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記憶の舞姫4「兄以外の異性」

一日、一章づつアップしていきます。

感想いただけると励みになります。よろしくお願いいたします。

       ※


 王都ダイナグラムは、全体が白い大理石を基調に建築されており、中心部に王族が住む城がそびえている。

 神殿の周りはぐるりと堀で取り囲まれ、町中に張り巡らされた水路は、ダイナグラム中を網の目に流れている。堀の中は、整った形の石垣がつまれ、人の背丈の何倍も高い位置に城壁があり、入口は東門と西門の二箇所だけである。

 

 神殿内は、中央神殿を真ん中にして東西南北に4つの塔が建っており、サナレスの居住区は西門に近い。


 公式な出入りは東門を使う。

 いつも兄のところに呼ばれる時は西門を通過したが、今日は東門の正門を通るようだ。


 ダイナグラムの内地ではいつにも増して人通りが多く、東門付近に行くとそれは更に顕著だった。

 15歳になった民達の誰もが、生涯に数回だけ神殿の広場に通される許可が下り、大神ジウスから祝福されるとあって、子供を連れた家族が並び、またそれを見学しようと多くの人が賑わう。


 ただし、貴族以外は中央を通ることは禁じられていたため、サナレスとリンフィーナを乗せた馬車は、両脇に並んで神殿に向かう人の間を通り抜けることになった。


 貴族の馬車が通ると、人々は恭しく首を垂れる。

 貴族が通り過ぎるまで頭を上げることは許可されていないため、民衆は一様に手を合わせて礼をする。


 リンフィーナは顔を伏せ、馬車の中で周囲の様子を伺っていた。大勢の人がいるところに来たのは久し振りだったので、神殿を目の前にして緊張感が高まってくる。


 10歳と15歳になる子供達は、皆白い服を着ており、どの子も顔を輝かせていた。


 中央神殿は、よく手入れされた庭に囲まれ、U字型になり、中央には市民が出入りすることを許された二階建ての講堂がある。その広さは、子供1万人が入っても余裕がある。式典専用に用意された広間で、講堂の一階には10歳の子供達が集まり、講堂の2階には15歳の子供達が集められる。


 生誕祭では、ラーディアの子供だけではなく、ラーディオヌ一族、またその他の近隣の人の国からも、子供達が集まるため、入り口付近は混雑して、神官達が誘導に戸惑っていた。親は講堂内には入いれないため、東側の庭園で待つことになる。


 過去にリンフィーナも、10歳の時の生誕祭では、無邪気に講堂内を駆け回った。

 どうしても、嫌な思い出が蘇る。

 リンフィーナはグッと俯いた。


 貴族は講堂の二階より更に上段に、一般席から隔てられた特別席を、上から市民を取り囲んで左右に設けられている。


 そして王族は、貴族達が左右に分かれる中央部分に席があり、講堂内全体を見渡すのに絶好の場所になっていた。


 15歳になったリンフィーナが今思えばその配置は当然のことで、ジウスがその場所から祝いの言葉を述べることになる場所に位置するのだ。


 そんなことも露知らず、幼かった10歳のリンフィーナは背丈ほどある升席の囲いに乗り出していた。同年代の子供達が楽しそうにしている様子が珍しくて、見ているだけで落ち着かなかった。


 けれど10歳の生誕祭で、そうして浮かれているリンフィーナに目を留めた者が、顔色を変えた。違う升席にいる近くの貴族から、ザワザワとした空気が広がっていく。


「あれがラーディアの皇女?」

「信じられない」

 最初貴族達が何を騒ぎ出しているのかわからなかった。だが彼らの視線がどうやら自分に集中しているのを知って、リンフィーナは辺りを見回した。


 決して好意的ではない内容だとわかる雰囲気で、彼らは口々に何かを囁き合っている。

 彼らは口元を扇で隠し、言葉すら聞こえはしないが、まるで自分を化け物か何かのように見つめてくる。


 怖いーー。

 そう思って身を屈めた。


 近くで式典の打ち合わせをしていたらしい兄が、その様子に気付いて駆け寄ってきてくれたときには、リンフィーナはガクガクと震えていた。立っていることもできなくなるほどの満ち満ちた悪意は、10歳のリンフィーナにトラウマを作るには十分だった。


 あの時の苦い体験を思い出し、今日1日は絶対に目立った行動だけは避けようと思う。

 様子伺いをしたいからといって、1人で講堂に先に入るようなことは絶対にしない。

 銀髪の容姿を人目に晒さない。

 リンフィーナは決意を新たにして、少しでも目深に被ろうとヴェールを鼻先に引き寄せた。


「リンフィーナ、式が始まる前にジウス様に謁見し、セドリーズ様に挨拶しよう」

 そんなことを知ってか知らずか、サナレスは講堂を通り抜けたところに馬車を止めた。

「ええ、兄様」

 リンフィーナは知らず肩に力が入った。


 貴族の馬車が何台も着いていて、ジウスの所にもすでに何人かの訪問があることを知る。

 王族として受け入れられるかどうか心細くて、5年前のようにならないか心配だ。兄に手をとってもらって馬車を降り、束の間立ち尽くしてしまう。


 サナレスがリンフィーナの手を握る力を強めた。

 不意にサナレスに引っ張られる格好になり、リンフィーナが驚いて顔を上げると、兄の顔が近くにある。


「何も不安に思うことはない。お前はわたしの妹だ」

 リンフィーナの心情を全てお見通しと言った兄は、羽織っていた外衣を脱ぎ、神官に預けた。そしてリンフィーナの手を引いたまま、神殿の廊下をツカツカと歩いて行く。二人を見て、何人もの神官が脇に寄って頭を下げるが、サナレスはいっこうに気にしていない。


 リンフィーナは兄の後ろ姿を追いかけながら、前を歩く背中を見た。


 肩上に金色の三本のラインが入った詰襟の正装姿は、王族を表している。黒い正装は、王族でも騎士団に階位がある者の正装である。

 

 あああ、兄様かっこいい!

