13
校舎に入ってから十分も立っていないのに、外の空気はだんだん青みがかってきた。まだ光の透ける空を見上げた。展示を行っている教室では、ほとんど後片付けが終り、ごみ袋を抱えて走る生徒の姿も見受けられた。僕が上履きを外に履いてしまい、泥がついていることも、誰一人気付かないようすだった。
二年三組の教室を覗いたけれども誰もいなかった。
がらんとしたくせに、上の方からは片付け指示の声が聞こえた。
まだいるんだろうな。生徒会室。
階段を昇ろうかどうしようか迷っていると、誰かが降りてくる気配がした。
ばたばたと、うるさいくらいの足音。何かの拍子で、すとんと転がった。
「お前大丈夫か? 来週大会なんだろ。無理するなよ」
おとひっちゃんの声だった。身を小さくして隠した。
「関崎先輩、すみません」
「今の話はすぐに返事なんて出さなくていいからな。無理になんて絶対に言わないからな」
「はい、来週中にはお返事します」
僕は手すりの陰に隠れ、降りてくる足音が通り過ぎるのを待っていた。丸いいがぐり頭とめがねをかけた顔、そして胸につけたバッチ『学級』のバッチ。生徒会室にいた時、見たことのある奴だった。
そうだった。一年二組の学級委員だ。
小学校時代、おとひっちゃんの陸上部後輩だったという不器用そうな奴だった。彼は僕に気付かず玄関に向かい、すぐに見えなくなった。
確かあの時、総田に細かいところをたくさん指摘され、困り果てていたのがちょっと哀れだった。最後には階段から滑り落ちるくらいショックを受けて、帰っていった、あいつだった。
そうか、陸上部か。来週大会があるんだ。
時間稼ぎをしたかったわけじゃない。あれから四時間以上経って頭も冷えた。僕なりに結論も出た。だからこそ、今のうちに会って、おとひっちゃんにあやまりたかった。
ただ、またさっきたんが生徒会室に行ったとしたら、たぶん総田もいる前でなにかかしらの問題が起こっている可能性がある。紛れ込んだら、修羅場になることは間違いない。帰ってことを面倒にしてしまいそうで、僕はまだためらっていた。
「おい、佐川、こんなところでなにふらふらしてるんだよ」
階段に座り込んでいると反対方向から呼ばれた。僕の情けない格好が丸見えだった。
総田がトランシーバーを持って玄関に出るところだった。こいつも足元を見ると、外履きのまま上がっていた。まさに校則違反そのものだ。
「総田。忙しいところ聞いてごめん。今、おとひっちゃんどうしてる?」
おそるおそる僕は尋ねた。
おどおどしているように見えたらみっともないと思いつつ。
「生徒会室で待機してる。話し合いもひと段落したしな。あとは本番さ」
「他の生徒会一門は?」 「とっくの昔に降りてった。たぶん待機テントの中で音響とかなんかやってるはずだ」
「じゃあ、おとひっちゃんは何をしてるの?」
「ぎりぎりまで校内の放送委員とか、先生たちとトランシーバーで打ち合わせして、それからテントにもどるって言ってたぜ。いろいろあるんだろ」
ぼそっとつぶやいた後、思い出したように付け加えた。
「しっかし、お前、最後の最後でどんでんがえしを食わせてくれたな。さすがだぜ」
「どういうことだよ」
「詳しくは関崎か、もしくは水野さんに聞いてみるんだな。ほら、今なら関崎ひとりだけだぜ」
それ以上は何も言わず、ピースサインで二本指を立て、総田も生徒玄関の方に姿を消した。
どういうことなんだろうか。
総田の機嫌はすこぶる良かった。
最後の最後でどんでん返し?
さすがだぜって、総田にとってプラスになったことなのかな?
