僕は、猫と共に生きた
泣き跡の残る翌朝、僕はこの子を快適に生活させてやるために必要なもろもろの準備に取り掛かった。
まずは、物品の購入。ドライフードををペースト状に加工するための乳鉢、猫用の玩具をいくつか、ふかふかの猫用ベッド、間食用の子猫用おやつ、そして追加のキャットフードや、快適に飲食のできそうな容器等。通販サイトで買えるものは今日のうちに注文しておき、残りは近くのスーパーで探す。
さすがに泣き跡をそのままにして出かけるのは躊躇われたので、迷った挙句にサングラスをつけて家を出る。天気は良いし、似合うかどうかは置いといても不自然ではないだろう。
ついでに、ネットで色々調べてみる。「猫 飼育 必要なもの」「子猫 おもちゃ おすすめ」「キャットフード おすすめ」「子猫 キャットフード 注意点」等々、思いついた事柄はとりあえず総ざらい。
想像の範疇と今までの知識・経験では不足していた情報が、たくさん入ってくる。勿論複数サイトで調べてみたり、動物病院や獣医師のブログ、ペット用品メーカーなど複数の情報源も参照してみる。ついでに、ペットショップからいただいた資料の数々にもきちんと目を通す。
その中で更に必要と思われたもの、注意すべき事柄をリストアップし、スマホのメモ機能で保存。アメリカンショートヘアは毛の管理が比較的楽な代わりに太りやすい体質で、食べ物の品質やカロリーなどに注意が必要、だとか。入浴はそこまで必要ではなく、代わりにブラッシングを丁寧にしてやれば大丈夫そう、だとか。
ついでに近所や実家周辺の動物病院についても調べ、特に良さげな数か所については今の時点で連絡先に登録しておく。言葉でのコミュニケーションが取れない子猫のことだし、何かあれば真っ先にプロを頼るのが賢明だろう。少なくとも、この子の健康に関してケチることだけはしたくなかった。
子猫は、昨日よりも僕を気にしている様子。事あるごとに足元まで近寄り、体を擦りつけたり。休憩とばかりにベッドに身を投げ出せば、子猫も飛び乗ってきたり。トイレに行ったり出かけたりして僕が視界から離れると、ドア越しにニャアニャアと小さな声で鳴くのであった。
少しでもそばにいてやりたいが、やはり限度というものはある。僕がどこかへ行くのを見て不安がる子猫を見て、「ごめんね」と心の中で思いつつ、その姿を見てとても愛おしく感じる。
僕が欲しかった何かを、僕が求めていた何かを、この子猫が少しづつ埋め合わせてくれているようで。僕は、この子に対する愛情をどんどん深めていった。
そんな時、あることに気づく。僕は、この子猫に名前を付けていない。特に名前を呼ぶ機会もなかったから、仕方のないことではあるのだが。
動物病院では動物の名前を呼ぶ機会もあるだろうし、ペット保険での名義登録も必要だったはず。それに名前を憶えていないと子猫が「自分を呼んでいる」と認識することもないだろうから、早いうちに名前を付けて「呼ぶ」ことを習慣づけたほうが良さそうだ。
猫。猫。英語でCAT。そこからもじるか。いや、それではあまりに味気ない。この子に合った名前を付けてあげたい、と思う。アメリカンショートヘアで、子猫で、出身地は山陰地方で、毛は短くて、やんちゃで、甘えん坊で…
中々決まらない。こういう時は、候補を書き下すのが一番だろう。そう考え、孤独なブレスト作業を始める。色々とキーワードや単語を文字に起こし、そこから連想できる名前を考え、候補をいくつかに絞り込む。
散々迷った挙句、名前は「いずも」に決めた。ありがちかもしれないし、出身地の旧名称ということで、かなり安直なネーミングではあるけれど。
僕には、この子猫の呼び方にこれが一番ふさわしいと、そう思えた。。
そういうわけで、僕のもとへやってきたアメリカンショートヘアの男の子は、今日から「いずも」という固有の名前を持つことになったのである。品種の割に随分と和風なネーミングではあるが、かわいらしい響きで気に入った。「いずも」。今日からこれが君の名前だ。
