oblivion 5: 忘れ形見
少女と再会した次の日のお昼休み。
いつも通りふらっと教室を抜け出す小栗の後をこっそりと追いかけた。
最上階である四階からさらに階段を上り、机で築かれたバリケードの隙間を抜けて、さらに階段の先の扉の奥へと小栗は消えた。
屋上は立ち入り禁止のはずだが、どうやら施錠されていないらしい。
扉の前で深呼吸をして息を整えると、意を決して扉を開けた。
まず目に飛び込んでくるのは、遮るもののない広い空。
学校の周囲に高い建物が無いため、遠くまでよく見える。
屋上にはベンチがひとつあり、小栗はそこに座り、弁当を広げようといていた。
俺の立てる物音に驚いたようで、勢いよくこちらを振り向く小栗と目が合った。
「よ、よう」
とりあえず声をかけてみる。
小栗は入って来たのが俺だと気付くと、肩を降ろしてほっとしたような顔をした。
「なんだ、あき君か。先生かと思ったよ」
「ここ、開放されてたんだな」
「鍵が壊れてるみたい。何か用?」
「たまには一緒に昼食でもどうかと思ってな。隣いいか?」
俺は手に持った弁当の包みをかかげる。
「ふーん、いいけど」
逃げられるかと思ったが、ベンチを少しずれて俺の座る場所を空けてくれた。
それから、二人して黙々と弁当を食べた。
こういう時には大抵、小栗が話題を振ってくれていたので、どう話していいかわからず、とうとう弁当を食べ終えてしまった。
「それじゃあ、私、先に戻るね」
小栗は弁当箱を元通りに包みなおし、ベンチから腰を上げた。
俺は意を決して、本題を切り出すことにした。
「ちょっと待て。お前、文化祭の日の前日に、何かあったろ」
「え、いやいや、全然、何もないよ?」
小栗は少し間延びした言い方で答える。
こいつは何かを誤魔化そうとするとき、こういう話し方をする。
「いや、何かあるだろ。例えば、お前のおじいさんのこととか」
小栗はぴたっと動きを止め、しばし沈黙する。
小栗と買い物に行った時の去り際の表情が気になっていたのでそう言ったが、どうやら当たっていたらしい。
「話してみろよ。一人で抱えるのはつらいだろ。幸い俺は親しい友人が少ないから、ここでの話が漏れる心配もない」
小栗は俺をちらりと見てから、ベンチに再び座ってふぅとため息をついた。
「少ないじゃなくて、いないの間違いじゃないの」
小栗のふわふわとした声で辛辣なことを言われるとダメージが大きい。
こっそりと小栗が、私を除いて、と小声で付け加えたのが聞こえた。
「あき君には、なんだってお見通しなんだね」
そう言って小栗は空を見上げた。
小栗にだけ見える昼間の星を見つめるような、そんな目つきだった。
俺は食べ終えた弁当箱眺めながら、小栗が話し出すのを待った。
「少し長い話になるけど、聞いてくれる?」
そう言って小栗は彼女と母親についてぽつぽつと語り始めた。
私が幼稚園くらいのころに、お父さんとお母さんが離婚したのは知ってるでしょ。
ある日曜日、お母さんは書置きを残して朝早くにいなくなってしまった。
お母さんが別の男の人のところへ行ってしまったんだけど、その男の人のことはお父さんも前から知っていたんだと思う。
夜遅くに時々、お父さんとお母さんが言い争うような声が聞こえてたから。
お父さんは、それでもどうしてもお母さんに帰ってきてほしかった。
だからお父さんは、私からもお母さんにお願いするように言ったの。
そうすれば、きっとお母さんも気が変わって戻ってくるって、そう言われた。
今になって考えると、夫婦が二人で決めて、無理に子供を巻き込むようなことでもないと思うけれど、お父さんも必死だったんじゃないかな。
お父さんは、一度決めたことには頑固なところがあるから。
そのころは共働きで、お母さんの相手は職場の人だったみたい。
お母さんはお父さんからの電話に出ようとしなくて、それで次の日にお母さんがお仕事を終えて会社から出てくるのをお父さんと私で待ち伏せることにしたんだ。
その頃は私はまだ書置きに何が書いてあるかよくわからなかったし、お父さんもきっと戻ってくるとしか言わなかったから、単にお母さんが出かけているものと思ってた。