 不謹慎な心の声は、緊張のために飲み込んでいた。


 騎士団に入らない王族は、神に使えるものとして白い正装を、一般的に人と関わり祭事を行う王族は紫色の正装を纏っている。


「兄様のその姿、久しぶりに見る」

 整った繊細な顔立ちからは想像もできない、筋肉質な四肢に、体の線がでる黒い衣装はよく映えた。金色の髪を無造作に後ろでまとめているが、頬にかかるサナレスの長い金色の髪が、黒い正装をより際立たせている。


 振り返らずにサナレスは言う。

「今日は1日中、エスコートしよう」

 だから大丈夫だと、握った手の力から伝わってくる。


「王族でこのような正装なんて、兄様ぐらいでしょうね」

 頼もしさに内心唇が不自然に歪み、泣きそうになる。必死で堪えながら、リンフィーナは兄に付いていく。


 もう10歳の頃の自分ではないのだ。


 容姿などで口さがなく言ってくる輩なんて無視をしよう。

 兄が胸を張って進むのだから、私もその横で毅然と立ち振る舞わなければ、と思った。


「こんなにかっこいい兄様にエスコートされていたら、私は宮廷の女性達から恨みを買ってしまうわね」

「それは笑えない冗談だな。おまえーー未だ独り身の自分をからかっているのか?」

「そんなわけないでしょ。兄様はモテるはずだから、本気で言っているのよ」

 サナレスが鼻の頭を指で触るのを、リンフィーナは横目で確認する。


「お前までそんな話をする年齢になったのか。宮廷ではそう言ったことを散々聞かされるが、お前が言うようにわたしがモテていれば、母上から縁談の一つでも来そうなものだがな」

「それはそうね」

 軽く笑って言うサナレスに追いついて、リンフィーナも笑う。


 縁談が来なくなったのは、サナレスが片っ端から正式な婚儀を断っているからだと、離れの宮にいるリンフィーナの耳にも届いている。兄の性癖が疑われないのは、おそらくそれなりにダイナグラムで遊んでいるから、とびっくりするような情報も聞かされているのだ。


「心配しないで兄様、変な女に引っかからないよう、私がしっかりと脇を固めるから」

「おいおい。妹に固められすぎたら、さらに婚期を逃す。お手柔らかにしてくれ」

 兄妹で、他愛のない談笑をしながら歩いていると、不思議と気持ちが柔らかくなった。


 中央神殿の謁見の間に着くと、神官二人が出迎えた。サナレスは観音開きの扉を左右に開けた。

 中には既に多くの王族や貴族が集まっており、貴族達はリンフィーナの予想通り、ほとんどの者が白い衣と青い衣に身を包んでいる。


「サナレス殿下、並びにリンフィーナ皇女がお召しになりました」

 広間の全員に向かって神官が二人を紹介すると、一瞬場の雰囲気が変わった。


 「次期総帥」と言う呟きがどこからともなく漏れ聞こえる。


 神殿内に敷かれた青い布がジウスの玉座まで続き、その脇に貴族達が整列して、二人に向かって低頭する。それまで散漫だった人々の意識が、サナレスと自分の方に集中するのを感じ、リンフィーナはその場の雰囲気に圧倒され、息を飲んだ。


 やはりサナレスを兄に持つということは、嫌でも目立ってしまう。目立たないようにしておこうなんて考えても、一瞬で甘い考えだったと悔いるほか道はない。注目のまとである。


「サナレス殿下、ご無沙汰しております」

 一人の貴族が最敬礼の姿勢をとって、神子の王族として拝礼すると、他の貴族達もそれに続いた。

 サナレスは軽く右手を上げ、貴族達の拝礼に答えている。


「リンフィーナ皇女様の生誕祭、お祝い申し上げます」

「お祝い申し上げます」

 口々に挨拶と祝福の言葉が述べられる。


 けれど、ヴェールで顔を見せず、姿を隠すようにしているリンフィーナにとって、話し掛けられても応対出来る余裕はなく、自分の容姿が見られないようにすることで精一杯だった。


 足が竦んだ。

 自分の銀髪の姿を見られ騒動になってしまった、5年前のトラウマを克服するのは難しい。


 大勢の視線に晒されると、やはり怖い。

 自然と体が震えてくる。


 サナレスがその様子を見て、横に立ったままの姿勢で、小声で「顔を上げなさい、リンフィーナ」と言った。

 そして頭部を覆っていたヴェールを、自分と手を繋いでいる反対の右手で、頭を撫でるようにして脱がせ、自分の肩にかけて微笑んだ。


 顔を覆っていたヴェールを、ふいにはぎ取られて、驚いたリンフィーナは不安に揺らいだ表情で兄の顔を見詰めた。

 エメラルドグリーンの瞳でサナレスは自分を見つめ返す。


 大丈夫ーー、と彼の眼差しに先導力を感じた。


「さぁ、行こう」

 途端広がった視界に心臓が跳ねたが、兄は貴族達の注目する中を堂々と歩き、自分をジウスの元へ誘導した。サナレスに手を引かれたリンフィーナを前に、貴族はざわつきはするが、誰一人批判的な言葉を発する者はなかった。