ふと、思う。親が子に名前を付けるときは、どんなふうに決めるのだろう。どのくらい悩んで、考えて、悩み抜いて考え抜いて、決めるのだろう。もしも僕に子供ができたら、同じようなことをするのだろうか。 親の子に対する想いと、飼い主のペットに対する想いに、どれほどの違いがあるのだろうか。
同じ哺乳類でも、まず別種の生き物ではある。僕には体中を覆うほどの毛並みはないし、尻尾も生えていない。大きさも随分異なるし、脳のサイズも全然違う。子猫は人語を解さないはずだし、色やにおいの認識だって違うかもしれない。食べるものや何に幸せを感じるのかも、人のそれとは大きく乖離しているのかもしれない。
でもまあ、いっか。そういう疑問は、そのうち晴れてくるはず。
それに僕は、いずもを一人の大切な家族であると認識している。いずもも、僕にたいしていくらか親愛の情を抱いていると思う。
それなら、いい。いずもは僕にとって我が子のような存在だし、いずもにとっての僕は親に近い存在なのだろう。そう認識しているのなら、そのままでいい。僕は、そう思った。
「いずも!」と、呼んでみる。いずもは反応しない。何度も呼び掛けていると、「何をそんなに連呼しているんだろう」とでも想っているような、不思議そうな顔でこちらを振り返るだけ。
さすがに、突然「これが自分の名前か」なんて認識するはずはなかろう。日ごろから名前で呼んでやれば、そのうち自分の名前を認識するようになると店員さんも言っていたっけ。辛抱強く、この子の名を呼んでやることにしよう。
翌日、いくつかのおもちゃやベッドと共に、乳鉢が届いた。この真っ白な鉢と棒の組み合わせを見るのは、小学校だか中学校だかの理科実験以来。すり鉢でもよかったのだが、幾分コンパクトで使い勝手が良さそうだったし、なんとなく気分が乗ったのでこちらを選択肢した。
ドライフードを鉢の中に入れ、乳棒で押しつぶす。陶磁器同士が擦れる独特の音を鳴らしつつ、フードがバラバラに砕けていく。そのまますり潰し続けること数分、固形フードは原型を留めず土か砂のような粒子状態になった。
思ったよりも時間はかかるが、これでミルクやお湯と馴染むスピードは上がるだろう。お湯でふやかした後にすり潰してもいいのだが、早くご飯をあげたい時には役立つはず。またそうする場合にも、スプーンや指でちまちますり潰すよりは効率が良い。
何より、こうしていずものために手間暇をかけてやることが、今の僕にとって幸せな時間に思えている。
猫用のベッドは、とりあえず僕のベッドの上へ。しばらくするといずもはその上に乗り、入念に匂いを嗅ぎ始めた。
少し経つと、いずもは猫用ベッドに鼻を擦りつけたまま「ゴロゴロ」と咽喉を鳴らし、前脚と後ろ脚それぞれで右左交互に踏みしめるような動きを始めた。この「ゴロゴロ」音が何なのかよくわからず、僕にはむしろ威嚇して唸っているような響きに受け取れたため、ちょっとだけ困惑。
「もしかして怒ってるんじゃ」と心配しこの行動の意味を調べてみたが、どうやら柔らかいものを踏みしめながら母猫のお腹の感触を思い出しているらしい。そして「ゴロゴロ」は期限のいい証。
少し切ない気持ちになりつつも、またひとついずもについて知ることができた。
届いたおもちゃについても、いずもは大変気に入った様子。一人遊び用のボールにも、飼い主と遊ぶタイプの猫じゃらしにも、かなり強い興味を示した。
ボールに関しては、延々追っかけては叩き、転がったボールをたたいてはまた追いかけるの繰り返しで、疲れ果ててしまう前に没収してしまわねばならないほどにご執心。
猫じゃらしも、僕が振ったり回している間は追いかけまわしてずっと暴れている。子猫は基本的に自身の体力を把握しておらず、遊びすぎると体調を崩す可能性があると聞いていたため、ほどほどに遊んでは休憩し、また遊んでは休憩の繰り返しだ。
