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秋の木の葉が、一枚二枚とちらつきはじめた。枯葉色を中心にすえた窓際の景色は、晴れた空、透き通った雰囲気だった。風が吹いてきたせいかもしれない。時折、枯葉が立ち上がった風に見えて、思わず指差したりした。
東北地方の地図を開いて、一番背の高い奴に頼んで、黒板の上に吊り下げてもらった。こういう時、ちびはいやだ。
「雅弘、さっきどうしたんだよ」
学級委員の友達につつかれた。わかっている。さっきたんと一緒に教室へ入ってきたことを突っ込もうとしているんのだ。僕は何も考えずに返事した。
「ああ、さっきたんと一緒に来たってこと?」
「全く雅弘ってばなあ、ガキの癖にそういうところは大人なんだよな。ちび同士、いいカップルに見えるけどなあ」
確かに、僕より背の低いのは女子だとさっきたんくらいだ。
他の男子だったらわざと
「まさかだろ、あんな女の何処がいいんだ」
と悪口を言うのかもしれない。でも僕にはそんな必要がない。
「普通にしゃべっているのがそんなにおかしいか?」
「雅弘って、意識してねえのか」
「全然。だってさ」
僕はそういいながら、他の男子には気付かれないようにささやいた。
「知ってるだろ。おとひっちゃんのこと」
同じ小学校出身だからこそ、言えることだ。
本当に仲のいい連中だから、お互い協定を結んで、知らん振りをしているのだから。奴は頷いた。
「そうか、忘れてた。そうだよな。おとひっちゃんはもう、目覚めてるんだよなあ」
「さっきもさ、四組の前を通ってきたんだけど、おとひっちゃん、かなり意識してたみたいなんだよ。まずかったかなあと、今ごろになって俺、反省してる」
「本当に、あいつは純だよな。でもわかるような気はする。おとひっちゃんはあまりうるさい女子好きでなさそうだしな」
学級委員はふと、僕に指でさっきたんを指差して尋ねた。
「向こうはどうなんだろうな」
「わからない。女子の考えていること、俺には想像つかないよ」
「なんかなあ、俺の勝手な想像なんだけどな」
口篭もりながら、あいまいなことを、学級委員は口にした。
「もしかしたら水野さん、お前のことを・・・」
「冗談はやめろよ、頼むから。おとひっちゃんの前では絶対に言うなよ」
ひそめた声で僕も言い返した。
「身の危険、感じているだろ」
「当たり前だよ! 噂にでもなったら、一大事だ!」
他の小学校から来た連中は違うのかもしれないけれども、僕たちはなんとなく、誰々が何々のことを好きだという言葉を言わないようにしてきた。僕のように女子とただの「友達」としか思わない奴がほとんどだった。
だから、平気で一緒におしゃべりもできるし、さっきたんと一緒に廊下でおとひっちゃんねたを振ることもできる。
ただ、他の小学校から来た奴からすると、それはちょっとおかしく見えるらしい。噂では女子と付き合っているという話もちらりと聞くし、なんとなく見ていてわかることもある。
前の日に総田と川上さんがしゃべっている時に、ふっと感じた、べたっとした雰囲気といえばいいんだろうか。
なにか、僕は真似したくないような、女子との雰囲気。
どうして誰も総田と川上さんとのことを噂しないんだろうか。
たぶん、お互い隠しているんだろう。
ただ生徒会の中では、僕以上におとひっちゃんの方がいらいらしているに違いない。おとひっちゃん自身はただ、「総田と川上のしゃべり方がむかつく」と思っている程度かもしれない。でも、なんとなく僕からしたら、それ以上の感情のゆれがありそうな気がした。もちろんおとひっちゃんにいう気はない。総田に匂わせることができるだけで十分だ。
だけど、僕がいつも不思議に思うのは、どうして総田はおとひっちゃんの片思いに気付かないのかってことだった。僕からしたら、わかりやすすぎるおとひっちゃんの行動だ。下手したら全校生徒に関崎乙彦の好きな相手が誰だか一発でばれてもおかしくないと思うのだけれども。もちろん、同じ小学校の連中はすでにお見通しだ。
