎日通っていたのか。今後はばったり出くわさないように注意しておこう……。


 そう心の中で呟いていると、腕組みをしてなにやら考えていた様子の藤岡が渋い声で話しかけてきた。


「……侑真、さっきは俺がけしかけるようなこと言っちゃったけどさ、やっぱり興味本位で近づくのは止めといたほうがいいかもしれねぇ」


 似合わない真剣な表情に面食う。


「……どうしたんだ? 急に」


「いや……改めて話してるうちに考え直したんだよ」


 歯切れの悪い返答に納得できず追求すると、「ただの噂だからな?」と前置きした上で藤岡は話し出した。


「オカルト研に入ったやつの一人、一個上の先輩なんだけどな? ……ただオカルト研を辞めただけじゃなくて、牧瀬摩耶から逃げるために他県にまで引っ越したみたいなんだよ」


「……それはただ引っ越しが重なっただけじゃないのか?」


「俺もそう思ってた。いや、今もそう思ってはいるんだけどな? ただ、引っ越し際、サッカー部の先輩が見送りに行った時、そいつ、人が変わったように怯えながら言ったらしいんだよ……『牧瀬摩耶は本気で俺のことを殺そうとした』って」


「……それ、信じてるのか?」


「信じてない! 信じてない……けどさ、百パー嘘だとも言えないっていうか……」


 冗談とも思えない険相に少しだけ重い空気が流れたが、「ま、まぁ噂が流れるにつれ話が盛られていったんだよな、きっと」と言って藤岡は固い笑い声をあげた。


「……その話の真偽は分からんが、今、中等部の女子がオカルト研に入ってるんだろ? その子に話を聞けばいいんじゃないか?」


「うーん……中等部の女子となるとなかなか接点ないからなぁ……俺は部活があるから放課後出向く訳にもいかんし。それにその子はその子で結構変わり者っていうか、気が強いらしくてな? 入学そうそうクラスメイトにビンタ食らわせたとかで、どうも孤立してるっぽいんだよ」


「ビンタして……孤立……?」


 少しだけ、嫌な予感がした。


「その子……名前は?」


「なんだったかなぁ結構変わった名前だったような……小動物的な……」


 嫌な予感が疑惑に変わる。


「……後で電話してみるか」


「電話? 誰に?」


「妹に」


「え? 妹? お前妹いたのか?」


「言ってなかったか? 中等部にいるぞ」


「マジかよ! 聞いてねーよ!」


 先ほどの深刻な様子とは打って変わって、机に両手をついて立ち上がった藤岡の叫び声は教室にまばらに残っているクラスメイトの視線を集めた。相変わらずこいつはリアクションがでかい。


「侑真の妹かぁ。似てるのか?」


「似てないな。まったく。兄妹には見えないと思うぞ」


「んー! 気になる! 中等部の何年だ?」


「二年だよ」


「二年ってことは三つ下かー」


 何に思いを巡らせているのか分からないが、目を閉じたままうんうん頷いていた藤岡は、何かに気づいたように急に怪訝な顔に代わった。


「あれ? でも侑真の妹ってことは転校生だよな? 中等部って編入制度ないだろ?」


「……そうなのか?」


「ああ、中等部に編入なんて今までないはずだ。なんでお前の妹は入れたんだ? もしかしてお偉いさんのご子息だったりするのか?」


 一瞬、ごまかそうかとも思った。が、藤岡には正直に話してもいいだろうと思い直す。


「転校してきたのは俺だけで妹はもとからここの生徒なんだよ」


「……どういうことだ?」


 別に隠したい訳ではなかった。だが、一から説明するのもいらぬ気遣いを生んでしまいそうに思えて、迷ったあげく、伝家の宝刀で誤魔化すことにした。


「……まぁ、家庭の事情ってやつだよ」


 


 ○


 


 今では見慣れた旧校舎一階、階段手前にある『オカルト研究会』の部室。


  その扉の前で頭を抱えてもうすぐ三十分が経過する。


 黒カーテンで隠されていたオカルト研究会の扉には『取っ手』が無かった。普通なら付いているはずの場所にくぼみが無く、かといってドアノブがあるわけでもない。真っ平らなのだ。他の教室の扉はガラス窓付きの木でできた引き戸なのだが、この扉は一面滑らかな金属板で、ノックをしても返事はなく、押してみてもビクともしない。


 もちろん、今日は誰も来ていないから鍵がかかっているのだろうと思った。しかし、帰ろうと振り向いたときに突然話しかけられたのだ。


「おや、帰ってしまうのかい?」


 聞こえてきたのは女の声だった。妙に色気を含んだその声は、どうやら扉越しのものではなく、扉自体から聞こえたようだった。つるりとした金属扉にスピーカーでも仕込んでいるのかもしれない。おかしな状況に戸惑った俺が疑問の言葉を発する前に、扉はその答えを返してきた。


「私が牧瀬摩耶だ。君は私に会いに来たんだろう?」


 さらにその次の疑問も先読みするように、


「鍵はかかっていないよ。この扉は開かれている」


 それっきり、沈黙。


 扉に話しかけられるというおとぎ話のような体験にしばし放心した後、こちらから話しかけてみたが返事はない。静まりかえった廊下で一方的に扉に話しかける恥ずかしさは数秒の内に空しさに代わった。


 鍵はかかっていないという言葉を信じて、力いっぱい押してみたり、手のひらをくっつけてスライドさせようとしてみたり、扉の下の狭い隙間に指を突っ込んで持ち上げようとしてみたりしたのだが、どれもただ薄暗い廊下での空しさを更に膨らませるだけだった。中を覗こうにも、扉以外の壁一面を覆っている黒カーテンは、どうやら壁にそのまま接着されているようで、覗き見ることは出来なかった。


 C棟に来てから何度目かになるため息をつきながら思う。


 ――杞憂だといいんだが……。


 教室で牧瀬摩耶の話を聞き、部活に遅れると慌てて飛び出していった藤岡を見送った後、俺はすぐに妹に電話をした。電話に出た妹はタイミングが悪かったのか周りを気にするように小声だったのだが、俺がオカルト研の話を始めた途端、


「お兄ちゃん、あそこに関わるのはやめといた方がいいよ!」


 と、焦ったような声を出したかと思えば、すぐに通話を切られてしまった。疑惑はさらに深くなり、そのまますぐにC棟に向かったのだったが……。


 やはり考えすぎだったのだろうか?


 オカルト研に入った中等部の女の子は気が強く、孤立しているらしいと聞いてまさかと思い来てはみたが、よくよく考えてみれば妹が孤立しがちだったのももう何年も昔のこと。離れて暮らしていた間に聞いていた学校生活も特に問題はなさそうだったし、実際、しばらくぶりに再会した妹は随分と明るくなっているように見えた。


 それにもし、妹がオカルト研にいるのなら、俺がここで開かない扉相手に悪戦苦闘しているのを黙って放置するとも思えない。


 もう一度だけ電話して、取り越し苦労を確認できたら帰ってしまおう。


 そう思い携帯を取り出したのだが、顔を上げればそこには不気味な金属扉。オカルト研の話を、オカルト研の目の前でするのは何となく憚られ、取り出した携帯をポケットに入れると、靴箱のほうへと歩いて戻った。


 シンとした旧校舎の薄暗い廊下に、自分の足音だけが反響する中、靴箱近くに扉が少し開いている古教室を見つけ中に入る。中はひどい埃で咳き込みそうになりながらも、後ろ手に扉を閉めて、着信履歴の『妹』に触れた。


 静寂の中、発信音が鳴った。


 一秒と待たずに繋がった。


 


『そろそろ電話してくる頃だと思ったよ。悠岐前侑真(ゆきさきゆうま)君』


 


 妙に色気のある声が聞こえてきた。


「…………は?」


 慌てて携帯のディスプレイを確認する。間違いなく表示されているのは『妹』の文字。


 そんな俺の行動さえ見透かしているように、携帯から牧瀬摩耶の声が流れてくる。


『安心していい。君がかけたのは小動侑理(こゆるぎ ゆうり)の携帯だ』


 ……訳がわからない。


 なぜ妹の携帯から牧瀬摩耶の声が聞こえるんだ? 何が安心していいんだ?


