田原の視察
マダムが一行を連れ、温泉へ導いてからというもの、大変な騒ぎであった。
磨きぬかれたタイル、幾つもの浴槽、一面を覆う程の湯気、色も鮮やかな湯に、スイッチ一つで水とお湯が噴き出すシャワー。
そこは、お伽噺にある“桃源郷”に他ならない。
「この石鹸は何ですの!?」
「髪が……私の髪が潤ってる……!」
「あぁ……この泡の湯。このまま溶けてしまいたいですわ……」
「岩盤、浴……こんなのはじめて……」
一行の驚愕と、どよめき。そして、歓喜が止まらない。
止まる筈がない。
ここは、全ての夢が叶う理想郷。
女であれば、誰もが一度は夢見る――“約束の地”に他ならない。
それら一人一人にマダムが微笑を浮かべながら説明し、時には女性バニー達が氷の入った贅沢な水やジュースを運び込む。
露天風呂に限定されてはいるが、そこでは望めば冷えたワインやエールなども提供されるようになっており、正に身も心も溶かしきる桃源郷と化していた。
(あんた達、もう逃げられないわよぉ……?)
マダムがお気に入りのハーブ風呂、グリーンフォレストに浸かりながら笑みを浮かべる。と言っても、その笑みは邪悪なものではない。
どちらかといえば、まんまと悪戯にハメたような子供っぽい笑顔である。この世に、こんな夢のような施設がある、と知れるだけでも万金の価値があるのだから。
まして、彼女達は第一陣だ。
それを誇りに思い、周囲にこれでもかと自慢し、喧伝するであろう。
珍しきものを好む貴族の中にあって、それを最初に体験したという事は彼女達自身にも大きな利益を生む。
「わたくし、もうこの湯から出ませんわ……っ!」
「私も、この電気風呂が……あはぁぁぁ!」
「この壷湯が落ち着きますの」
「奥様……私もその壷に入ってみたいんですの」
「いやですっ! この壷は私のものです!」
子供のように騒ぐ面々を見て、マダムが思わず吹き出す。
自分もルナが居なければ、あぁなっていたであろうと自覚したからだ。
(それにしても、折半ねぇ……)
マダムは思う――
この施設への口利き料というものは、恐らく想像しているより遥かに凄まじい金額になるであろう、と。
何故、それを折半するのか?
マダムはありのまま、それを田原へぶつけた事を思い出す。
そして、あの眠そうな惚けた眼を。
普段は隙だらけにしか見えない、間抜けな姿を。
(田原 勇、とっても怖い男ね……それに、い~ぃ男)
マダムは時に、震えるような気持ちでそれを思う。
あの魔王の腹心は、命令が下れば例えどんな相手であろうと、容赦なく殺すであろう。それこそ、“天使”であってもだ。
そして――あの瞳の奥にある青い光。時折覗かせる“それ”は、決して女を退屈させる事がない。
(流石に、あの魔王様の持つ色香には敵わないけれど……)
マダムのように多くの男を見てきた女からすれば、あの二人の男は堪らない存在である。滴るような色気と、一歩間違えば何をされるか分からない危なさが混ざり合い、その妖しいまでの魅力はまるで魔法のようであった。
森の香りに包まれながら、マダムの脳裏に田原の声が蘇る。
《折半? そりゃ、同じ利益を食む“お仲間”ってこったろ。そうしときゃぁ、少なくとも背後から刺される危険が減る。この辺りの機微にゃ、あんたも身に覚えがあんじゃねぇのか?》
その通りであった。
互いの力で車輪を回す関係である限り、それを攻撃する馬鹿は居ない。そんな事をして、損を蒙るのは自分だからだ。
《それに、死蔵してる金が動くってのは悪い事じゃなくてなぁ。上が溜め込む一方で吐き出さねぇと、経済ってのは止まって死んじまうんだよ。どこの世界も、それで割を食うのは下って寸法さ》
死蔵した金、止まった経済。
それを怒涛のように動かし、民衆へ金と活気をばら撒いていく存在。マダムの目には、魔王の姿がありのまま、そう映るのだ。
それはあながち彼女の勘違いではなく、一面から見れば実際にそうなのである。
(あの魔王様はいずれこの国を、大陸を、席捲していくのでしょうね……)
マダムはその事に対し、何の異議もない。
むしろ、それを全力で後押ししようとしている。
彼女は生まれてから何度、自らの体を呪い、天使に祈った事だろうか。
その切なる願いは、只の一度も叶う事は無かった。
しかし、そんな彼女に手を差し伸べ、運命に“断末魔の悲鳴”を上げさせたのは、漆黒の闇よりも尚、深い――あの魔王であった。
耳朶に残る、あの深い声が蘇る。
《ようこそ――“私の世界”へ》
あの声を思い出す度、マダムの全身に痺れが走るのだ。
それは未知への畏れ。だが、あの声こそが自らを何処までも導いてくれると確信させるだけの不思議な余韻があった。
(私にとっての天使とは、あの魔王様ね……)
伝承にある魔王は、とても恐ろしい存在であると伝えられている。
だが、古に大いなる光に歯向かったとされる堕天使ルシファーの別名は、奇しくも魔王であった。あの大胆不敵で、全ての言葉を現実にすると豪語する姿は、妙にそれへと重なってしまうのだ。
マダムはしみじみ思う。
確かに、あの魔王なら“天”にも逆らうであろう。むしろ“天”を掴み上げ、地に捻じ伏せ、屈服させようとするのではないか?
