oblivion 2: 妄覚
「本日の買い物リストの中に、食材は含まれていないはずなんだが」
「近くのコンビニでは新発売のチョコが売ってなかったんだよ。
梅味なんだって。ここならあるかも」
小栗と俺は今、目的のデパートの近くのスーパーに来ている。
途中からそうなるかとは思っていたが、まさかの初めから脱線である。
「普通こういうのは用事済ませてからにするだろう」
「腹が減っては戦はできぬ、武士は食わねど高楊枝だよ。あき君」
「じゃあ食わないで文化祭で必要な物買った方がいいんじゃないですかね……。まあ、いいけど」
「レッツニューフレーバーだよ!」
小栗が探していたお菓子はすぐに見つかった。
他のコーナーも回りたそうにしていたが真っすぐにレジへと向かわせた。
スーパーから出ようとしているときに、小学生くらいの少女に声を掛けられた。
明らかに夏物と思われるノンスリーブのワンピースを着ていて、今の季節から考えると寒そうだ。
「あの、すみません。少しお願いがあるのですが」
「どうしたのかな? 迷子?」
小栗が中腰になって目線を合わせながら答える。
子供の相手は小栗に任せた方がよさそうだ。俺は目つきがよくないからな。
妹にもよく「兄ちゃん、態度悪い」と言われる。
どうやら悪いのは目つきだけでもないらしいが、それはさておき、俺はこの時点で嫌な予感がしていた。
この少女の亡霊には見覚えがある。
ほとんど漆黒といえるほどに黒々とした、体長が少女の倍ほどもありそうな、巨大なライオン。
たてがみとしっぽの先は炎のように揺らめき、心なしか黒煙があがっているようにさえ見える。
直接このタイプの亡霊を持つ人間とは、過去に一度だけ関わったことがある。
なるべくなら、二度とかかわり合いになりたくないタイプだ。
「このメモのものを代わりに買ってきてほしいんです」
無表情に抑揚のない声で話す少女から小栗は小さな紙片を受け取り、目を通す。
こういう時は普通、売り場を聞く。
召使が家にいるようなお嬢様なのか、いや、そうではない。
こういう場合は少女には現実的に買えないものが書かれている。
小栗は首を傾げ、俺にメモを差し出してきた。
「これって何かわかる?」
そこには酒の銘柄が殴り書きされていた。
震える手を押さえながら無理に書きつけたような筆跡である。
少女が直接買えないとわかっていても頼むということは、つまり、自分では買いに行けない状態ということを示していないか。
少女には聞こえない様に、俺は小栗の耳元で囁いた。
「ちょっと今から言うとおりにしてくれないか」
「ひゃっ、急に耳の近くで話さないでよ。なんかぞくぞくする」
「そうじゃねぇよ。いいから聞いてくれ」
俺は少女に頼まれたものを買いに行くフリをして、適当に時間をつぶしたら元の場所へ戻って来た。
しばらくすると、小栗は少女を連れてトイレから戻って来た。
小栗は沈痛な面持ちをしていたので、俺は予想通りであったことを察した。
俺にだけに聞こえるように手で覆いを作りながら小栗は言った。
「やっぱりあったよ。
転んだって言ってたけど、場所とか数を考えると多分違うと思う」
僅かにうなずくと、俺はなるべく優しく少女に声をかけた。
「ごめんな、お兄さん、実はまだ高校生だからお酒は買えないんだ」
「そうですか。無理を言ってごめんなさい。別の人に当たってみます」
少女が離れようとするのを、俺は手を掴んでとめた。
「ちょっと待ってほしい」
少女は足先はそのままに、首だけをこちらに向ける。
焦っているようだった。
かつてのような余計なことはしない。
交通事故に遭おうとしている人に伝えるべきは「逃げろ」ではなく「走れ」。
頭が真っ白になっている人にはできるだけ実際の動作を指示すること。
昔、小栗からそう聞いたことがある。
だから、私が事故に遭いそうになったら助けてね、とも言っていた。
小栗はたまにふらふらしてるから、ありそうで怖いんだよな……。
閑話休題、とにかく具体的な行動を示す。
それ以上のことは、危機が去ってからでいい。
俺は心の中で覚悟を決める。
しっかりと少女の手を握って俺は話す。