お父さんは普段料理なんてしないのに、その日はカレーを作ってくれたの。
ジャガイモやニンジンなんて、お母さんが作ったのと比べたら大きさが不揃いで食べにくかったし、やたらと甘かったから、お父さんはへたっぴだね、はやくお母さんが帰ってくるといいねなんて笑ってた。
そしたら、お父さんは何も言わずに私を撫でてくれた。
お父さんは私の髪を洗うのも下手で、よくシャンプーが目に入って痛かったけど、たまにはこんな日もいいかなと思ってその日は寝たんだ。
次の日は、幼稚園のお迎えにもお父さんが来て、いつもと違う感じがして少し楽しかった。
一旦家に戻って着替えたら、お母さんの会社の近くの喫茶店に連れていかれた。
普段はファミレスに入ってもお子様ランチばかりだったし、大人も食べるようなケーキが食べられてラッキーだな、くらいに考えてたんだ。
そして、お母さんと知らない男の人が並んで会社から出てきた。
食べかけのケーキを残して急いで会計を済ませて、横断歩道の前で信号待ちをするお母さんに、お父さんが声をかけた。
頼む、戻ってきてくれ、とか、せめてびおんが大人になるまでは、とかそういうことを言っていたと思う。
お母さんはお母さんでパニックになっているようだったし、一緒にいた男の人もお父さんと面識がなかったみたいで、お父さんとお母さんと私を見比べておろおろしていた。
お父さんよりも大分若くて、多分お母さんの後輩だったんだと思う。
一方的にお父さんが話して、途中で「びおんもお母さんのこと好きだろ?」って、私に話を振ったの。
私はどういう状況下よくわからなかったし、「うん、大好きだよ」って思っていることをそのまま言った。
そうしたら、お母さんの顔がサッと青ざめるのがわかった。
もしかすると、ちょっと涙ぐんでたかもしれない。
今思い出すと、多分お母さんも心苦しいとは思ってたんじゃないかな。
でも、そう思えるようになったのはそれからしばらくの時間が経過してから。
私がそう言った後のお母さんの言葉が、私にはとてもショックだった。
お母さんは、「こんな人たち、私は知らない。人違いです」って、今までに聞いたことのないくらいに冷たい声色で言ったの。
まるで、氷のナイフで刺されたみたいだった。
はじめはお母さんが何を言ったのか理解できなくてその場に固まったんだけど、徐々にそのセリフの意味がわかってくるとようやく、もう取り返しのつかない事態になっていることを理解したんだ。
私の知っているお母さんは、もういない。
もしかすると、最初からいなかったのかもしれない。
いたのかもしれないけれど、お母さんは私のことを忘れてしまった。
お母さんと過ごした日々が、あるいは私が、なかったことになるような感覚がしたの。
お父さんには「お母さん帰ってきて」って言うように言われてたけど、わたしにはとても言えなかった。
声をあげて泣く私を、お父さんは黙って抱きしめて、頭を撫でてくれた。
私が泣き止むころには、お母さんともう一人の男の人は、どこかへ行ってしまっていた。
お父さんの実家に引っ越すことになったのは、それからすぐのこと。
多分、お母さんと過ごしていたことを思い出すと辛くなるだろうと考えたんだと思う。
おばあちゃんは優しかったし、おじいちゃんは面白くて、帰省した時によく遊んでくれたから好きだった。
お父さんの実家で過ごすうちに、お母さんのことはあまり考えなくなった。
だって、忘れられてしまったら、もう一度会ったとしても昔通りにはならないってわかっていたから。
つまり、もう昔のお母さんは死んでしまったと理解したから。
代わりに、周りの人も、お母さんみたいに唐突に私のことを忘れてしまうんじゃないかと、そういうことが心配だった。
だからなるべく周囲の人に私の印象が、それもなるべくなら良い印象が残るように、わざと間違った言葉を言ってみたり、いたずらをしてみたりして、おどけてみていた。
それでも、おばあちゃんが私の食べ物の好みを知る度に、おじいちゃんと一緒に歌を歌う度に、ますます忘れられる恐怖は増した。
だってそうでしょ?