 広間全体が息を呑む、しんとした空気に包まれ、気がつくとリンフィーナは玉座を前に膝まづき、兄の横に並んでいた。


「ジウス様、第七皇女、リンフィーナ・アルス・ラーディアです」

 サナレスが紹介する言葉で、周囲の視線が一身に自分に注がれ、リンフィーナは覚悟を決めた。


 こんなにも堂々と自分を妹として紹介してくれるサナレスを横に、びくびくしていてはいけない。せめて態度だけでも、王族として恥ずかしくない所作でいなければと、姿勢を正す。


 リンフィーナはドレスの裾を広げて可能な限り優雅にお辞儀した。


「これは……」

 周囲の王族が自分の姿を見て、どよめいた。


 彼らの反応が、否定的なのか肯定的なのか判断することができないほど、リンフィーナは緊張していた。けれどそれをひた隠しにして微笑み、ジウスを見上げた。


 祭壇は神聖で荘厳な雰囲気で、先端が尖ったアーチ状の壁が、ジウスが居る神域との区別を作っている。貴族や王族といえど、祭壇前の大階段を登ることは許されず、御前では礼拝中の最敬礼の姿勢を崩さない。


 サナレスが片足をつき、リンフィーナは膝をついたまま、ジウスを見上げた。


 大陸歴が始まる前からこの世に君臨するジウスは、大きな彫り物の装飾が施された大理石の椅子に腰を下ろしていた。千年経っても老いることのない彼は、サナレスと同じ年ほどに見え、ゆったりと背もたれに体を預け、肩肘を付いている。


 リンフィーナはジウスの銀色の髪を見て、いっとき呼吸を止めた。自分と同じ。周りの色を反射吸収する銀色の髪は、地を這うほど長い。


 彼の遺伝子を色濃く受け継いでしまったのだろう、リンフィーナは、複雑な思いで彼を見つめる。

 

 自分は大神としてそこにいる父とは違うのだ。それが悲しかった。


 また10歳の時のように、不吉な存在として囁かれるに違いない。そう思って俯きたいリンフィーナだったが、「顔を上げなさい」と言っていた兄の言葉を思い出し、必死で青い目を開いて微笑み続けた。


「リンフィーナ・アルス・ラーディアです。ジウス総帥。本日こうして御前に参ずることをお許しいただき、誠にありがとうございます」

 言葉選びの結果、お父様とは言えないで、うわずりがちな声で挨拶した。


 ジウスと視線が合い、リンフィーナは緊張で卒倒しそうになる。


「ジウス様、彼女が水月の宮で隠し育てて参りました第三皇妃の娘リンフィーナ。わたしの自慢の妹です」

 リンフィーナの自信の無さを補うように、サナレスは敬礼したままリンフィーナを讃える。


 ーーその瞬間、誰もが予期せぬことが起こった。


 あろうことかジウスが玉座から立ち上がったのだ。

 ゆっくりと祭壇の階段を降りてくる。そして更にあろうことか、リンフィーナに向かってくる。


 ちょっと、何!?

 何が起こっているのかわからず、パニックになった。

 リンフィーナの心臓は今にも止まりそうだ。


「リンフィーナか」

 ここ何年とジウスが動く姿を見られることはなかった。ジウスは千年以上もの寿命をただ静かにそこで過ごし、神殿の玉座に鎮座し続けるだけの神木のような存在だと、誰もが認識していた。そのジウスが玉座から立ち上がり、祭壇から降りた。


 この事実は、誰にとっても受け入れ難いことだった。

 王族や貴族の者達が、何が起こったのかわからないまま、それでも全ての参列者がジウスよりも腰を低くするために、次々と本能で膝まづく。


 全治全能の神と言われるジウスは常に祭壇の上にいて、人の頭よりも高いところに居るのが当然で、貴族と言えど彼らにとって、恐れ多い、ーーあってはならないことが起こったのだ。故にプライドの高い皇族も全員、膝まづいて床に頭をつける。彼らにとってジウスは神であり、決して同じ高さにいてはいけない存在である。


 かたやジウスは、彼らの気持ちなど知ったことではない。

 何の気まぐれかラーディア一族の総帥である彼は、血をはうほど長い銀色の髪を床に引きずってでもリンフィーナの側に近寄って、彼女の頭の上にそっと右手をかざした。


「我が娘リンフィーナ。美しくなったな」

 そう言ったジウスは、リンフィーナの髪の一房を摘み、口付けした。

 リンフィーナは驚愕して、声も出せない。


「よく連れて参った、サナレス」

「15歳の歳を迎えます」

 サナレスがそう答えると、ジウスは「感謝している」とサナレスに言った。


 不吉だと言われる銀髪のことを、噂されたり揶揄されたりするものだとばかり思っていたリンフィーナには、この展開は想像できず、硬直したままジウスから視線を外せなかった。


 近くで見ると、ジウスとサナレスの面差しがとても似ていることを知った。幼い遠い記憶の中、ジウスに抱き上げられたことがあるような気がする。強くて優しい気配、それから甘くてふくよかな白檀の香りを覚えていた。


 リンフィーナはそっとジウスの銀髪に手を伸ばした。

 赤子の頃の記憶を思い出す。

 父のこの髪にも触れたことがあった。

「お父様……」

 とんでもないことだと思っていたけれど、ジウスを前にリンフィーナは彼を父と呼んだ。


 ジウスがふわりと微笑んだとき、リンフィーナの緊張の糸が切れた。

 リンフィーナが正式に王族として認められた瞬間だった。


       ※


 ジウスに近距離まで近寄られた後、リンフィーナは程なく意識を手放していた。

「兄様……」

「目を覚ましたか?」

 起きるなり、どうしようという気持ちが溢れる。謁見の最中に倒れるなんて、本当になんたる醜態を晒してしまったのだろう。


「兄様、私ーー!」


 神殿に来ることで緊張感は最高潮に達し、それだけでも十分混乱していたのだが、ジウスが不意をついてリンフィーナの側に来た。思わぬことが嬉しくて感極まり、昨夜の寝不足も合間って、情けないことにぶっ倒れてしまった。