ご飯を作って、遊んでやって、何か買い足したり一緒にお昼寝したり。ニート特有の暇を持て余した生活を堪能しつつ、合間に退職処理やらなんやらの事務手続きのみ完了させ、そんな呑気な数日が経過した。
* * *
「そっかあ、やっと仕事、やめたんやね」
実家の母親との電話。親との仲は良く、長期休暇には帰省したり、逆に親兄弟がこちらへ遊びにくることもあった。だがどうしても自分のマイナスな部分や迷惑をかけそうなことは中々言えず、今日やっと勇気を振り絞って電話をかけることができた。
いずもを養っていくにも、一度実家に帰って再就職等色々考えなくちゃならないわけだし。ここにきて僕は、家族を持つことの意味を少しだけ理解できた気がする。当のいずもは、ずっと僕のベッドの真ん中を占領し、スヤスヤと寝息を立てている。
「うん。前からもちょいちょい愚痴とか言ってたけどさ、僕も何がしたいのかわからなくなっちゃって」
「うん。うん。大丈夫よ。あなたがそうしたいなら、私たちは手放しで応援したげるからね。」
この言葉が、胸に刺さる。鳴くのを必死にこらえながら、電話する。
「…ありがとう」
それでも、出せる言葉はこれで精いっぱい。既に目頭は熱を帯び、今にも感情が爆発しそうだ。
「いいのよ。いいの。あんた、一生懸命頑張ってたもんね。」
…ちがう。僕は、そんなに優秀じゃない。ただ、ぬるま湯に浸って甘えていただけなんだ。
「ごめんね。ありがとう。」
「なんね、あなた泣いてるの?珍しいじゃない」
バレてたか。
「本当はさ、僕、あまり将来とかやりたいこととか、深く考えてなくって。仕事もテキトーに選んでさ。それで今更、こんなことでいいのかって、やりがい感じないなって…」
感情と共に、本音を吐露していく。涙を流しながら、僕は母の優しい声に縋るように次々と言葉を吐き出す。それは筋道立っていないし、論理的でないし、ただただ頭の中に浮かんできた言葉や気持ちををそのまま口にしているだけ。
そんなとりとめのない独白じみた言い訳の数々さえ、母は優しく、一つ一つの言葉を噛みしめながら聞いてくれた。
「うん。うん。大丈夫。大丈夫だから。私たち、家族じゃない。いつでも帰ってきていいのよ。私もお父さんも、あなたのことをずっと心配してたんだよ。だから、無理しないで。」
「…ありがとう。」
本当に、有難かった。
僕は、忘れていた気がする。家族を愛することの、本当の意味。愛し、大切に想い、そのすべてを受け入れてやること。この社会において、無償の愛を注いでくれる存在がどのくらいあるだろう。少なくとも僕は、家族以外思い当たらない。
見栄を張って。意地を張って。家族に対しても、ずっと格好をつけようと色々虚しい努力をしてきた。見せかけのやる気と愛想で、その場しのぎを繰り返してきた。
僕はずっと、本音を語ることをせず、何でも一人で抱え込んでいた気がする。
それだけに、母の言葉は僕に突き刺さる。心を激しく揺さぶられる。母は僕に、無条件の愛を注いでくれている。きっと、父や兄弟も同じことだろう。
…ごめんね。ありがとう。
僕は壊れたラジオのように、何度もこの言葉を繰り返す。
それから、色々話した。仕事を辞めたって話だけじゃなく、いったん実家に帰るって話。引っ越しや移動に関しては一人でできるので、とりあえず僕の部屋を開けておいて欲しいという話。
そして猫を飼い始めたということも伝えた。母はびっくりしていたが、とりあえずは承知してくれた。
「毛が落ちたり、うんちのお世話とか大変になるよ~。」
なんて、愚痴も漏らしてはいたけれど。
「でもあなたが飼うって決めたんなら、みんなで応援するからね!お兄ちゃんの飼ってる猫ちゃんとも、仲良くできるといいね!」
なんて、励ましてくれた。
