白蝶会談
聖城の前に一台の馬車が到着し、長い緊張の一日が始まった。
馬車には巨大な紋章と旗が掲げられており、聖光国に住まう者ならばそれを見間違う筈もない。一匹の蝶が羽を広げた、優雅な紋章。
どんな貴族であっても、この紋章の前では背を正すであろう。
社交界と芸術界を牛耳るバタフライ家の紋章であった。馬車の中から降りてきたのは、美しい蝶が描かれた碧のドレスを身に纏ったマダムである。
門番は緊張した面持ちで背を伸ばし、精一杯の声を上げた。
「あら、元気の良い子ね」
マダムが門番の頬を軽く撫で、その胸にさりげなく銀貨を一枚入れる。門番はそれに慌てたが、やんごとなき高貴な方からの好意を拒むなど失礼にあたる。
より一層に背を伸ばし、マダムに感謝の意を示した。
民衆からは何かと嫌われている貴族であるが、バタフライ家に関してはそこまで嫌われてはいない。と言っても、マダムの影響力が民草にまで及んでいる訳でも何でもなく、単なる商売上での好意である。
バタフライ家の領地にも鉱山があり、そこからは『土』に適した良質の魔石が採れるのだ。乾いた大地が多い聖光国にとっては大事な資源であるといえる。
家の代々の方針として、これらを高値では売らず、薄利多売の形で売り出しているのだ。それ故の、民衆からの仄かな好意であった。
バタフライ家はこれを高値で売り出せば大地が更に干上がり、それは巡り巡って自分達に破滅を齎す、という事を賢明にも知っていたからであろう。
故にそれは慈愛でも慈悲でもなく、むしろ“自衛”であった。
(ここに来たのはいつぶりかしらね……)
マダムが聖城にある最奥の一室へと足を運ぶ。入念な盗聴対策が施されたそこは、奇しくもホワイトと魔王が会談を行った部屋でもある。
マダムが椅子に座ると、目の前に紅茶や小麦粉を水で練って焼いたビスケットなどが並べられた。マダムは躊躇せず、優雅な手付きでそれらを口に運ぶ。
周囲に居る者からすれば、まさに緊張の一瞬である。
マダムは別に美食家という訳ではないが、その舌は確かだ。その上で歯に衣着せぬ発言をする為、その口から「不味い」という言葉が出た時は店や料理人にとっては“死”に直結してしまう。
本来なら格式高い店、名のある料理人が作ったものであるなら、味はどうあれそれを褒めるのが“貴族の社交”というものであろう。
味ではなく、格式や名を褒めるのだから。逆にそれらを罵倒などすれば、伝統や格式の分からぬ野蛮人よ、と笑われるのがオチである。
だが、マダムだけはその慣例に従わない。名もない木っ端のような料理人が作ったものであれ、それが美味しければ素直にそれを口にする。
店の看板や格式ではなく、“中身”を見る――マダムほどの立場の者がそれを大真面目にやってしまうのだから、周囲は堪ったものではないだろう。
彼女は自分の思いに、欲望に、何処までも愚直で、素直だ。これまでそうやって生きてきた為、多くの敵を作り、また多くの味方も手にしてきた。
(普通ね……)
肝心の紅茶や、粋を凝らしたビスケットには一言も洩らす事は無く、周囲は落胆と安堵を同時に味わった。良くも無ければ悪くもないものに対しては、マダムはわざわざ口を開いてどうこう言うような無粋な真似はしない。
やがて部屋の中にホワイトが現れ、周囲の人間は一礼の後に静かに去っていく。残されたのはホワイトと、マダム――二人だけである。
「お久しぶりね、ホワイト“ちゃん”」
開幕早々、マダムが先制攻撃を放つ。
これは公式の場ではなく、あくまで私的なものである、と宣言したのだ。
事実、この場は記録に残すような公的なものではない。
(相変わらず、とんでもない女ね)
ホワイトを見るマダムの目がつい、細くなる。まるで全身の全てが特注で作られたような、嘘のような存在であった。天使からの寵愛を一身に受けたような美しさと空気を纏っており、ここまで突き抜けた美しさになってしまうと、同性であっても憧れや畏敬の目で見てしまうものだ。
だが――マダムはそうではない。
マダムだけは、そうではなかった。
彼女の美しさから目を背けず、逃げず、真っ向から立ち向かってしまう。故に、強烈な嫉妬を感じてしまうのだ。
それはマダムの気高さでもあったであろうし、同時に弱点でもあった。
そう、これまでは。
「えぇ、ご無沙汰をしており……ぇっ」
ホワイトの体が一瞬、固まる。
以前に見た時より、マダムの体が一回り小さくなっているように感じたのだ。
その上、肌の色――特に顔が白くなっている事に気付く。それだけ並べれば、額面通りに病気の為に療養している、という話になるだろう。
だが、違う。全く違う。
マダムは健康そのものであり、むしろその全身から以前には無かった光が漏れているのだ。それは自信からくる女の輝き。