『混乱しているところ悪いが、一度メールを確認してくれないか? 通話は繋いだままでね』


 困惑したまま言われた通りに確認すると、メールが一件届いていた。


 タイトル、『残り5分』。


 開く。本文はなし。添付画像が一つ。


 画像を開く。


 巨大な水槽。その中で、目隠しと猿ぐつわをされた女生徒が、金属製の頑丈な椅子に、縄で何重にも縛り付けられている。水槽の縁に固定された太いホースからは勢いよく水が吹き出ていて、すぐ隣のテーブルに置かれた大きなデジタル時計には「5:00」の表示。


「……これは?」


『ふふ、とぼけなくてもいい悠岐前(ゆきさき)君。見て分かるだろう?』


 女生徒の顔は目隠しと猿ぐつわで大部分が隠れている。


 だが、縛り付けられている女生徒は――


 間違いなく、侑理(ゆうり)だった。


 


『君の可愛い妹はあと5分で溺れてしまうということだ』


 


 …………何を言っているんだ? こいつは。


『ほら、よく耳を澄ませてごらん。聞こえるだろう?』


 言われて気がつく。牧瀬摩耶の声の後ろで聞こえるノイズのような音――


 勢いよく吐き出されている水の音だ。


『まぁ、信じられないのも無理はないか。少し待っててくれ』


 そう言う牧瀬摩耶の声が遠ざかり、背後に聞こえていた水音が大きくなる。


 そして、別の声が微かに聞こえてきた。


 くぐもったような呻き声――


 それは紛れもなく、妹の声。


 藤岡の言葉が蘇る。


 ――そいつ人が変わったように怯えながら言ったらしいんだよ。『牧瀬摩耶は本気で俺のことを殺そうとした』って――


 勢いよく開けた古教室の引き戸が破裂したような音を立てた。力任せに開けたせいでレールから外れて地面に倒れてしまったのかもしれない。少し遅れて、けたたましい音が背後で聞こえた。しつこく残る残響の中、相変わらず静かに、冷たく佇んでいるオカルト研究会の扉を、走ってきた勢いそのままに思い切り蹴飛ばした。


 ビクともしなかった。


 もう一度蹴る。


 コンクリートを蹴っているような無力感。


「開けろ!」と叫んだ声が校舎中に散っていく。


 立ち尽くしている時間はない。壁一面を覆う黒カーテンを、体重をかけて思い切り引いた。


 壁とカーテンの接続部がドミノ倒しのように剥がれていく。


 窓でも、ドアでも、蹴破れそうな所ならなんでも良かった。剥き出しになった壁に、中に入れそうな隙はないかと見上げる。が、現れたのは一面が奇妙な機械でびっしりと埋め尽くされた壁だった。奇怪な光景に思わず立ちすくんでしまう。次々と疑問が湧き出てくるが、考えている余裕はない。分かったことは、ここから入るのは無理だということ。


 どうする? 教師をつれてくるか? ダメだ。C棟は遠すぎる。到底間に合わない。人は溺れてどれくらいもつんだ? 俺にはあと何分残されている?


 時間を見ようとして、いつの間にか携帯を手放していたことに気づいた。見渡すと、はぎ取ったカーテンに半分埋もれるようにして落ちている。急いで手に取る。通話画面のままだった。耳に当てると同時に牧瀬麻耶の声。


『残り時間は通話時間を見るといい。それが5分になったときに水槽の水位が君の妹の鼻の高さに達する。それからどれくらいもつかは君の妹次第だが――――このパニック状態ではあまり期待できそうにないね』


「どうすれば開くんだ?」


『君が願えばこの扉は自然と開かれる』


「真面目に答えろ!」


 返事はかえってこない。


 願えば開く? からかってるのか? いや、ここはオカルト研で、しかも相手は頭がぶっ飛んでるらしい牧瀬摩耶だ。超能力で開くなんてことを本気で言ってるのかもしれない。


「今すぐ水を止めろ。こんなこと、いくら学校に特別扱いされていてもタダで済む訳がない」


『おや、それは脅しているつもりかい? 私がなんの策も用意していないとでも? 事故死に見せかけるなんて簡単なことなんだよ。悠岐前(ゆきさき)君』


 こいつ、本気か……?


 ――あの人ならなにやってもおかしくないって思えちまうんだよ――


 藤岡の言っていたことが分かった気がする。携帯越しに聞こえる牧瀬摩耶の声は、躊躇なく『策』とやらを実行してしまいそうな狂気を感じさせた。


 どうにかして止めなければいけない。一応、馬鹿らしいとは思いながらも、牧瀬摩耶の言った通り、扉に向かって「開け」と何度も念じてみた。口に出してもみたが、当然、扉は開かない。


 壁をもう一度観察してみる。びっしりと並んだ機械の隙間からわずかに見える壁はコンクリートで、とてもどうにかなるものではない。こちらの壁面から入れないなら、別の面から入るしかない。廊下側には窓がなくても反対側の外壁には窓があるかもしれない。玄関から外に出て回り込み――いや、隣の教室に入って、そこの窓から外に出た方が早い。


 移動の時間も惜しく、走りながら牧瀬摩耶に問いかける。


「なにが目的だ」


『君の妹が悪いんだよ。余計なことをしゃべらなければ、こんなことをしなくて済んだんだ』


 ……侑理が悪い? 確かに侑理は昔から相手の急所をえぐるようなことを口にしてしまうところがあった。今までもそれで苦労してきたが…………今回は相手が悪かったか?


「クソッ!」


 隣の教室の扉を開ける。元は理科室だったのであろうその教室には、壁際に天井に届くほどの段ボールが積み重ねられていて、それでも置ききれなかったいくつかの段ボールや、古い実験器具が並んだ棚が、床に固定された六つの広い机の間に押し込まれるように放置されていた。だが、通れないほどではない。通話をスピーカーに切り替えたあと胸ポケットに入れ、障害物を押しのけながら窓へと進む。


「侑理が何を言ったかは知らないが許してやってくれないか?」


『それは君次第だよ。わざわざ助ける猶予をあげたんだ。君が間に合ったのなら、私はもう君の妹には手を出さない』


 …………やはりこいつはおかしい。間に合ったらもう手を出さないだと? 何を言われたにせよ、溺死させようとすること自体が正気の沙汰ではないのに、その意思さえ結果次第で捨ててしまえるということが余計に牧瀬麻耶の危険性を思わせる。


 障害物だらけの理科室をなんとか横切り、外に面した窓に手をかけた。立て付けが悪く、なかなか開かない。両手で思い切り引くと、耳をつんざくような不快な音を立てながらガタガタと開いた。風が吹き込んでくる。窓枠に足をかけ、一気に外へ飛び降りた。やけに眩しく感じる夕日に背を向け、すぐにオカルト研の壁を――


『そっちにも窓はないよ。ここはもともと暗室だからね』


 窓などなかった。触れてみても、長い年月で黒ずんだ外壁は、やはり侵入など考えられないほどの分厚さを感じさせた。


「……見てるのか?」


『あれだけ隣から音を立てられたら見てなくとも分かるさ』


 それなら先に言えよ。と叫びたくなったのをかろうじて飲み込む。時間が惜しい。すぐに踵を返し、出て来た窓をくぐる。行きにできた障害物の隙間を駆け抜け、廊下に戻った――


 瞬間、違和感を覚えた。


 もう一度、理科室に入る。


 また、廊下に出る。


 違和感の正体に気づいた。なぜか、廊下の方が静寂を感じる。


 理科室の中では微かに聞こえるのだ。ノイズのような音が。


 理科室後方のオカルト研に接する壁を見る。段ボールで埋め尽くされている。すぐに壁に向かって障害物を押しのけながら進んだ。


 さっき牧瀬摩耶も言っていたじゃないか。「あれだけ隣から音を立てられたら分かる」と。通話をスピーカーにしていたからだと思っていたが、牧瀬摩耶は「隣から」と言ったのだ。


『おや、気づかれてしまったか。不用意だった』


 ……不用意だった? まるで焦った様子のない声。その上すぐにその言葉が出てくるということは、「隣から」というのはもしかして意図して言ったのか……? わからない……考えるのは後だ。


 足下にある段ボールのうち、中身が書類などで埋め尽くされているであろう重いものを引きずって足場を作る。だが、二段重ねただけの即席の足場では高さが足りず、一番上の段ボールには届かなかった。気合いを入れ、上から三つめの段ボールに手を伸す。


 拍子抜けだった。壁際に積まれた段ボールは全て空だった。見た目は床に散らばっている他の段ボール同様、年月を感じさせる薄汚さだったから、中身が空っぽだなんて考えもしなかった。やはり思い込みってやつは厄介だ。


 足場を降りて、段ボールの壁を根元からなぎ倒す。俺をあざ笑うかのように軽い音が室内に満ちた。


 だが、


「――あった」


 外窓の近く、壁の右側に、理科室とオカルト研を繋ぐ扉。


 ドアノブを回し、押す。開かない。しかし、ただ鍵がかかっているだけの普通の扉だ。廊下側のビクともしない金属の扉とは違い、この扉は木製で年季もだいぶ入っている。


 これなら――


 扉の前の段ボールを押しやって道を作る。扉と向かい合い、助走をつけて――肩から突っ込んだ。


「いっ……てぇ……」


 思い切りが足りなかった。痛む肩をさすりながら、更に助走のための道を伸ばす。


 先ほどより遠くなった扉を見ながら深呼吸――――――


 踏み込んだ。


 


 右肩に衝撃を感じた後、顔面に激痛が走った。勢いで顔面から床に倒れ込んだらしい。痛みで目が開けられない。自然と声が漏れる。


 だけど、成功したみたいだった。はき出されている水の音がうるさい程に響いている。


 顔を上げた。心臓が鳴った。牧瀬摩耶は本気だった。


 部屋の真ん中。理科室の半分にも満たない広さの部屋には場違いな巨大さの水槽が、侑理を飲み込んでいた。そして、


 


 既に、侑理の頭を越えそうなほどの水を満たしている。


 


 痛みが吹き飛ぶ。気づけば、近くにあった椅子を振り上げ、水槽に叩きつけていた。


 水槽は派手な音をたてて、割れ――なかった。全力だったはずなのに、分厚いアクリル製の水槽には、へこんだような傷はできていたものの割れそうな気配はまるでなかった。割るのが無理なら、侑理を椅子に縛り付けている縄を切るしかない。縄を切れるものはないか室内を見渡す。水槽の隣、部屋の中央に置かれた大きめのテーブルには雑多に積み上げられた本やマグカップがあるだけ。その奥、向かいの壁際には何なのかも分からない様々な機材が並んでいる。右を見る。本棚と、電気スタンドがついているだけの小さなデスク。そのデスクの下にキャビネットを見つけ飛びつく。が、引き出しにはすべて鍵がかかっていた。


