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記憶の舞姫「コンプレックス」

 ある世界の心理学者は、すべての生命体はつながっていると言った。

 彼は夢の研究を行っていた。

 夢の中で彼は行ったことのない場所に立ち寄り、話したことのない言葉を話し、見たこともない別世界の曼陀羅を写し取った。

 そして死ぬ前にようやく結論を出した。

 今目に見えるこの世界では、自分たちは個々の形をとり、個々の心を持ち、あたかも別個の存在であることを誇示している。けれど一つの種子から生まれた命が、進化の中で分裂し、別々の道を歩み始め、世界を彷徨うのは、感情を持った生命が誕生したからだ。

『大きな磁場に吸い寄せられた塵のように、人の魂はいかなるときもつながっている。そして今自分の居る目に見える世界は、たった一人の誰かの作り出した想像の産物かもしれない。』

        ※


 ここに一つの世界を作り出した創造主がいる。

 その世界は、青く輝く水の星に生まれ落ちた民達の世界で、星の名をソフィア・レニスと命名した。


 そこに住む民達は、最初は皆平等であったが、天災に見舞われるたび、手前勝手な都合でいつわりの神々をつくりあげていった。


 あるときは作物の収穫を願って豊穣ほうじょうの神を、またある時は雨乞いを行う水の神を――。

 史料に残された「災い」の記録をひもとく中、実に多くの属性を持った、八百万やおよろずの神々が誕生し、人々は彼らのことを「神人―ジン―」と呼んだ。


 何故、人は神というものをつくりだし、救いの手を求めるのだろうか。

 人に生まれた性分サガなのか、あるいはそうしなければ生きられないほどに人の心は脆く、崩れやすいものなのか?


 あたりまえのように人々は神人の一族に供物を捧げ、祈る。

 いつの時代も同じように、自分が、そして家族が幸福でありますように。そして豊かな暮らしができますようにと。


 だが神人にとってはどうだろう?


 人と神人を隔てたものは、ほんのわずかな能力である。


 例えば言葉がうまれる以前には、誰もが可能としていた生命の心を読むことができる能力。

 また道具を使い始める前、道具がなくとも暮らしを豊かにする知恵、最初はほんの些細な神事や祭事を扱う力を持っていただけかもしれない。


 些細な力を持つだけの神人にとって、人々の願いによって彼らの事情から勝手に奉られるのは、重荷でしかなかったのではないか?


けれど人と神人との恋愛が禁じられたことによって、いつわりの神の力は、その血が濃くなると共に強くなる。真の神というものが存在するなら、それに近いほど強大になっていく。


 神人は互いに血族を作り、人の世界に関与することを嫌うようになった。


 ソフィア・レニスという大陸の中で多くの神人の一族が誕生し、人との間に高い壁を築いて、不可思議な力関係を競い合うように成長した。


 そしてあるとき、神人の一族の一つであるラーディア一族に、双子の神人ジンが生まれた。

 彼らは手を使うことなく物を持ち上げ、強大な力を持ち、不思議なことに老いることさえ知らなかった。


 双子を見て、人だけではなく神人達の間でさえ、この二人こそが一族に落とされた真の神だと言った。

 彼らの誕生で、ソフィア・レニスの未来は安泰だと、誰もが信じて疑わなかった。


 ――しかし、現実は皮肉なもの。

 その双子がソフィア・レニスに災いをもたらすことになる。


 きっかけは些細なことだった。

 仲の良かった双子が、1人の少女を奪い合ったことに始まってしまう。


 強大な力と力の不均衡が災難を招く。

 地続きだった大地は割れ、各地で水柱が立ち上がり、海から津波という濁流だくりゅうが街に押し寄せ、多くの命が失われた。


 大陸歴が始まった今はもう、伝説のように語られる双子の話の真実は、限られたひと握りの者のみが知っている。


 本当に神人の双子に、星を滅ぼすようなことができたのか。

 まして人によってつくられた偽りの能力で、いったい何ができたというのか。


 伝説には尾ひれがつく。


 ソフィア・レニスが滅んだ時、そして大陸暦が始まった時、世界は天地に別れ、現在は天のそれを双子の弟であるジウスが治め、地のそれを兄のヨアズが治めているのだと。二つの神人界にジウスとヨアズは身を置いて、いずれまたひとつになることを夢見て、静かに時を待ち続けているのだと。


