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ハッピーキャット  作者: 茂野夏喜
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僕は、猫を愛した

 職探しといずものお世話に明け暮れていたある日、いずもの様子がいつもと違うことに気づいた。いつもたくさん食べるご飯を残しがちになり、トイレに行く回数も減っている。


 その上、心なしか普段のいずもより元気がなく、はしゃいだり走り回ったりすることもなくなった。何かをじっと我慢しているかのような、うるうるとした目で僕を見つめている。


 どこか調子が悪いのかと心配していたが、ただの一時的な体調不良なのか、本格的にどこか具合が悪いのか僕にはわからない。病院へ連れて行ってやるべきか、むしろしばらく安静にしてやるのがいいか。分からない。


 そうこうして迷っているうちに、いずもの排泄物に異常が発生した。尿に、赤い成分が混じっている。

 …血尿だ。

 僕は憔悴し、あわてて病院に連絡を入れる。幸い平日で、病院も空いている時間。今すぐに来ても構わないということで、僕はいずもの体調に気を使いつつ。キャリーバッグにいずもを入れて、極力揺れたり衝撃を与えないように、車へと運んだ。


 「もう少しの辛抱だからね」といずもに言い聞かせながら、シートベルトを締め、キーを差し込み、エンジンをかける。少しでも急ぎたい気持ちもあるが、ここで事故でも起こしたらシャレにならない。

 排泄物に血液が混じるという明らかな異常を前にして、でも冷静にいずもの安静を考えられる自分に、今更ながら驚いた。



 正直、僕は自分が「大人」だと思っていない。何をもって「大人」と呼ぶかはっきりとは分からないが、少なくとも僕の持っている「大人」のイメージから今の自分は大きく乖離している。


 無責任に、大した理由もなく仕事を辞め、実家に寄生している自分。命を預かるという覚悟も持たず、突発的に猫を飼い始めた自分。こうしう「いざ」というときに備えられず、いずもの体調不良をしばし放置してしまった自分。


 高校生や大学生の時と比べて、何が成長しているというのか。こんな自分に、いずもを育てていくことはできるのか。基本的に、子供や家族を養うのは「大人」だ。

 果たしてこんな僕に、この子を育てていける「資格」があるのだろうか。



 そんなネガティブな思考、しかし限りなく正直な本音が、頭の中で渦巻いている。運転と病院での段取りも含めて、頭の中はいっぱいいっぱいだ。

 …落ち着こう。焦ったりマイナスなことを考えたって、状況は何もよくならない。今の僕がすべきことは、できるだけ早く、しかし安全に動物病院へ到着すること。そしてそこで専門家の力を借り、いずもの体調を調べ改善してやることだ。


 信号待ちの間に思考を改め、運転に集中する。安全に、しかし一番近道できるルートを記憶の中から必死に探り、ここからそのルートへ変更する道順を計算。

 …たしか、ここから右に曲がれば弾に通る小道にアクセスできるはず。人通りは少ないし、ナビに表示された時間よりも早く到着できる。


 そう判断した僕は、全神経を運転に向けて車を動かす。時折不安そうな鳴き声をあげるいずもに、「大丈夫、大丈夫だからね」と声をかけながら。



* * *



 「そちらのお席で、しばらくお待ちください。」

動物病院に到着後受付を済ませ、受付の女性に促されるまま、近くにあったソファに腰掛ける。いずもは相変わらず落ち着きのない様子で周囲を見回しているが、いつものように「興味津々」といったようすでなく、どこか不安がっている様子。


 やはり、外は怖いのだろう。「好奇心の強い猫のことだし、本当は自由にのびのびと外を散歩したいのでは」なんて考えることもあったが、むしろ「猫は危険の多い外より、快適な生活を送れる屋内のほうが好き」という話も聞く。


 個体差もあるのだろうが、なんだかんだでいずもは好奇心があっても臆病さが勝るのだろう。家に連れてきたときも家族やゆきのことを怖がらなかったし、人懐っこくはあるのだけど。