おとひっちゃんにまた、何か動きがあったのだろうか。
僕には全く読めなかった。今ならまだ一人で生徒会室にいるという。
もしかして、さっきたんが生活委員長をひっぱっていって話をしたということが、少しでも前向きな動きをみせたのだろうか。総田も「詳しくは関崎か、もしくは水野さんに聞いているんだな」と言っていたことだし。
あと二十分くらいしかない。
聞くなら今だ。
腰を上げて、僕は駆け上がった。踊り場で息をつかず、一気に階段を二段とびして生徒会室に向かった。薄暗く、窓からは寒いくらいの風が勢いよく飛び込んできた。
引き戸の前に立っても、人の気配は感じられなかった。でも南京錠は外れている。僕はノックをしないでがらっと開けた。 おとひっちゃんが、片手にトランシーバーを持って窓辺でなにやら通信していた。
僕の姿を見つけ、はっとかたまった。
「おとひっちゃん、俺さ」
それ以上は言えなかった。僕は背を向けたまま引き戸を閉め、すうっともたれた。
「雅弘、こっちに来い」
有無を言わさぬ口調だった。一発くらい殴られるのは覚悟していた。おとひっちゃんを見つめたまま、おとひっちゃんの腰掛けている椅子に坐った。近づくにつれておとひっちゃんの表情はいつも通りに見えてきて、僕はほんの少しほっとした。怒っていないようだった。
「さっきはごめん。俺も言い過ぎた」
早いうちに謝っておくつもりだった。僕の方から最初に頭を下げた。
おとひっちゃんはすぐに返事をしなかった。ちらっと目で合図をした後、トランシーバーに向かい、
「それではあと五分くらいしてからもう一度連絡を入れます。以上です」
先生たちに連絡をしていたのだろう。スイッチを切った。
「もう誰も聞いていないから、話しておいていいよな」
おとひっちゃんは僕の目を、じいっと見つめ、また外のグラウンドに顔を向けた。
「雅弘、俺は生徒会長で次期改選に出るつもりは、今のところない」
つぶやきよりも、もっと確固とした声だった。
「今日の座談会だけじゃない、この一ヶ月、ずっと考えていたんだ。俺には、水鳥中学の生徒全員をひっぱっていくだけの、人望がないってわかっていた。だから、総田にどっちにしろ、会長を任せるつもりでいたんだ。でも、さ」
言葉を切って、うつむいた。
「ついさっき、総田とも話をして、向こうは向こうなりの考えで、副会長でいたいという理由が、よくわかったんだ。二番手でないと力を発揮できないっていう気持ちも。だから、こっちから案を出すことにしたんだ」
「案?ってなに?」
おとひっちゃんは目を閉じて、間を取った。そのまま続けた。
「今年の一年で一人、見所のある奴が学級委員にいるんだ。今日の座談会にも顔を出していた。俺の後輩なんだけど、すげえ不器用で、しゃべるのも下手で、でも、ひたむきで一生懸命なんだ。そいつ陸上部に入っているんだけどさ、どう考えても地区大会を突破できる脚なんてしてないんだ。なのに、一番稽古熱心なのはあいつなんだよな。裏方も全部やって、それでいて周りにはにこにこしてる。いつのまにか、周りに仲間が集まってくる。どんなうるさい先輩でも、あいつには協力しようって言ってくれる。すげえ、いい奴だよ」
すぐにぴんときた。 いがぐり頭、一年二組の学級委員だ。
「俺、見た事あるかもしれない」
「あいつを、来月の生徒会改選で、会長候補として出すことにしたいんだ」
うそだろ?