そういえば、兄も猫を飼っているんだっけ。確か、長毛種の雌猫だったはず。少々気性が荒い子だった気がするが、いずもは仲良くできるのだろうか。いずもの方を振り返ると、起き抜けのような薄目でこちらを見ている様子。近くに寄って、頭を撫でてやる。
「大丈夫、僕が責任をもってお世話する。迷惑はかけないようにする。いずものことは、僕が一番考えてやらなくちゃいけないんだし。いずもは、家族だから。」
「そうね。アメリカンショートヘアでしょ?早く会いたいなあ。写真、送ってね!」
「うん、電話が終わったらすぐに送るよ。」
そうこうしているうちに時間は過ぎ、電話を終えるころには外が真っ暗になっていた。約束通りにいずもの写真を両親に送り付けた僕は、慌てていずもの夕飯の準備に取り掛かった。
* * *
それから二週間後、諸々の準備を急ピッチで済ませた僕は地元行きの新幹線へ乗っていた。荷物を仕分け、必要なものは段ボールに詰めて実家へ送り、不要なものは捨ててしまうか売却して処分。
鍵の受け渡しも完了し、この町にある僕の生活拠点は消え去った。自由な一人暮らしを終えるという事実に少しだけガッカリしているが、そうも言ってはいられない。
なにより、今の僕にはいずものお世話が最優先。飛行機でなく新幹線を選んだのも、いずもの体調を考慮してのことだ。
無人の貨物室に押し込められるのは、いずもにとって大きなストレスになりえるだろう。狭いキャリーバッグに収まることは我慢してもらう他ないが、せめて近くには僕が居てあげたいと、そう思った。
電車の時もそうだったが、いずもは新しいものに興味津々な一方で、外に出されることには恐怖を覚えるらしい。落ち着かない様子でバッグの中を前後左右に徘徊し、時折不安そう鳴き声を上げる。
そのたびに小声で「大丈夫だよ、いずも」と呼び掛けたり、のぞき窓に触れてみたり、時々おやつをあげたりした。しばらくすると、疲れがたまったのか暇を持て余したのか、やや薄目になって座り込み、やがてそのまま眠りについた。
僕自身も、ここ二週間が忙しくて随分疲れてしまった気がする。でも、今は眠らない。長く席を離れたり眠ったりしていたら、何かあったときいずもを安心させてやれないから。
今の僕は、いずもの安眠を妨げないよう見守ることに、小さな幸せを感じていた。
* * *
新幹線が目的の駅に到着する。東京から帰ってきたとはいえ、週末ともなれば地元もなんだかんだ混雑する。駅のホームも人、人、人でごった返していたし、道路を走る車の量もかなり多め。ついでに言うと、タクシーにも街の行列ができている。
どうしようか考えていると、SNSの通知音が鳴った。
「駅ついたでしょ?」
「後ろ!手振ってるよー!」
振り返ると、駐車スペースにはうちの車と、運転席から手を振る父母の姿が確認できた。
少し泣きだしそうになるのを堪え、バッグを揺らさないよう歩み寄っていく。
「おひさー!帰ってきた!」
そう軽口を叩いく。母の方に目をやると、母は母で再会の喜びと安堵を隠し切れないでいたらしい。両目からぽろぽろと涙を流している。
「安心したわ。それに嬉しくって。どうしても泣いちゃうの。」
分かるよ、と、心の中でつぶやく。素直にそう言えないし泣けないあたり、やっぱり僕は見栄っ張りな人間なのだろう。
「ほんと、よお帰ってきたな!しばらくは家でゆっくりしていくんだよ。」
父は満面の笑みでそう言った。そしてその言葉が、僕にとっては最高の癒しになった。色々急がなきゃいけないこともあるけれど、将来のことを今一度ゆっくり考えてみたいとも思っていたから。
「それで、いずもちゃんは?」
せっつく父母といずもを対面させる。いずもは不思議なものでも見るような、いかにも興味津々といった様子で両親に無遠慮な視線を送る。両親は、初めて見るいずもに対し「かわいいじゃない!」とか「元気いっぱいって感じやな!」とか、そういう感想を口にしている。