「家族の問題でも、家族以外に助けを求めてもいいんだよ。
君がこれ以上傷つくことはない。
一緒に相談しに行こう?」
少女は一瞬だけ、口を開けてポカンとした表情で俺を見つめ、何かに納得したかのようにうなずいた。
俺と小栗は少女を連れて、ひとまず迷子センターに連れて行った。
中年女性の店員さんに虐待の疑いがあることを伝えると、最初は驚いていた。
実際に痣を確認すると、警察なり児童相談所なり、必ず何らかの対処をすることを約束してくれた。
少女は酒を特別に売ってもらえるものと勘違いしていたので、その勘違いを利用して、対応があるまでその場に待機してもらうことになった。
できることのなくなった俺たちは、少女に別れを告げ、店を後にした。
それからもとの目的のデパートに向かうこととなったが、小栗はうつむいたまま黙っている。
それもそうだ。
あの問題は高校生には重すぎるし、昔のことを思い出しているのかもしれない。
今日はやめにして、もう帰ろうかと提案するか迷っていると、小栗は勢いよく顔をあげ、こう宣言した。
「よし、私、気にしないことにした」
「そうか。まぁ、実際問題どうしようもないしな。忘れるのが正解だろう」
「違うよ。忘れはしないの。
私たちは最善を尽くしたんだし、これ以上考えても仕方ないっていうだけ」
小栗もおそらく同じことを想像しているのだろうが、それには触れないでおく。
「そうか。なら気分を変えて買い物するか」
「そうだね。それもいいけど、そろそろ早めのお昼にしない?」
本日三度目の脱線である。
「いや~、今日は豊作だったね~」
「そうだな」
夕暮れの住宅街を二人並んで歩く。
小栗の軽やかな声とは反対に俺の足取りは重かった。
こう言うと語弊があるな。
正確には、両手の荷物により、普段運動しない俺はぐったりしていた。
あの後雑貨店やら手芸店やらを回り、園芸店やら古本屋まで回った。
特に最後の古本屋で買った小栗の本がやたらと重い。
昔の推理小説の文庫本とか、料理本はまだいいのだが、アトキンスなんたらとかいう教科書みたいな英語の本が重い。
科学系の本らしいが、これだけで重さの半分はあるんじゃないのか?
これなら、持ってやるなんて言わなければよかったかもしれない。
しかし、真っ先にこの本を持ってきたあたり、どうも小栗はこの本を前々から目を付けていたらしく、俺がいるから買った節がある。
「今日はあき君がいてくれて助かったよ」
「そうだな」
俺はちらりと本の入った紙袋に目を遣る。
「久しぶりにあき君と遊べて楽しかったな。今日はありがとね」
小栗はゆっくり歩きながらこちらを向き、ふわっと微笑んだ。
小栗の常日頃の雰囲気は、飲み物で例えるなら、上等なワインではなく母親が薄めて作ったカルピス。
なんとなく安心するような空気を醸している。
しかし稀にだが、可憐とでもいうような表情を見せるときがある。
今の笑顔はそういう感じだ。
なんだか恥ずかしくなり逸らした俺の目を覗き込むように、小栗は尋ねる。
「あき君も楽しかった?」
「……そうだな」
こいつといると振り回されっぱなしだが、こういう顔をされると、たまになら悪くないかもしれないと思う。
小栗には一生勝てない気がしてきた。
そうこうしているうちに小栗の家に到着した。
「それじゃ、これ。重いから気を付けろよ」
「うん。ありがと」
荷物を渡そうとしていると、玄関から紺色のキャップをかぶった小栗の祖父が出てきた。
「びおん、おかえり」
「うん、ただいま」
「あき君もおつかれさま。うちの姫の世話は大変だったろう?」
小栗の祖父は歯をむき出してニヤリと笑う。
歯の一本も欠けておらず、若々しい。
「もぅ、おじいちゃんったら」
言葉こそ怒っていそうだが、小栗の顔は変わらずニコニコとしたままだ。
「あれ、おじいちゃんは散歩?」
「いや、ちょっと肥料を買いにな。ホームセンターに」
その言葉を聞いた瞬間、小栗は凍り付いた。
「え? 朝行ってなかった……?」
「いや、行っとらんぞ」
祖父はさも当然というように答える。