中学を卒業する時だって、同じクラスにいただけの知り合いよりも、同じ部活でよく話していた友人の方が、別れるのは辛い。
あき君はどう思ってるか知らないけど、私は、ついさっき会ったばかりの人よりも、あき君に嫌われる方が嫌だよ。
だからあるとき、おじいちゃんに聞いたの。
おじいちゃんもいつかは私を忘れてしまうのって。
おじいちゃんは、歯を見せてニカッと笑うと、そんなことはない、昨日の晩御飯が何だったか忘れても、びおんのことは何があっても忘れたりしないよと言ってくれた。
夕食のメニューを忘れたら、おばあちゃんが悲しむよなんて怒る私と、おじいちゃんは笑って指切りをしてくれた。
大きくて、骨ばってゴツゴツした、しわしわの小指だった。
「そんなおじいちゃんも、年には勝てなかったみたい。
最近調子が悪かったんだけど、文化祭の少し前に、そういう施設に入居することになったの。
そしたら、みるみる間に弱ってきちゃってね。
文化祭の前日の帰りに会いにいったんだけど、『どちら様ですか』って言われちゃった」
後ろ手に両手をベンチについて空を眺める小栗は、少し涙ぐんでいるように見える。
声も少し震えている気がする。
「忘れることは気楽だよ……。
忘れたことさえ忘れてしまえば、なかったことと同じだもん。何もなかったことを、気に病むことなんてしないでしょ。嫌なことは、忘れるに限る。
ごちゃごちゃ考えなくて済むのは、いいことだよ。
眠りはいい。死はもっといい。生まれてこなければ、もっともっといい。
逆に、忘れられることは苦しい。体にぽっかりと穴が開くようなものだよ。
でも、仕方ないよね。人間は忘れるようにできてるんだから。
これって悲しいことだよね。
忘れてしまえば、傷つけたことさえわからない。忘却は無意識の暴力だよ」
小栗は横目で俺を一瞥すると、変わらない調子で淡々と語る。
「あき君は賢いよね。
小学生のころ、相談所をやめたあたりから、あまり誰とも関わろうとしなくなった。
最初から自分を覚えてもらわなければ忘れられることは無く、相手を覚えなければ忘れることはない。
私も、その自己中心的な態度を見習うことにしたよ」
「ちょっとひどくないか、俺に対して」
「ほめてるんだよ?」
俺って小栗にそんな風に思われていたのか。
自己中心的であることは否定しないが、それはまた別の行動基準があるためだ。
「だから、一人で昼食をとってたのか」
「そう。私が生きている限り、自分を忘れることはないでしょ。
私は死ぬまで自分を記憶することで自分を傷つけることは無く、死によって自分のみを忘れる。
そういう風にしてみることにしたんだ」
そこまで話すと、小栗は一旦口を閉ざした。
諦めたようなその目には、疲労の色が滲んでいた。
「そうか」
俺は相槌を打ち、小栗の視線の先へと目をやった。
そこには相変わらず、青い空に白い塊がぽっかりと浮かんでいた。
そのとき俺は気づいた。
つまり、大きすぎて、見えていなかったのだと。
「小栗もずっと、亡霊を抱えていたんだな……」
俺は思わず呟いた。
先刻まで雲だと思っていたそれは、実際には雲ではなかった。
入道雲ほどの大きさもある、純白の蛇だ。
その長い体は複雑に絡まって塊となり、口で尾を加えている。
周りに遮るもののない屋上では、それがよくわかった。
それは身じろぎもせず、澄んだ青の瞳で小栗をじっと見つめていた。
おそらく、俺が小栗と出会うずっと前から。
だが、そんなことはどうだっていい。
亡霊は、所詮亡霊だ。
奴らが俺たちに物理的に作用することはない。
ということは、いないも同然。
物質として存在する俺たちの方が、偉いに決まっている。
小栗の出した結論は、絶対におかしい。
もしこれが亡霊のせいで導き出された結論だとするなら、その影響を取り払うべきだ。
だってそうじゃないか。
その結論だと、俺と小栗が出会わなかった方がいいってことになる。
俺はそんなことを認めたりしない。
「小栗、いいか。俺に言わせれば、その主張はくだらない。ぬるい。ぬるすぎる」
