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oblivion 4: 忘憂

 文化祭から数週間がたった。

 小栗は相変わらず、いや、むしろ悪化しているようだった。

 常に上の空というか、友人らから話しかけられても反応が薄い。ひとりで考え事をしていることも増えた。

 俺はそんな様子を一応気にはしているものの、積極的にこちらから話しかけるのもなんだか気恥ずかしく、また俺の関与すべき問題かどうかもわからず、悶々としていた。

 そんなとき、俺はこんに学校で、休み時間にメールで呼び出された。

 授業で使う辞書を家に忘れたから貸してほしいらしい。

 俺のクラスに来るのも、俺がこんのクラスへ行くのも恥ずかしいらしく、それぞれのクラスの中間あたりにある階段前で待ち合わせることになった。




「兄ちゃん、遅い」


「授業が長引いたんだよ。ほれ」



 俺は英和辞書を手渡す。

 周りは電子辞書派も多いが、うちは紙の辞書だ。

 調べるのに手間はかかるが、一度調べた単語に下線を引いておくと、後から見直した時にすごく語彙が増えた気がしてなんとなく嬉しい。

 注意すべきなのは、下線を引いた程度では大抵は覚えていないので、本当にそういう気分になるだけだということか。

 暗記の方法としては、ぶつぶつと呟きながら紙に書き、頭の中でも思い浮かべるというのが、今のところ俺がやっている最良の方法だ。こんからは勉強中の俺のことを不審者と称されている。

 この方法は小栗に教えてもらった。さすがは知識の亡者だけあって、知識を得る方法についても余念がない。


「ありがとう」


「今日はもう使わないから、持って帰ってくれ」


「わかった。あ、びおんさん」



 振り返ると小栗がいた。

 多分お手洗いに向かっているのだろう。



「あ、こんちゃん、こんにちは。久しぶりだね」


「こんにちは……えっ」



 小栗の方を見て、こんは大きく目を見開いた。

 こんは、小栗と会うのは多分数年ぶりだと思うが、そんなに小栗に変化があっただろうか。

 俺にはあんまり変わっていない様に思える。



「ごめんね、今、急いでるから。じゃあね、こんちゃん」


「あ、はい。さようなら」



 小栗はこんに手を振ると、さっさと行ってしまった。

 俺は一応こんに注意しておくことにした。



「会っていきなりあんな顔をしたら、失礼じゃないか」


「兄ちゃん、窓の外見なかったの?」



 こんは責めるような目つきで俺を見た。



「外? いや、特に何もないだろ」



 振り返って改めて窓の外を見てみる。

 誰もいないグラウンドと、雲一つない青空がみえるばかりだ。



「なんかびおんさんがへこんでるって言ってたけど、あれはひどいよ。

 あのまま放っておくなんて、この、甲斐性なし。

 とにかく、びおんさんと一度話をすること。幼馴染でしょ」



 こんは呆れたように、はぁ、とため息をついて言った。



「へいへい」



 俺は肩をすくめながら返事をする。



「返事は『へい』じゃなくて『はい』」


「わかったよ」



 こんは真剣な顔をして俺をにらむ。

 確かに、一度話を聞いておきたいとは思っていた。

 いいきっかけかもしれない。



「あ、それと」



 こんは何かを思いついたようで、眉をぴくっと動かすと、両手を顔の前で組んで、俺の目を上目遣いにじっと見つめた。



「お醤油とお米が切れてるから帰りに買ってきて。

 いつもの五キロね、お願い」



 ポーズこそあざといが、声はいつも通り実にフラットだ。

 兄という生き物は妹のお願いには逆らえない習性がある。

 やれやれ、兄遣いの荒い妹様だ。





 放課後になり、帰宅部の俺はすぐに下校し、帰り道にあるスーパーに立ち寄った。

 個人営業の比較的こじんまりとした店で、家から近いのでよく利用する。

 平日の昼間なので、店内にいる主な客は主婦だ。

 俺は制服を着ていることもあって、変に目立っていそうな気がする。

 さっさと買って帰ろう。

 買い物かごを持って調味料のコーナーに向かっていると、子供を連れたおばあさんとすれ違った。

 おそらく、孫と祖母だろう。おばあさんは買い物かごを持つ反対側の手を少女とつないでおり、ほほえましい。

 よくあるスーパーでのワンシーンのようだが、その二人が俺の目に留まったのは、少女に、あるいは少女についてきているライオンの亡霊に見覚えがあったからだ。

 もしかすると人違いかもしれないが、おそらく小栗と出かけたときに会った少女だ。

 前に会ったのはここから電車で二駅ほどのスーパーだったので、少女の境遇に何かしらの変化があったのだと思う。

 ライオンも前ほど黒くはなく、どことなくかすんだ色をしていた。

 しかし、俺にはもう関与するべきでもないことであり、良い方向への想像を働かせるのみだ。

 少女のことには頭の中でふたをして、買う醤油の銘柄を思い出していると、唐突に制服の袖をくいと引かれた。



「あの、この前お酒を買えなかったお兄さんですよね」



 足を止めて振り返ると、先程の少女が制服を掴んでいた。



「あれは、買わなかったんだ」



 相変わらず表情は乏しいが嬉しそうな少女の目が眩しく、ついぶっきらぼうに答える。

 多分買えないとは思うし、間違ってはいないが。

 少女の後ろから、おばあさんが遅れてこちらへ来た。



「急に走っちゃだめよ。……そちらはお知り合い?」


「この前わたしを騙したお兄さんだよ、おばあちゃん」


「え、騙した?」



 笑顔で人聞きの悪いことを言う少女におばあさんがびっくりして聞き返した。




 おばあさんは予想通り、少女の祖母であった。

 虐待の通報をしたことを説明すると、少女からも聞かされていたようで、すぐにわかってもらえた。

 少女はもともと、両親が離婚した際に父親に引き取られたらしい。

 それがこの前の通報がきっかけとなって母親の元へ来ることになり、今は母親の実家で祖父母とも一緒に暮らしているそうだ。

 父親のその後については言葉を濁していたが、今の少女の様子を見る限りは、一応は事態の好転であったのだと思う。



「あなたの行動がこの子を救ってくれました。

 本当にありがとうございます」



 そう言って少女の祖母は深くお辞儀をした。



「お役に立てたならよかったです。

 それに、あれは自分のためでもあるんです。頭を上げてください」



 むしろ、後者の方がそのときの俺の脳裏には強く浮かんでいた気がする。

 結局俺は、また同じ思いをすることが嫌だったのだ。



「今日は彼女さんとは一緒じゃないんですか?

 お礼を言いたかったのに」


「いや、あれは恋人じゃあないんだ。

 なんというか、腐れ縁みたいなもので」


「袖振り合うも腐れ縁?」


「そうかもな……」



 実際にこの少女に再会することになったわけだしな。

 世の中は案外狭い。

 俺は少女らと別れて、こんに言われたとおりに買い物をした。

 右手にお米、左手に醤油と味噌(メールで追加の注文が来た)をぶら下げながら、ゆっくりと家に向かう。

 俺は、別れ際の少女の、微かだがはっきりとした笑顔を思い出していた。

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