 久しぶりに神殿に来たのに、恥ずかしい。

 ちゃんとしようと思っていた。

 どうして私ってばーー。

 身の置き所がなくてリンフィーナは悶絶した。


 ひとつだけ幸いだったとすれば、ジウスを同じ高さで見てはいけないと判じた王族や貴族達が、こぞって顔を上げなかったことから、リンフィーナの失態は誰にも見られなかったことだ。


 こっそりとサナレスが抱き上げ、謁見の間を離れた後、サナレスの住まいにリンフィーナを移してくれていた。

 だから目覚めたとき自分が居たのは、何度も来たことがあるサナレスの部屋だった。


 ガバッと半身を起こしたリンフィーナは、髪の毛をかき上げて頭をふった。

「サナレス兄様、わたし……」

 とんでもないことをしてしまったとこめかみを抑え、リンフィーナは呻く。


「寝不足でもしていたのか? これまですごいいびきだったぞ」

 サナレスは笑っていたが、リンフィーナは青ざめる。


「うそ!? 私そんなに眠りこけていた!? 生誕祭は? ジウス様は??」

 焦って飛び起き、机に座って仕事をしていたらしいサナレスに詰め寄った。


「倒れた時は本当に心配したんだが、抱き起こそうとしたらあんまりよく眠っていたから、大丈夫だなと思って私の執務室に連れて来たんだ」

 あまり心配をかけるな、と言ってサナレスは立ち上がり、リンフィーナに飲み物を差し出す。ワイングラスに入れられているのはダイナグラムで取引が多い果物の果汁だった。


「どうしよう、生誕祭!!」

 おろおろするリンフィーナに、サナレスは「まあそれを飲んで落ち着け」と、座ることを促した。


「気にすることはない。無事に生誕祭は終わり、お前は王族として皆に認められることになった。この西の塔に、お前の部屋も与えられたのだから、安心するといい」

 それはつまり、講堂での人の子への祝辞も終わったということだ。

 なんたる為体ていたらく

 

 リンフィーナは頭を抱えた。

 10歳の生誕祭は騒動になって気分が悪くなり、水月の宮に逃げ帰った。そして15歳になった今日はここで居眠りを続け、結局生誕祭の式典に出席できなかった。


「兄様はずっとついて居てくれたの?」

「今日はエスコート役だからな。ただ日の出の誕生祭の式典は終わっている。もう半刻もすれば日没の演目が始まる」

 ということは、半日近く眠っていたことになる。


 兄にも役割というものがあるというのに、自分が眠っていたために大切な政務を棒に振らせてしまったというのだろうか。

「安心していい。セドリーズ様が私が式典に出なければならない時間は、お前についていてくれたから」


「セドリーズ様が!?」

 セドリーズは、サナレスとリンフィーナの母だ。神殿内では聖なる式典とされる場に女人の参列は認められない。


 ジウスの後宮は神殿の南側に在って、その中で暮らすのが普通だ。

 だから彼女は母親でも、王族となるとそう会うことはできない。自身の母に看病されたことを知って、リンフィーナは悔やんでも悔やみきれない。

 眠ってなんかいたから、母様と会う貴重な機会なのに逃した。お

 会いすることも、会話することもできなかった。


「神殿に部屋を持つことができたのだ。また、いくらでも会う機会はある」

 サナレスは慰めるように言う。そして「日没の演目に私は顔を出さねばならないが、お前はどうしたい?」と聞いてきた。


「眠いならこのままここで寝ていたらいい。生憎わたしは、夜の演目にラーディオヌ一族総帥との謁見があるため断ることができない。リンフィーナ、お前はどうする? クリスタルドールと異名を持つラーディオヌの総帥を見てみたくはないか?」


 不意に意思を確かめられる。

「ええっと……」

 既に頭は冴えていた。かなり眠っていたため、すっきりしている。


 ラーディオヌ一族の若き総帥のことは、リンフィーナも人の噂に聞いたことがあった。

 若くして呪術の腕に長け、大陸一の美女と名高い王妃の一人息子で、その姿は彼女の生き写しで、人形のように美しいという。

 それほどの有名人をひと目見てみたいと思わないわけではない。


 けれどこの状況は、ひょっとすると図書館に忍び込む千載一遇の好機かもしれない、と悪いことを考えた。


 兄はこれから公式の場に顔を出さなければならない。つまり自分は一人になることができる。神殿内も今日は生誕祭だとあって、神殿建屋内に神官の数も少ないはずだ。


 神殿広場で演目が進行し、そちらに人が集中するなら、手薄になった図書館に入ることが可能だ。この機を逃してはなるものか。


 オウロヴェルデーー。

 変革、変身の力の石を、リンフィーナは右手でギュッと握りしめる。

 変わりたいのだ。


「まだ、眠い」

 心の中で、兄に嘘をつくことを土下座しながら、リンフィーナは目を擦って見せる。


「そうか。ラーディオヌ一族の総帥の剣技はなかなかのものと聞いてお前にも見せたかったが、仕方がないな」

 あざとい演技を見破られるかと思ったけれど、あっさりとサナレスは同行拒否を承諾した。不可抗力とはいえ、ぶっ倒れたことが幸いしている。


「兄さま、ーーまたお話を聞かせてもらうわ」

 そう言ってリンフィーナは先ほど寝かされていたサナレスの寝台へ戻る振りをした。

 不覚にもジウス様の御前で意識を失って、今まで眠ってしまっていた。

 けれど、ーーこれからが本領発揮だ。


 兄と別れたリンフィーナは、サナレスの自室に1人きりになった。


 兄は側仕えを身近に置かないと言っていたが、部屋の中はいつも整えられていた。


 書棚には多くの本が並べられ、天性の才能と言われるサナレスの政務の根底には、相当の努力があることが伺えた。余暇があれば何か書物を読み、専門性を高めているのを、リンフィーナは知っている。