 鼓動が速まる。


 振り返る。ぶち破った扉の隣には細長い革張りのソファがあるのみ。だが、廊下側の壁際に爆弾でも作れそうなほど多様な工具が置かれた無骨な作業台が見えた。駆け寄る。卓上棚の隅に工具箱を見つけ引き寄せる。慌てて開けようとするが、焦りで余計な時間を食う。やっと開いたと思っても目に入るのはレンチやスパナやドライバーや何に使うのか分からないものばかりで刃物が見つからない。


 焦りが視野をさらに狭くする。


 中身を作業台の上にぶちまけた。工具の山に手を突っ込んでならす。何かが爪の間に深く刺さった。痛みと苛立ちを怒号で追い払う。


 やっと見つけたニッパーを手に取り、すぐに水槽に飛びついた。自分の目線ほどの高さにある縁になんとか足をかけ、落ちるように中へ飛び込む。


 全身を包んだ水は冷たくなかった。それどころか、少し暖かいと感じるほどだった。おかげですぐに体は動いた。目の前には縛り付けられたまま力なく揺れる侑理。巻き付けられたロープを下から順にニッパーで切断していく。


 無我夢中で手を動かしているうちに、侑理の身体が椅子からふわりと浮いた。そのまま抱えて水面に飛び出す。


「侑理!」


 昏睡し、首を垂らすだけの妹を見て血の気が引いた。


 頭の中は洪水のように思考が荒れ狂っているのに、どうすればいいかわからない。完全にパニックだった。とりあえず水槽の外に出ようとして、どうやって侑理を担いだまま外に出るのか考えていなかったことに気づき絶望する。


 落ち着け落ち着け落ち着け――


 椅子の上に立ち、侑理を背負おうとする。が、まだ中学生の女子とはいえ意識のない人間を背負うのは困難だった。下手をすれば水中に侑理を落としてしまう。自分だけ先に出て外から侑理を引っぱろうにも、外に出ている間、侑理を立たせておくことはできない。


 水難事故が起こった場合は一秒でも早く応急処置をしなければいけないことは分かっていた。今、焦っているこの瞬間にも、侑理の命はどんどん脅かされている。そのことがさらに焦らせた。


 早くしないと。早く、早く、早く。侑理を外に出さないと、早く出さないと、どうすればいい、早く出すんだ、それは分かってる。どうやって外に出す? どうやって。おちつけおちつけおちつけ――


 


 ――にいちゃん――おにいちゃんってば――


 


 思考は雪道にはまったタイヤのように勢いよく空回りしていた。頭の中に溢れる言葉の意味さえごちゃごちゃになっていた。だから、聞こえていた声も、本物なのだと分かるまで時間がかかった。


「――――侑理?」


「やっと気づいた」


 抱えていた妹が薄く笑った。


 一気に全身が脱力し、危うく二人で水中へ逆戻りするところだった。


 侑理は一度自分の足で立とうとしたが、まだ力が入らないらしく、俺にもたれるように体重を預けた後、


「――すごいね、心臓の音。ばくばく言ってる。そんなに心配だった?」


 安堵で大きなため息が出た。まだ弱っている声色だが、こんな軽口を言えるならひとまずは大丈夫だろう。


 侑理は返事をしない俺を見上げると、打って変わってやけにしおらしくなった。


「……ごめん、心配掛けて」


「謝らなくていい。身体は大丈夫か?」


「……うん」


「正直に」


「…………頭が割れそう」


「酸欠だな。ゆっくり深呼吸してみろ」


 しばらく、侑理の呼吸の音だけが聞こえていた。


 気の抜けた俺は、ゆっくりと上下する小さな肩をただ見下ろしていたが、侑理の呼吸も落ち着き始めた頃、ふと気がついた。


 ――妙に静かだ。


 さっきまでの激しさが嘘みたいに静かな時間。扉をぶち破った時の音。椅子を水槽に叩き付けた時の音。工具箱をひっくり返した時の音。どの音も怒涛のように連続だった。だが、それらを繋いでいた何かがあったような気がする……。


 そうだ。勢いよく吐き出されていた水音が止んでいる。


 いつの間に止んだのだろうか。一定の時間が経てば自動的に止まるようになっていたのかもしれない。それとも水位を検知するセンサーでも付いていたのか。


 緊張が解けてぼうっとした頭でそんなことを考えていると、やっと思い出した。


「侑理、牧瀬麻耶はどこに行ったか分かるか?」


「え? あー、どこ、行ったんだろう、ね」


 逃げたか? この部屋に入ってからというもの、侑理が溺れているのを見て気が動転し、無事だったのを見て安堵して、牧瀬摩耶のことを考えている余裕がなかった。その分、今になって怒りが再燃してくる。本当に危ないところだった。この部屋に入るのにもっと手間取っていたらと思うと、恐ろしさも混じって胃を握られるような苛立ちが湧いてくる。例え侑理がどんなことを言ったにせよ、命を取られるような発言など想像もつかない。


 ――だが、ひっかかるところがあるのも事実だった。わざわざ俺に助ける猶予を与えたのも分からないし、ヒントになるような発言をしたのも、わざとなのではないかという直感があった。


 呼吸もすっかりと落ち着いた妹に問いかける。


「牧瀬麻耶に何を言ったんだ? どんなことを言えば水槽に縛り付けられるなんてことになる」


「えっと……そのことなんだけど……とりあえず、外に出よう? もう一人で立てるから、大丈夫」


 侑理は危なっかしく水槽を出ようとした。その態度に不審を感じながらも、縁に足をかけようとしている侑理を手で制し、自分が先に出て、外から受け止める。


 やっと水槽から出られたのに、侑理はどこか気軽な感じで制服の裾を絞り始めた。


「うわーびしょびしょだねー」


「それで何を言ったんだ?」


「どこかにタオルないかなー。ちょっと探してくる」


「待て」


「うわっ、危ないって。滑るんだからさ」


 明らかに誤魔化そうとしているのは丸わかりだった。俺には言えないほどよっぽどまずいことを言ったのか、それとも――


「お前は牧瀬麻耶に水槽に入れられたんだよな?」


「……そうだよ?」


「その割には随分と落ち着いてるみたいだな。一人でタオルまで探しに行こうとして。まだ牧瀬麻耶はどこかに隠れてるかもしれないぞ? 怖くないのか?」


「えーと……」


「お前がなにか余計なことを言ったからこんなことになったと聞かされたんだが本当か?」


「……それは本当かな」


「それは?」


「それも!」


 ほとんど確定だった。長年兄をやってきたから分かる。少なくとも俺が想像していたような「妹が頭のおかしいやつに無理やり水槽に入れられて命の危機に直面している」みたいな展開ではなかったのは間違いない。


 溜息を吐いて問いかける。


「もう誤魔化さなくていい……何を言ったんだ?」


「えっと……」


 口ごもる侑理の代わりに、


「君のことだよ」


 妙に色気のある声が背後から答えた。


 振り向くと同時に、なにかが顔面に飛び込んできて視界を塞ぐ。慌てて顔に手をやると柔らかい感触――タオルだった。


 困惑しながらゆっくりとタオルの暗闇から抜け出す。すると、


 すぐ正面、ほんの一歩先に、ドキリとするほど綺麗な顔があった。


 艶のある短めの髪が形よく輪郭を作り、前髪は一方の耳に掛けられている。


 その前髪の一筋が耳からはずれ、鋭い視線の間で揺れた。


 唇が動いて言う。


「私は君に興味がある。悠岐先侑真君」


 


 ○


 


 結論から先に言えば、牧瀬麻耶と侑理はグルだった。


 侑理は無理やり水槽に入れられたわけではなく、牧瀬麻耶は始めから侑理を殺すつもりなどなく、侑理が牧瀬麻耶に言った『余計な事』とは『俺』のことで、こんな大掛かりな芝居を打ったのは、


「実験だよ。君の話をきいてから、ずっと機会をうかがっていたんだ」


 ……ということらしい。


 タオルで拭っただけで、まだ濡れたままの服を着ている俺の不快感などお構いなく、牧瀬は実験とやらの説明を始めた。


「今回は君をサンプルに二つの実験を同時に行った。一つは非侵襲型BMIのニューロン学習前における精度実験。これはうまくいかなかった。距離のある無線受信では脳波の信号源推定が難しい上に脳波そのものが極端に減衰されるから扉に埋め込んだ受信器に加えて外の壁にも追加で大量に設置してみたんだけどね。同期がうまくいかなかったようで信頼できるレベルのサンプリングは無理だった。それでも一応は解析してみたが、アーチファクトも大きすぎたし、定常性もエルゴ―ド性の特定も満足いくものではなかった――――まぁ、定常性なんて私が破たんさせたようなものだけどね。ふふ、ふふふふ、ふふふふふふふふ」


 なにが面白かったのか分からないが牧瀬はしばらく笑ったあと続ける。


「結果、あの扉は開かなかったというわけだ。だが、それはいい。こちらの実験は始めからダメ元だったからね。大事なのはもう一つの実験。私が君に興味津々なのもこちらのほう」


 そう言うと牧瀬は、機材が並んでいる壁際に歩いて行き何か操作をした後、奇妙な物体を持ってきた。


 奇妙な物体は手に収まるほどの直方体で、牧瀬はそれを俺の目の前に掲げながら、


「これは量子乱数発生器。量子の透過と反射を利用しているから、疑似的ではない真の乱数発生器――ということになっている。君がC棟に入ってくる前から今この瞬間まで、この量子乱数発生器から出力されるデータを追っていた。結構な値段がするから1台しか用意できなかったんだけどね」