彼女は今、“実感と前進”を感じながら日々を過ごしているのだ。その楽しさと痛快さは言葉にもならない。“明日”を迎える事への希望に満ちているといっていいだろう。こんな女が、輝かない筈がない。
門番や使用人達が気付かなかったのは、そもそもマダムの姿を殆ど見た事がない為である。
「……ご無沙汰しております、マダム」
ホワイトが何とか動揺を抑え込み、席に座る。
だが、目の前から溢れてくる輝きには気圧されるものがあった。只でさえ、迫力と威圧感のあった存在が、より厄介なものに進化してしまった、というのがホワイトの偽らざる思いであった。
その輝きに何事かを感じ――ホワイトの心が一瞬だけ濁る。本人も自覚出来ない程の“それ”を、その僅かな変化を、マダムは決して見逃さない。
「――アッハッハッ!」
突然、マダムが口を開けて哄笑する。
貴族の嗜みも何もない、扇で口元を覆う事すらしない、まさに高笑いであった。
その無礼な姿に、流石のホワイトも眉間に皺を寄せる。
「何が可笑しいのです」
「こんな愉快な事が私の人生にあるなんてね。諸国にまでその美しさを以って知られるホワイトちゃんが、“嫉妬”を感じてくれたなんて」
「し、嫉妬など……!」
「いいえ、嫉妬よぉ? 私には分かるの――誰よりも嫉妬を感じながら生きてきた私だからこそ、分かるの」
マダムの態度は酷く断定的であった。事実、ホワイトはマダムの輝きに気圧され、微かな嫉妬を感じてしまったのだ。充実した日々、努力が叶い続ける日々、一歩ずつ前進を刻む日々。こんな毎日を過ごしている女の輝きは、尋常ではない。
「私は、そのような話をしにきたのではありません」
「そぉ? 私はもう、このまま帰っても良いぐらいに満足しちゃったわ。いいえ、大満足と言うべきね」
事実、マダムは非常に上機嫌であった。これ程の歓喜に包まれたのは塩サウナと出会って以来の事であろう。
この天使からの寵愛を一身に受ける女から“嫉妬”されるなど、マダムはもう床に転がり、地を叩いて叫びたいほどの気持ちであった。
ホワイトはそんな姿を、可愛いジト目で見ながら口火を切る。
「私が今日、マダムをお呼びしたのは……魔王と呼ばれる存在について、忌憚の無いお話がしたいと思っての事です」
「――あら」
それを聞いて、マダムが態度を変える。
思わぬ方向に話が転がりそうであったからだ。
「率直にお伺いします。マダムはあの方を、どう捉えているのです?」
「そうねぇ……」
マダムの頭が忙しく回転する。
だが、聡明なマダムはホワイトが口にした「あの方」という単語から敏感に何事かを察した。そこには敵愾心が見えなかったからだ。
「幾つか仮説はあるけれど、一言でいうのは難しいわね」
マダムが勿体ぶった口調で回答を引き伸ばす。別に意地悪をしている訳ではなく、彼女が生きてきた社交界ではこれが普通であったのだ。
幾ら率直にものを言うマダムであっても、重要な話に関してはいきなり本音や、思っている事を洗い浚い口にするような迂闊な真似はしない。
「逆に聞きたいのだけれど、ホワイトちゃ………おぉぁぁぁッ!」
今度はマダムが驚愕の声を上げる番であった。
ホワイトが懐に隠していた天使の輪を――その頭上に浮かべたのだ。
天使の輪が放つ圧倒的な輝きと、神聖な光に今度はマダムの目が見開かれ、次にその体が大きく震えた。
「な、何よそれは! 幾ら天使に寵愛されているからって、それは無いでしょ、それは! あんた、一体何処まで女を愚弄するつもりよ!」
マダムが感情を剥き出しにして叫ぶ。
只でさえ、天使から特別に寵愛されていると思っていた存在が、遂に天使の輪まで頭上に掲げ出したのだ。マダムからすれば、こんな馬鹿な話はない。
自分達の努力を、数段飛びで軽々と超えていかれたような気がしたのだ。
「天使の輪を人間に与える事が出来る存在について、他ならぬマダムには心当たりがある筈です」
ホワイトの冷静な声に、マダムが冷や水を浴びせられたように沈黙する。
天使の輪――そんなありえないものを与える事が出来る存在。マダムはそれを頭に浮かべ、昂ぶっていた感情を宥める。
何度か深呼吸をし、マダムも努めて平静な声で返す。
「そうね……私にも心当たりがあるわ。いいえ、改めて“確信”したわ」
「そうですか。私の見解と、マダムの見解は近いのかも知れません」
その応答を最後に、長い沈黙が部屋を支配する。
それを“公式の見解”としてしまえば、大変な騒ぎとなるであろう。
聖光国のみならず、ライト皇国などがどのような反応をするか考えるだけで恐ろしいものがあった。あの国は大いなる光を信奉する国家なのだ。
当然、それに対する“反逆者”など国を挙げて討伐すべき対象となる。
「――戦争になるわね」
ポツリ、と。
