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学校祭最終日の朝、僕はおとひっちゃんを家まで迎えにに行かなかった。当たり前だ。生徒会役員は朝六時前後から生徒会室に詰めているはずだった。でも、昨日の今日だ。
はたして総田とおとひちゃんはうまくやっているのだろうか。
総田は大丈夫だろう。あいつは生徒会副会長としての顔と、ふだんの感情をぱっきり分けることができる。でもおとひっちゃんは違う。あれだけ痛い思いをして、簡単に立ち直れるタイプではない。
あまり考えていると僕の方も立ち直れなくなりそうなので、あえて何も考えず二年三組の教室に向かった。三組の教室は展示に全く使われていない。自分たちの席に坐っている。
わくわくしている奴もいるのだろうけれど、やっぱり座談会が最初にあるとあって、ちょっと面倒くさそうだった。
とっくに三組学級委員は体育館に姿を消していた。
校内放送が流れた後、指示に従い自分の椅子を抱えて、廊下に整列した。男女一列に並び、体育館に入場した。いつものことながら男子は前列、女子は後列。僕は前から二番目だから、かなり奥の方だった。脇に控えている学級委員の連中、生徒会役員一同の様子は一目瞭然、いい場所だ。
おとひっちゃん、どこにいるかな?
昨日のこと、やっぱりひきずっているかな。
一年から三年まで、椅子を全部運び終わり、席についたところで、校長先生からの挨拶が行われた。かなり長い。聞き流す。
その次に、水鳥中学生徒会副会長・関崎乙彦の『座談会開始にあたっての挨拶』が始まった。
無表情のまま、おとひっちゃんは脇を大股に歩いていった。手を振って合図したけれど気付かないようすだった。舞台の袖には総田、川上さん、その他の生徒会役員一同が待機していた。総田は後ろに手を組んで軽く両足を広げ、『休め』の姿勢のまま壇上を見上げていた。『悪の根源』川上女史はというと、髪を物憂げにかきあげて、体育館をぐるりと眺めていた。
壇上で紙をひろげ、目を落としたまま読み上げるおとひっちゃん。
マイクに口を近づけ過ぎだ、わんわんと響いた。
「水鳥中学生徒のみなさん、本日の座談会に参加していただきまして、ありがとうございます。本日は、生徒の手による、生徒の本当に求める企画を行うということで、第一部に『生徒と教師』の本音を戦わせる座談会、第二部に『生徒たちの交流を深める』意味でのフォークダンス。二本立てで行うことになりました」
ここで息を次いだ。脇で総田が、「マイクをもっと離せ」と手で懸命に合図している。
おとひっちゃんは気付かない様子だった。集中しているのだろう。
「今年は『服装規定』の改正など、僕たちにとっては大きな出来事がありました。水鳥中学の生徒が本当に求めていることは何か、それを僕達生徒会役員一同は、必死に探してきました。そのひとつが、『服装規定改正』という形で残ったことを僕は誇りに思っています。もちろん、すべてが正しいとは思いません。ほんの少しでも、先生たちに生徒の声を届けることができたのは、僕たち、水鳥中学生徒会の誇りだと思っています」
本当にそうなんだろうか?
おとひっちゃん、心にないことを言っているんじゃないだろうか。
今の文章って、どう考えても、総田のことを認めているってことだよ。
服装規定の改正をやったのは総田だったし、おとひっちゃんはどちらかいうと、否定派だったはずだよ。もとの制服の方がいいって。
僕はおとひっちゃんの言葉の続きを待った。
「今回、先生およびたくさんの水鳥中学生徒のみなさんが声を上げてくれたおかげで、学校祭三日目を僕たち生徒自身の手で動かすことができるようになりました。その第一弾として、これから始まる『先生と生徒』による座談会が行われるわけですが、その前に」
おとひっちゃんは顔を真っ正面に向けた。この時初めて僕は、おとひっちゃんがずっと表情を隠していたのに気付いた。
無表情なんてとんでもないんだ。
この時まで、ずっと、見せないようにしてきただけなんだ。
「先生たちにお願いします。今から僕は、ここにいる生徒一同に、ひとつの質問をしたいと思います。その答えが出たとしたら、申しわけありませんがその通りにさせてやってください。どうか、絶対に、止めないでください。そして、内申書とか、そういうものにも、影響させないでください」
かすかだが、机についた手がこわばっている様子だった。脇で総田が目を見開いて何かを訴えようとしている。おとひっちゃんに何かを言おうとしている。川上さんをはじめとする他の生徒会役員も口に手を当てたりしている。
椅子に坐っている連中もざわめき始めた。待ち構えている学級委員たちは食い入るようにおとひっちゃんを見つめている。
「ふつうの状態じゃねえよ、おとひっちゃん」
「雅弘、あいついったいどうしたんだよ」
両隣から僕に尋ねてくる同級生たち。
僕だって答えられたら、答えたい。
でも、読めない。今ばかりは、おとひっちゃんの考えていることが全く読めない。
わかるのは、総田にも想像のつかなかったことを昨日、やろうと決めただろうというそれだけだ。