声が出ないくらい、驚いた。 「会長候補って、おとひっちゃん、それ本気かよ」
「総田も了解した。あとはあいつの返事待ちだ」
びゅよんと、電波の乱れる音が空からした。
校内放送が流れた。
「校内に残っている生徒のみなさんは、至急、各クラスの待機所に集合してください。なお、総田生徒副会長から、今夜のフォークダンスに関する諸注意があります」
僕は動かぬまま、おとひっちゃんの話を聞いた。あとで担任に怒鳴られるだろうが、どうでもよかった。
「奴には言っておいた。ちゃんと俺も、生徒会副会長として残るから。お前ひとりに責任を負わせるようなことはしないからってさ」
おとひっちゃんは最後の部分を、早口に消えるように、つぶやいた。 きちんと聞き取れた。
ちゃんと俺も、生徒会副会長として残るから。
「そういうこと、なんか」
「もう一年、生徒会で勝負する」
頭の中が混乱してまとまりがつかなくなっていた。
僕と言い合いをした後、総田となんらかの話し合いが行われ、一年生生徒会長擁立ということに話がまとまったということだろう。 全く聞いていないからあくまでも僕の想像だ。
おとひっちゃんの言葉をそのまま信じるならば。
おとひっちゃん自身はすでに、自分を生徒会長の器じゃないと決め付けている。また総田は自分が二番手でこそ輝くタイプだということを自覚している。だからお互いに次期生徒会長の座を押し付けあっていたということだろう。いわば、不毛な押し付け裏工作を試み、互いに失敗していたというわけだ。
一年生会長擁立案がおとひっちゃんか、もしくは総田か、どちらの発案なのかは判断できない。総田が匂わせたことを自分が思いついたと早合点してしまった、おとひっちゃんなのかもしれない。また、何にも知らない一年生を無理やり押し込むのも不安がある。ベストの方法とは、言い切れない。
僕からすると、どうも総田の計画がはまったのではないかという気がする。
なんとしてもおとひっちゃんを、生徒会に残すための。
総田幸信最大の譲歩策だったのではないだろうか。性格の不一致や、恋愛観の違い、そういうものをとっぱらっても、おとひっちゃんを水鳥中学生徒会に欠かせない人間として認めたからこそ、できたことではないだろうか。勝手な想像だけど僕はそう思う。
おとひっちゃんの一声で、水鳥中学生徒の一部が確実に動いたのを僕は見た。
みずからの意志でもって、体育館を後にした三年生たち。
座談会の壇上で、討論に加わっていった学級委員たち。
そして、生活委員会を代表して単身、話し合いにでかけたさっきたん。
「てことは、おとひっちゃん、副会長で次期改選に立候補するんだね」
確認する意味で、僕は訊ねた。
振りむくことなくおとひっちゃんは頷いた。
「もし俺が生徒会長になってしまったら、総田のやりかたとぶつかりあう以外方法を見つけられないけれど、あいつだったら、もとうまくやっていけると思う」
もっと何か聞きたかった。でも、すでに五分以上経過している。
僕は素早く立ち上がった。
「おとひっちゃん、どうせ下に降りてくるんだろ」
「連絡関係がひと段落したら」
「じゃあ、もう一度、いくよ」
おとひっちゃんに僕は答え、もうひとつだけ質問をした。
「さっき生活委員会の人たちが生徒会室に来たって聞いたけど、あれどうなったの」
背を向けたままおとひっちゃんは、身動きひとつせず答えた。
「三十分くらい前からグラウンドの側に、大きい遠足用シートを敷いておいてもらっている。疲れた奴はそこで勝手に休めってことになってる。雅弘、どうしてそれ知ってるんだ?」
「いや、あのさ、俺もよくわかんないんだけど」
もうぼろが出てもいい、僕は覚悟を決めた。
「さっきたんが自分の意志で、生活委員長に話を持っていったんだ。僕だけじゃない、二年三組の一部連中がさっきたんの宣言を聞いて、びびってた。おとひっちゃんたちに、ちゃんとやるべきことをやるって伝えるために行くって。あんなにおとなしそうな顔しているのに。すごいよな」
ゆっくりとおとひっちゃんが僕の方に向き直り静かな表情で尋ねた。
「雅弘、お前気付いてないのか」
僕は、気付いていない振りをした。
「いったい、何にだよ」
「いや、それならいいんだ。ほら、雅弘、そろそろ整列だぞ、急げ!」
帰り際、僕は窓辺の景色をもう一度確かめた。
黒い煙がうっすらと空をかすませている。藍色の空に白いものがふんわりと浮いていた