 さっきから何を言っているのかわからないが、どうやら実験はうまくいったようで、牧瀬は気が逸っているような早足でまた壁際に向かったかと思えば、今度はノートPCを取ってきた。


「これが、そのデータだ」


 得意げに画面を見せられても、やはり分からない。どんな意味があるのか検討もつかないグラフが映し出されているだけ。


「……とりあえず着替えたいんですが」


 もちろん着替えなど持ってきてはいなかった。だが、ご丁寧にも侑理は俺の分の着替えまで用意していたらしい。俺が牧瀬から一通りいきさつを聞いている間、一人だけどこかでさっさと着替えてきたかと思えば、当然のように着替えとタオルを手渡してきた侑理を見て、完全にハメられたことを悟ったのだった。


「着替えればいいじゃないか。着替えながらでも耳は使えるだろう」


 無視して扉に向かう。扉の前に立ったところで、この扉は開かないのだということに気づきため息をついた。理科室への扉から出ようと振り返ると、部屋の隅の椅子に座ってずっと黙っていた侑理が立ち上がった。


「……怒ってる?」


 怒ってない。と返そうとして、そうでもないことに気がついた。なにも答えずに理科室に入る。


 夕日が林で遮られ、一層薄暗くなった理科室。必死にかき分けて作った通り道が空しく見えた。扉に体当たりした右肩と、何かが刺さった爪の間が思い出したように痛み出す。あんなに必死になっていた自分が馬鹿みたいに思えた。携帯越しに侑理の呻き声を聞いた時の怒りも、水槽の中の侑理を見た時の恐怖も、あの二人が目論んだ実験とやらにまんまと引っかかった俺が必要もないのに勝手に抱いたものだったというわけだ。


 道の途中に散らばった空の段ボールを避けるのも面倒で、蹴飛ばしながら理科室を出る。扉を壊したせいでオカルト研と繋がったままになっている理科室で着替えるのはなんとなく嫌だった。それに、少し頭を冷やしたい。聞きたいことは山ほどある。


 


 理科室を通り過ぎ、オカルト研を通り過ぎ、屋上へと続く階段を見上げ、そこも通り過ぎた。いつもの癖で階段に向かっていたが、今は上る気力がない。廊下の奥へと進んだ。そういえば、いつもあの階段を上るからこの先には行ったことがなかった。まぁ、先に何かあるわけでもないだろうが。


 通り過ぎていく教室は、当然どこも埃まみれだった。濡れたままの体では至る所に汚れが付着してしまいそうで入る気になれずに歩いていたら、すぐに廊下の終点に着いた。突き当たりの部屋は他の教室とは違い、両開きの扉で磨りガラスがはめられている。もう他に部屋はないから何も考えずに扉を押した。


 


 中に入ると、思わず目を奪われた。


 正面は大きめの窓が並んでいて、C棟の周りに折り重なった林の梢から沈みかけの夕日の光が点々と漏れ入り、いくつものオレンジ色の柱がこちらに向かって降っていた。薄暗い印象しかない旧校舎の中で、ここだけは暖かい光に照らされている。


 そんな光景に見とれていると、ふと、視界の隅で何かが動いた。


 あまりにも景色に溶け込んでいたから気づかなかった。


 一人の少女が、椅子に座って、膝に置いた本を静かに見下ろしていた。


 横顔は逆光のせいでよく見えないが、とても幼く見える。


 少女は少し首を動かして、こちらをチラリと窺うと、


「やぁ」


 突然の来客に驚く様子もなく、まるで待ち合わせをしていた友人に対するように、片手を上げてそう言った。


 少女とは反対に、内心かなり驚いていた俺は返事を返すことができない。昨日までC棟では神之園以外の人間に会ったことはなかった。それも屋上限定であり、校舎内はいつも無人の静けさで満たされていた。それなのに、今日は既に侑理と牧瀬、二人に会ったかと思えば、今また、新たな少女が目の前にいる。昨日までのC棟の印象が一気に塗り替えられていくようだった。C棟は俺と神之園だけの寂しい空間ではなかったらしい。


「着替えるならあっちがいいよ。あの背の高い本棚の向こう」


「え?」


「ほら、着替えるんでしょ?」


 少女は俺が持つ着替えとタオルを指さしながら言った。


 一瞬、心を読まれたのかと思ったが、確かにずぶ濡れの人間が着替えとタオルを持っていれば、何をしに来たのか想像できてもおかしくはないのかもしれない……。


「早くしないと風邪ひくよ」


「お、おう……」


 あくまで冷静に話す少女に面くらいながらも、言われた通りに部屋の奥へと進む。


 夕日を降らせる窓に気をとられて気づかなかったが、この部屋は使われなくなった図書室のようだった。並んだ本棚は空になっているものも多く、ずいぶんと寂しい印象を抱かせる。それでも単純な数でいえば多くの本があるし、俺が入ってきたことに少女が全く驚かないあたり、ここに本を読みに来る人は案外少なくないのかもしれない。


 人がいる中で着替えることに気が引けないわけではなかった。だが、ここは他の教室とは違い定期的に清掃されているようだし、少女が言った背の高い本棚は確かに完璧な目隠しになってくれていた。


 奥まった場所で、完全に少女から死角であることを確認した後、上着を脱いだ。その時、胸ポケットに入ったままになっていた携帯に気がつき、暗澹とした気持ちがさらに落ち込む。俺と共に水槽に飛び込んだ携帯はもちろん動かなくなっていた。


 じわじわとぶり返してきた苛立ちを追い払うように、濡れて肌に張り付いたシャツを乱暴に脱ぎ捨てる。上半身とまだ乾ききっていない髪の毛をタオルでガシガシと拭くと、徐々に不快感が消えていき、少しだけ、人心地ついた。


 タオルを頭から外し、そのままズボンも脱ごうとベルトに手を掛けた。すると、


 すぐ真下、ベルトからほんの数センチ先に、俺の手元を一心に見つめている少女の顔があった。


「うぉっ!」


 驚きの声を上げた俺に、


「ありゃ、ばれちゃった」


 落ち着き払った少女はわざとらしく手を口に当てながら目を見開いて見せた。


「この僕の気配消しを見破るとは、君もなかなかの修羅場をくぐり抜けていると見える」


 演技がかった声色でニヤリと笑う少女に俺が抱いた感想は当然のものだろう。


 ……なんだこいつは……。僕の気配消し……? 痛いやつか……?


 そんな心の声を隠し切れていないはずの俺の顔を、少女はまじまじと見つめながら、


「どうだい? 僕の弟子になってみる気はないかい? 君なら僕と肩を並べる存在になれるかもしれないよ?」


 確定。痛いやつだ。


「ちょっと待て……まずは着替えさせろ。ツッコむのはそれからだ」


「了解だ。着替えるのを許可する」


「いいからあっちへ行ってろ」


「サーイエッサー!」


 ビシリと敬礼をして少女は本棚の向こうへと消えた。


 俺は呆気にとられながらも、なんとか声に出して呟く。


「設定くらい固めておけよ……立場がブレブレだ……」


 


 着替えを終えて入り口前に戻ると、少女はテーブルの上に何やら積み上げていた。近づいて見てみると、積み上げられているのは様々なボードゲームやカードゲームの外箱で、どれも見たこともないものばかりだった。


「さて、何をする?」


 近づいてきた俺を視界に捉えると、少女は振り返りながら言った。


 当然のことのように聞かれると、なぜだか俺も当然のことのように思えてしまって、つかの間、テーブルに積まれた箱たちを真剣に見つめてしまう。……いや、なんで真面目に選ぼうとしてるんだ俺は。


「オススメはこれかなー。これならそんなに時間かかんないし、ルールもシンプル!」


「……あのな、悪いがゲームの相手をしてる暇はないんだ」


「あ、でもこっちの方がわかりやすいかな? 一試合に少し時間はかかるけど奥が深いよー」


「聞いてるか? 人を待たせてるから無理なんだよ」


「んーやっぱりこっちかな? これはほとんど運勝負だからポンポン進むし」


 聞いてない。


 ついさっきまで覗き行為に対してなにかしら言ってやろうと思っていたが、この少女相手に言ったところで胸がすくことはないだろうと今までのやりとりだけで確信できてしまった。


「また今度な」


 相変わらず箱の山を眺めながら首をひねり続けている少女にそう言って、オカルト研に戻ろうと背を向けると、少女はハッとした様子で扉に先回りし、両手を広げて出口をふさいだ。


「ダメダメ! なんで帰ろうとしてるの!」


「だから人を待たせてるんだって」


「大丈夫だって! まだよゆーだって! 一つくらい遊ぶ時間あるんだって!」


「そんな時間は――――」


 ない――こともないか。


 俺をハメてくれた二人に対して、律儀に急いでやる必要はないかもしれない。少し待たせておくくらい許されてもいいだろう。


「ね? ね? 待たせるって言ったってそんなのほんのちょっとの間でしょ! 気分転換しなきゃ! そんなにムスッとしてたら屋上のあの子にも嫌われちゃうよ!」


 予想外の言葉に息を飲む。


「……知ってるのか?」


「ふっふっふ、僕を誰だと思ってるんだい?」


「痛い性格した中等部の子だろ?」


「な! なにをー!」


 心底心外だと言うように少女はその場で地団駄を踏んだ。中等部どころじゃなく小学生だなこれは。


 眉間に思いっきり皺を寄せて睨み付けてくる少女の怒り顔は驚くほど怖くなくて、ふと、神之園が時折見せる尖ったガラスのような瞳が対照的に脳裏に浮かんだ。


 彼女のことを知っているらしい少女。


 そういえば彼女のことを誰かから聞いたことはなかった。神之園楓のことを知っている人間が俺以外にもいる。当たり前のことのはずなのに、それがなぜか少し嬉しかった。


「なぁ、神之園と知り合いなのか?」


「ふん! 僕の誘いを断るような卑劣漢に答えてやる義理はないね!」


 腕組みをしてそっぽを向いた少女は、それでも出口の前から動こうとはしない。大層苛立っているという風にトントンと腕を打つ人差し指は、微妙に不器用なリズムを刻んでいる。