五年生の夏あたりから、おとひっちゃんはあまり女子としゃべらなくなった。それまでは普通だったのにだ。決して喧嘩を売るとか、怒鳴るとかそういうのではなく、僕のように自然な会話が全くできなくなってしまっただけのことだった。用があれば、僕にそれとなく話し、そこから伝えるような形だった。その頃から、なんか変だなとは思っていた。
やっぱりこれだ、と思ったのは秋あたりだった。
当時、字のきれいなさっきたんがクラスの『学級通信』を清書する係だった。うちの小学校では、ガリ版に鉄筆で一文字一文字、文字を書き込んでいき、それをわら半紙に印刷して、配るやり方を取っていた。原稿を集めてから手写しするのが、さっきたんの役目だった。インクがにじんで手が汚くなる、そんな学級通信をくばっていたさっきたんは、僕の隣に座っていたおとひっちゃんに、何気なく渡していた。
「関崎くん、どうぞ」だったろうか。とにかく、あまり崩れた言葉ではなかった。いつものやわらかい笑顔だったように記憶している。何かに熱中していたおとひっちゃんは、ふっと顔を上げた。思わずさっきたんの顔を正面で見てしまったようだった。ただそれだけだった。頷いた、ほんとにそれだけだった。
さっきたんが後ろに進んだとたん、おとひっちゃんの視線がふらふらとさまよいだし、瞬きを突然し出した。歯を食いしばったように口元堅く結び、頬骨のあたりが色濃くなってきた。今思えば「真っ赤になった」という状態だったのだろう。
とにかく、おとひっちゃんの今まで見たことのない状態に僕はびっくり仰天した。
「おとひっちゃん、どうしたん?」
学級通信に何かまずいことが書いてあったのかとすぐに目を通したけれども思い当たる節はなかった。
「なんでもねえよ」
おとひっちゃんはすぐにバインダーに、学級通信を挟み込んだ。丁寧に、二つ折にしてたたんだところが、なんとなく、おとひっちゃんらしくなかった。
ぼくもそうだけど、たいていの男子は配られたプリントなどを、そんな丁寧にきっちりたたむなんてこと、普通しない。おとひっちゃんも、その時まではそうだった。なのにだ。それからというもの、おとひっちゃんは「学級通信」に関してのみ、両端をきちんと合わせてたたんで、しまいこむようになった。隣の席でずっと観察していた僕が見たんだから、間違いない。
絶対にさっきたんと、なにかあるな。
僕は思ったことをすぐに口に出さず、様子を見る性格だ。
だから、誰にも言わなかった。かわりにずっとおとひっちゃんとさっきたんの様子を観察しつづけることに決めた。たまたま僕に用があってさっきたんと話をしている時とか、給食の時間におぼんで運んでくれた時、おとひっちゃんがどういう顔をして受け取るかとか。結構機会はたくさんめぐってきていた。
だんだん周りでも、男子と女子が付き合いだしているという噂が出てくるようになったけれど、おとひっちゃんのことを言う奴はいなかった。さっきたんも同じだった。ただ、僕だけが気付いていたにすぎなかった。
たまたまおとひっちゃんが居ない時に、誰かが他のクラスで付き合っているらしい奴の名前を挙げた。僕から見たら、あまりそういう感じに見えなかったので、
「おとひっちゃんにくらべたら全然、そんな感じないよ。きっと、ただ仲がいいだけだよ」
と、ぽろっと口にしてしまった。あれはまずかった。失敗だった。
「おとひっちゃんにくらべたらって、おい、雅弘、おとひっちゃんにそんな女子いるのかよ」
早速、旅館の一室で問い詰められ、僕はあいまいに白状してしまった。
もっとも、みんな知っているとばかり思っていたので、みんなの驚きの方が僕には意外だった。どうして、みんな、目が節穴なんだろう。
でも僕がばらしたなんてことになったら、おとひっちゃんが何をするかわからない。一度も殴られたことはないけれど、怒ったら怖いことはよくわかっている。だから、必死にフォローに回った。
「でもさ、おとひっちゃんはきっと、付き合うとかそういうことする気ないと思うし、もしばれたらかえって立ち直れないと思うよ。だから俺は、おとひっちゃんにそのこと、言いたくないんだ。相談なんだけど、このこと、俺たちの秘密にしようよ」
今思えば、よくみんな、頷いてくれたものだと思う。