困惑して立ち尽くす小栗の横を抜けて、祖父が出かけようとしていると、小栗の祖母がエプロンを付けたまま出てきた。
「あなた、出かけるなら声をかけてくださいな……あら、びおんちゃん、おかえりなさい」
「ただいま、おばあちゃん。ねぇ、ホームセンターって朝行ったんだよね?」
祖母はその質問で事情を察したようで、ぎょっとした顔をした。
「あなた、肥料なら朝買ってきたじゃないですか」
「いや、買っとらんぞ」
「こっちに来て確認してくださいな」
「無いものは無い」
「いいから!」
サンダルで出てきた祖母に腕を掴まれ、祖父は庭の方へ連れていかれた。
小栗は我に返ると、笑顔を取り繕った。
「あはは……。おじいちゃん、たまにああなの。年だしね」
「そうか」
俺は短く返す。
小栗はこぶしをきつく握っていた。
「今日はありがとうね。それじゃあ、また明日、学校で」
「ああ、また明日」
荷物を渡すと小栗は家の中へ入っていった。
去り際に見えた悲しげな眼は、夕暮れ時にできる睫毛の長い影のせいではないような気がした。
俺の両親は共働きだ。
二人ともブラックとは言わないまでも忙しく、出張やら休日出勤が多い。
そのため、休日でも俺と、一つ下の高校生の妹である、こんと二人だけになることがある。
今日の夕食もこんと二人で、俺が出かけていたので、夕食はこんがカレーを作ってくれた。
こんは釣り目気味のショートカットで、日本人形のような印象だ。
中学に入った辺りで母親から料理を習い始めた。
身長は多分平均よりも低く、台所での調理がちょっと危なっかしい。
母親も身長は低い方で、台所には踏み台が置いてある。
テレビで歌番組を流しながら二人して黙々と食べていると、唐突にこんが口を開いた。
「兄ちゃん、きも」
「えぇ……いきなり理由もなしに罵倒されたら、お兄ちゃん傷つくんですけど」
こんは相変わらずテレビに視線を向けたままカレーを一口食べる。
「そんなに楽しかったの? 今日のデート」
デートという言葉にビクッと反応してしまう。
いや、デートとかそういう甘酸っぱいものではないと思う、多分。
単なる荷物持ちだ。
それに、楽しいことばかりでもなかったし。
「テンション高いのまるわかりすぎ。うける」
こんは無表情に、呟くように言った。
女性の「ウケル」って絶対バカにしてるよね……。
他にも、男同士の場合の「頭おかしい」は大抵は素晴らしい技術の称賛だが、女性のいう「頭おかしい」は本当におかしいと思っているので注意だ。
うちの妹様は特にこの辺りに容赦がない。
「いや、普通でしょ」
「いつもより口数が少ない。
そのくせ口の端がちょっと上がってる。
眉が下がってる」
なにこの子……。
探偵にでもなるの?
バリツとか習っちゃうの?
いずれ滝つぼに落ちちゃうの?
それとも単なるお兄ちゃんマニアなのだろうか。
後者がいいな。きっと後者だ。
「いいことなんじゃないの。
兄ちゃんはもっと温かな血の流れる生き物と接するべき」
「そんなことはないぞ。
むしろ普通の人間よりも接しまくってるくらいだ。
特定の人間とは」
「ずっと家にいるからわたしと一緒にいるってだけでしょ」
「ノートパソコンも温かいよ? 廃熱で」
「そ」
あ、こんの目が冷たくなった。
元から半分閉じたような目つきをしているのに、更に細められるとちょっと怖い。
視線が痛い。絶対刺さってるよこれ。十センチくらい。
「そういうことばっか言ってると、びおんさんにも愛想尽かされるんじゃない」
「こんは尽かさないだろ?」
「もう尽きてるし。大赤字だし」
「そうかい、こんは優しいな」
「いいから黙って食べて」
「へいへい」
話してほしいのか黙ってほしいのかよくわからない妹だ。
そのあとはテレビをBGMにしながら黙々と食べた。
なぜだかいつもより、こんの料理の腕が上がっている気がした。
文化祭の前日。
男子は俺が指揮を執ることになり、小栗と相談しながら着々と準備をすすめた。
普段なら絶対にやりたがらないことだが、不思議と充実感があった。
俺も小栗と同様に文化祭が楽しみになってきていた。
そして、次の日。小栗びおんは文化祭を欠席した。