(天使でもあり、魔王でもある。こんな存在、他に居る筈がないわね……)
マダムはそんな事を頭に浮かべながら、湯の中へ体を預ける。
森の香りが静かに全身を包み、湯の中に居ながら森の中に居るという感覚に、マダムは人知れず酔い痴れた。
■□■□
「この工事がなけりゃヤバかったな」
「戦争期は稼ぎがなぁ……」
隠密姿勢のまま、田原が村の中を歩く。
専門の大工や土木関係の人間が多いが、人夫として雇われている者の中には冒険者も多い。彼らの腕力や気力が、単純に力仕事にも向いているのだ。
村から、彼らに支払われる賃金は大銅貨5枚。命を賭けず、これだけの賃金が得られるのは美味しい。
尤も、この道で食っている専門の大工には最低でも倍は支払われている。
ただの力自慢や体力馬鹿と、何年も経験を積み、技術を磨いてきた人間とでは支払われる金額が違うのも当然の事であった。
夢を追うより、堅実に正業で経験と技術を得ていく。何処の世界であっても、それが賢い生き方であるのは変わらない。
特に冒険者は迷宮に潜る際、一人で潜る者などは居る筈もないので、稼ぎは全て人数割りとなる。その為、成果によってバラつきが酷いのだ。
例えば20人のチームを組んで潜るなら危険こそ減るだろうが、稼ぎとしてみればとても食っていけるようなものではない。
故に、彼らは2~4人でチームを組んで迷宮へと潜る。
それが「安全」と「稼ぎ」からみて一番バランスが良いからだ。ルーキーの中には一人で突撃して死ぬ者も多いし、ランクが上がった事で分不相応な自信を持って少人数で挑んだ挙句、全滅という話も珍しくない。
「しかし、ここの銭湯ってのは堪らんな!」
「全くだ。いっそ、ここに住みてぇよ」
「宿屋は出来ねぇのかな?」
それらを聞きながら、田原が細かく作業内容をチェックする。
彼は村の土台となる道には特にこだわっており、上質の石畳を敷き、万が一にも割れる事がないように、入念に魔法を何度もかけさせている。
いずれ、馬車が引っ切り無しに往復する事になる、と確信しているからだ。
(定期馬車の数を増やさねぇとナ……)
冒険者達の言う通り、この村に宿屋などは無い。働き手は神都とヤホーの街から定期馬車を走らせて集めているのだ。
彼らはいわば歩く広告塔であり、口コミを広げる為にも、是が非でも街に帰って貰わなければならない。
彼らは街に戻り、話すだろう。銭湯という施設を。
ラビの村に行けば仕事がある、食えるぞ、と。
何か知らんが、途方もない工事が行われているぞ、と。
それらは一見、胡散臭い話であろう。だが、その工事が行われているのがラビの村であり、その作業の総責任者が聖女の一人であるルナとなれば話は変わる。
一転してそれらは公的なものとなり、“公共事業”へと様変わりするのだ。
その昔、親方日の丸などという言葉があったが、それに近い性質のものといっていいだろう。誰も彼も、安心して働く事が出来た。
(で、噂の聖女様はっと……)
田原がバニー達の住居区画に赴くと、木箱の上に立ち、偉そうにふんぞり返っているルナが居た。この区画に畑を移し変えているのだが、以前と比べかなり贅沢な土壌が使われている。
只の土ではなく《赤茶けた何か》と命名された、栄養素が多く含まれている土を土壌としているのだ。そこへ大帝国製の肥料を混ぜて作っている為、どんな作物であっても大いに育つであろう。
(本当なら、色んな野菜を作りたいんだけどナ……)
キャベツやキュウリ、ナスや芋、大根や玉葱。田原からすれば様々な農作物を作って多角的にマーケットへと売り込みたいのだが、市場を見れば見る程、人参がズバ抜けて高いのだ。