 それはもはや大陸全土に広がる、「神話」になっている。


       ※


「だから王族って辞められないのかも……。 ーーでもそれって、本当の自由じゃないよね」


 ラーディア一族の領地の離れにあるラギアージャの森に、水月の宮という建物があった。地上四階建てで、地下一階には館の従業員が暮らすその宮は、ダイナグラムの特別環境保護地区という条件のなかで、貴族の建築物としての風格を残しつつ、人の暮らしやすさという機能性を確保しながら建築された。


 概ね全てが大理石で作られているが、内外装には木造のイメージを余すとこなく継承し、少人数で快適に暮らすことへの配慮もなされている。


 そこにラーディア一族の血を引く姫君が1人、何不自由なく暮らしていた。

 ラーディア一族の第三皇妃の娘、リンフィーナ・アルス・ラーディアである。


 神人の歴史が如何なるものであっても、アルス大陸でラーディア一族は絶大な繁栄を誇っていて、貴族と呼ばれていた。

 中でも力の強い、未だ健在なジウスの血を濃くひいて人々に崇拝されるものは、神として神殿に住み、一族内で王族として認められた。


 本来王族の血縁は、神殿に暮らすのが普通である。

 けれど特殊な事情で、リンフィーナは一族を離れた宮に身を置いていた。


 今日は誕生祭。

 生誕祭と言って祝われる。15歳を迎えたものが神殿に集い、祝福を受ける日である。


 この日に特別の思いがあるリンフィーナは、昨夜ほとんど眠ることが出来なかった。


 ベットの上でそわそわしながら考え事をしていると空が白み始め、1日の始まりが近いことを知る。


 眠れない理由はいくつかあった。

 もちろん楽しみにしている気持ちが大半なのだが、コンプレックス故に戸惑う気持ちもある。リンフィーナは落ち着くことが出来ずにいる。


「どうして私は兄様の妹なのに金髪じゃない? それに……」

 何なのよ、この貧相な凹凸のない体。

 リンフィーナは自らの身体を振り返り、吐息をついた。


 兄の好みの女性は、おそらくは金髪碧眼の出るところがでた美女だ。

 残念なことに自分は銀髪で、出るものは未だ出ない……。


 痩せ(やせ)っぽっちの体。

 しかも銀髪なのであれば、せめて呪術師として認められた黒髪であれと願ってしまう。


 王族である彼女には、サナレスという兄がいた。


 今のラーディアの繁栄が在るのは、彼の功績が大きい。ダイナグラムの物流を豊かにし、一族内に水路を引いた。水力を利用して発電所を作り、近隣諸国に電力を供給している。


 サナレスは王族だが、科学者で、商売人で、卓越たくえつした才覚を持っていた。

 第三皇妃の長子でありながら、実力で次代の王になる器だと噂に名高い。


 兄サナレスは、リンフィーナにとって唯一無二の絶対的な存在である。離れに暮らす彼女の育ての親でもあり、彼の存在自体がこれと言って誇れることがないリンフィーナの、たったひとつ鼻を高くできることだ。


 サナレスは誕生祭にリンフィーナを正式に神殿に迎え入れ、貴族達に自分の妹であることを認めさせると約束してくれた。この約束を彼女は疑っているわけではない。


 特別な日のために送られてきた絹製で純白のドレスは美しく、一目見てとても高価なものだと分かった。


 細かい色で織り上げられた布は西陣織り(にしじんおり)と言われ、見る角度によっては模様が現れる逸品で、職人が幾日かけて作ったものなのか想像もつかない。胸元に散りばめられた王族の紋章の刺繍は、青い絹糸で施されており、リンフィーナの好みだった。