 中でも大陸全土で積極的に手に入れている歴史の本が、かなりの割合を占めている。知力を高めるのにも、物流を学ぶにも、答えは歴史書が導いてくれると、サナレスは前に話していた。


 難しい話はわからない。

 ただリンフィーナは兄が書類仕事をするとき、眼鏡をかけている姿が好きだった。

 「身体を動かす方が好きだ」と言う兄の言葉とは裏腹に、サナレスの知識量は並大抵の努力では得ることはできないだろう。


 机の上に置かれた書類の束と、分厚い本が、日没が近い部屋の中で目立っていた。

 生誕祭の日だと言うのに隙を見つけて仕事をしていたらしい。


 数学が関係するのかな?

 計算式が書かれた紙が目に入ったが、自分にはさっぱり何を表しているのかわからなかった。

 兄サナレスに相応しい妹になるため、リンフィーナは欠陥品の汚名を返上したいと思う。


 この忌まわしい銀色の髪を、金色に変えて、正式な手順を踏んで神殿に住み、微力ながらでも兄を手伝うのが目標だ。


 ふと、昼間会ったラーディオヌの民である少年のことが思い出された。


 あれからどうなったのだろう?

 兄の話だと謀反の企てがあるなんて言っていたけれど、彼の口から真意を聞いたわけではなかった。呪術が生活の一部として繁栄を誇るラーディオヌ一族。銀髪でも、いっそラーディオヌ一族であればこれほど疎んじられはしなかっただろう。逆に資質があると、銀髪を喜ばれたかもしれない。


 10歳の生誕祭の後、星光の神殿で出会ったあの少年も、ラーディオヌ一族の者だった。


 ぬばたまの髪、夜の瞳。

 ラーディオヌ一族の民は、リンフィーナにとってあの日から特別な存在になっていた。

 そして5年経っても忘れることの出来ない、少年との出会いは、リンフィーナの中で大切に育てられていた。


 あの時の少年は、今頃何をしているんだろう。

 またどこかで泣いたりしていないだろうか。


 久しぶりにラーディオヌ一族の民らしき少年と接点を持ち、リンフィーナはあの頃出会った思い出を引き出している。


 泣いているから、どこか痛いのかと声をかけた。

 その問いに少年は、「自分の容姿が嫌い」だと言った。理由はわからない。少年はとても綺麗だったが、自分の姿を醜いと言って泣いていた。


 人の容姿は天啓だ。ーー天が与えたもので、それを変えることは大罪かもしれない。

 ジウスに皇女として認められた今、この天啓に逆らってまで、自分の容姿を変える必要があるのかと問われれば、正直少し迷いがあった。


 容姿のコンプレックスを克服するには、内面を鍛えればいいのではないか?

 成長したリンフィーナは頭ではわかっている。頭では理解していても、過去の一瞬、一瞬で嫌な思いを味わった記憶を、消すことができない。


 不条理なことだと言う不快感とともに、悲しみが強くなる。


 容姿で人の価値が決まるものではない。この前提はあるとしよう。

 けれど、それはそれとしてだ。


 リンフィーナは迷いを振り切って、首を振った。結局自分がどうしたいのか、どうなりたいのかの選択権は、自分自身にある。


 自分の姿を、もしこのまま受け入れるのなら、ジウスのように術者としての力を手に入れ、兄の側にいたい。金色の髪でなくてもいい。黒髪でも、今のままの銀髪でも、その外見を受け入れるならば、せめて自分のできることをしたい。


 兄に紹介してもらったラーディアの術者は、リンフィーナに素質があると言った。


 そもそも神人というものが生まれる前、強大な力は全て天の采配、つまり光、闇、地、水、炎、風の中に混在した。「どうか作物に恵みを」と祈るとき、大地の神に祈り、そして光と水の恵みを祈った。心の苦しみから眠れぬ日々を過ごすものは、「どうか安らぎを」と祈り、闇の静けさを願ったものだ。


 呪術が悪いものとは、リンフィーナには思えない。

 歴史上で八百万の神々を作り出した世界は、手前勝手な理由を並べて神子を讃え、呪術を発展させて来たのではないか。


 神殿でのジウスの様子は、リンフィーナには衝撃的だった。


 強大な力の象徴、同時に畏怖される特別な存在として人々から距離を置かれるジウスの表情、ーーそれはなんて期待とは違い、儚げだったことか。

 貴族の頂点に君臨するラーディア一族の総帥として、もっと違う、何か違うものを感じ取ることができれば、良かったのかもしれない。


 けれど、現実にはその壁はなかった。壁は、人が作り出したもので、ジウスの前には何もなかった。娘であるリンフィーナですら、ジウスが自分の側に降りてくるまで、彼を神格化してしまっていた。