バニーにしか上手く育てられないという事もあって、完全に独占市場である。
それらを考えると、人参を育てるのが一番儲かる、と判断せざるを得ない。
「私の村に相応しい、エレガントな人参にするのよっ!」
「……食いモンに気品も何もねぇと思うんだけどナ」
「きゃぁぁ! 急に出てこないでよ! このストーカー!」
「何でお嬢ちゃんのストーカーなんぞしなきゃならねぇんだか……」
田原が煙草に火を点け、楽しそうに農作業をしているバニー達に目をやる。
今は農作業を行うグループと、施設での従業員を交互に交代させているが、いずれは適正や個人の希望を聞き、どちらかに専業として就いて貰う予定であった。
「畑は更に広げても良さそうだナ……てーしたモンだわ」
煙を吐きながら、しみじみと田原が言う。
どう考えても、少人数で行っているとは思えない効率の良さである。
農作業に向いている、などというレベルではない。
(むしろ大地が、農作物の方がバニーを愛してやがるんだろうなぁ)
世界中の銃器から問答無用で愛される体質を持っている田原だからこそ、そんな感想が浮かぶ。ちなみに“GAME”でも、この男に銃器を向けるのはご法度であった。高確率で弾詰まりが発生して、攻撃が空振りする。
最悪、暴発して装備している銃器が破損してしまう。
主力武器である銃器が使えないなど、控えめに言っても最悪の敵である。何故か女性プレイヤーからの人気は高かったが、男性プレイヤーからは「シスコン、まじうぜぇ! 死ねッ!」と非難轟々であった。
「そ、それで……あいつはいつ帰ってくるのよ」
「ん?」
「だ、だから! あ、あいつよ、あいつ!」
「あぁ、長官殿の事かぁ? お嬢ちゃんといい、悠のやつといい……」
田原が呆れたように首を振る。
そう、“相変わらず”彼の上司は凄まじいモテっぷりであったのだ。元の世界でも、あの魔王は全世界規模で見ても恐らくは1、2を争う有名人であった。
全世界へ流されるGAMEにおいて、その主催者であり、総責任者であった魔王は度々、その姿をTVが映す存在であったのだ。時には“GAME”の司会者として、世界中の液晶を独占する人物であったといっていい。
映画スターなどという次元ではなく、世界中の人間から視線を集める有名人であったといえるだろう。
無論、その視線には憧れなどはなく、多くが怨嗟であったが。
その観点からいえば、不夜城に居た側近達も有名人であったといっていい。彼らは何度もTVで特集を組まれ、その顔を知らない者は居なかった。
其々の首には天文学的な懸賞金が設定されており、それらを打倒すれば一生どころか十生は遊んで暮らせる世界であったのだから。
田原からすれば、自分を見ても何の反応もしないこの世界の人間を見ているだけで、ここが異世界であると分かってしまうレベルである。
(確か、長官殿には熱狂的なマニアが居たっけか……)
TVに度々映る有名人故の現象なのか、NINEというグループが生まれ、九内伯斗個人を熱狂的に支持する集団が居たのだ。
彼ら彼女らは帽子や腕章に「九」「9」「NINE」などが描かれた様々な物を身に付け、それらを誇示した。
「お嬢ちゃんもNINEの一人って事かねぇ……」
「ナイン??」
「ま、それはともかく。お嬢ちゃんが寂しがってたって伝えとくからよ」
「だ、だだだだ誰が寂しがってるですって!? あんなやつ、帰って来なくてもいいんだからっ!」
「あいあい」
田原は適当にいなしながら、更に庶民区画へと足を伸ばした。