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ハッピーキャット  作者: 茂野夏喜
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-僕が飼った猫の話-

第一章 僕は、幸せなんだろうか


立ち昇る紫煙。むせ返るような、独特なタールの臭気。いかにも不健康そうなその環境の中で、多くの人々がその紫煙と臭気を増産させていく姿は、どこか虚しさと退廃感を滲ませているように見えた。これだけ副流煙だの禁煙だので騒がれている世の中でも、それなりの喫煙人口が維持されていることに感心すら覚えてしまう。 

 …かくいう僕も喫煙者であり、今しがた下車した駅の喫煙所に入ったところであるが。


 老若男女が入り混じった、少し静かで煙たい空間。大学生風の青年数人が電子タバコを片手に、色恋談議に花を咲かせながら。スーツを着た中年の男性が、スマホで何かを読みふけりながら。初老のお婆さんが、燃えゆく煙草の先を見つめながら。派手な格好をした若い女性が、スマホで何かを頻繁に操作しながら。各々が、何かしらの作業と並行しつつタバコを吸っている。

 いつもと、なにも変わらない光景。


 そんな喫煙所の様子にどこか安心感を覚えながら、僕もバッグの中からショートホープを取り出し、咥え、火をつける。煙たさの中に、ずかな蜂蜜の風味を感じる。

 御多分に漏れず手持ち無沙汰を感じた僕は、深く考えることもなくポケットからスマホを取り出し、ツイッターを開いた。


 こういう時、いつもなら何かしら興味があることを検索してみたり、SNSを使って友人達とバカ話を楽しむところなのだけれど。今日の僕は、ちょっとだけ、気持ちのありようが違っていたらしい。友人知人のツイートを一通り流し読み、多少の共感を覚えたり、面白かったものに、なんとなく「いいね」を押して。おもむろに、「仕事やめた」とツイートした。



 実際、今日は最終出社日で、僕は来週末から失業者になる予定である。ついにニートデビューだな、なんて自嘲する気持ちと。この先どうなるんだろうな、という薄い不安感を、同時に抱えてはいたが。正直、そこまでの危機感を覚えていたわけではない。


 退職願を出した理由も、パワハラであるとか、キャリアを考えた上での云々であるとか、過労に耐え切れなかったとか、そういう明確な理由があってのものではなかった。実際、上司や同僚ともそれなりに仲良くやってはいたし、残業だの激務だのの類とは無縁の職種配属であったし、労働条件や賃金に不満があるわけでもなかった。


 ただ、本当になんとなく、「辞めたい」と思い、事前に方法を調べ、人事と(円滑に退職できそうな、それっぽい理由をでっちあげて)相談し、就業規則に則った手続きを踏んだだけ。入社から1年ちょっとの若輩者だったこともあり、引継ぎ等の面倒ごとも一切なかった。


 なんとなく、とは言うものの。なんとなく「辞めたい」と思うにしても、何かしら心境の変化があってのそうなったことは否定できない。

 うまく言えないけれど、きっと僕が、会社や働き方の中に求めていたものが得られなかったから。あるいは、得られないことに気づいたからなのかも知れない。僕は、社会に必要とされたかった。誰かに、必要とされたかった。

 この組織に、僕が何かしら貢献できていることを実感したかった。


 入社一年目にして、そんな贅沢がかなうはずもなかろうとは思うものの。それでも僕は、なんとなくこの組織に属している現状に、心の奥底で疑問を抱いてしまった。それをどうにもできなかった結果が本日の退職である。

 言ってしまえば、現実逃避。逃げ。きっとそういうことなんだろうと、ぼんやり思う。


 そう。本日僕は、大して深い思慮にも基づかない、ほとんど思い付きにも近いような形で、めでたく無職となったのである。



 そうこう考えているうちに、3本目の煙草を吸い終わっていた。レギュラーサイズではあるが、それなりにゆったり燻らせているつもりだったので、だいぶ時間を浪費していたことになる。案の定、スマホで時間を確認すると、20分近くが経過していた。

 周りを見渡してみると、喫煙所の住人もほとんど入れ替わっている様子。僕もこの環境の不健康化に貢献している存在ではあるが、正直煙の充満してしまっている空間に長居するのは苦手である。


 先ほどのツイートへの返信を適当に済ませ、吸殻を灰皿に打ち捨てて。少しだけ深いため息をつきながら、喫煙所を後にする。



 駅から自宅までの帰り道、先ほどの喫煙所での思考を頭の中で反芻する。退職した理由。いまだつかめぬ自分の本心…。


 そういえば、実家の親にもまだ報告していなかったっけ。明日にでも連絡を入れよう。そして、これからどうやって食いつないでいこうか。とりあえずは、一年間節制して貯めた貯金で凌いではいけるものの…。

 そうそう、うちの会社って不思議と初任給だけは評判よかったんだよな。こんなんで、一体これから先どうやって事業を続けていくつもりなんだろう。そんなに稼ぎのいい会社だったっけな。割と赤字がどうのこうのとか、色々と噂されてたけど…。

 まあ、辞めちゃったしどうでもいいか。


 そもそも、人は何で働くんだろう。僕は、会社に何を求めて入ったんだっけ。色々考えてた気はするのだけれど、イマイチ「これぞ」ってものが思い浮かばない。

 「人は何のために生きるのか」みたいなこともよく考えるけれど。とりあえず、それなりに生きて子孫を繁栄させるため?それは意味というより、生物に共通で課せられた義務みたいな感じがする。

 人によっては、「意味なんてないから楽しんだもの勝ち」みたいなことを言うけれど。それじゃあ、三大欲求を全力で満たすことが生きる目標になってくるのか?

 …でもそれは、なんとなく納得できない。



 そうやってとりとめのないことを考えている間に、マンションへ到着。ろくにポストや宅配ボックスの確認もせず、無心でエレベーターに乗って。目的の階へ降り、自室のドアにカギを差し込む。

 実家から上京して一人暮らしの僕は、もう「ただいま」を言う習慣もなくなっている。いつものように、靴を脱いで、スーツをハンガーにかけ、シャワーを浴び。あまり食欲がなかったので、シリアル食品だけで夕食を済ませ。日課の筋トレを消化し、ゲーム機を起動。ログイン中のフレンドと、息抜き程度にゲームを楽しむ。

 23時を過ぎたころにベッドへ転がり、「明日以降、どうしようかな」とか。「親にはなんて説明しようか」とか。「そういえば、明日からは時間を気にする必要もなくなってくるな」とか、そういうことを考える。


 そのうち段々と眠気が強くなってきたので、部屋の電気を消し。いつもの癖で、睡眠導入剤代わりのウイスキーを軽く呷り。本格的に就寝態勢をとって、ベッドに潜り込む。

 酔いが回ってきた頭の中で、今日一日のことを思い出しながら、また物思いに耽る。


 ゆっくりと意識が遠のいていく中。ふいに、僕の中に一つの疑念が湧いてきた。


 「僕は、幸せなんだろうか」

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