 しばらくして、「お客様、診察室へどうぞ」と声をかけていただき、指定された診察室へいずもを連れて入る。



 「体調不良とのことですが…ええと。とりあえず、いずもちゃんをここに乗せてください。」

「分かりました。」

 恰幅のいい中年くらいの男の獣医さんに促され、いずもをキャリーバッグから解放。腹部を圧迫しないよう、バッグの前後を開け背中からそっと押し出す。

「うん、アメショの男の子、生後6か月ほど…。外見上は目立った異常もありませんね」


 そう言いながら、いずもの体に優しく触れる。いずもはというと、初めて見る獣医さんに物怖じもしないどころか、体を擦りつけたり尻尾を振ったりとそこそこ上機嫌な様子。


 初めて来る環境で、さっそく人懐っこさ全開だな、と思う。獣医さんもぼそっと「怖がらないんね、いい子や」と漏らしている。マーキングのつもりか媚びを売っているのか、少し元気を取り出したようにさえ見える。


 …いや、油断しちゃだめなんだ。血尿というハッキリとした異常が確認されている。この子は今も苦痛を覚えているのかもしれないのだと、そう自分に言い聞かせる。



 獣医さんも問診票を確認しつつ、いくつか僕に質問を投げかける。

「血尿とのことですが、最初に確認できたのはいつですか?」

「今朝のことです。丁度、正午過ぎあたりで…。」

「なるほど。ここ最近、何か異常はありましたか?」

「そうですね…ここ数日、確か三日ほど前から、あまり走り回ったりすることが減っていました。ご飯もいつもと同じくらいの量を与えていたんですけど、普段と違って残していたり…。」


 極力、事実を優先して伝えるよう心掛ける。自分が動物の健康管理における素人であることを自覚し、主観的な感想などは省いて伝える。判断するのはプロの仕事、その判断材料をを正確に伝えることが僕の役割であろう。


「食欲不振で、元気もない様子であると…トイレに行かなかったりとか、そういうことはありましたか?」

「はい、一日に2回から3回はトイレに行っていたんですけど、元気がなくなるのと同じくらいのタイミングで回数も減って…。昨日は午前中に1回トイレに行ったっきりで、今朝のトイレで血尿が確認できたという次第です。」

「分かりました。恐らく、膀胱炎の類だと思うんですけどね。…いずもちゃん、ちょっと我慢してね」


 そういいながら、いずものお腹の当たりを慎重に触れ、軽く押す。いずもは、特に変わった反応も見せずに周囲を見回している。

「痛がらないね。軽い膀胱炎か、或いは尿結石あたりか…。詳しく見たいので、レントゲン取りましょうか。」

「はい、お願いします。」



 獣医さんは、いずもを連れて奥の方へ。僕は、手持ち無沙汰になりながら色々といずものことを心配する。食事を変える必要があるのか、衛生面に問題があったのか、それとも抱く際などにどこかを無用に圧迫していたのか。


 今までのいずもに対する接し方、世話の仕方を振り返る。何がいけなかったのだろう。何が原因で体調を崩したのだろう。

 後で詳しく話は聞けるのだろうけど、それでも考えずにはいられない。


 「検査、終わりました」

 獣医さんが戻って来た。抱えられているいずもは、先ほどより少しだけ不安げな顔をしている。

診察台に飛び乗るや否や、僕の方へと寄ってきて、手を伸ばすと無遠慮に頭を擦りつけてくる。

 初めて来る場所で、突然知らない人に連れていかれるのが怖かったのだろうか。或いは、親しいものが近くにいないと不安を覚えるとかそういうことなのだろうか。


「それで…どういった状態なのでしょうか」

「ええ、やはり泌尿器に炎症を患っているようです。レントゲン写真の…ここをご確認ください」

 素人の僕にもわかるよう、写っているものの説明や何が問題なのかを丁寧に説明してくれた。

「そういうわけでですね、結石があるのか細菌によるものなのかは、現時点でハッキリとは分からないんですけれどもね。細菌による炎症である場合、少々厄介です。」


その後詳細な説明が入り、とりあえずは注射だけ打って経過観察するという話になった。獣医さんがいずもの背中の皮を摘まみ、少し持ち上げ、そこに針を刺す。あまり痛くないのだろうか、いずもは特に鳴き声を上げたり表情を変えたりはしていない。