 境界線という差別は、人々が勝手に心の中で作り出したものだ。


 リンフィーナは立ち上がった。

 心が塞ぐときは、身体を動かそう。

 それは行動してみることと同意ではなかったはずだが、勝手な解釈で実行に移すことを決めてしまう。


 神殿の書庫には様々な呪術を行う知識と技能が記されているはずだ。


 自分を変革したい。

 強い思いは、もはや容姿に関わることだけでは無くなっていた。


 ただ兄に庇護される存在で甘んじているのではなく、なんとかして自立し、大切と思える人のために強くなりたいと思う。

 リンフィーナは決意を新たにして、神殿の書庫に足を運んだ。


       ※


 ラーディア神殿の書庫は、魔界である。


 10歳のリンフィーナの教訓は、15歳に成長した彼女にとっても変わらなかった。


 決して自分が小さかったから、この広さに恐れ慄き(おののき)、目的を達成できなかったわけではないことを、物心ついた15歳の自分は知ることになった。


 ラーディア神殿自体がどれくらいの大きさか、全貌を把握する計測能力がないリンフィーナだったが、目の前の書庫だけで、リンフィーナが住う水月の宮はその中にすっぽりと収まってしまうことだろう。


 天井の高さといい、上へ奥へ、そして横へずらっと並ぶ本といい、薄明かりの中でも広大さは異様だ。それだけラーディア一族は文化的な一族で、呪術を手放したとはいえ、その全貌をいつでも手に入れる状態に記し、人の国と交流を持って繁栄して来たのだ。


 ここは不可思議な呪術と、人の文化を全て記している場所なのだと、リンフィーナは悟る。

 もし、ラーディア一族が呪術を重んじ、人の文化を無視して来たら、形式科学、自然科学、社会科学、人文学、応用科学、地域研究と、人の国で生まれる学問を全て蔑ろ(ないがしろ)にしていたかもしれない。


 ダイナグラムに水路が引かれ、暗い場所に電気を灯す技術を、そして寒い場所を暖かくする術を、アルス大陸全土に伝えられなかったかもしれないのだ。


 神に与えられた特殊な能力を持ちながら、ひたすらそれを頼らず、匍匐前進で努力を積み重ねて来た民にとって、唯一の武器は知識であったに違いない。


 ラーディア一族には神殿に貴族が通う学校があるばかりか、ダイナグラムにもいくつもの教育機関があり、子供達は無料で学ぶことが義務付けられていた。

 リンフィーナは書庫を眺めながら、一族を誇りに思う。


 幼い頃失敗したのは至極当然のことだった。

 何の知識も持たず、ここで大それたことを企んだ自分が懐かしい。


 咄嗟のことだというのに、よくサナレスは自分の失態を見つけ、書庫の上段から落下する地点を予測して庇ってくれたものだと、図書室の広さを見て改めて感謝する。少しでも動作が遅ければ、この高さでは大きな怪我につながっていた。


 ごめん兄様。

 性懲りもなく、またここに忍び込んでいること自体、後ろめたい思いはあった。


 けれど今度こそ失敗しない。

 記憶では確か呪術の本は左奥にあったはずだ。


 リンフィーナは薄明かりの中を、部屋から持ち出したランタンを頼りに進んでいく。生誕祭でなければ、図書室を管理する神官がいるはずなのだが、予想通りも抜けの空だ。

 魔術を禁じる一族だというのに、多くの魔術の本が整然と書庫に並ぶ。立ち入り禁止区域、と一本のロープが張られているだけで、中に入るのは容易だった。


 10歳のリンフィーナが訪ねた場所再びリンフィーナは立っていた。


 安易に到着したものの、その場に立つとなぜか空気が重く感じた。

 呪術の本は古い本が多く、大きく重厚だ。

 威圧感がすごい。


「確か、ここの2列目から7列目にかけて呪術の本が並んでいて、それで……」

 変身魔法が書かれた本は、5列目の真ん中の辺りだ。

 記憶を頼りに進んでいく。


 10歳の頃ここに来てから、リンフィーナは呪術に囚われているような気がしてならない。

 水月の宮で、あの漆黒の髪の美しい少年に出会ってから、今の自分と違う容姿であれば、そしてラーディアの皇女という立場でなければ、と妄想を繰り返してしまっていた。


 もし、自分がサナレスのように、月の光のような金髪の皇女であれば。

 もし、自分がラーディオヌ一族のあの少年のように、漆黒の髪とその瞳のラーディオヌ一族の民であれば。


 10歳の時のリンフィーナの感傷と共に、記憶した想いが蘇ってくる。


 名前すら聞くことができなかった、ラーディオヌ一族の少年。


 また逢いたい。

 もう一度、逢いたい。

 頭を振っても、願望が強くて、走馬灯のように記憶が蘇る。


 星光の神殿で彼に出会い、ひっそりと肩を寄せ合った時間が、なぜか今頃、強烈な記憶となって蘇ってくる。


 名前すら訊かなかった。

 そして泣いている理由すら、訊くことができなかった。


 あの子は誰だろう?