 そんな、あまりにも幼く見える少女を眺めていると、知らず知らずのうちに笑いが漏れていた。


「わかったよ。一回だけだぞ?」


「…………………………十回」


「増えてるじゃねーか」


 不機嫌さを強調するようにフンッと鼻息をならす少女。


「……二回にしといてやる」


「………………九回」


「……三回だ」


「……八回」


 稚拙な攻防に自然と力が抜け、がっくりと項垂れてしまったが、自分の口元が笑みを湛えているのは、どうにもこの少女が持つ不思議な憎めなさのせいだろう。


「じゃあ五回だ。これ以上は俺も譲らん」


「…………………………………………………………………………………………………許す」


 少女は嬉しさをこらえた顔を隠すようにタタタとテーブルに駆け寄り、一つ咳払いをした後、振り返ってビシリと俺を指さした。


「積年の恨みを果たしてやる! 我が永年のライバルよ!」


 夕日を降らせる窓を背に、少女は高らかに宣言する。


 逆光でよく見えない少女の顔は、きっとニヤつきを隠せていないだろう。


「設定くらいちゃんと固めとけって……」


 また一つ、ため息をついて、オレンジ色に反射するテーブルへと向かった。


 


 ○


 


 ……反省している。


 久しぶりにやるボードゲームがこんなにも楽しいとは思っていなかった。


 気づけば、勝敗を示す将棋の駒は歩だけでは足りずに香車まで積まれている。


 今やっているのはコリドールというゲームで、これがまたシンプルなルールにもかかわらず奥が深い! フランスのゲームらしく、木でできたシンプルな盤と駒にもどこか品が感じられ、何度か勝負を続けているうちにすっかりとこのゲームに魅了されてしまっていた。


「フッフッフ。そんな弱気でいいのかい? 君の壁はもう残り二枚だよ?」


「……お前だって残り三枚だろ」


「この一枚が勝敗を分けるのさ! もう何度もやって分かってるだろー? んー?」


 小憎たらしい笑みを浮かべながら、少女は壁を一枚手に持ち、俺の目の前でひらひらと掲げる。払いのけようと手をやると、構えていたようにサッと腕を引いた。


「ハッハッハー! 僕に触れようなんて十年おそーい!」


 ツッコミを入れている余裕はない。こんなアホみたいな少女だが、ゲームはかなり強いのだ。もともと五本勝負だった時に俺は一勝しかできなかった。これでもかと喜ぶ少女を前に再戦を申し込んだのは俺であり、そこから運要素の大きいゲームでなんとか追いつき、また次のゲームで追い越され、一つ前のゲームでまたなんとか同点に持ち込んだ。俺だってそんなに弱い訳じゃない。祖父相手に囲碁や将棋を毎日指していた俺は、ボードゲームにおいて転校前の学校では負けなしで通っていたのである。


「そんなに考えても結果は同じだよ! 僕にはもう結末が見えている!」


 威勢の良さを見るに、どうも嘘ではないらしい。少女はこれまでの勝負でも、自分が劣勢の時はわかりやすくテンションが下がり、優勢の時はうっとうしいほど饒舌になる。


 しかし、このゲームでは思いがけない一手で優劣が逆転することもある。二つ前の勝負でも油断した少女がミスをして俺が逆転勝ちを収めたのだ。


「諦めんぞ、俺は」


 盤面を睨み付けながら呟いた俺の視界の上端で、少女が大仰に両肩をすくめたのが見えた。


 今までのように小馬鹿にするような調子で煽ってくるかと思い無視していたが、小さなため息の後に聞こえてきたのは、


「知ってる」


 今までにない弱々しい声に思わず顔を上げると、少女は数秒間じっと俺を見つめた後、


「しょうがないから君にヒントをあげよう」


 しんとした図書室で、内緒の話を打ち明けるように囁いた。


 


「――このゲームはね、二択をせまるゲームなんだよ」


 


 言葉の意味を考える前に、なぜか急に大人びて見える少女に驚いた。声の調子のせいなのか、じっくりと言い聞かせるような話し方のせいなのか、目の前の少女から目を離せない。


「例えばね、五つ前の君の手」


 かと思えば、またすぐにもとの幼さを取り戻した様子で、少女はビシリと盤面を指さした。驚きが尾を引いていて、少女から遅れて俺も盤面に視線を戻すと、少女は先ほど俺が置いた壁を指さしている。


「この壁、僕を遠回りさせようとしたんだろうけど、これじゃあ僕はこっちに向かうだけ」


 実際そうしたように、少女は俺が置いた壁から離れるように指先を動かした。


「遠回りさせることに成功したと思うかもしれないけど、こんな風に道を塞いじゃうのは、結果的にゴールへの正しい道のりを相手に教えてあげているようなもの。だからね、こうすれば良かったんだよ」


 少女は俺が置いた壁を向きを変えて置き直した。その壁は少女の駒の前に二つの道をつくりだしている。


「塞ぐんじゃなくて、増やす。相手に二択をせまって、どちらかを選ばせる。そして、選んだ道をさんざん進ませた後に、ようやく塞ぐ。そうすれば相手はまた戻らなくちゃいけないから、進んだぶんだけ戻るのも大変」


 先ほど考えることのできなかった『二択をせまる』の意味が理解できると、思わず「なるほど」と呟いていた。このゲームは基本的に、壁を使って相手の進路を妨害し、相手より早くゴールに到達できれば勝ちなのだが、一つ重要なルールがある。それは相手のゴールへの道のりを完全に塞いではいけないというものだ。俺が遠回りさせようと置いた壁が、逆に相手の選択肢を絞り込んでしまったというわけである。相手の進路を増やす、という一見して手助けに思える行為が、実のところ、相手を惑わせる。二択をつくりだすことは、相手のゴールへの可能性を増やすわけではないのだ。二択をせまられた相手はどちらが正解の道なのか知ることができないのだから。


 と、すると……。


 改めて盤面を見つめ直し、次に俺が打つべき手を考えた。


 いくつかの候補の中から、残り三枚の壁を有効に使える位置を吟味し、もっとも相手を攪乱させられそうな場所に壁を置く。


「うんうん。なかなかいい所に置いたね…………だがっ!」


 少女は、ニヤリと笑ってゆっくりと壁を置いた。それは少女の駒の目の前。自ら最短のルートを塞ぐ無謀な手に見えた。が、二択をせまるという話を聞いたばかりの俺はすぐに真意に気づいた。少女は自分の進路を絞ったのだ。相手の進路を増やすのではなく、自分の進路を減らすことで、進むべき道を確定させる。残っている二つの道のりの内の一つは、少女だけでなく俺にとっても最短の進路。そこを残せば俺が一手優位にたつが、所有している壁の一枚分の差で、その一手の優位もそのまま逆転してしまう。かといって、そこを塞げば俺自身も遠回りをすることになり――


「…………俺の……負けだ……」


「イヤッホーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」


 今日一番の歓声をあげながら、少女はテーブルの周りをぐるぐると走りだした。


 窓から降り注ぐオレンジ色の光がその笑顔を照らす。


 しばらく悔しさで頭を抱えていた俺も、その笑顔を見ている内に伝染したように笑っていた。


 ――不思議な子だ。


 出会ったのはついさっきのことなのに、ずっと前から知っていたような気がする。


 走り疲れた様子で、でも満足そうな笑顔は残したままで、少女は窓辺に寄りかかった。


「また僕のリードだね。次は何をする? またコリドール?」


「さすがにそろそろ戻らないと。少し待たせすぎた」


 まさかこんなに夢中になってしまうとは思っていなかった。途中からオカルト研で二人を待たせていることを忘れてしまっていたぐらいだ。もしかしたら二人はもう帰ってしまったかもしれない。もともと五本勝負だったのを考えると、これだけやれれば少女も満足してくれただろう。


 足下に置いていた濡れたままの服を持って椅子から立ち上がると、それでも少女は食い下がった。


「まだ平気だって! まだまだおもしろいゲームたくさんあるから! ほら、これとかどう? 頭使わなくていいやつ! 休憩がてらにさ!」


「今日は終わりだ。また、今度な」


 はじめ、少女の誘いを断るために言った常套句としてではなく、今度は本音からそう言った。


 少女は、なにかの言葉をぐっと飲み込んだ後、肩を落として、


「……どうしても戻る?」


「ああ、お前のお陰で気分転換もできたしな」


「…………」


「そんなに落ち込むなって。またリベンジに来るから」


 少女はしばらく無言でいたが、小さな声で「わかった」と言うと、頷いてくれた。


「よし、片付けるか」


「片付けなくていいよ。後で僕がやっとくから、そのままでいい」


「まだ残るのか? もうそろそろ帰った方がいいんじゃないか? 最近は暗くなるのも早まってきたし――」


 言ったところで、少女の不満げな横顔を照らすオレンジ色の光に気がついた。


「……まだ、暮れてないのか……」


 図書室に入った時点でこの部屋は夕日に照らされていた。それから結構な時間を過ごしたと思っていたが、思っていたよりも長くはなかったらしい。


「やっぱり、もう少しやってく?」


 俺の呟きを聞いて、少女は懲りずに新しいゲームの箱を持ってかちゃかちゃと振る。


「ダメだダメだ。切りがない。それは次にとってろ」


 これ以上話していたら誘惑に負けてしまいそうに思え、振り切るように出口に向かって歩き出した俺の背中に、


「次っていつ!?」


 振り返ると、すぐ目の前に少女がいた。


 縋るような目で見上げられ、少し胸が痛む。どうしてか、少女の目には重大な憂いが写っているように見えた。


 正直、次に来るのをいつにするのか具体的に決めていた訳ではなかった。また気が向いた時にでも図書室を覗いて、少女がいればリベンジしよう、くらいに考えていたのだが、見上げられた目を見ているとつい口が滑ってしまった。