「そうだなあ。おとひっちゃんだもんな。わかった。雅弘に免じて内緒にしとこうぜ」
おとひっちゃんはそのことを、現在まで全く気付いていないはずだ。
同じ小学校の男子一部が、自分の片思いを見抜いているなんてことを、想像すらしていないはずだ。
社会の授業が終り、別の男子が僕の代わりに地図を丸めて職員室に持っていってくれた。僕の背が低すぎて手が届かなかったのを、授業が始まる前から見ていたのだろう。助かったけれどもなんだか、しゃくだ。
次の授業は苦手な英語だった。いつも僕は、おとひっちゃんから教科書の訳文を丸写しさせてもらっている。一週間分はすでにもらっているので、特に予習する必要もない。ただ、音読させられるのが面倒だ。発音がよくないとか、アクセントが違うとかいろいろつつかれるんだろうな。当てられるかどうかはわからないけれど、心配なのでカタカナで、発音の振り仮名を振っておいた。
「雅弘、おい、雅弘」
呼ばれて顔を上げると、いつのまにかおとひっちゃんが側に立っていた。四組からどうしたんだろう。教科書か辞書か忘れ物でもしたのだろうか。
「あれ、おとひっちゃんどうした? 教科書かなんか忘れたんか?」
「そんなんじゃねえよ。ただ、なんとなく」
疲れているんだろう。おとひっちゃんは、同じ小学校から来た男子数人にも声をかけていた。
「それにしてもおとひっちゃん疲れ果てている顔しているなあ。今日も早かったって、おばさん言ってたよ」
「うちだとなんだか落ち着かないからさ、生徒会室で書類作ってた」
「ひとりで?」
「そう、総田側のフォークダンスがどういう方に向かっているのかはわからないけれど、お互い口出しするのもいやだろうしさ。でも、だいぶ一年生側からはやる気のある意見が上がってきつつあるし、俺のやっていることもまんざらじゃないかな、と思う」
昨日の、陸上部の後輩のことだろうか。僕は昨日おとひっちゃんを訪ねてやってきた彼について、話すべきかまよった。おとひっちゃんはどんどん勝手に話を進めていった。
「三年生はやっぱりなかなか厳しい反応が多いようだけど、どうせ来年は卒業してしまうんだ、それはそれで割り切って、今の一二年を中心に勝負していこうと思うんだ。まず、各クラスの学級委員を代表にして、パネルディスカッション形式にする。で、代表の意見を生徒会側から提示して、先生側の「正論」をぶつけてもらうんだ。そのあとで、学級委員それぞれの意見を、手上げて発言しまくってもらい、ある程度盛り上がってきたところで今度は、全校生徒側から発言してもらうんだ」
語りつづけるおとひっちゃんを、僕は半分無視していた。でも顔は聞いている風に見えたのだろう。機嫌よさそうに見えたけれども、なにかひっかかるものが感じられて、僕はまだまだ用心していた。
なんか、あったのかな、いつもだったらわざわざ教室まで来たりしないのにな。
おとひっちゃんにしちゃめずらしいよな。
ここまで考えて、ぴんときた。
「あのさ、おとひっちゃん」
僕は他の連中に聞かれないよう、何気なく小さな声で声を掛けた。
「ん?どうした?」
「この前、言ってたことさ。おとひっちゃん生徒会引退するって」
「あれは絶対誰にも言うなよ! 雅弘にしか話してないんだからな」
「わかってるよ。誰が言うかって。たださあ、みんなはおとひっちゃんが生徒会長になるもんだって決め付けてるよ。ショック受けると思うな」
「まさか、どうせ俺より総田を選ぶに決まってるさ。俺は人気ないからな」
「だってさあ、今朝も俺、さっきたんと」
僕はきわめてさらりとつぶやいたつもりだった。
ついぽろりともらした、という風に。
さっきたん、という言葉を口にしたつもりだった。
予想通りだった。
おとひっちゃんのまなざしが瞬間、さっきたんの方を見つめ、すぐにそらした。僕の顔を少しにらむように、唇を軽くかんで。
「なんか、話してたな」
「あ、やっぱり見てたんだ? なんだかおとひっちゃん俺に話したそうな顔してたけれど、声かけなかったからさ、変だなあと思っていたんだけど」
やっぱりそうだ。僕は努めて冷静な振りをして続けた。