先生たちはというと、それが思ったより落ち着いたものだった。
生徒会顧問の萩野先生は他の先生たちに頷いてみせ、指を口に当てていた。黙っていろという合図だろう。。
ということは、すでに先生たちへの根回しも終わっているということだろうか。
ざわめきがやまないまま、おとひっちゃんはマイクの真っ正面でゆっくりと発言した。
「今日、この座談会そのものに疑問がある生徒、もしくは座談会なんかに参加したくないと思っている生徒、もしくは、本当にやりたいことは、こんなことではないと、思っている生徒。今日まで何にも言わないできたけれど、本当はこんなことをやること自体が無駄だと思っている生徒。そういう生徒のみなさん。今日は僕、関崎がすべて責任を取ります。体育館から出て行くことを、許します。決して内申書とか、行動記録とか、そういうものには残らないと、先生達たちから了解は取り付けてあります」
やわらかいざわめきが、一気に煮詰まり、ぱちんとはじけた。
「おい、おとひっちゃん、何言い出したんだよ!」
「雅弘、お前知っているんだろ! あいつ完全に頭おかしくなっちゃったんじゃないか?」
「あれだけ懸命にやってたおとひっちゃんがだぜ、いったい今になって何を言い出したんだよ!」
僕とおとひっちゃんの仲を知っている連中が、今度は別の席にいながらも大声で訊ねてねてくる。後ろの女子たちも顔を見合わせているようすだった。前の方に座っている一年生たちは一部、「わあい!」と喜びながらはしゃいでいるのもいる。ことの重大さをきっと、わかっていないのだろう。
「あいつ、何考えているんだよ」
僕は先生たちの様子をもう一度観察。
萩野先生以外の数名は、少し戸惑った様子で口をとがらせている。でも止めようとしない。緊張した面持ちで、生徒たちの方へ目をやっていた。
やっぱり先生たちにも了解ずみってことだろう。
おとひっちゃん、本当に何を考えているんだか。
でもまさか、本当に立ち上がって帰ってしまう奴なんていないよな。
やっぱりそれは、僕の考え、甘かった。
おとひっちゃんが仕掛けた爆弾の意味を僕は、理解してなんていなかった。
突然、総田が壇上に駆け上がった。おとひっちゃんの不穏な雰囲気をいち早く読み取ったのだろう。マイクの頭をおもいっきり下に折り曲げ、何かを早口に怒鳴った。僕には聞き取れなかった。受けたおとひっちゃんは、その総田をちらっと見返した後、全く聞き取れない声で言い返した。生徒会副会長同士の大喧嘩。とうとう全校生徒の前で繰り広げられるのか。思わぬ見ものだとばかりに、みなざわめき立った。
いつものおとひっちゃんなら、かっとなって言い返しているかもしれない。
でもここは全校生徒の面前だ、理性も働いたのだろう。
総田に軽く首を振り、手で制したまま、おとひっちゃんはマイクをもう一度口元に当てた。
「冗談を言っていると思っている人も多いでしょう。また、いきなりのことでみな面くらったと思います。申しわけありません。しかし、今回の座談会を開くにあたって僕は、どうしてもこれだけは確認したかった。今日やろうとしている学校祭というのは、もしかして僕たち水鳥中学生徒会の押し付けにすぎないのではないか? ということ一点です。僕は去年の学校祭を経験して、内容が余りにもしらけているとか、意味のない、心に残るものではないということに絶望的な気持ちになりました。先生、いや、学校側の押し付けに過ぎない行事だと思いました。もっと、水鳥中学生徒全員の心に残るものにしたいと、それだけを考えて、学校祭三日目を生徒自主企画として、時間をもらうことになりました」
大きく息を吸う音が聞こえた。マイクは細かい音をずいぶん拾う。
「でも、よく考えてみると、それは僕の思い上がりであったのだということが、この一ヶ月くらいでよくわかりました。今年の『服装規定』問題についてみな、同じ思いでぶつかっているのかと信じていたけれど、それは一部の生徒に過ぎないということ。そして、生徒全員が同じ思いを共有することは、難しいこと。もっと難しいのは、その本音を口にすることができない人が、ほとんどだということでした。どうしていえないか、それは簡単です。うっかり反抗したら、内申書に響くかもしれないし、もしかしたら希望の高校に進めないかもしれないというのがあるからです。正直言って、僕も、もう希望の高校に行けないだろうという覚悟はしています。生徒会顧問の萩野先生にも、再三、覚悟を問われました。ですが、今回の座談会を開く前にどうしてもこれだけは、確認しておきたかった。本当にやる気のある人、本当にこの学校祭に参加したいと思っている人。座談会を生徒会の押し付け行事だと思っている人は、どのくらいいるのか」
全校集会でこんなに静まりかえったことは、かつてない。
おとひっちゃんの声だけが響く。
隣で総田が拳骨を握り締め、今にも飛び掛りそうな目で見つめている。
「いきなり出て行くのは、椅子の運び入れもあるので大変だと思います。まず、質問したい人は手を上げてください」
後ろの方から「はい」と挙手する声。三年生だろうか。男子だった。
「では、お願いします。起立してお願いします」
