最後の仕事
――――北方諸国 とある村 ――――
静かな村であった。
そこには物音一つせず、野鳥の類ですら近寄らない。獣ですら何かを感じ取っているのか、村は永遠に近い静寂に包まれていた。
(ここが座天使に滅ぼされた村か…………)
そんな沈黙の村に、1人の上級悪魔が唐突に現れた。
奇妙な噂を聞いて遥々、魔族領から足を運んだのである。
彼の名はオルイット――――
後年、聖光国において零と真正面からぶつかり合う悪魔であり、龍人と呼ばれるようになった零と長きに渡る死闘を繰り広げていくことになる。
「…………美しい」
普段は表情一つ、ロクに変えぬ悪魔が堪えかねるように口を開く。
この村を覆う、“一面の白”に感嘆してしまったのだ。一見すれば、それは豪雪に見舞われた村の風景のようであったが、少し違う。
この村は、全て塩と化していたのだ。
家も、あぜ道も、家畜も、畑も、そこに住んでいたであろう人間も。
余人が見れば、こんな村など不気味なものでしかないのだが、オルイットの瞳には極上の芸術品として映るようであった。
彼は、ありきたりな美しさを求めない。
悠久に漂う時間の中、そんなものにはとうに飽いてしまったのだ。かつては名作と呼ばれる美術品を手元に集めたこともあったが、今では何の興味もない。
(美しさとは、歪さを内包してこそのものだ…………)
例えば、切り裂かれた名画。
例えば、割れた高価な壷。
砕け散った宝石。金継ぎされた歴史ある皿。折れた名剣。焼けた天使像。朽ちた聖なる箱。止まった時計。壊れた壁画。そして、呪いの品――
美しさとは、歪なものを抱えてこそ千年の鑑賞に足る。
ただ、綺麗なだけの品など、いずれ目の方が飽きてしまう。これがオルイットの辿り着いた彼なりの真理である。
(時間の止まった風景とは、かほどに美しいのか……蟻どもを見よ。死んだことにすら気付いていないではないか)
オルイットの語る蟻とは、そのものを指すのではなく、人間のことである。
道端に佇んでいる者も居れば、田畑を耕している者も居る。家の中で食事の準備をしている女も居れば、子犬と走り回っている子供も居た。
それらの全てが、形はそのままに塩と化しているのだ。時間と空間を切り取り、村そのものを1つのオブジェにしたようなものである。
オルイットからすれば現世に出現した一大芸術であったが、不満もあった。
(このような芸術が、あの忌々しい座天使によって作られるとは…………)
人間の清き祈りも、悪しき願いも、あらゆる全てを聞き遂げる存在。
かつては大陸全土を覆うほどの力に満ちた天使であったが、今ではもう存在自体を感知出来ぬほどに衰えている。
オルイットは自身の手でその命脈を絶ちたかったが、まだ生きているのか、既に消滅してしまったのかすら分からない。
例え生きていたとしても、もはや脅威にはなりえぬであろう。
(まぁよい。残り滓の始末など、私が手を下すまでもない。奴が自身で恥を雪げば良いのだから)
オルイットの頭に浮かぶには、座天使とは正反対の存在。
かつて“悪魔王”と呼ばれたグレオールである。こちらは座天使とは違い、その力の波動は増しつつあった。
じき、長きに渡る封印も砕け散り、現世に蘇るであろう。
そうなれば人間の世界は阿鼻叫喚の地獄と化し、魔族領にも血の雨が降る。
本来、それは多くの悪魔にとって死活問題であったが、オルイットは特に気にする素振りもなかった。
オルイット、ユートピア、そして、ケール――――この3名は魔族領においても特殊な存在である。何せ、権力も領地も何も求めていないのだから。
現世における、分かりやすい利益に靡かない者ほど厄介なものはない。
オルイットは独自の美学によって動き。
ユートピアは人間を内側から支配することに躍起となっている。
ケールなどに至っては、何を考えているのかも定かではない。