「――明日、また来るよ」


 少女の顔に明るさが戻った。しかし、口が滑った甲斐があったかと思ったのも束の間、また憂鬱に染め返された表情で少女は俯く。


「…………明日っていつ?」


 俺に向けられた問いなのか悩んでしまうほどの、独り言のように小さな声は、かすかに震えているように聞こえた。思わず昔小さかった妹相手にやっていたように、腰をかがめて小指を差し出す。


「できるだけ早く来るよ。約束する」


 少女は差し出された小指を見て、中途半端に小指を立てた右手をそっと胸の前まで持ち上げたが、ハッとしたように一歩飛び退くと、


「ゆ、指切りなどいらん! 子供扱いするな!」


「悪かったよ」


「っ! わ、笑うんじゃない!!」


「笑ってないって」


「むむ……し、仕方がないから今日のところは勘弁してやる! 明日、放課後、可及的速やかにここ旧図書室に参上すること、良いな!?」


 少女は泣きそうになっていたのが急に恥ずかしくなったのか、そう叫ぶと図書室の奥へと消えてしまった。


「了解しましたよ。師匠」


 苦笑交じりに返事をしてまた出口へと向う。


 両開きの扉に手をかけ、出て行く前に一度振り向いてみた。少女の姿は見えず、オレンジ色に反射したテーブルに雑然とした勝負の跡が残っているだけだった。


「楽しかったな……」


 ずいぶんと長い着替えになってしまったが、ここに来たときの鬱憤は綺麗になくなっていた。


 


 ○


 


「ごめんなさい!」


 廊下に出ると、目の前に侑理がいた。


「お前……ずっと待ってたのか?」


 驚いて聞くと、侑理は少し首を傾げてから、


「ずっとってほどじゃないけど……まぁ少しは…………まだ、怒ってる?」


 腹の前で両手を何度も組み直しながら、時たま様子をうかがうように視線をよこす侑理はかなり不安がっているようだった。オカルト研で種明かしされた時の俺は、よほど怒って見えたのかもしれない。


「怒ってないよ、もう」


「ほんとに?」


「ああ、その代わりしっかり説明してもらうからな」


 そう言って、頭をグリグリとなでつけてやる。「わかってるよー」と言いながら頭上の手を押しのけた侑理は、俺の顔を見上げた後に心底安心した表情になった。自分で自分の顔は見れないが、今はもう大丈夫なようだ。あの少女のおかげだな。


「牧瀬摩耶もまだ帰ってないのか?」


「そりゃあそうだよ。あんだけお兄ちゃんと話したがってたのに帰るわけないじゃん」


 当たり前のように言われても俺には全く理解できない。


「そのことなんだけどな、あの人はなんで俺なんかに興味持ったんだ? お前が余計なことを言ったからなんだよな? 何言ったんだ? お前」


「それは…………まぁ、部室で話すから。ほら、いこ」


 誤魔化すようにオカルト研に向かって歩きだした侑理の後に、気乗りのしない俺は重い足取りで続く。


 廊下に響く二人分の足音がいつか見た古い洋画の電気椅子へと向かう看守と死刑囚を思い起こさせる。俺はその死刑囚がしたように、時間稼ぎのために何気なく浮かんだ疑問を口にした。


「そういえば、なんで俺が図書室にいるのが分かったんだ?」


「ん? ほら、足跡があったから」


 侑理は足を止めるどころか振り向くこともなく、廊下を指さして答えた。


 なるほど、濡れた上履きから水がしみ出ていたわけだ。よく見れば、図書室の前まで来たときのものだと思われる侑理の足跡もうっすらと残っていた。ホコリが薄く積もった廊下には普通に歩いても足跡ができるみたいだ。よく目をこらさないと見えないレベルだし、他にも足跡はいくつかあったが、侑理以外のものはさらに薄く、見分けは付いた。


 地面に残った足跡の歩幅は、今目の前で歩いている侑理の歩幅よりもだいぶ狭い。俺の足跡を見下ろしながら、なかなか足が進まないでいる姿が頭に浮かんだ。図書室の前で待っている間も気が重かっただろう。


「悪かったな。だいぶ待たせちまって」


「そんなに待ってないよ? まぁ確かに着替えるだけにしては遅かったけど」


「そうか? 俺としては二人が待ちくたびれて帰っててもおかしくないと思ってたんだけどな」


「……もしかして、私たちが帰るのを期待して時間つぶしてたの?」


「そういうわけじゃない」


「じゃあ、やっぱり怒りを抑える瞑想してたとか?」


「お前そんなこと思ってたのか……。違うよ。図書室にいたやつとボードゲームで遊んでたんだ」


「え? 図書室に誰かいたの?」


 侑理は驚いた様子で振り向いた。


 予想外の反応に、俺はあいまいにうなずく。「中等部の生徒だと思うけど」と付け加えると、侑理はさらに当惑しながら、


「えー? 中等部の子がC棟に来るかなぁ? 前に探検気分でC棟に来た子達がいたんだけど、摩耶先輩が遠隔操作で扉をガタガタいわせたり、指向性超音波スピーカーで一人だけに泣き声を聞かせたりしてたらパニックになりながら逃げ帰っていったんだよ。それから中等部でその噂が広まって、みんなC棟に近づこうとしなくなったんだけど……」


「お前らそんなことしてるのか」


「私じゃないよ。摩耶先輩だよ」


「なんでまたそんなことを」


「摩耶先輩なりの勧誘だったらしいよ? 噂が広まればオカルト研に入るに相応しい知的探究心と勇気と行動力を併せ持つ生徒が現れるはずだって」


「でも誰も近寄らなくなったんだろ?」


「……私」


「は?」


「……私が釣られたの!」


 あぁなるほど、どうして侑理がオカルト研なんてものに一人で入ったのかと思っていたが、牧瀬摩耶の策略にまんまとハマったのが侑理だけだったってことか。


 納得していると、一歩近づいてきた侑理が聞いてきた。


「ねぇ、その図書室にいた中等部の子って女の子?」


「よく分かったな」


「今も図書室にいるんだよね?」


「ああ、いるんじゃないか?」


 侑理は数秒の間考えるように目を閉じた後、


「……ちょっと会ってみたいかも」


 小さく、しかし、しっかりとした意思が感じられる声で呟いた。


「――珍しいな。お前がそんなこと言うの」


「よし、戻ろう」


 言うが早いか、侑理はそのまま図書室に戻り始めた。人とあまり関わりたがらない妹の意外な行動を不思議に思いながらも、止める理由もない俺は黙って後に付いていく。


 両開きの扉の前まで着いた侑理は、一度磨りガラスに顔を近づけ中を覗った後、少しだけ扉を開け、「すみませーん」と声をかけた。


 返事がなかったのか、少し遅れて追いついた俺を怪訝そうな目で一瞥した侑理は、そのままゆっくりと中に入った。続いて俺も中に入り、少女を呼ぼうとして、はっと気づく。


 名前を知らない。


 そうか、自己紹介もしないまま、俺たちはあれだけ遊んでいたのか。図書室に入ってからボードゲームをするまでの流れを思い返し、そういえば、神之園のことを聞くのも忘れてたな、と思い出す。ちょうどいい。どちらも今聞いてしまおう。


 そう思ったのだが、先ほどからきょろきょろと首を動かしながら歩き回っている侑理の「誰かいますかー」という声に応える者がいない。


 俺も「おーい」と呼びかけながら図書室をまわってみるが、少女の姿は見えない。しかも、ふと視線を向けた先に見えたのは、散らかっていたはずなのに今では綺麗に片付けられているテーブルだった。


 俺が図書室を出てからまた戻ってくるまで、さほど時間は経っていないはず。せいぜい一、二分のことだ。少女はその間にテーブルを片付けて俺たちが気づかないうちに外に出ていったということだろうか?