振り返ると、三年の先輩らしき人ががたがた椅子を鳴らしながら立ち上がった。格好は校則どおりだった。不良っぽさのない、ごくごく普通の人という感じだった。
「今、関崎副会長がおっしゃられたことは本当でしょうか」
「本当です。今日一日に関しては、生徒会が取り仕切る形になりますので、内申書、その他の行動記録にマイナスとして残ることはありません」
「そういう問題ではなくて、副会長が知りたいことというのは、今回の座談会が、生徒にどのように受け取られているかを知りたいということですね」
「その通りです」
「それを行動で示すということですね」
「その通りです」
くどいくらいに確認を取る三年生。たぶん二組の人だろう。
「それでは、今からクラスメイトに意志をそれぞれ確認します」
「ただし、クラス単位で移動ということは避けてください。あくまでも、水鳥中学の生徒ひとりひとりの意志において、決定してください」
「わかりました。では、三年二組のみなさん。僕たちははたして学校祭を、どう見ているかを、この場所で表明したいと思いますが、どうでしょうか。もし、この座談会そのものに意味がないと思われる人は、今から僕と教室に戻りましょう。意味があると思っている人はここに残って結構です」
学級委員なんだろうか、それとも影の仕切り屋なのだろうか。僕には全く見当がつかない。しかしその発言がきっかけで、一人、二人と椅子をずらす音が響き渡った。三年二組だけではない、一組、五組、四組、そして二年生たちも、少しずつ列が崩れ始めた。おとひっちゃんのクラス、二年四組はさすがに誰も腰を上げない。でも僕のクラス、二年三組は後ろの方にいる連中が黙って立ち上がり、背もたれを片手で引きずりながら廊下に出て行った。
先生たちが出て行く生徒たちに声を掛けようとするのを、萩野先生はふたたび制していた。後ろの方に並んでいた三年生の席は、ほとんどが虫食い状態だった。一部坐っている人もいるようすだが、ほとんどはどこかにいなくなってしまっていた。
二年生で残っているのは、二年三組、四組、五組。の半分弱。
一組と二組には生徒会役員が出ていないこともあり、あまり関心を持っていなかったのだろう。姿はほとんどなかった。一年生だけがよくわけのわからない顔をしてうろうろ歩き回っていた。でも出て行ったものは誰もいない。
おとひっちゃんはマイクを握り締めたまま、じっと見下ろしていた。総田がそのマイクを取り上げようと、ゆるやかに柄を取った。今度はおとひっちゃんも抵抗しなかった。総田はじっとおとひっちゃんの方を見つめたまま、一言だけ、たずねた。
「これで、いいのか」
マイクが声を拾った。
「俺のやったことの結果だ、悔いはない」
おとひっちゃんの答えは、椅子のぎじぎし音にかき消されそうになりながらも、僕の耳にはっきりと聞こえた。
その後始まった『先生と生徒』の座談会。
生徒会副会長・関崎乙彦の爆弾発言がきっかけで、先生と生徒との発言そのものは盛り上がったといってよいだろう。ひとことで言ってしまうならば、司会者がほとんど不要なくらい、発言が続出したということだ。
壇上の各学級委員たちは、
「関崎副会長の言葉にもあった通り、学校祭自体に意味はあるんですか」
「生徒があれだけいなくなったということが、すべての答えではないですか」
「僕たちも本当は出て行きたかった」
と、ある意味本音を語ってくれた。すでにきっかけが、関崎乙彦副会長の一声によってできあがっていたというのもあるだろう。
結局、仕切り役にいつのまにか回っていた総田幸信生徒会副会長が、二時間みっちりまとめてくれた。
「いやあ、あれですねえ。やっぱり本日は無礼講、内申書や行動記録に響かない座談会ということですんで、みんな本音がでますねえ」
軽妙なタッチでの話題つくりが得意な奴に、すべて任せたのは正解だったと、見ている僕の方も感じた。
生徒会顧問萩野先生が総括を行った後、最後に座談会責任者である関崎乙彦生徒会副会長はマイクを受け取った。ほとんど無言で様子を見守っている状態で、うっかりすると存在を忘れさられそうだった。、
「本日の総括は、これから十分後に、放送委員会の協力を得て、校内放送させていただきます。本日、最後まで、参加してくれた生徒のみなさん、そして僕の身勝手な意見を通してくださった萩野先生以下先生のみなさん、感謝しています。ありがとうございました」
深々と頭を下げた。他の人々が椅子を持って壇上を降りていく中、おとひっちゃんは動かずにいた。全身全霊を使い果たした表情で、ただ、席を見下ろしていた。
僕にとって、座談会の内容そのものは、もうどうでもいいことばかりだった。内容なんて、ほとんど覚えていない。心に残るものなのか、ある意味で「本音」の語り合いができたのか、そんなのは判断できない。
ただ、おとひっちゃんが成し遂げたことは。
口にしなかった生徒たちの『本音』を、体育館からの退館という行動によって、知ることができたこと。関崎乙彦副会長の一年間が、生徒会改選以外の方法で計られたこと。
……俺のやったことの結果だ、悔いはない。か。
残酷な結果だと、僕は思った。