 「経過観察中は、いずもちゃんの排泄物や食欲などに異常がないか、よくよく注意して見てください。それからお薬を処方しますので、こちらを朝晩の二回、そしてこっちは晩御飯のタイミングで与えてください。」

 「分かりました。ありがとうございます。」


その後、受付で代金を払い、薬の処方を受け、病院を後にする。いずもを連れて、わが家へ。


 診察台からバッグへ移そうとするとき、いずもは自分からバッグの奥へと飛び込んでいった。普段はこの中に入るのを嫌っているはずなのに。どうやらいずもは、動物病院を「怖いところ」「嫌なところ」と認識してしまったらしい。


 そんな不安げないずもを見て、僕はいずもを助手席に乗せる。バッグののぞき窓から、僕の姿を確認できるように。

 少しでも、安心させられるなら。僕は、そのことだけを考えていた。



 家に到着し、いずもを部屋に開放してやる。いずもは、すぐにいつも寝ているベッドの上へと飛び乗り、そのままごろんと横になった。

 少し、我慢してね。小声でそう言い、僕はすぐに家を出る。

 向かった先は、ペット用品をたくさん置いてあるホームセンター。正直安さで考えるなら、通販サイトでまとめ買いした方がずっといい。でも、僕は今日この日から、いずもの生活習慣を改善してやりたかった。


 とりあえず、食べ物。今回の炎症発生の原因が「塩分の摂りすぎ」である可能性を指摘されていたので、「下部尿路配慮」「塩分カット」などを謳ったフードを次々と漁っていく。もちろん、「子猫用」のものであることも確認する。


 病院でお勧めされたもの、今まで調べた中でも大手で品質に定評のあるメーカーのもの、値段が高くていかにも品質の良さそうなもの。色々比べて、一番良さそうなものを選ぶ。

 おやつも同様に選んでいく。本当は余計なものを与えないほうが良いような気もしているけれど、日常の楽しみを一つ丸ごと失ってしまうのは、あまりにも不憫に思えたから。


 そして最後に、エリザベスカラーも物色する。たいそうなネーミングだと思ったが、要は病気の犬や猫なんかが首につけているラッパ型のアレのことだ。なるほど、確かに歴史の教科書で見たエリザベス女王の肖像画なんかでは、似たようなものをつけていたような…確か、だけど。


 どうせ去勢手術の時に使用するから今のうちに買っておいても問題はないし、これをつけているほうが排尿器官を舐めて傷つけるリスクも減らせるという。膀胱付近の炎症に加えて排尿器官まで損傷すれば、症状悪化のリスクが高まるのは必然。


 とりあえず必要なものをあらかた買い漁り、いずもの待つ家へと帰る。もう少しで夕方だ、薬の与え方も考えなくちゃいけない。



 嫌な予感は的中する。いずもは、薬の味が苦手なようだった。少なくとも、最近食べられるようになったドライフードにしれっと混ぜていてもお皿に残してしまう。粉薬の方はペースト状のおやつに混ぜるとして…錠剤のほうは、与えるのに少し苦労しそうだ。

 色々考えた末、錠剤もすり潰して粉状にし、これもおやつに紛れ込ませる方法を取ることにした。病院でも問題ないと聞かされていたし、カプセルでもないのだから大丈夫だろう。


 乳鉢で薬を調合していると、なんとなく古代の医者にでもなったような気分になる。いずもが足元に控えキラキラした眼差しでこちらを見つめているあたり、むしろパティシエかコックさんにでも見えているかもしれないけれど。

 「ほい、お食べ~。」なんていいつつ、薬の入ったおやつをいずもに差し出す。少し匂いを嗅いだ後、すぐにペロペロと舐め始めた。

 とりあえず、薬を与えることには成功。経過観察、第一関門クリア。満足げにおやつを平らげたいずもの隣で、僕は小さな安堵を覚える。


 エリザベスカラーを装着すると、いずもは少しだけ嫌そうな反応を見せる。透明なプラスチック板、確か病院でも売っていたようなのと似たようなものを購入したのだが、いずもには少し大きすぎたようだ。