マダムがサバサバとした口調で漏らす。
「それは、避けねばなりません。ライト皇国とは長い友好があります」
「遅かれ早かれ、それはやってくるわ。下手をしたら、北方諸国を巻き込んでの大きな大きな戦争になる。ホワイトちゃんはその時、どちらに付くのかしらね」
「……随分と意地悪な事を聞くのですね。そうならぬよう外交があるのです」
「普通に考えるならそうでしょうよ。でも、皇国が稀代の反逆者を外交程度で見逃すなんて事はありえないわ。まして、あの人が売られた喧嘩から逃げる姿なんて想像も出来ないわよ……あの国、綺麗な“更地”になってしまうんじゃないの?」
サラっとマダムがとんでもない事を口にしていたが、“あの人”が聞けば仰天するであろう。「俺を宇宙怪獣か何かとでも思ってんのか」と。
「はい、私もそう思っています。だからこそ、避けなければならないのです」
ホワイトもサラリと皇国が更地になってしまうと考えているようであった。
これまた“あの人”が聞けば「んな訳ねぇだろ、いい加減にしろ!」と叫ぶに違いない。
「なるほど、ホワイトちゃんとしては、あの人の存在が表立って露になるのは避けたいと言う事かしらね」
「少なくとも、今の段階では」
「別に異議を唱えるつもりはないけれど、結局はあの人次第ね。あの人の部下にも、怖~い男が居るのよぉ? 私には戦いの事なんて分からないけれど、あの人が顎をやって部下を派遣しちゃうだけで、何だか終わりそうな気がするのよねぇ」
少なくとも、これに関しては事実であった。
田原が行けば、皇国の頂点や主要人物を超長距離狙撃で一人残らず射殺し、ものの数日で無力化してしまうであろう。
悠が行けばどのような事になるか、想像もしたくないレベルである。
恐らく、草木一本生えない焦土と化すに違いない。
ホワイトとマダムは、“あの人”とその側近の力を詳しく知っている訳ではないのだが、マダムは敏感に何事かを感じていたし、ホワイトは熾天使と同じ奇跡を行使するあの人に対して、無限の力を感じていた。
「むしろ、相手を思い遣って表立たせたくないと言う訳ね……。きっと、向こうにはその優しさは通じないわよぉ?」
「それでも、やれるだけの事はやりたいのです」
「そうねぇ。あの人から特別に指示でもない限りは、私も特に吹聴するつもりはないけれど……」
――但し、私はあの人の意思を最大限に尊重し、それに従うわ。
マダムがはっきりと告げた。聖女の筆頭たるホワイトに対し、それは反逆の意思をありありと示すものであろう。
聖光国という国家より、一個人の意思に従うと堂々と宣言したのだから。
「無理もない事です――」
ホワイトはその言葉に怒りを表す訳でもなく、静かに目を閉じる。
あのような超高次元の存在に対しては、国が定めてきた法や決まりなど、何の役に立つだろうかと。ホワイト個人の想いとしても、既にあの人を悪しき存在であるとは思っていないのだから。
「聖堂教会も表立って騒がず、詮索しない事で話は纏まっています。今日はマダムに、私達の考えをお伝えしたかったのです」
事実、聖堂教会は天使の輪を授けた存在がよもや“魔王”であるなどと思いもしていない。故に聖女が天使の輪を授かった、という事実だけを内外に都合良く吹聴するであろう。
「えぇ、確かに聞かせて貰ったわ」
それに対し、可とも不可とも言わずにマダムが立ち上がる。
自分の意思など、あの人の言葉次第で右にも左にも行くのだから、これ以上意見を交わしても無意味である、と態度で示したのだ。
「「ところで――」」
二人の声が重なる。
嫌なタイミングであった。
「マダム、どうぞお先に――」
「いいえ、ホワイトちゃんに譲るわ」
「「…………」」
二人が無言で視線をぶつけ合う。
ホワイトは問いたかった。何故、短期間でそこまで痩せたのか、と。何故、肌の色がワントーン白くなり、美しくなっているのか、と。
マダムは問いたかった。
どうすれば、あの人から天使の輪を授かる事が出来るのか、と。その美しい輪を貰えるなら鉱山の一つや二つ、幾らでも差し出す、と。
だが、両者ともそれを口に出す事が出来ない。
先にそれを言えば、何だか“負けた気”がするからだ――
「……い、いえ。何でもありません。マダム、気をつけてお帰り下さい」
「え、えぇ……私も何を言おうか忘れちゃったみたいよ」
二人が「うふふ」と固い笑みを浮かべ、会談が終了する。
国として、何か大きな変化を生むような内容ではなかったが、互いの立場や意見を交換できた事は大きかったであろう。少なくとも、即座に敵対する間柄ではなさそうだ、と互いに思う事が出来たのだから。
互いにパンチを放ち、クロスカウンター気味に終わった会談。
天使の輪一つでここまでの騒ぎになるとは……
このリハクの目をもってしても(節穴