「この子も今日から家族やね。」
両親も、心底いずもを歓迎している様子。もともと我が家の家族は動物が大好きではあるけれど、僕はいずもが「家族」として認められることに、この上ない喜びを感じていた。
自宅に到着し、まずはいずもをバッグから解放。いずもは最速でトイレに籠って用を足した後、僕の部屋へ来た時と同様、リビングの中をせわしなく歩き回っている。部屋の面積を考えると、少なくとも明日までには新居探検にも満足するはず。しばらくは、いずもの気が済むまで自由に行動させておこう。勿論、危険や事故がないように注意しながら。
僕の部屋も綺麗に片づけてあり、上京した当時からあまり物が減っている様子もなかった。未だ学生である弟には都合のいい空き部屋になったはずだが、勉強するときや友人と電話するときに籠る程度で、自分の部屋にはしなかったらしい。
両親曰く「帰ってきたときに場所がないと困るでしょ」と気を使っていた、とのこと。僕は、年下の弟にもそこまで大事に扱われているのか。少し自分に不甲斐なさも感じるが、それ以上に感謝の気持ちでいっぱいになった。
「帰る場所、か」と、独り言ちる。懐かしさと安心感と、そして家族の気づかいに対する意識とで、僕はまた「感動」を覚える。
散々甘えた立場なのは重々承知だが、しばらくはこの部屋で過ごすことになるのだ。とりあえず不自由のないよう、物を置きなおしたり、掃除をしたり。生活拠点としての部屋を、再構築する。
また、両親はいずもが来ることを知ったその日から色々といずも歓迎の準備をしていたらしく、新しいおもちゃやトイレ砂等必要になりそうなものが予め準備されていた。
両親の好意に甘えつつ、いずもの生活環境を整えにかかる。ご飯皿と水皿の置き場所、トイレの置き場所、ベッドの位置など、主に母と相談しながら次々決めていく。
引っ越しのアドバイスをもらった時もそうだが、やはり家のことに関して母はとても頼りになる。何をするためには何が必要で、家族の誰は何が必要そうだから事前に用しておこう、とか。
いずもを育てていくうえで、母の姿勢を見習うべきだなと、そう思った。
しばらくして、弟も帰宅。「はやく子猫に会いたい」と言っていたらしいが、思ったほど子猫に執着していない。どうやら子猫が部屋中探検して回っているのを見て、邪魔しないほうが良いと判断したのだろう。
それでもご飯を率先して用意するなど何かと気にかけているあたり、子猫のお世話には積極的な様子だ。…トイレのお世話だけは全力で嫌がっているけれど。仕方なし。
また翌日には、兄の飼っている長毛種の猫ちゃんも到着した。品種はマンチカンで、性別は雌、名前は「ゆき」ちゃん。ちょうど雪降る寒い日に飼い始めたことと、真っ白でふわふわした毛並みからそう名付けたらしい。
兄は「気性が荒いけど、まあ仲良くやっていけるっしょ」と、軽いノリで両者を対面させる。いずもはゆきに興味を示すが、ゆきはやや威嚇しながら距離を置こうとする。いずもは「追いかけっこしてくれるの?」と言わんばかりの勢いでゆきに追いすがっていき、ゆきはひたすらに逃走する。
しばらくすると小康状態になり、二匹とも微妙な距離を置いて寝っ転がる。それでもお互いの挙動から目を逸らさず、「いつ再開するの?」と期待するいずもと、「少しでも動いたら逃げなきゃ」と警戒するゆきの構図に少しばかりの不安を覚える。
いずもはしばらく実家にいるし、ゆきも時々家に連れてこられる。両者の相性が悪いと、隔離やらなんやらを想定する必要があるらしい。
しかし、夜になって不安は解消された。数センチの距離を置いてはいるものの、二匹とも同じベッドの上で一緒に寝始めたのだ。起きている間は騒がしくても、寝ているときは静かなもの。
まだ少しづつ慣らしていく必要はあるだろうが、とりあえず仲良くやっていけそうで、僕も家族もみんな安堵した。いずもも、ゆきも、僕らの大切な家族なのだから。