 本来ならばそれを着て、神殿に向かい入れられることは、夢に見るほど嬉しいことだ。


 これでやっと、兄や父母と同じ、王族として認められるのだ。ーー何より、肉親に思うように会えずにいたリンフィーナには、幼い頃から待ち望んだ日が今日だ。


 ところがーー。

 同時に、この日が近づくにつれ彼女のコンプレックスは段々と心の中で暴走し、隠しきれないものに成長していた。


「どうして私は、こんなに醜いのかな……。行きたくないよ……」

 早くに目を覚ました彼女は、手鏡を自分の胸に引き寄せて、ため息をつく。


「ダメだって。私じゃきっとだめ……、絶対ダメなんだってば!」

 何度も何度も、自分の姿を確認するが、いっこうに変化しない。

 鏡に写るのは、青い双眸、腰まで伸びた銀色の髪の自分である。


 銀髪はラーディアでは不吉の象徴。


 10歳の頃、それを知った。

 前の生誕祭で神殿を訪れたことがきっかけだ。


 一族では、10歳と15歳の歳に、子供達は神殿で祝福を受ける。10歳になる歳は、無病息災だったことを祝われ、15歳になると大人として認められることを祝われる。これが一族のならわしなのだが、1度目の誕生祭での出来事が、リンフィーナには衝撃的なトラウマを作った。


 苦い思い出として記憶に刻まれているため、生誕祭と聞くと緊張するのだ。


 10歳までのリンフィーナは、何も知らされることなく平穏に暮らしていた。


 兄は政務に忙しく、それでも週に一度は離れの宮にいるリンフィーナの元を訪ねて、神殿のことを話して、同じ時を過ごし、甘やかせてくれた。


 優しくて大好きな兄は存分に愛情を与えてくれる存在として確立し、リンフィーナは兄が来てくれるのをひたすら待って過ごしていた。


 それが限られた狭い範囲での生活でも幸せだった。

 まるで飼われている小動物のように、兄がくれば目を輝かせてその胸に飛び込んだものだ。


 幼女にはスキンシップが必要で、一緒に過ごしてもらう時間が大切だった。

 兄がくれば満面の笑顔になり、帰ってしまう時には泣き出した。政務でしばらく訪れがないと、もっと一緒に居てくれなければ嫌だと、ためらわずに泣きながら抗議した。


 ーーけれど、10歳の生誕祭の祝いの席で、リンフィーナの意識が変わる。

 その時を皮切りに自分の存在のうとましさを知らされることになり、兄に対してさえ我儘を言えなくなった。


 生誕祭でダイナグラムを訪れ、彼女は知った。


 ダイナグラムに入った途端、異端視される冷たい視線。

 はっきりとわかる敵意というものを感じ取ったのはこの時が初めてだった。


 今まで多くの大人と関わることがなかったリンフィーナは、自分を見る視線の悪意に晒された。

 足がすくみ凍りつく。忘れることはできない過去だ。


「あれがサナレス殿下の妹?」

「銀色の皇女なのか?」

「まさか」


 口々に囁かれた(ささやかれた)内容は、サナレスの前では薄ら笑いに変わっても、場所を変えれば容赦なくリンフィーナに浴びせられた。


 初めて知った事実は、その日以来ずっと抜けない刺となって心に刺さってしまっている。


 銀髪はラーディアでは不吉の象徴ーー。


 この件があって、本来であれば王族は神殿で住うものだが、不吉の象徴として生まれた彼女は、隠されるように離宮で暮らすことを余儀なくされていたのだと知った。


 リンフィーナは悟る。世の中には、容姿による差別があるのだということを。

 髪色や肌色で、人は人を評価する。


 自分がサナレスと同じ、月の光を紡いだような優しい金色の髪をしていれば、受けることがなかった仕打ちには、いったいどう対応すればいいのだろう。


 1度目の生誕祭は、気分が悪くなったことを理由に、リンフィーナは早々に人前から退いた。


 兄には生誕祭でも立場上の役割があったため、世話係に馬車を用意してもらい、兄の目を盗んでやっとのことで水月の宮に逃げ帰った。


 後に知ったのは、ラーディア一族は呪術が宿るとされる、銀髪や黒髪の民を迫害はくがいしてきたという歴史だった。

 ダイナグラムは、いやラーディア一族は、銀髪の自分を受け入れてくれるところではない。リンフィーナは項垂れ(うなだれ)た。


 差別が生まれたのは伝説によるところが大きい。

 一族の王であり、総帥であるジウス・アルス・ラーディアが双子の兄と奪い合った少女が銀髪の魔女だったから、と公言する者が多いそうだ。一方で銀髪のジウスが千年も前から生き、永遠に尽きない寿命を紡ぎ、彼を畏怖いふする念から生まれているとも云われている。