俺がそう断言すると、小栗は目を見開いてこちらを見た。
「利己的になるなら、もっと徹底的にやれ。
俺が他者とのかかわりを持ちたがらないのは、単に面倒だからだ。
俺は俺自身の幸福を追求する。
覚えてもらうことが幸せにつながるならそうするし、俺が他者を忘れることで苦痛を与えようと、知ったことではない」
「なにそれ、クズじゃん」
小栗は苦笑しながら言った。彼女のやわらかい声音でバッサリとクズとか言われると、なかなか胃に来るものがある。
というか、小栗もこういうことを言うんだな……。
だが、俺は構わず続ける。
「まあ、そうかもな。
お前のじいさんのことは、俺には何も言う資格はないと思う。
だがな、その結論は間違っている。
お前も、前に言ってただろ。行動は幸福を促進する。
それを自制するような結論は却下だ」
これからする話を数秒考え、再開する。
「例えば、縄文時代にこの辺りに住んでいた人間のことを考えるとする。
名前は、そうだな、田中としよう」
「この辺って確か埋立地だから、縄文時代だったら海の中だし、誰も住んでないんじゃ」
「細かいことはいい。文脈で理解してくれ。
その田中は三人兄弟の長男で、十八で結婚し、三人の子宝に恵まれた。
三人とも健康に育ち、孫も生まれ、子孫に囲まれながら、最期は流行り病で息を引き取ったとする。
田中は、子供が生まれたときにすごく幸せだった。
このことが、俺たちに意味があるかどうかで言えばノーだ。
結婚生活が辛く苦しいだけだったとしても、大差ない。
だが逆に、田中にとって現代の日本の政治が良いだの悪いだのということは、どうでもいいことだ。
そんなことよりも、愛する妻と子供のために動物の一頭でも狩ってくる方が重要だし、肉を食べる子供の笑顔の方がずっと意味がある」
「意味があるっていう言葉が便利過ぎない?
定義をもっときちんとしないと」
「うるさい。屁理屈は俺の専売特許だ」
珍しく小栗が面倒くさいことを言って話の腰を折りにくる。
これは、小栗なりの反抗なのかもしれない。
「つまり、俺が言いたいのは……。
幸せでも苦しみでも、そいつが経験することに、何にもまして、それこそどんなことよりも意味があるっていうことだ。
その点でお前は正しかった。それに」
俺は、昨日スーパーで会った少女の去り際の表情を思い出す。
「この前出かけたときに会った女の子を覚えているか?
あの子に最近また会ったんだが、どうやら虐待の問題は解決したらしい。
そのきっかけになったのは俺たちの通報、さらにその行動には、お前から聞いた話が念頭にあった。
お前、言ってただろ? 交通事故に遭いそうになっている人には、走れって言えって」
「そっか、あの子、助かったんだ。よかった……」
小栗は驚いたようで、手のひらで口を覆い、安心したようにしみじみと言った。
「お前のその無駄な知識欲も、たまには役に立つってことだ。
お前のがんばりは、全然、これっぽっちも、無駄じゃなかった。
いや、役に立たなくてもいいんだ。
どんな些細なことだって、なかったことになんて、ならない。
そういえばお前、言ってたよな。効率の良い暗記方法は、複数の感覚器官を使うといいって。
音読しながら書き写すとか何とか」
ここで一度言葉を切る。
これからすることを考えると、顔から火が出そうになるが、ぐっとこらえる。
もしこれをして、小栗が口をきいてくれなくなったら嫌だな。
でも、小栗が今のままなのはもっと嫌だ。
「小栗、えっと……。ちょっと手を出せ」
「え、うん。はい」
小栗は手のひらを上にして右手を差し出した。
横にいる俺は、その手を左手で優しく、しかし、しっかりと掴む。
小栗の指は長くしなやかで、少しひんやりとしていた。
「俺は小栗を忘れたりしない。忘れるまでは忘れない。
俺は記憶力がよくないから、もし忘れそうになってたら、こんな風に手を掴んでくれ。
絶対思い出すから。
五本指だから、指切りの五倍は思い出しやすいと思う。