* * *
それからしばらくの間、僕はいろいろ考えた。
いずものこと。両親のこと。兄弟のこと。そして自分自身のこと。仕事は再開せねばならないし、そのためには就活と事務的な手続きをいくつかこなす必要がある。
自分には、何が合っているのか。僕は、何がしたいのか。僕には、何ができるのか。いずもをお世話しながら両親にも迷惑をかけない生き方。僕は、大学時代の就職活動なんかよりもずっと頭を回し、考え抜き、そして悩んだ。
ある程度は家にいてやりたい。でも、それなりの稼ぎがないと育ててなんていけないし、両親にあまり心配もかけたくない。働く場所にしても、実家からアクセスのいい場所が良いけれど、それならどこにお勤めできるのだろう。どんな仕事があるのだろう。
今回の退職経験からしても、やりがいであるとか充実感であるとか、そういうポイントを重視して仕事を探した。それだけに、理想的と思える求人はなかなか見つからなかった。
その期間にも、ぼくはいずもと沢山ふれあい、時を過ごし、色々と気づかされる。
人がなんとなく犬より猫に親近感を抱くのは、比較的顔が平たいかららしい。なるほど、確かに顔のパーツや配置は人に似ている部分も多い。仕草や座り方も妙に人間臭いところがあったりするし、猫が化けたり人語を解したりする伝説や文脈なんかは、きっとこういった面の影響もあるのだろう。
また、いずもは比較的美食家であることも分かった。何種類かキャットフードを試したが、中には中々食べたがらないものもあった。更に入れて置いても、近くに座り込んで僕の顔をじっと見て、無言のストライキを行うのだ。
そこで従来のフードを盛り付けてやると、ものすごい勢いで食べ始める。要は味に敏感で、好き嫌いがあるタイプなのだろう。いずもが食べなかったフードをゆきに与えると、何食わぬ顔で平らげたと言うし。猫にも好き嫌いはあるんだなと、一つ学習。
いずもは遊びのほかに、外を眺めるのも大好きだった。特に朝方、窓の外で鳥が鳴いたり飛んだりしている時間は、ずっと窓の外を眺めて鳥たちを観察している。僕たちの感覚でいうところの、テレビやビデオ動画を見ている感覚だろうか。
ただ窓を開けても外に出たがる素振りは見せず、ずっと外の光景を注視している。外自体に興味があるというより、動くものを見るのが好きといった感じだ。
総じて、いずもの行動パターンは睡眠欲、食欲、そして好奇心がメインになっている様子。僕には想像しかできないが、今のいずもにとっての幸せは、誰かと共にいること、好奇心を満たすこと、美味しいご飯を食べること、そして気持ちよく眠ることだと思えた。
あとは時折走り回ったり遊んだりして、気持ちのいい運動をするといったところか。一緒にいる時間が長ければ長いほど、いずものあれこれが僕に伝わってくる。
そのうちに、僕は自覚した。今の僕にとって、明確な「目標」じみたものが一つある。それがわからず会社を辞めて悶々としていたけれど、少しづつ答えがわかりそうな気がしている。
今の僕の行動原理、思考、判断のほとんどは、「どうすればいずものためになれるか」。仕事を探しているのも、毎日調べものをしているのも、そしてダイレクトに遊んでやったり世話に勤しんだりするのも、ほとんどがいずものためである。
余計なお世話かもしれない。思い込みだってあるかもしれない。恩着せがましかったり、うざったいと思われることもあるかもしれない。
でも今の僕にとってはいずもが一番で、いずものためを想っての行動や各種の世話に何の苦も感じていないのは紛れもない事実。きっと、そういうこと。
いずもが美味しそうにご飯を食べる様子を見ながら、そんなことを考えた。
同じ屋根の下で眠り。同じ家族として時を過ごし。どうしてやれば喜んでくれるのか、どうしてやればこの子のためになるのか、そんなことを沢山、沢山考えて。
僕は、猫と共に生きた。