「さっきたん、おとひっちゃんが生徒会長になるもんだって思い込んでいるみたいだよ。おとひっちゃん、五年生の時から一生懸命でひたむきで、嘘つかない性格だからって、言ってたよ。総田の方はどうかわからないけれど、俺たち小学校が同じだから、どうしてもおとひっちゃんの方を応援したくなるんだと思うんだ」。
おとひっちゃんは不意に僕の顔をじっと見つめた。
「俺、とってもだけどいえなかったよ。おとひちゃんが、生徒会に残る気がないなんてさ」
とまどいがなにか、別の形になってしまったかのようだった。
いきなりだったから驚いた。瞬きすらしなかった。
「本当に、誰にも言ってないな。雅弘」
嘘をつくのは方便だ。
「もちろんだよ」
「それならいいんだ」
おとひっちゃんは軽く僕の頭をたたいて出て行った。
全く目的なしの三組訪問だった。
他の奴もちょっと意外だったらしく僕に尋ねた。
「おい、雅弘、おとひっちゃんどうしたんだろう?」
「さあ、何か気になることでもあったのかなあ」
僕は、自分にだけ分かるように、さっきたんを目で追いながら返事をした。さっきたんは女子同士で固まってなぜか、『アルプス一万尺』の手遊びをしていた。なぜだかやたらと最近、うちのクラスではやっている。うるさくはないけれど、「あるぷすいちまんじゃーく、こやりのうーえで」と歌う声を耳にすると、つい小学校時代にタイムスリップした気持ちになる。
それにしてもだ。どうしてみんな気付かないんだろう。
総田もおとひっちゃんの弱点を探して責めているのはいいけれど、どうして特定の女子名を出したりしないんだろう。僕だったらためらうことなくそうするだろう。それこそおとひっちゃんのアキレス腱だ。
水野五月。
英語の時間中僕は、当てられたところを音読し終わったあと、ずっと考えていた。どうして、僕にははっきりと見えるものが、総田にも、おとひっちゃんにも、他の奴らにもわからないのだろうかと。
もし僕がおとひっちゃんを説得するとしたら、まずはさっきたんに協力を依頼して、計画を練るだろう。さっき、三組学級委員の奴に変なことを言われたけれど、確かに僕とさっきたんとはよくしゃべることが多い。それに、さっきたんはおとひっちゃんが生徒会長にふさわしい奴だと、思っている。確認済みだ。
もちろん、「関崎乙彦の想い人は水野五月である」などという事実を教えたりはしない。ただ
「おとひっちゃんをなんとか、生徒会長にしてやりたいんだ。でも、総田を応援する奴が一年、三年に多くて不利みたいでさ。やる気失っているみたいなんだ。さっきたん、悪いんだけど、二年の生活委員を代表しておとひっちゃんに、「座談会」の協力を申し入れてくれないかなあ。たぶん他の奴だと、裏があるとか思って、おとひっちゃん受け入れないかもしれないからさ」
二年連続生活委員のさっきたんは、それなりに発言権を持っているだろう。週番の仕事をきちんとこなし、制服も違反なしに似合う着こなしをしている女子だから、先生たちにも受けはいいだろう。また、生活委員会も今回の『生徒会主催座談会』と『フォークダンス』には口を出してもいいポジションのはずだ。
さっきたんには、主に二年の生活委員から意見を集めてもらい、協力するスタンスを取ってもらう。
そして。ここから。
最重要な点はこれだ。
「やっぱり、さっきたんとは小学校いっしょだし、五、六年一緒だったし、おとひっちゃんも少しは気持ちを許すんじゃないかと思うんだ。できれば、細かい資料とかそういうものちょくちょく運んでもらえないかな。きっと、みんなが協力してくれてるって分かったら、おとひっちゃんの気持ちも変わると思うんだ。自分をこれだけ必要としてくれるとわかったら、きっと、意地になっちまったおとひっちゃんも、もう一度生徒会に残ろうって気持ちになると思うんだ」
さっきたんにそう言っている場面を頭の中に思い浮かべた。
僕の顔ははっきりと、『関崎乙彦の親友』面しているだろう。
さっきたんは僕を見て、いつものように、おとなしめに笑うだろう。
「いいわ、佐川くん」
完璧だ。
ひとりでシュミレーションにひたって、たぶん僕はにやけていたのだろう。隣の席にいた学習委員に思いっきりつねられた。