 ジウスの血を引く銀髪の娘、これが男子ならば、恐れられることはあっても世継ぎとして認められたのかもしれない。けれど皇女となると、一族にとってはかつての魔女の伝承を思い出し、不吉でしかなかったのだろう。


 10歳のリンフィーナは、離宮に帰って数刻部屋に篭った後、水月の宮を抜け出した。


 それは泣く場所を探しての放浪だった。


 ラーディア一族では呪術が宿る者を不吉とする。

 だから自分は、神殿で父や母と暮らすことを許されず、離れの宮で隠されるように育ってきた。子供だった自分が不用意に傷付けられないように配慮されていたのは理解できた。何も知らされずにぬくぬくと育ち、飼われている小動物と何ら変わらない。


 ふらふらと考え事をしながらラギアージャの森を抜けると、今は遺跡でしかない星光の神殿に辿り着いた。

 子供の足で歩いて行くには距離がある道中、リンフィーナは生まれて初めて死にたい気持ちになっていた。


 自分の存在自体が、一族にとって迷惑で疎ましいものなのだ。

 死にたい。

 生きていたくない。


 大好きな兄のお荷物。

 自分なんて消えてしまえばいい、と思った。


 星光の神殿と呼ばれるそこは、白い石造りの遺跡で、かつての繁栄振りを想像させ、失われたパズルのように欠けたまま残っている。このような小さな神殿は遺跡跡としてアルス大陸内には多く残っていて、一族がまだ神人として、人と共存していた時代に神事に使っていた遺跡のひとつだ。


 父母や兄に迷惑をかけている。

 銀髪であるから疎んじられる存在であった自分は、せめて彼らの前だけでも毅然と振る舞っていなければと思った。

 差別による心ない振る舞いや、冷たい視線に、動揺どうようするところを見せたくはない。


 けれど何のために生きているのかな?

 心中は惨めな気持ちで埋め尽くされ、リンフィーナは唇をかみしめた。


 ここまで来たら誰にも見られず泣くことができるのではないか。

 それは10歳の幼女なりの自尊心だった。


 ラギアージャの森を抜ければ、遺跡に来られることを知っていたリンフィーナは、辿り着いたその場所で涙腺を一気に解放しようとしゃがみ込む。

 幼い足で遠距離を歩いたこともあり、崩れ落ちるように膝まづいた。


 ーーけれど。


「誰だっ!?」

 泣く場所を探して座り込んだちょうどその場所には、先客がいた。


 リンフィーナの気配を感じとり、びくりと体を震わせた先客は、相手を射殺すような厳しい声色で誰何すいかしてきた。


 自分だけだと思った場所に、まさか人がいたなんて想像もしなかったリンフィーナは、茂みから顔を出してその者と視線を合わす。


 少年だった。

 月明かりに見えたのは、漆黒の髪、同じ色の瞳のラーディオヌ一族の者らしき少年である。


 だれ!?