 歩くたびにひょこひょこと左右に首を振り、ご飯を食べるときも時々お皿や周りの者にカラーの一部がぶつかったりしている。仕方ないのだ、我慢してくれと思っていたが、数日もすると不貞腐れたようにじっとしていることが増えてしまった。


 本当は、これでいいのかもしれない。おとなしくしていれば、それだけ体内の栄養やエネルギーは体調改善に注がれるはず。

 でも、僕にはその姿がやはり不憫で、とてもかわいそうなものに見えてしまった。でも、カラーを外すことはできない。それによって病状が悪化してしまえば元も子もない、この子にさらなる負担をかけることになるのだから。


 この件について似たような悩みを持った人がいるのではなかろうか。ネットで検索してみると、案の定「エリザベスカラーが大きすぎる」「うちの猫ちゃんはカラーが苦手」なんて記事や書き込みを見かけた。そういった人たちは、どうやってこの問題を解決したのだろう。もう少し詳しく調べてみる。


 「軽くて柔らかい、布製やスポンジ製のカラーがお勧め」との記事を見つけ、「これだ!」と確信。なるほど、これなら体に負担がかかりにくそうだし、重量も幾分マシになるだろう。

 早速家を出て、いつものホームセンターへ。…すぐに見つけた。なんとなく、「これが一番普通そうだから」という理由でプラ製のものにしか目を向けていなかったが、むしろ柔らかそうな素材でできているものの方が多く陳列されている。


 家にあるものよりワンサイズほど小さいものを選び、さっそく家に帰っていずもにつけてやる。最初は装着を嫌がっていたものの、つけてしまえば気にならない様子。普段通りとはいかないまでも、ふさぎこんでいた状態からは体も気分も楽になった様子。とりあえず、当面の諸問題は解決された。

 こうして、しばらくの間いずもの様子を観察しつつ、週に1回病院へ通う日々が続いた。



* * *



 「へえ、猫ちゃん飼い始めたんだ」

 大学時代、サークルで一緒だった女の子の友人。僕は、彼女をランチに誘った。

 最近僕は誰かと話したくなって、つい先日は、東京にいるとき猫を飼う上でのアドバイスをくれた友人と焼肉を食べに行った。何かと会話は弾んだし、久方ぶりに友人と話せて色々と安心できることもあった。

 もっと誰かと話したい。誰かと気持ちを共有したい。そんな思いもあって、今度は比較的親身に相談を請け負ってくれたことのある彼女に、僕から声を掛けた次第だ。


 …我ながら、女の子をランチに誘うとは。でもまあ、相手も乗り気で来てくれたことだし、別にいいだろう。

 卒業以来IT系の会社に勤めているという彼女は、学生時代よりも洗練された雰囲気。髪もやや短めにカットして、ふんわりとしたショートヘア。化粧もだいぶ大人びているが、やや童顔気味なところで歳若さを主張しているようなイメージ。


 「うん。なんとなく、衝動的にって感じだったんだけどね。最初から僕を好いてくれてる気がしてさ、勢いで。」

「仕事辞めたばっかで、ノリとか勢いで猫ちゃんを飼っちゃうの。相変わらずというか、なんというか。」

「僕、そんな行動力はない方だと思うんだけど。」

「うーん。どこそこに遊びに行こうとか、確かにそういうこというキャラじゃなかった気はするけど。でもサークルの頃から唐突に企画のアイデア持ってきたり、そういう時に限って張り切ってたりってのはあったかな。」

「そうだったっけ。あんまり覚えてないや。」

「うそ!?私、結構ふりまわされたんですけど。」

「…あー、そういやそんなこともあったような…なかったような?」

「オイ。」


 今日のランチは、彼女の提案でパンケーキとフルーツパフェ。…ランチ?