例え悪魔王が甦ったところで、これらの変り種――“変人”とも言える存在とわざわざ敵対しようとは考えないであろう。喧嘩をするだけ無駄だからだ。
勝ったところで、得られるものが何もない。
(グレオールに座天使。残り滓同士、仲良く食い合え…………)
オルイットは村の中を歩きながら、辺りの風景に目を細める。
同時に、下らぬ些事を頭から消し去っていく。
この素晴らしい芸術を前に、過去の遺物どもを思い浮かべるなど無粋である、と考え直したのだ。
「蟻にとっては貴重な塩だが、流石にこれを砕いて使う気にはなれぬか……」
悪魔の口が僅かに緩み、くぐもった笑い声が漏れる。
夜盗の類や、山賊ですらこの村には近寄らない。村の中に入れば、自身も塩の塊にされてしまうと実しやかに囁かれているからだ。
オルイットのように強大な力を持つ悪魔からすれば、笑止の一言である。哀れな蟻どもは見えぬものに怯えては耳を閉ざし、考えることすら放棄してしまう。
悪魔からすれば、人間とは文字通り“玩具”のような存在でしかない。
「…・・・し………・・・」
(ん?)
鋭敏な悪魔の聴覚が、消え入りそうな音を拾う。
目をやると、1つの塩の塊から発せられた声であるようであった。まだ少女と呼べる年齢であるが、その体の殆どは塩に覆われている。
「まさか、まだ生きているというのか……?」
オルイットの美しい顔が歪む。
完璧な絵画に、一点の黒い染みを落とされたような気分であった。
(気に入らん…………)
無言で手刀を振り下ろそうとするも、その手が止まる。
むしろ、この染みがあった方が完成度が増すのではないか、と。
万能に思われた座天使の失敗を見ているようで、多少愉快でもある。
「このまま捨て置くか。蟻の処分もロクに出来ぬとは…………座天使め、かほどに衰えるとは惨めなものよ」
かつての脅威も今やこれか、と悪魔が嘲笑する。かの天使の最後の大仕事がこの村への呪いとするなれば、より味わいも増すというものだ。
「ろ……し……て…………」
「…………クック」
か細く発せられた声は、「殺して」と懇願しているようであった。
いや、もはや意味もなく繰り返し呟いているだけなのかも知れない。オルイットは何を思いついたのか、その顔に邪悪な笑みが浮かぶ。
「あの忌々しい天使は、取るに足らん蟻どもの願いを叶えていたようだが、我々は違う。悪魔とは、蟻どもの願いを踏み潰す者だ」
逆に、この状態を解いてやればどうなるだろうか――オルイットの頭に、そんな意地の悪い考えが浮かぶ。村の現状を見て発狂するのか、泣き喚くのか、それとも、自分だけは助かった、とほくそ笑むのか。
「面白い。私もあの愚かな天使を習い、1つ願いを叶えてやろう。お前の願いに、反するものを」
――――根源回帰――――
向けられた掌から、黒き魔力が迸る。
それは状態異常から回復させるような聖なる力ではなく、黒き力によって強制的に時間を巻き戻すような魔法であった。当然、その副作用は激烈である。
「む……これは…………」
当初、少女を覆う塩には多少の変化が見られたものの、更に強い力で巻き戻されてしまう。まるで、あの融通の効かない座天使の性質を現しているようでもある。
オルイットは暫し、座天使との力比べに興じたが、やがて深々と息を吐いた。
「なるほど、あくまで抗う気か…………」
残り滓、とまで称した相手に侮辱されたような気分になったのだろう。
オルイットは本気を出して座天使の力を捻じ伏せることにした。それは、この蟻を眷属とし、己の支配化に置くこと――――
それは即ち、あの座天使を屈服させたに等しい。
悪魔の口が開き、吸血種特有の牙が少女の首筋につきたてられた。本来、人間のような力の弱い存在など一瞬で眷属化させることが可能である。
しかし、この少女は違った。
莫大な魔力を流し込み、支配下に置こうとするものの、聖なる力がオルイットの魔力を拒むように反発してくるのだ。
(忌々しい……ッ! 貴様など、もはや過去の亡霊よ!)