 リンフィーナの心臓が跳ねた。

 彼女を捕らえた少年の瞳、そして生気を感じさせない陶磁器のような透明な肌の色は、彼女が見たこともないほどに美しかった。


 何があったのか少年の頬は、涙に濡れている。

 少年の整った顔立ちも、流す涙も、リンフィーナの心を奪うには一瞬だった。


「なぜ、泣いているの? あなたはこんなにもーーキレイなのに、なぜ?」


 リンフィーナにとっての悩みは、容姿に関することだけだった。

 だから醜い自分とは違い、息を飲むほど美しい少年が、廃墟となった神殿の片隅で泣いている理由を全く思いつかない。


 少し近づくと、少年はびくりと後退った。


 手負いの獣のように鋭い眼光が、リンフィーナに向けられる。

 少し目が慣れてきた状態で、リンフィーナは少年がずぶ濡れであることを知って驚いた。


「その格好はどうしたの? ずぶ濡れだよ。ーー今って雨、降ってないよね?」

 少年は膝を抱えて震えていて、リンフィーナを訝る(いぶかる)ように睨み(にらみ)あげる。


 リンフィーナは差し出しそうになる手を引っ込め、これ以上警戒されないよう大人しく彼の側にただ座った。自分が泣こうと思っていた気持ちがすっと失われて、敵意がないことを知らすので精一杯になる。


 少年の切れ長な目は、リンフィーナを捕らえたまま、警戒していた。

 ひとつ行動を間違えば、何処かへ逃げてしまいそうな彼の横に、リンフィーナはそっと腰を下ろした。


 見上げた空には、煌々と照る満月。

 兄を連想するような優しい光が2人を照らして、しばらくはじっと膝を抱え、黙っていた。


「私ね、こんなお月様の光みたいな金色の髪に生まれたかった。私には憧れのお兄様がいて、兄と同じ髪の色になれたらどんなにいいかって、そればかり考えていた」

 リンフィーナはただ、ポツポツと自分のことを話し始めた。


 つまらない話でも、横に座る少年に、何か言葉をかけたかった。


「でも、あなたに会って、あなたがキレイで、黒髪でもいいかなって思う」

 慰め(なぐさめ)にもならない、何の意味もない発言だった。


 ーーただキレイだと、率直な感想を伝えたかっただけだ。


 それなのに少年は「なっ……」っと何かを言いかけ、リンフィーナを凝視する。

 

 お互いの視線が合う。

 少年の感情が動いた音が聞こえた気がした。


 彼は視線をらし、横を向いたまま一言発した。

「キレイなわけない」と。


 会話できるかもしれない嬉しさで、リンフィーナは笑顔になった。

「ううん。すごくキレイ。ーー私ね、色々あって、本当はとても落ち込んでここに来たのだけれど、ーー私以外にも人がいたなんて、びっくりした」


 少年の訳ありげな様子は、幼いリンフィーナにも見て取れた。

 再び少年が黙ってしまったので、リンフィーナもまた黙った。


 何を言っても今の少年の心を穏やかにすることはできそうにない。

 リンフィーナはひたすら側にいて、そっぽを向いてしまった少年の横で半刻ほどぼんやりしていた。


 嗚咽おえつすらもらさないのに、少年の頬には涙の跡が光っていた。

 きゅっとひき結んだ唇から、悲しみだけは伝わってくる。


 何となく少年が壊れてしまいそうで、目の前から居なくなってしまいそうで、リンフィーナはそっと少年の濡れた衣服を握り締めた。


「風邪ひいちゃうよ」

 素性も事情も知らない。


 ずぶ濡れで泣いていた理由について、言いたくないなら聞かなくていいと思った。


 虫の声だけが、聞こえていた。


 どれくらいの時間、黙ってそうしていたことだろう。


 静かな空間を破ったのは、自分の名を呼ぶ声だった。

「リンフィーナ!」

 遠くの方で聞こえた声は、間違いなく兄サナレスの声だ。


「お兄さま!」

 リンフィーナは咄嗟とっさに声を出し反応して答えた。少年がまたびくりと身を竦める。


「ごめんなさい」

 リンフィーナは別れる時が来たと理解し、また少年に微笑みかけた。


「兄が心配しているから、私は行くわ。またどこかで会えるかな?」

 会えればいいという、それは願いだった。


 リンフィーナは立ち上がった。

 少年と自分だけの内緒の空間を、誰にであれ知らせてはいけない気持ちになった。


 そしてこんなふうに声を殺して隠れて泣く。自分たちの姿を、他の誰にも見せたくはなかった。

 早くここを離れて、何食わぬ顔で日常に戻らないと、色々な大人に心配をかけてしまう。


 茂みをかき分ける音がして、兄の気配が近づく。

 リンフィーナはその場から離れた。


       ※


 幾度となくお忍びと称して水月の宮を抜け出すことを常習にしたリンフィーナは、白み始めた空を見上げながら、自室がある二階の窓を開けた。


 毎日眺める自分の髪色は、15歳になっても少しも変化しなかった。

 いい天気で、爽やかな風が真っ直ぐに伸びた銀色の髪をなびかせた。

 