「いないね、誰も」


「……いないな」


「お兄ちゃん、嘘ついてる訳じゃないんだよね?」


「当たり前だろ」


「じゃあさ……」


 侑理は自分でも馬鹿なことを言おうとしていると思ったのか、鼻で溜息をついた後に言った。


「――その子って図書室の幽霊なんじゃないの?」


「……は?」


 図書室の幽霊? そういえば藤岡もそんなことを言っていたな……というかそもそもオカルト研に来たきっかけが、オカルト研が図書室の幽霊の証拠を掴んだという話だったか。色々とあったせいですっかり忘れていた。


「なるほど、幽霊か。それならこの状況も説明できるな」


 相手が幽霊なら何が起きてもどうとでも説明できる。なんてったって理屈外の存在だからな。


「……完全に冗談だと思ってるでしょ?」


「違うのか?」


「違うよ!」


「だってお前、昔は幽霊なんかいないって言ってたじゃないか」


「それは! ……そうだけど、でも、」


 侑理は心なしか恥ずかしそうに唇を噛んだ後、


「えっと……摩耶先輩がね…………いてもおかしくないって……」


「幽霊が?」


 侑理はコクリと頷いた。


 侑理にとって牧瀬摩耶はなかなか影響力のある先輩のようだ。小さい頃から頑なに心霊現象を否定してきた侑理に、もしかしたら……と思わせるくらいには信用できる人なのだろう。まぁ侑理の場合、『信じない』というよりは『怖いから信じたくない』って感じだったが。


「ということは本当なんだな。オカルト研が幽霊の証拠を掴んだってのは」


「へ? あー、幽霊の証拠? ううん、それは嘘」


「はぁ?」


「証拠掴んだってのは中等部の子達にやったイタズラと同じで、オカルト研に興味を持たせるための嘘だよ」


「なんだそれ……」


 数秒前の予想が一気に崩れそうだ。信用できる人は嘘をそんなに簡単にはつかないと思う。


 噂の真偽を確かめるという当初の目的も失われ脱力している俺に、侑理は言い訳のように説明する。


「でもね、心霊現象ってのはほとんどが作り物だけど、中には信用できる証言だったり記録だったりが残ってることもあるんだって! 図書室の幽霊の噂に関しても完全に嘘だと決めつけるのは良くないって摩耶先輩が――」


「それも嘘なんじゃないか?」


「っ、た、確かに摩耶先輩はよく嘘つくけど、禍根を残す嘘はつかないよ」


「……俺をあんなだまし方しといてよく言うな」


「ま、まぁ実験のこととなると話は別かもしれないけど……」


 また少し、後ろめたさを思い出したように俯く侑理のつむじに軽く手刀をお見舞いする。「いてっ」と呟いた侑理は、気が晴れたように顔をあげた。侑理がなにか問題を起こした時、最後はいつもこれで終わる。いつからか始まった儀式のようなものだ。


「ね、幽霊だったと思う?」


「ないない」


 少女と遊んでいなければ、俺は今のように侑理と普通に話すことはできなかったかもしれない。その少女が幽霊かどうかなんて、考えるまでもなくあり得ない。もしかして、なんて気持ちも、一粒たりとも生じない。たとえ幽霊の存在を信じることはあっても、それがあの少女だというのはあまりにも馬鹿げている。超自然的な事柄とは正反対だと思えるほどに、少女は自然だった。確固たる存在だった。


 なにより、あの少女は俺の幽霊像とは程遠い。あんな幽霊ならいくらいても怖くない。少女のミスで俺が逆転勝ちしたときの、あの絵に描いたような間抜け面は今思い出しても――


「……なに笑ってんの?」


「いや、なんでもない」


「なんでもないのに笑ってる方が気持ち悪いよ……」


 ばっさりと切り伏せられて返す言葉もなくした俺に、あまりにも簡単に否定されたのが納得いかなかった様子の侑理は不満げに言う。


「やっぱり怪しいと思うんだよね。その子」


「幽霊がボードゲームで遊ぶか?」


「一緒に遊んでくれる幽霊の話なんてたくさんあるよ。その子の名前、聞いてないの?」


「聞いてない」


「どんな子だった? かわいい?」


 かわいいことと幽霊であることになんの関連性があるのだろう。


「そんなに気になるなら明日の放課後にここに来ればいい。またボードゲームで遊ぶ約束してるからな」


「え……約束なんてしてたの……?」


「なんだよ」


「いや、別に……」


 何かの言葉を飲み込んで目を伏せた侑理はしばらく考えた後、どうやら納得したようで、


「それじゃあ明日の放課後、オカルト研まで迎えに来て」


 そう言うと、出口に向かって歩き始めた。


 少女に訊きもしないで勝手に呼んだのはまずかっただろうか、と一瞬思ったが、心配ないだろう。それで怒ったり、気後れしたりする子じゃない。


 そんなことを考えて、苦笑が漏れる。さっき会ったばかりの少女を、さも理解しているというような自分がおかしく感じた。


 侑理が扉を開けて、「早く」と急かす。


 気づけば、夕日はもうほとんど沈みかかって、図書室の全ての物が床に伸ばしている長い影は、暗闇との境界を曖昧にしていた。


 廊下に出る前にまた振り向いてみる。やっぱり少女の姿はなくて、片づけられたテーブルが寂しげに佇んでいるだけだった。


 


 ○


 


 非公認で怪しいオカルト研に入ったことを侑理は俺にも秘密にしていた。だが、ある日、兄である俺の話をしたところ牧瀬が食いつき、今回の実験をすることになった。侑理は実験にあまり乗り気ではなかったが、今日、俺がオカルト研に行く前にかけた電話を受けたときに思わず言ってしまった、「お兄ちゃん、あそこに関わるのはやめといた方がいいよ!」のひと言を牧瀬に聞かれ、俺がオカルト研に行くつもりだということを牧瀬に感づかれてしまったらしい。


 もともと実験の準備は整っていたのにオカルト研に俺を呼び出す役目だった侑理が渋っていたこともあり、鴨が葱を背負ってやってきたと言わんばかりに牧瀬は半ば強引に実験を始めた。


 オカルト研に入るなり昂然と実験の話を始めようとしていた牧瀬を制止して、気になっていたことを質問した結果、そんな説明を受けた。


 しかし、なぜ侑理と牧瀬が共謀することになったのか、その経緯は分かったが、重要なところが不明のままだ。


「牧瀬……先輩が食いついた俺の話っていうのは何なんです? 俺で実験しようと思った理由はそこにあるんでしょう?」


 出会い方のせいか、素直に敬語を使うことに抵抗があり、『先輩』を付けるまでに間ができてしまったが、牧瀬は気にする様子もなく、俺の質問を受け流すようにして、微笑んだままの顔を侑理に向けた。


 侑理が、少しためらいながらも一歩前に出る。


「……お兄ちゃんが入院してた時、私よくお見舞いに行ってたでしょ?」


「よくっていうか毎日だったよな」


「そこはいいの! ……でさ、じゃんけんしてたの憶えてる?」


「じゃんけん? ……あぁ、お見舞いのお菓子を賭けたじゃんけんか」


 もう七、八年前だろうか。俺が事故で入院した時、侑理は毎日お見舞いに来てくれた。お見舞いに貰ったお菓子――確か始めは色んな種類のクッキーが入った缶だった――そのクッキー缶を侑理が物欲しそうな目で見ていたのに気づいた俺が、「じゃんけんで勝ったら一枚あげる」と言ったことがきっかけだったと思う。


 その後もお菓子を一つ取り出すたびに「じゃんけんしよう!」と侑理が言うようになって、いつの間にかお見舞いのお菓子はじゃんけんに勝った方がもらえるというルールが出来上がったのだった。


「そのじゃんけんがどうかしたのか?」


「あのね……しばらくじゃんけんをしてる内に思ったの。私が『このお菓子は絶対に欲しい』と思ったときは、いつも勝ってるんじゃないかって。それでね、数え始めたの。このお菓子は絶対欲しいって思ったときの勝負と、その勝負に私が勝った回数」


 どこか深刻な表情の侑理を見て、余計な相づちは打たずに黙って続きを待った。


「私がどうしても勝ちたかった勝負は28回あった」


 一度静かに息を吐き、


「結果は……私が、28勝」


 侑理は言いづらい秘密を打ち明けるように言った。


「本当に勝ちたいって思った勝負で、私はお兄ちゃんに一度も負けなかった」


 一瞬何を言っているのかわからず、すぐには返事ができなかった。


 侑理はイタズラがバレて怒られる寸前の子供の様に俯き、牧瀬は口元に笑みを浮かべながら、俺の反応を窺うように目線だけこちらに向けている。


 いまいちピンとこなかったが、冷静になって考えてみると侑理の言ったことは確かに重大なことのように思えてきた。


 どうしても勝ちたかった28回の勝負で全勝……普通に考えればじゃんけんの勝率は二分の一。それが連続28回……そんなことありえるか……?


 少し考えて、


 恐らく侑理は、俺のじゃんけんの癖なんかを見つけ、大事な勝負の時だけ確実に勝ちを納めていたのだろう。こんなに気まずそうに俯いているのはズルをしていたってことを打ち明けたも同然だからか――そう解釈した俺は、


「別に怒ったりしないぞ? もう何年も昔の話だし、正直今言われるまで忘れてたくらいだ。ただ、今度からじゃんけんはなしだな」


 そう笑って言ったのだが、


「違うよ! 私がズルしてたって思ってるの? じゃんけんはいっつも真剣勝負だったよ! ただ私が勝ちたいって思ったときはなぜか絶対に勝てたってだけ!」


 いかにも不本意だと言う顔だった。俺の予想は全くの的外れだったらしい。


「……じゃあ、言いづらそうにしてたのはそれを俺に黙ってたからか? 気づいてたのにじゃんけんを続けてたのはフェアじゃないって?」


 侑理は俯いたまま頷いた。


 なんだ、そんなことか。確かに、勝ちたいと思ったときに絶対勝てるってのはかなり羨ましいが、ズルをしていた訳でもなく、侑理も理由が分からないなら、俺が文句を言う筋合いはない。


「運も実力のうちだって言うし、侑理にはなにかじゃんけんに勝てる素質でも――」


「違うよ」


 侑理は俺が言おうとしていたことが分かっていたように、すぐに否定した。


「違うんだよ。私もね、始めはそう思った。もしかしたら自分には勝ちたいじゃんけんに勝てる超能力みたいなものがあるんじゃないかって。でもね、違ったの。学校でだったり、他の人とだったら、勝ちたくても勝てない。お兄ちゃんとじゃないと、勝てない。それで、なんとなく分かったんだ――」


 侑理は顔を上げ、俺の目を見て言った。


「私が勝ちたいと思ったときに、お兄ちゃんが負けてくれてるんだって」


 たぶん、豆鉄砲を食らったような顔をしていたと思う。


 俺が負けてあげている?