 僕にとっては異世界の話。どっちも、スイーツと呼ぶにふさわしい逸品。確かに美味い。美味いけど、これがメインディッシュにできる感覚は、僕には計り知れない。

 それでも新しい世界の扉を叩いたような感覚で、そのスイーツを食す。食しながら、会話を続ける。


「ごめんごめん。でもさ、本当に、いろいろわからなくて。今、自分が何をしたいのかとか、あんまりハッキリしてなくてさ。今は、いずもの世話に没頭してるんだけど。」

「ふーん。私は、こうやって美味しいもの食べられればそれで幸せって感じかな。」

「それが、幸せ?」

「うん。甘いもの食べてれば、誰でも幸せだよ。」

「そういうものなのかな。確かに美味しいけど。」

適当な大きさにカットしたパンケーキを、口に入れる。生地の甘みと、シロップの味が絶妙にマッチしている。そのうえで、よくよく味わってみると甘すぎず、味にしつこさも感じない。これなら、デザートとは一線を引いたものとして扱えるだろうな、と思う。

 「私は甘いものが好き。甘いものを食べて、今はそれで幸せ。」

「幸せ、ね。…なんか哲学的というか、面倒くさいこと考えそうになっちゃう。」

「面倒くさいことが好きなら、それ考えているのが幸せなんじゃない?」

「好きなことができれば、幸せってこと?」

「違うのかな?私は私なりに好きなことあるし、とりあえずそれが満たされてればそれで良いと思ってるけど。」

単純というより、素直。雑な返事というより、思ったことをそのまま返してくれるような感じだ。


 彼女の言葉を踏まえ、自分の行動を振り返る。なんとなく、会社に必要とされたかったという思い。それが満たされないから会社を辞めた。そして翌日、僕は猫を飼い始めた。目が合って、気に入られた気がして、どこか信頼されているような気にさえなって。

 幸せ。人によって、価値が微妙に異なる幸せ。満足感。生きがい。僕にとっては、何が当てはまるのだろう。


 「ちなみにさ。」

彼女が、言葉をつなぐ。

「君は、どういうときに満足感とか、幸福感とか、そういうのを感じるの?」

「そうだね…。だいぶ前のことではあるけど、自分でやり始めた企画が成功したり、何かしら高評価をもらったりしたとき。そういう時かな。」

「なんで、そう思うんだろうね。」

「なんで、というのは。」

「うーんとね。君は何か成功したり評価されたとき、どういう感想を持つのかな?」

少し前のめりな姿勢になった彼女が、そう僕に問いかける。

「そうだね…。嬉しい!とか、やったぜ!みたいな。」

「うける。表現が独特だね。」

彼女は、茶化しつつも相談に応じてくれる。有難い。


 「なんていえばいいんだろうな。評価されるってことは、誰かの役に立てたってことだから…かな。」

「私は、君がそういうタイプの人だと思ってるけどね。」

「そういうタイプ?」

「うん。なんというか、感謝されるのが好きというか。あんまり積極的な人ではないけど、誰かに頼られたり、役立ったりするのが好きな感じ。」

なんとなく、納得する。

「考えてみれば、そうかも。会社を辞めようって思った時も、似たようなこと考えてた気がする。新卒のぺーぺーだけど、あんまり役立ってるってイメージは持てなくて。」

「そりゃーね。私みたく研修直後からメチャクチャにこき使われてれば、そういう実感もあったかもしれないけど。」

「うん、時々愚痴ってたね。辛いとか上司うざいとか忙しすぎるとか。」

「法学部出てて良かったよ、うちがヤバいって色々分かったし。」

「ちなみに、それに達成感とか充実感とかは覚えない?」

「そんな暇がないかな。」

彼女は、笑いながら答える。


 実際、会社の評判など色々調べてみると、やれ残業が長いだの、ブラックだの、サビ残天国だのといったワードがたくさん出てくる。「はやくお嫁さんになってお仕事楽にしたい」が口癖の彼女にとって、社員に負荷をかけるタイプの職場は働きにくい環境なのかもしれない。

