oblivion 1: 妄説
人は皆、忘れたがっている。
とかくこの世は苦難で満ち、誰もが何かに苛まれている。
したがって、古来より人間は逃避の手段の開発を行ってきた。
あるものは愛する者の死から酒におぼれ、あるものは退屈から紫煙をくゆらせ、またあるものは他者とのかかわりを避けるために絵画に没頭した。
嫌なことは忘れるに限る。
脳の反復学習は記憶のみならず忘却にも有効らしく、過去のことならば、思い出そうとしなければいつの間にか本当に忘れている。
母親の胎内からこの世に生まれ落ちた瞬間を覚えているものはいない。
これは、生まれてくることが到底受け入れられない苦痛であることを示しているのではないだろうか。
しかし、忘れられない苦しみもある。
すなわち、懸念である。
未来のことについての不安は、それが過ぎ去らない限り、亡霊のようについてまわる。
例えば俺、瀬戸あきに関していえば、委員長になったあげく、文化祭のクラスの出し物の取りまとめをすることになったこととか。
高校でもこういうことには傍観者を決め込んでいようと考えていたが、何事にもありあまる積極性を持って取り組む幼馴染と同じクラスになってしまい、それに巻き込まれた。
俺が当事者を回避しようとしてるのも、アイツと過ごしてたからなんだけどな……。
世の中、なかなかうまくはいかないらしい。
クラスでは喫茶店をすることになり、俺の幼馴染である小栗びおんは、やはりやたらと張り切っている。
今日は休日にも関わらす、小物やら衣装のための布やらを見に行くとかで呼び出された。
俺なんかじゃなく女子同士で買いに行った方がいいと思うのだが、担当者の都合のつくのが平日だけらしく、そのためにあらかじめ買う店を絞っておきたいらしい。
つまり、今日は何軒もウインドウショッピングをすることになる。
アイツのことだから途中から脱線して、自分の買い物もするんじゃないかな。
一応男子の意見も聞きたいとは言っていたが、荷物持ちが欲しかっただけのような気もする。
そんなわけで、俺は今、俺の自宅と駅の中間にある小栗の家に向かっている。
この辺りはいわゆるベッドタウンというやつで、店はあまりない。
休日の朝なので人もまばらだ。
現代人は平日に強い緊張を強いられるため、基本的に休日は昼まで寝る。
少なくとも俺はそうだ。
ああでも、小栗は朝早くから植木鉢に水やりでもしてそうなイメージがあるな。
病弱なくせに睡眠時間は少なくてもいいとはよくわからないやつだ。
眠気で半分閉じた視界に自転車に乗った中年男性と小学生くらいの少年が入って消えた。
お父さん、朝からお疲れ様です。
子供ができると心境も変わるのだろうか。
でもきっと、あのお父さんは恐妻家だ。
なぜなら、彼の頭には、半透明の太った猫が居座っていたのだから。
俺の目には、亡霊――俺はそう呼んでいる――が見える。
動物の形をとっていることが多く、それらは触れることもできず、光も透過する。
じゃあどうやって認識できているのかという話になるが、細かい理屈は俺にもわからん。
亡霊は記憶のあるころからは少なくとも見えていた。
しかし、親に聞いてみても友達に聞いてみても信じてもらえず、以降は妹を除いてその話はしていない。
妹は今のところ唯一の例外で、俺と同じようなものを認識する。
両親は否定しているので血縁者だと必ず見えるという訳でもないみたいで、これもまたよくわからん。
また、俺が犬だと思ってみている亡霊も、妹には猿に見えたりするので、見かけは個人によるらしい。
実際には誰しもが感じているものなのかもしれない。
それがただ、俺にとってはくっきりと明瞭に見えるだけで。
亡霊は恐ろしげな姿をしていることが多い。
そのため、その人の『恐れ』が見えているのではないかと思っている。
今までの経験上、年の近い異性についても不安を持っている男性には猫、女性には犬のような、一応の規則性はあった。
悩みというのは一見して多種多様であるが、その本質は人間関係に帰着することが多い。
今まで観測したほぼすべての人間には、一体か二体はくっついていた。
俺自身にもクラゲがまとわりついている。
ミズクラゲみたいなかわいいものではない。
昔はアカクラゲみたいなやつだったが、今ではエチゼンクラゲみたいなちょっと薄気味悪いクラゲに成長している。
そして、俺の人生において出会った人物の中で、ただ一人亡霊を持たないものがいた。それが小栗びおんである。
小栗は家の前で立って待っていた。
服装はワンピースにカーディガン、長い黒髪は後ろで髪留め(妹によるとバレッタというらしい)でまとめていた。
静かにしていればお嬢様然としてみえる。
私服の小栗は随分と久しぶりで、小学校以来かもしれない。
遠目にそれを確認すると、ゆっくりと歩いて近付いた。
「おはようさん。中で待ってたらいいのに」
「もぅ、そこは『ごめん、待った?』的なセリフでしょ。そしたら『ううん、今来たとこだよ、はぁと』って言ってあげるのに」
「待ち合わせが自宅だったらそりゃ待つよな」
こいつはそんなにテンプレじみたことがしたいのだろうか。それが乙女心なのか?