 名前も聞かなかったことへの後悔が募ったけれど、ーー冷たい書庫は堪えてくれなかった。ただあの日を思い出し、気分が高揚して、逢いたい気持ちが湧き出してくる。


 自分の容姿を汚いものだと言った少年の言葉に、あの時自分は「そんなことない」と懸命に否定した。

 「あなたはとても綺麗」そして醜いのは私なのだと。


 いつの間にかリンフィーナは泣いていた。

 ラーディア一族の民に受け入れられず、心が張り裂けそうになって訪れた星光の神殿。

 あの時間に記憶が引き戻されて、どうしようもなかった。


 どれほど今の自分じゃない誰かに変わりたいと思ったことだろう。

 自分が嫌いだ。


 目当ての本を必死で探しながら、リンフィーナは唇を噛んだ。容姿が差別される一族内で、どうやって大好きな人に迷惑をかけずに生きることができるだろう。


 10歳の頃に逃げ込んだ星光の神殿に、自分はただひたすら隠れて泣く場所を求めていた。

 けれど心底で、自分の激しい部分が叫び声を上げていた。


 あの時本当の自分は、泣く場所を求めて、彷徨った(さまよった)のか。

 そうじゃない、死に場所を求めたのだとーー。


 立ち入り禁止の呪術の本が並ぶ書庫は、リンフィーナの精神を容赦なくむしばんだ。

 知らない間に、目当ての本を探すことをやめ、そこにうずくまってしまう。


 ここに立ち入ったまでは、やる気に満ちていたというのに、今はなんのためにここに来たのかさえわからなかった。


 ーー何かがおかしいと思うけれど、精神が崩れ落ちそうになる。


 自分なんて本当に、生きていても仕方ないかもしれない。

 膝を抱えて座り込んでいるリンフィーナの手を、誰かが引いた。


「愚かな……」

 手を引いたものは、自分のことを揶揄やゆして、さらに手を引いて書庫を移動する。


「誰?」

 驚いて静止しようとするが、捕らえられた手首への力は弱まらなかった。

 結果リンフィーナはとてつも無い速度で引っ張られて走らされる。


 走る、とは言っても人の移動速度ではあり得なかった。


 疾風のような早さで、誰かが自分を引っ張って移動する。

 速度が早すぎて、自分の足が床に通いた感覚が、ほとんどない。


「ちょっと……。ちょっと!待って!!」

 通り過ぎる空気が早く、声を出すのもやっとだった。


 絶え絶えの息で、静止してくれるよう頼む。


 それでも風速で移動する感覚は数秒続き、気がついたときには誰かと一緒に壁に激突して転がり、頭上から厚手の本の攻撃を受けることになった。


 今の感覚は何だろう?

 重力を感じることなく、風のように移動した。


「痛っ……いたたたっ!」

 頭を押さえながら、何が起こったのか理解しようと、リンフィーナは目を凝らす。


 その瞳に、至近距離で漆黒の瞳が映った。

「きゃっ!!」

 息がかかる距離に人の顔があって、リンフィーナは驚いて悲鳴をあげたが、その人はため息をついた。


「君は馬鹿なのか!?」

 辛辣しんらつな言葉が頭から冷や水のように浴びせられる。

 書庫の本何十冊かの下敷きになった状態で、リンフィーナはその者と視線を合わせた。


「呪術も学ばない者が、あんな重厚な呪術の、禁断の場所に立ちいれば、こうなることぐらい予測できなかったのか!?」


 暗闇で声の主を下敷きにしながら、リンフィーナは憮然とする。

 一方的に責められているけれど、相手が何者なのかもわからない。それなのに頭ごなしに怒られて不条理に感じた。


「あなたこそ、何ものなの!? こんな時間にラーディア一族の書庫にいるなんて、おかしいわ。名乗りなさい」

 奔放ほんぽうに育てられたリンフィーナは相手を下敷きにする格好で、勇ましく誰何した。

 現状の体勢を利用して、相手に馬乗りになり手首を握る。必死の攻防で相手を床に押さえつけた。


 じっと、相手の顔を見る。

 夜を吸い込みそうな、切れ長の瞳と目が合った。


 見慣れない漆黒。ラーディア一族でないことを知って、リンフィーナは緊張する。


「ラーディオヌの民が、こんなところまで忍び込むなんて」

 早く神官や、近衛兵を呼ばなければと思うが、静まった書庫に人の気配はない。


 叫ぼうとするリンフィーナの口を、相手は素早く塞いできた。

 相手の手首を抑えていたはずなのに、ものともしない力で反対にねじ伏せられる。


「何もしない。だから静かにしてくれ」

 その者は言った。


 薄闇の中で、相手の顔が確認できるくらいに見えるようになった。


 乱暴に扱われているというのに、その者は一眼で人を魅了するような端正な容姿をしていた。リンフィーナは束の間、自分が置かれている状態すら忘れ、彼の美貌に見惚れてしまう。


「なんて綺麗……」

 口をついて出た感想は間抜けなものだ。


 そして、見覚えが合った。

 まさかーー、とは思ったけれど、こんなふうにキレイだと思う人を、自分は知っていたのだ。


 10歳の頃出会い、ただ逢いたいと切望したその少年に、面影が似過ぎていて、リンフィーナは力を抜いた。


 「あなた!」と声を出したいところだが、今度は少年に上に乗られ、彼の手で唇を塞がれているために声が出ない。


「私にとっては大切な日だ。君に関わっている暇はない」

 相手は自分に関心を向けず、ただ黙っているように脅してくる。


 あの時の少年なのだろうか?

 きっとそうだ。

 でも。

 自分を覚えていないのだろうか?


 声に出せない分、リンフィーナは必死で彼を見つめ続けた。


「一つだけ忠告してやろう。呪術は、使えない者は使おうとするな」

 女性のように美しい顔で、リンフィーナに囁く。

 少年の面影を残しているが、成長した彼はどこか尖っていて、取りつく島もない。


 何もしないし叫ばないという意思表示のために、リンフィーナは全身の力を抜き、ただ見つめた。

 その気持ちが伝わったのか、少年というには成長した若者は、リンフィーナを解放してくれた。


「君は危うく呪術自体に心を囚われるところだった。資質だけあっても、呪術を扱う術を知らない者は、魔道に落ちやすい」

 抵抗しないリンフィーナに、彼は事訳を説明した。


「助けてくれたの?」

「偶然居合わせたから、成り行きでだ」

「ありがとう」

 リンフィーナは礼を言った。


「でもどうして、こんなひと気のない書庫にいるの?」

 私のことを覚えている?

 本当に聞きたい言葉は飲み込まれて言えない。


「……本が、好きなんだ。一度ーー、ラーディアの書庫に来てみたかった。だから生誕祭に紛れて忍び込めば何とかなるかと考えただけだ……悪意はない」

「でも、私という先客がいたのね」

 10歳の頃と同じだと思った。


 あの時は彼が先客で、自分が彼を見つけた。そして今は、自分が先客で彼がここに来た。


 覚えていますか?