 それでも、時折表彰されたり営業成績を評価されていることには脱帽であるが。


 「そういえばさ、」

おもむろに、彼女が言う。

「ペットを飼うのって、どういう感じなの?」

「どういう感じ…んーと、そうだね。」

僕も、できるだけ正直に、わかりやすく伝わるように言葉を選びつつ、答える。

「いずもは、猫。でも、僕の立派な家族だ。かけがえの無い、大事な存在だよ。」

「家族、か。わたしにも両親はいるけど、妹や弟なんていないから、年下を大切にするって感覚がよくわからないや。」

「僕には弟もいるけど…どうなんだろう。人間と猫じゃ、いろいろ違うし。」

「…そうかな?」

彼女は、問いかける。

「だって、同じように大切なんでしょう?」

「うん。それはそうだけど…」

「私には、同じに見えるけどね。君は、身内とか仲良しの人とか、結構贔屓にするタイプだし。」

「まぁ、その通りかな」

「じゃあ、何が違うんだろう。君にとって、人間と猫の違いって。家族としての違いって。」

「うーん…言葉が伝わるかどうか。何を考えているのか分かるか、分からないかかな。」

「本当に?」


 彼女は、意味深に問いかける。

「本当に、家族が何考えてるのかって、分かるものなのかな。」

「それは…全部は、わからないけど。」

「いずもちゃんのことも、本当にわからないことだらけなのかな。何してもらえたら嬉しいとか、逆に何をされたら嫌とか、実際は色々分かってくるものじゃない?」

「あ…。」

なんとなく、理解できた気がする。彼女の言いたいこと。そして、僕の小さな誤解についても。


「…家族、か。」




* * *



 家に帰りながら、今日話した内容を頭の中で振り返る。思い出しながら、考える。

 何かが掴めてきた気がする。僕が生きる意味。彼女がくれたヒント。どこにある。なんのため。

 もう少しで、分かりそうなんだ。



 夕刻、両親と弟、それにいずもと一緒に夕飯を食べる。もう日常的になったこの光景。上京当時は孤食が当たり前だったから、僕には今でも、とても温かな体験に思えている。

 テレビを見ながらその内容について語り合ったり、今日の出来事を話したり、週末はどうしようか、なんて予定を確認したり。

 そんなごく普通の家庭環境に、僕は多少なりとも飢えていたのかもしれない。さすがに涙腺は緩まないが、僕はここでも小さな感動を覚える。

 完食後、全員分のお皿を運び、洗い、片付ける。その後はお風呂を掃除し、流し、お湯を入れる。

 一家で唯一の無職である僕は、積極的に家事をこなすようにしている。いずものお世話もしているあたり、なんだか家政婦にでもなったような気分。

 僕は、家における役割を担っていることに、少しだけ満足していた。


 …当然、このままじゃいけないことも分かっているけれど。あと、ほんの少しだけ。この環境に甘んじる。



 風呂に入り、寝る支度を整え、布団に潜り込む。

 いずもは毎日色々なところで寝るようになっているが、今日は僕の足元へやってきた。今夜は、甘えたい気分なのだろう。あるいは、多少肌寒いから暖をとりにきているのか。どちらにせよ、僕は嬉しい気分になる。


 いずもと触れ合う中で、僕は色々なことに気付いた。最近は、いずもが甘える時の癖について。

 いずもは、人と眠るとき、必ずそばまで寄った後に背中から人肌に触れる。ほとんどの場合は、腰から大腿部にかけての部分に、背中を押しつけるような格好で眠る。その姿勢が一番落ち着くようだ。