上級悪魔たる身の魔力を殆ど注ぎ込み、ようやく塩の結晶に変化が訪れる。
ようやく、少女を眷属化することに成功したのだ。
最初にヒビが入り、体の表面を覆う塩が徐々に溶け始める。オルイットは自らの勝利を確信したが、その歓喜の時間は短いもので終わってしまう。
(馬鹿な……何故、眷属に置いた者の状態すら動かせんのだ!)
本来、吸血種の眷属となった者はその全てを主人の支配下に置かれる。
感情も、状態も、何もかもを。
塩の結晶から7割がたは回復したものの、手足や顔に未だに残滓が残っており、残りの魔力を注ぎ込んでも、遂にそれらは解かれることはなかった。
「クソッ、忌々しい座天使め。貴様は何処まで我らに……ッ!」
「ぁ……ぐっ……」
「フン…………目が覚めたか」
少女は目を開き、最初に飛び込んで来た光景に驚愕した。
恐ろしいほどに顔の整った悪魔、それも途方もない存在が自分の体を抱き寄せていたのだから。
「ぁ、ご、れ……か……」
何か言おうとするものの、口から巧く言葉が出ない。
口内は完全に干乾び、喉まで塩を詰められたように辛い。
「最初に1つだけ教えておく。蟻如きが私の前で許可無く、勝手に囀るな」
悪魔の口から出た言葉は非常に辛辣であったが、少女の胸に込み上げるのは何故か歓喜と呼べる感情であった。その視線が、その言葉が、自分に向けられたというだけで嬉しくなってしまうのだ。
同時に、自分たちの村に降りかかった災いを思い出す。
抗いようのない力によって、村の全てが塩と化し、見知った村人たちの全てが徐々に塩の結晶となっていった恐怖を。
「わ……が、じ、は…………」
「愚かしい。やはり、蟻は命令もまともに聞けぬようだな」
今しがた、勝手に囀るなと言ったばかりであるのにこれだ、と悪魔の顔が歪む。オルイットからすれば、ヒトという種にまともな知性などあるとは思えず、言葉を発することすら不快であり、不可思議でもあった。
「お前には屋敷の清掃でもさせるとしよう。蟻に似合いの仕事だ」
冷たい言葉を吐きながら、オルイットは少女の歪さに何処か心惹かれるものを感じていた。恐らく、定期的に魔力を注ぎ込まねば、元の結晶に戻るであろうと。
その危うさ、ヒトでありながら常時、天使からの脅威に晒されている存在などは2人といまい。
オルイットはどういう訳か、この少女に、いや、存在そのものに――
一種の“美”を感じてしまったのだ。彼に限らず、吸血種は非常に執念深い。愛も憎も、他の種族とは比べ物にならないほどである。
(座天使よ、貴様の最後の仕事もこの様だ。この蟻は生かさず、殺さず、私の玩具として屋敷に飾ってやろう…………)
かつての怨敵を弄ぶような暗い感情が湧き上がり、悪魔の口端があがる。やがて、オルイットは背中の翼を広げ、少女の体を抱えたまま大空へと飛翔した。
吸血種の王、とも呼べるオルイットであったが、彼の認識には1つだけ致命的な過ちがあった。
座天使の最後の仕事は、この村を塩の結晶としたことではなく――異世界から、とんでもない男を召喚してしまうことであるからだ。
いや、逆説的に言えば、その男が作り上げていくラビの村こそが、座天使の最後の大仕事であったのかも知れない。その寒村こそが、後の“大戦争”に必要不可欠な存在となっていくのだから。
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