これで、あと百年くらいは安心していいぞ。俺は健康に長生きする予定だからな」
小栗のやわらかそうな頬に微かに赤みが差したように見えた。
慣れないことをしているので、思わず早口になってしまう。
今更になって自分の手の汗が気になってきた。
そっちに意識が行っていて、話を聞いてもらえなかったら最悪だ。
それでも、ここまで話したので最後までしゃべってしまうことにする。
「ああ、ビンタしてくれてもいいぞ。
確か、小学生のころにお前に昔振られたときに、腹いせにスカートめくってビンタされたよな。
あれは今でも覚えてるから」
「……何それ、忘れるまで覚えてるって、なんの保障にもなってないじゃん」
小栗は俺からぷいと目を逸らし、自分の膝の方を見てうつむきながら、そう文句を言った。
「人間は動的平衡だからな。それは仕方ない。
生きていれば何だって失くすことはある。そしたら新しく作るしかない」
今日はこんなに気温が高かっただろうか。暑い。主に、顔とか。
「それでも確かなものが欲しいなら、変わらないものを人質にとれ。
いわば、モノ質だ。
そうだ、これ、やるよ」
そういって俺は、家の鍵に付けていたクラゲのストラップを外して小栗の手に握らせた。
「お前のじいさんも野菜とか育ててたんだろ。植木鉢とか、もらったらいいんじゃないのか」
「そうかな……。そうかも」
小栗は俺の目を見て静かに微笑んだ。
そうそう、小栗は笑ってるのが一番だよ。俺は小栗を見てほっと息をつく。
そのとき、俺の視界の右の方にひっそりと浮かんでいたクラゲの亡霊が、音もなく滑らかに小栗の方へ移動したのが見えた。
小栗にぶつかる直前で緩やかに一瞬止まると、二対一くらいの大きさに、あたかもケーキを分けるかのように割れた。
次の瞬間にはそれぞれが一つの個体となり、小さい方は小栗の近くにとどまり、大きい方は俺の方へ戻って来た。
亡霊が分裂するなんて、初めて見る光景だ。
こういうこともあるんだな、と何気なく小栗の亡霊の白蛇のいた方角をちらりと見てみる。
そこには雲一つない青空が広がっており、巨大なヘビはいなくなっていた。
さらに小栗に視線を戻すと、小栗の頭上十センチくらいのところに、蛍光灯くらいの大きさの輪っかになった白蛇が収まっていた。
薄く発光しているようにさえ見えるその輪を携えた小栗は、さながら――。
「天使……」
俺は思わず小声で漏らしてしまっていた。
「え、天使って、私?」
耳ざとく聞きつけた小栗はにやにやしながら俺に尋ねた。
「なんでもねぇよ。それより、俺の話をちゃんと聞いてたのか?」
俺はしまったと思い、顔を背けて誤魔化すように言った。
告白もどきのようなことをしたせいか、動揺が声色に出ない様にすることで必死だ。
「モチのロンだよ。珍しく熱弁をふるってくれたもんね。そりゃあもう、五臓六腑に染み渡るよ」
「酒かよ。人の話は真面目に聞け」
「そう、お酒だよ。ボウユウノモノっていうでしょ。心地よい酩酊に、足元がふらつきますなあ」
そう言って小栗はゆっくりと立ち上がった。
「なんだそりゃ……。
でもまあ、軽口が叩けるくらいなら、もうそれでいいよ。
じゃあ、戻るか」
視界の隅にいたクラゲの亡霊を、目だけ動かして眺める。
俺は、クラゲが好きだ。
何も考えず、たゆたい、ただ存在する。何も与えず、何も受け取らない。
あの白蛇が小栗から離れることはきっと無く、このクラゲが俺のもとを去ることもないだろう。
亡霊は俺の一部であり、もしかすると逆に、俺が亡霊の一部なのかもしれない。
こいつらと折り合いをつけていくことが大人になるということなのなら、俺も小栗も、少しは大人に近付けただろうか。
「えいっ」
俺がベンチから立ち上がろうとすると、背中に何かが覆いかぶさって来た。
「ありがとうね、あき君」
後ろから抱き着いた小栗が耳元でくすぐるように囁いた。
小栗の髪からする甘い匂いを、俺より少し低めの小栗の体温を、あるいは確かな重みを、できればずっと忘れたくないと思った。
―了―