 また、強く甘えたい場合には脇や股ぐらに潜り込んでくる時もある。その時には、自分の両脇が人肌に触れるよう、うつ伏せか仰向けの態勢を取る。


 その姿が。その仕草が。僕にはその一つ一つが愛おしくて、いじらしくて。

 いずもを大切に思う気持ちが、愛情が。益々強くなっていく気がして。

 その度に、この子と初めて眠った日のことを思い出す。初めて会った僕と、一緒に眠った日。

あの日は、僕の脇に蹲るように眠っていた。薄目で、眠たそうな顔をして、僕を見つめていた。頭を撫でてやると、嬉しそうに喉を鳴らして。そして、僕は涙を流したんだ。


 …そうか。そういうことだったんだ。


 僕は、気づいた。僕が、最近「感動」を覚えた場面。退職の理由。いずもを大切に思っていること。今日のランチで話した内容、聞かされた内容。


 僕が本当に必要としているもの。欲しているもの。それはあまりに当たり前で、珍しくもなんともなくて、極々普通で、ありふれたもの。



 ただ僕は、誰かに必要とされたかったんだ。誰かのためになっている、誰かに貢献できている、その実感が欲しかったんだ。



 「人間は社会的動物である」とか、「人は一人で生きてはいけない」とか、そういう理屈はどうでも良くて。ただ僕は、一人の人間として、誰かに必要とされたかった。

 家族に。会社に。友人に。誰かに。誰かに「君がいてよかった」と、思ってもらいたくて。

 でも、大した努力もできなくて。「待つ」ことすらも、できなくて。それは甘えに甘えを重ねたような、消極的な願望でしかなかった。



 「でもサークルの頃から唐突に企画のアイデア持ってきたり、そういう時に限って張り切ってたりってのはあったかな。」

思い出したよ。その時も僕は「みんなが楽しんでくれそうだ」って思えたから、珍しく張り切れたんだ。消極的なクセして、当時そこまで親しい仲でもなかった君を含む大勢を巻き込んで。


 「うん。なんというか、感謝されるのが好きというか。あんまり積極的な人ではないけど、誰かに頼られたり、役立ったりするのが好きな感じ。」

まったくその通りだ。人のために、とか、人の役に立ちたい、というより。そういうことが「したい」っていう、そういう欲求や気持ちが僕の動機。


 「だって、同じように大切なんでしょう?」

 そうだね。僕にとっていずもは、間違いなく大切な「家族」の一員だし、親兄弟だってそう思っているはずだ。


 「じゃあ、何が違うんだろう。君にとって、人間と猫の違いって。家族としての違いって。」

 つくづく、君は正しいよ。違い?そんなもの、ない。僕にとっていずもは、父母や兄弟と同じように大切な家族だ。

 そこに、線引きなんて存在しない。



 僕は、気づけた。自分の本当の欲求。生きがい。僕の生きる道。



 いずもを起こさないように、そっと布団を出る。…いずもは薄目を開いている、人間サイズの生き物が敏感な猫を誤魔化すのは無理なようだ。

 ごめんね、と小さな声で囁き、部屋を出て、ベランダの室外機に座る。ポケットからタバコを取り出し、火をつける。


 退職を決めたあの日の夜、同じようにタバコを吸っていた。あの時は、色々迷っていて。自分で自分がよくわからなくて、取り留めのないことばかり考えていた。

 行動の一つ一つ、やることなすことに意味を見いだせず、のうのうと生きていた気がする。

 でも、今は。今の僕は、意識が変わった。生きがいを見つけた。やるべきことを、ハッキリと認識できた。


 「家族のため、人のため、か。」

 そう呟いて、タバコの火を消し。携帯灰皿に入れ、ベランダを後にした。



 手洗いうがいを入念にすませ、寝室に戻る。僕の寝転がっていた場所へ移動していたいずもの邪魔にならないよう、空いたスペースにそっと横たわる。


 「僕は、大人だ」

自分にそう言い聞かせる。僕は、いずもを家族と認識している。年下で、成人した大人の僕が育てていくべき大切な家族。弟か、息子か、それに近しい存在。

 「いずも。大好きだよ。絶対、絶対、いずものことを大切にしていくからね。大切な、何より大切な家族なんだから。」


 そう言って、いずものおでこに僕のおでこを軽く擦り付け、キスをした。猫にとっても、そして人にとっても、分かりやすい愛情表現だと思う。

 しばらくすると、いずもはゆっくりと四つ足で立ち上がり、軽く伸びをした。「起こしちゃったかな」と心配したが、いずもは僕の胸のそばまで移動し、脇にうずくまるように寝転がる。丁度、あの日のように。


 僕は、あの日よりもひと回り大きくなったいずもの体温を、暖かさを、布一枚越しに、しかし鮮明に感じていた。

 この上ない親愛の情とともに。


 迷い、悩み、心配し、焦燥し、誰かと何度も話をして。


 いずものことを考え、自分のことを考え、あるべき立場と行動を、ハッキリと認識して。


 僕は、猫を愛した。

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