 何を言い出すかと思えば、あまりにも荒唐無稽な話だ。だって俺は負けようと思って負けたことなどない。そんなことができるはずがない。


「お兄ちゃん、私が嘘つくとすぐ分かるでしょ? それと同じで、私が勝ちたいって思ってるときは、それも分かるんだと思う。それで、無意識かもしれないけど、私に勝たせてくれる。お兄ちゃん、私に甘いから」


 あまりにも突飛な話で、返す言葉が見つからずにいたら、足を組んで目を細めながら成り行きを眺めていた牧瀬が身を乗り出してきた。


「そういうことだ。侑真お兄ちゃん。私はこの話を聞いて君に興味を持ったんだ」


 この人はいちいち色気を振りまかないといけない性質らしい。声だけではなく動きさえ、わざとらしいほどの艶めかしさを醸し出してくる。


「侑理君は勝ちたいと思った28回のじゃんけんで全て勝ったと言っている。君なら侑理君が嘘をついていないってことが分かるんだろう? 28回のじゃんけんで全て勝つ確率はおよそ2億7千万分の1。侑理君が気づく前から連勝が続いていたとすると分母は更に大きくなる。果たしてこれは偶然だろうか」


 2億7千万――そこまでの数字になるのか……。


 確かに侑理は嘘をついている様子はないし、偶然だと片付けてしまうにはあまりにも果てしない数字に思える。


「もちろん、自分でも気づかぬ内に相手の癖を見抜いていて、無意識で勝てる手、勝たせる手を出していた――なんてことも考えられるが、私が侑理君と何度もじゃんけんをした結果、侑理君には取り立てて癖らしい癖はなかった。逆に私がわざと癖を作ってみても、侑理君は気づくことなく勝率は半々のままだった。君の妹にはあまり観察眼はないようだね。ふふふ」


 侑理がむっとする。牧瀬は笑いながら目でたしなめた。


「十分な検証だったかと言われれば首肯できないが、なによりそんなタネでは面白みがない。そう思うだろう?」


 面白みがないときた。当たり前のように同意を求めてくるが、俺は何であれ、原因が分かるなら面白みなどなくていいと思う。無駄になるだろう反論はしないが。


「それで、もっと面白そうな仮説を立ててみた。その仮説をもとに今回の実験を行ったんだ」


「実験……あの水槽を使って……ですか?」


 いつの間にか水が抜かれた水槽を恨めしく睨みながら言った。


「そう。仮説を確かめるために君に協力してもらったわけだ」


 協力するつもりなんてなかったけどな。という反論ももちろんしない。代わりに、


「その仮説は信憑性のあるものだったんでしょうね? あんな危険なマネをする意味があるほどに」


 と噛みついたのだが、牧瀬はこともなげに答える。


「わからなかったから実験をしたんだよ」


「…………」


 言っていることはもっともに聞こえるが釈然としない。


「おかげで実に面白い結果が出た」


 牧瀬は俺が着替えに出る直前に見せようとしていたノートPCをもう一度持ってきて画面を突き付けてきた。


「どうだ! すごいだろう!」


 喜色満面の笑みでノートPCを突き出したまま仁王立ちする牧瀬には目を惹かれたが、モニターに映し出されたグラフはやはり、どんな意味があるのかわからないままだ。


 何のリアクションも取らない俺を見て牧瀬は不思議そうな顔をした後、突き出していた腕を曲げて、裏からパソコン画面を覗き込もうとする。


「いや、グラフは見えてますよ」


「見えているならどうしてそう無反応なんだ」


「そのグラフのなにがすごいのか分からないからですよ」


「……これは何を示したグラフか説明していなかったか」


 していたような、していなかったような。


 たしか、なんちゃら発生器のデータだとかなんとか言っていたような気がする。なにぶんあの時はびしょ濡れのままでイライラしていたからちゃんと話を聞けていなかった。


「このグラフは量子乱数発生器から出力されたデータの偏りを示したものだ。量子乱数発生器は量子の透過と反射を利用して、『0』か『1』を出力する。どちらが出力されるかは厳密に五〇%に設計されていて、本来なら、このグラフは微小な上昇と減少を繰り返しつづけるはずだ――だが! 見てみたまえ! この峩々とした山を! 一目で異常だと分かるだろう!?」


 確かに画面に写されたグラフは終盤に大きく急激な山を描いている。


「……すごい偶然が重なった……ということですか?」


「君が着替えに行っている間にこの偏りがどの程度の確率で起こるのかを計算してみたんだが、結果はおよそ七五〇〇万分の一だった。28勝のじゃんけんには一歩及ばないが、これも十分に立派な数字だ。すごい偶然という言葉で片づけてしまって良いと思うかい?」


「…………機械の故障とか」


 フッと笑うと牧瀬は画面を指差した。


「このグラフは縦軸が偏りの度合い。そして、横軸は時間だ」


「…………つまり?」


「この山ができ始めた地点の時刻は、君がそこのドアを突き破って水槽に沈む侑理君を目撃した瞬間からということだ」


 振り返ると、床に打ち捨てられていたはずのドアは元の枠に嵌められていた。いつの間に修理したのだろう。というか、やっぱり見ていたのか。俺が水槽に飛び込んだ時に水を止めたのも牧瀬だったのだろう。


「そして、この山が一気に落ち着いたのが――」


 牧瀬はそこで言葉を止め、にやりと俺を見た。


「……侑理の意識が戻った時、だとでもいいたいんですか?」


「そう! 君が水槽の中に縛りつけられた侑理君を見た瞬間から、侑理君の無事が確認できるまでの間、乱数発生器に甚大な偏りが生じたんだ! つまり、君の心、感情が激しく揺さぶられているとき、それに呼応するように量子乱数発生器の偏りも激しくなっているんだよ!」


 牧瀬は興奮気味に言い放った。サプライズを仕掛けた子供のような顔で俺の反応を待っているが、俺自身はどうもピンとこない。量子乱数発生器というものがどんなものなのかもわからないし、俺の感情によってそれに影響が出たというのが本当のことだとしても、それがどんな意味を持つのかも分からない。


 牧瀬は、大した反応を見せない俺を見ると、サプライズが成功せずにふて腐れた子供の顔に変わった。


「……君はどうもこのことのすごさが分かっていないようだね」


「正直、分からないですね。そんなにすごいことなんですか?」


 くるりと背を向けると、牧瀬は両手を組んだ肩を小さく一度上下させた。


 ため息をついたのだ、絶対。


 そして数秒ほど口をつぐんだ後、振り向きざまにこう問いかけてきた。


「侑真君、量子論は知っているかい?」


 


 あー量子論ですか。もちろん知ってますよ。常識ですよね。


 そう答えるべきだったのだ。


 嬉々として量子論の説明を始めた牧瀬は、結局、完全下校時間などお構いなしの時刻まで俺を解放してはくれなかった。


 


 ○


 


 屋上で神之園から長々と運命論の講義を受け、水槽で溺れる妹を助け出し、図書室で痛い少女とゲームをして、オカルト研では牧瀬から似非科学談義を聞かされるという怒涛の一日も終わろうという時分。


 俺は家に帰り着くとすぐに買い置きのカップ麺をかき込み、シャワーを浴びて、きっちりと歯を磨いた後ベッドに飛び込んだのだったが、牧瀬から聞かされた量子論の話があまりにもインパクトがあったせいか、ヘトヘトの体とは反対に回り続ける思考は止まる様子がなく、ほんの少しだけだと言い聞かせて開いたノートPCを結局、日付が変わる直前まで眺め続けてしまっていた。


 量子論に関するサイトは書いてある単語の意味さえ分からないようなものばかりで、自分が目指すべき方角も定まらぬままに延々と電脳の海を漂流し続けた末に辿り着いたのは、『よく分かる! 量子世界の不思議!』と題された個人サイトだった。


 もくもくと白ヒゲを生やした博士と、無駄に理解の早い小学生のショウタくん、二人のキャラクターが対話をしながら科学への理解を深めていくという形式のものだ。


 しかし、


「よく分かんねぇよ……」


 そんないかにも子供向けなサイトを見ていても量子論に対する疑問は増えるばかりで、ようやく諦めた俺はノートPCを閉じてベッドの端に追いやった。途端、待ってましたと言わんばかりに強烈な眠気が体中を満たし始める。


 徒労に終わった電脳の海での漂流も、この深い睡魔に溺れるためのものだったと考えれば意味はあったのかもしれない。


 俺は夢見が丘に越してきてから、毎晩同じような夢を見ている。


 目が覚めた時にはボンヤリとした印象しか残っていないが、たぶんあれは昔の記憶。息苦しさと最悪の気分だけを残していくあの夢は決して面白いものじゃない。


 でもここまで疲れていたら、今日は大丈夫かもな。


 そう、頭の中で呟きながら目を閉じた――――

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