 自分の気持ちとは違い、すくすく育って伸びた銀色の髪。

 こいつのために10歳からこの5年間、リンフィーナは離宮に引きこもって過ごしてきた。


 また銀髪の異端児と後ろ指刺されることが怖くて、誘い出される公式の場のいっさいを欠席し続けている。


 皇女として行かなければならないという思いはあったが、足を向けた瞬間に世界が歪むほどの違和感があり、断固として行かないと水月の宮に引きこもってきた。ラーディア一族の王族、貴族に会うというのは、勘弁してほしい事案として刻み込まれていた。


「でも、このままじゃ、いけないのよね……」

 現状打破!


 暗い気分を振り払うように、リンフィーナは自分で自分の頬を両手でパチンと弾いて、腕を天に伸ばして体をほぐした。太めの木立が窓枠までかかっており、リンフィーナは窓枠に足を掛けたかと思うと、躊躇することなくそれに飛び移った。


 彼女が木の幹に登った時に、木の葉がさわさわと揺れて音を立てたが、空気のような身軽さで木立を伝って滑り降りる。一階まで下りる所要時間は短かった。


 懐かしい記憶を思い出したのも、生誕祭が近付いてナーバスになったからだ。


 あの頃を、思い出す。


 星光の神殿で保護されたリンフィーナは、兄の腕に抱きしめられた。

 安堵の息をつくサナレスに、リンフィーナは泣きながら謝った。


「ごめんなさい! ごめんなさい、兄様」


 生誕祭で体調が悪くなって先に帰ってきたリンフィーナを心配して会いにきてみれば、妹の姿が忽然こつぜんと消えていて、サナレスはそれからずっと青くなって彼女を捜索していたのだ。


 兄は家出の理由を察していたのか、何も聞かなかった。

 ただ夜中に一人で出歩いた事についてはこってりと怒られ、しばらくは外出禁止を言い渡された。


 リンフィーナはため息をついた。


 2度目の生誕祭はどうなってしまうのか、少し怖くもある。


『心に悩みがあるときは、体を動かしてできることをしなさい。そうすれば少しは気が晴れるから』

 兄から聞いて学んだ言葉は、リンフィーナの中で生きている。


 こんな時は湖まで行って、ひと泳ぎしてくるのがいい。

 思考すると同時にリンフィーナは駆け出していた。


 ラギアージャの森の木々は背が高く、丸みのある小さい葉が幾重にも茂っている。比較的多くの水を必要とする性質の木々が茂るせいか、森の中心には大きな湖があった。対岸は見えてはいるが、歩きでは一周回るには半日以上かかりそうな湖は、植物からの恩恵を受けて透き通っている。


 兄はこの水脈を利用して、水月の庭に温泉を作り、冬場はそこで入浴ができるようにした。永遠に春の陽光が降り注ぐダイナグラムから少し離れると、冬場にはまれに雪が降ることもあって、もう少し季節が進めば、湖で泳ぐことは出来なくなってしまう。


 だから今日は雑念を振り払うためにも、思う存分泳いでおこう。


 リンフィーナは少し高台になったところから、全裸になって湖に飛び込んだ。

 日課とも言えるストレス解消だ。

 水の浮力に体が包まれ、体重が消える。


 伸びた四肢は、まだ少年の肉付きで、体格がいい神子の子が成人を迎える姿からは程遠く、幼くて小柄だ。同年代の友人もいない彼女には、成長に関しても比べる対象が側におらず、格好も行動も子供のまま成長した。


 泳ぎが得意なので、どこまでも済んだ湖の底へ潜っていく。

 銀色の髪は水に溶け、太陽光にキラキラと光っている。


 魔術が宿る髪色は不吉だと言われているけれど、幼い頃出会った黒髪の少年の髪色も、魔術が宿る色をしていた。例えラーディア一族では不吉でも、彼の黒髪は焦がれるほどキレイだったのだ。