「様式美ってやつだよ。わかってないあき君はさておき、それじゃあいこっか」
そう言って出発しようとしていると、玄関から小栗の祖父が出てきた。
紺色のキャップをかぶっているので、外出だろうか。
「あき君か、久しぶりだな。今日はびおんを頼む」
「お久しぶりです」
「あれ、おじいちゃん出かけるの?」
「ちょっと肥料を買いにな。ホームセンターに」
小栗の祖父母は植物を育てるのが好きだ。
庭には祖父の育てる野菜と祖母の育てる花があり、昔見せてもらったことがある。
その影響もあって、びおんもサボテンを育てている。
「あなた、待ってくださいな」
祖母も遅れてやってきた。
「あなたはすぐ出かけられるかもしれませんけどね、わたしには準備があるんですから」
「はは……。慌ただしいところをお見せしちゃって、お恥ずかしい」
小栗は苦笑いをしている一方で、小栗の祖父はどこ吹く風だ。
「びおんも一応レディーだからな。しっかりエスコートしてやってくれよ」
そう言って祖父は俺にウインクをした。
正確に言うと、両目をつぶってしまっているのでウインクではなく単なるまばたきだ。
「は、はぁ」
「もう、おじいちゃんは行くところがあるんでしょ! ほら、あき君、行こう」
小栗は少しすねたように怒って歩き始めてしまった。
「よろしくお願いね、あきさん」
「ええ、わかりました。そちらもお気を付けて」
小栗の祖母に返事をして、小栗のあとを追いかけることにする。
「もぅ、おじいちゃんったら」
俺は小栗に追いつき、並んで駅へと歩いている。
昔は小栗の方が背が高かったが、最近では俺の方が高くなり、やや見下ろす格好になる。
暑くも寒くもなく、過ごしやすい季節。
天気はおおむね晴天。
小栗と会う時にはどんなに晴天でもなぜか丸っこい雲が一つか二つ浮かんでいて、雨女とか晴男で言うなら、曇り女なんだと思う。
今日は秋らしいうろこ雲が見られたので、明日は雨かもしれない。
「心配してるんだろ」
「それはまぁ、そうだろうけど。ま、久しぶりにあき君と遊べるし、いっか」
小栗はこっちをむいてニコッと笑う。
ちなみにこいつは出会って間もない男にもこういう態度をとるので、勘違いした男からよく告白されている。
俺がここに引っ越してきた小学四年以降たまに聞く話だ。
俺はどうだったかって?
そんなのはもう忘れた。
「お前が俺を引きずり込まなきゃ、まだ布団の中で安らいでいられたんだがな」
「あき君は、またそんなことを言う。人生短いんだから、朝ちゃんと起きて活動しないと」
「睡眠も活動の一種だ」
「なんか高校に入ってから、屁理屈に磨きがかかってない? あき君はわかってないな~」
「余計なお世話」
「例えば、あき君はリンゴが好きでしょ?」
「そうだな」
リンゴはおいしい。
程よい酸味と上品な甘さ。
シャキッとした気持ちのいい歯ごたえ。
生で食べてもおいしいし、焼き林檎、ジャムなんかもいい。
「リンゴが好きである人は、リンゴが嫌いである人よりも優れている。
なぜなら、リンゴを食べることで、より幸福になれるから。
そして、リンゴが好きかどうかを判断するには、まずリンゴを食べないといけない」
小栗は上機嫌に、歌うように続ける。
「また、焼き林檎のおいしさを知るためには、リンゴを焼かなくてはならない。
あるいは、食べ物を焼くことを知らなくてはならない。
つまり、興味を持つこと、行動することは幸福の獲得につながるんだよ。
行動あるのみ!」
小栗はこういう演説めいたことが好きだ。
また、会ったばかりの人に対しては上手な聞き手に回るので、いわゆるコミュ力は高い。
しかし、今の小栗の話は、さっきの俺の文句よりもずっと屁理屈っぽい気もするんだが。
「それで、文化祭のことも知りたかったってわけね。俺を巻き込んでまで」
ちょっと嫌味っぽすぎただろうか。
小栗もクラスの委員長であり、立候補者が小栗のみだったのでそうなった。
男子からは誰も立候補しなかったため、小栗の指名で決めることとなり、俺が選ばれた。
「うん、そうだよ。
私はこの世界のことならなんだって知りたい。
忘れたくない。
それとできれば、忘れないでいてほしい。
高校は今しか体験できないしね。当然だよ」
小栗は全然気にしてなさそうだった。
そういえば、小栗の日記はすさまじい。
小学校のころに家に遊びに行ったときに、段ボールに詰まった日記帳の山を見せられたことがある。
また、先生に今日あったことを書いて渡す交換日記みたいなアレは、小栗の場合には罫線に二行を押し込んでびっしりと書き込んであった。
「全てを知り尽くすなんて、無理だろ。
一冊の本を読み終わる間に、世の中では百冊くらい出版されてる。
ある程度で満足することが大事なんじゃないのか」
「確かにそうかもね。
人間いつかは死ぬし。
でも、それとこれとは別。
興味を狭める理由にはならないよ」
「そんなもんかね」
「そんなもんだよ」
小栗は俺の口調を真似すると、楽しそうに笑った。
そうこうしているうちに、駅に到着した。