 なぜ聞けないのか、わからなかった。偶然の再会を意識しすぎて、どうしても聞くことができない。

 忘れられていたら悲しいからだ。


「とにかく危ないところを助けてくれてありがとう。ーーあの、ーー名前を聞いてもいい?」

 この質問をするのがやっとだった。「恩人を決して困らせたりしないから」と付け加える。


 沈黙が返った。

「アセス・アルス・ラーディオヌ」

 言うべきか躊躇う(ためらう)ような間はあったが、彼は名乗った。


「ラーディオヌ」

 やっぱりラーディオヌの民だった。


 アセス・アルス・ラーディオヌ。

 声に出さずに反芻して、リンフィーナは絶句した。


「ええっ!?」

 アルス・ラーディオヌ!!


 王族の呼称だった。そして聞き覚えのある名前だった。

 リンフィーナは思わず、ふらふらと後ずさり、落ちている本に足を滑らせて尻餅をついた。


 その名前はアルス大陸広しと言えども、知らない者の方が少ない。


「クリスタルドール!!!」

 リンフィーナは叫んだ。

 しかも驚愕からあたふたしてしまい、どちらかと言えば正式な呼称ではなく、失礼な方のあだ名を叫んでしまった。


「ラーディオヌ一族の総帥!! えっと、えっと、ごめんなさい!!」

 即座に謝るが、相手の沈黙が気まずかった。


 漆黒の髪が背中まで伸びているし、手足もずっと長くなっている。

 けれど彼は、確かにあの水月の宮で出会った少年だった。彼は相変わらず非の打ち所のない容貌のまま成長し、あの時と同じ感情が読み取れない透明な美しさで、自分を見返してくる。


 ううっ。

 久しぶりに見た彼は、クリスタルドールの異名が合致しすぎていて、どうして今頃それに気がついたのかと、リンフィーナは自分の頭を抱えたくなった。


 だが目の前の彼は、悲しいほど無表情だ。

 それなのに意外なことを口にした。


「ーー君に人形とは言われたくない」

 アセスは影を落とした顔で言った。


「ごめんなさい」

 やはり失礼だったと猛省し、リンフィーナは肩を落とす。


「イル・サ・ラーディオヌのアセス様」

 王族に対する敬称を間違わぬよう、リンフィーナは初めてアセスの名前を呼んだ。

 アセスという名前を知って、呼べることの幸せを噛み締める。


 アセスは苦笑した。

「その敬称は人形と同じことだ」

 小さい吐息とともに漏れた言葉を、リンフィーナは聞く。


「そろそろ行かなくてはならない」

 アセスは言った。


 再会を喜ぶ機会すら逸したまま、アセスから別れの時間を宣告される。


 リンフィーナははっとした。

「生誕祭の夕刻の部の演目!!」

 こんなところにいて、間に合うのだろうかと言う、不安が広がる。

「ウソ!? もう始まってる時間だよね!?」


 サナレスがラーディオヌ一族の総帥による演舞があると言っていた。

 その本人がこんなところにいて、会場は大変なことになっているのではないか、と落ち着かなくなった。


「案内するから」

 リンフィーナは言った。


「急がずとも、待たせておけばいい」

 つまらないと呑気なアセスとは反対に、そんなわけには行かないと、リンフィーナは躍起になった。


 また自分が彼を足止めしたせいで、生誕祭の演目が進行されないとなると、責任を感じてしまうではないか。


「皆が待ってるんだから、急がないと」

 今度はリンフィーナがアセスの手首を掴んで先導した。


 東の宮の書庫から、中央広場までは、そう遠くはなかった。


 昼間は講堂での式典があったが、夕刻からの部は、地下、アリーナ、そして四階に観客席が設けられたコロッセオに場所を移し、すでに催事が始まっているようだ。コロッセオも広大な建築物で、入り口が複数あり、どこへ連れて行けば正解なのかわからない。


 コロッセオは式典を行う講堂とは建築された目的が違い、人々の娯楽のための施設である。ここでの一番の娯楽といえば、男達がその力を競いあう剣術による大会で、地下には猛獣たちの檻、剣闘士たちの待機場所等がある。


 時には人と人が、また人と猛獣が血を流しながら、見せ物としての力を鼓舞する決闘が行われるのだ。8万から10万の観客を収容する場所として、段違いに規模が大きい。


 兄がいるのは、ラーディア一族の近衛兵がいる場所に違いない。そこが中枢だ。

 けれど他の一族の総帥を兄のいるところに案内していいものか、リンフィーナに判断がつかなかった。


 十箇所近くある入り口のどこから案内すればいいのかわからずに立ち竦むと、アセスはここでいいと言った。


「望まれたのは演舞。ーーこのような野蛮な場所だが、君達一族の祭りの日だ。連れてこられたのなら花を添えてご覧に入れよう」

 冷たい声色で言われ、リンフィーナは驚いた。手を引いてきたアセスは、先ほどとは別人のように完全に無表情になっている。


 リンフィーナに背を向け、手近な入り口に向かって歩いていく。

「あのっ……」

 呼び掛けたら、彼は一瞬振り返った。


「君の生誕祭と、再会を祝おう」

 そう言って、心なしか微笑んだように見えた。


 リンフィーナは体の芯が火照るのを感じた。


 ちゃんと気がついていたのだ。

 覚えている、と彼が表明してくれた。


 たったそれだけのことなのに、両手で口元を覆い、リンフィーナは歓喜した。

「自己肯定感を得るために、呪術を勉強し始めました」

記憶の舞姫④:2020年8月11日


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