 また会えればいいのに。

 リンフィーナは思った。


 そして今日、2度目の生誕祭の日に、リンフィーナはある決意を固めていた。


 それは幼いリンフィーナが幾度かは試みて、失敗したことを成功させることだ。

 せっかく呪術を使える容姿に生まれたのだから、やらない手はないと思っていた。


 不吉と言われる呪術をあえて取得してしまうのだ。


 リンフィーナは心でファイティングポーズを取った。

 呪術を取得して、変身呪術を行使する。2度目の生誕祭を機会に、銀色の髪を兄様のような金色に変えてしまえばいいのだ。流行る心を抑えきれなかった。


 水中に深く潜りながら、リンフィーナは想像を巡らす。

 チャンスは神殿の図書館にあった。

 ラーディア一族の禁断の書物の中には呪術に関する本がたくさん並んでいる。すでに何度か失敗していた。けれどそれは自分が幼すぎただけだ、と希望を見出すこともできた。


 過去の失敗は数々あるけれど。

 思い出すと、頭を抱えた。


 神殿の書庫の天井は高く、上の段の書棚には梯子が必要で、それを使って調べていたところ、梯子から落下して大怪我をするところだった。いや、大怪我をしたのが自分だったのならよかったのだが、バランスを崩して頭部損傷を免れない、と思ったけれど、兄を下敷きにして無傷だった。


 結果兄サナレスが不自然な体制で自分を庇って受け止め、肩を痛めたのを覚えている。


また別の日に忍び込んだ時は、誤って違う呪術の仕様書を取り出してしまい、髪色を変えるつもりが自分の髪を爆発させた。

 顔の3倍も膨らんだチリチリの髪を見たときのショックは、今でも忘れられない。


 自分でどうすることもできず硬直していると、仕事終わりの兄が見つけて腹を抱えて笑い転げていた。

 髪を切ると呪力が下がると言うけれど、あの時はどうしようもなくて、しばらくは短い髪でスッキリしていた。丸坊主にしないで済んだのは、これも兄のはからいで、ラーディアで呪術を行う希少な人を呼び、呪術の修復を行ってもらえたからだ。


「ああ……」


 失敗談を思い起こせば、すべて兄サナレスに迷惑をかけている。


 あの日から呪術を学び始めたんだった。

 サナレスは、リンフィーナが呪術に興味があるのだと思い、「呪術は危ないことだから、お前にはちゃんとした師匠が必要だな」と言った。そして爆発した髪をある程度元に戻してくれた呪術者を師匠にするといいと紹介してくれた。


 サナレスは基本的にリンフィーナがやってみたいことに反対しない。

 それどころか、こちらの気持ちを完全にわかっているようで、先回りして危ないことがないようお膳立てしてくれている節がある。


 銀髪でもやさぐれず、まともに育ったのは、兄が側にいてくれたからだ。

 偉大な養育者に感謝してしまう。

 せめて今日は綺麗に装い、兄に恥ずかしくないような立ち振る舞いをしようと思う。


 引きこもりは今日で卒業。

 居心地の良い生ぬるい生息場所を手放そうと決心していた。


 生誕祭の夕刻の部、兄が近隣諸国からの来賓を招いての剣闘士会に出席するこの時が、再び書庫に忍び込むチャンスである。


 リンフィーナの画策とは別に、湖の中はどこまでも清らかだった。リンフィーナが側を通ってもそこに住う魚を含む生物は気にもせず泳いでいる。


 リンフィーナは水面に向かって泳ぎ、顔を出すと、はぁと深く深呼吸をした。


 今日の目標は、兄に迷惑をかけずに生誕祭を終わらせること。

 そして今日こそ変身呪術の仕様を書庫から盗み出すことだ。蒼い瞳が心を映すように挑戦的に輝いた。

自己肯定感を得る方法を模索するコンプレックスだらけの主人公が、成長していく話を書きました。

長編「自己肯定感を得るために、呪術を勉強し始めました」

記憶の舞姫① 神人界 2020年8月9日


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