湯煙の死闘
「どうされた、聖女ホワイト? よもや、一国の代表が男の裸程度で動揺する、などと可愛らしい事は言い出すまいと思うが」
魔王が威風堂々たる態度で言い放つ。
そこには男の裸など大した事ではない、猥褻罪でも何でもないんだ、と祈るような切ないまでの気持ちが込められていた。
(聖女相手に男根を見せ付けた、などと評判が立った日には……)
どう考えても投獄か、火炙りものであろう。
それも、前代未聞の性犯罪者として歴史に名を残しそうであった。
魔王は更に杯を傾け、天上の神をも射殺しそうな視線を空へと向ける。
どれだけ素数を数えても、先程見た裸体がフラッシュバックし、魔王の下半身に巨大なマグマが集結しつつあったのだ。
それも、魔王と称するだけあって、その雄々しさは尋常なサイズではない。
万物を貫くといわれる魔槍――ゲイボルグに匹敵するものであった。
全身の全てが凶器と化した魔王は、宙にやった視線を彷徨わせる。
(あの蒼空、極はいずこであろうな……)
魔王が古の大軍師、諸葛孔明のように蒼穹を見上げるものの、車は急に止まれないし、一度活動を始めたマグマも鎮火するには時間がかかるのだ。
「えぇ……私は貴方の裸になど、何も思うところなんてありませんからっ!」
「それは、重畳。落ち着いた話が出来そうで幸いですな」
片方は顔を真っ赤に染め上げ、片方は歯を食い縛りながら空を見上げている。
傍目から見れば、敵対しているように見えなくもない。
「貴方はマダムまで取り込んで、この国をどうしようというのです!」
「取り込む、とは穏やかではありませんな。ルナもマダムも、自らが望んでこの村に滞在しているのです。私は強要などしておりませんよ」
「一体、どの口が言うのですか! 貴方は――」
ホワイトが思わず詰め寄り、魔王の顔を睨み付ける。
その顔は怒っているというのに、不思議な程の美しさがあった。しかも、バスタオルで体を包んでいるとはいえ、その肩は露になっており、男ならば誰であっても魂を奪われるであろう、二つの膨らみが大きな谷間まで作っているのだ。
「余り、近寄らないで頂きたい――その体は少々、刺激が強いのでね」
「あ、貴方は……ど、どどど何処まで私を馬鹿にすれば気が済むんですかっ!」
「心外ですな。私はいつも真面目なつもりですよ――この口は真実しか告げない」
「し、ししし真実とまで言い切るのですか……貴方は!」
ホワイトの体が余りの屈辱に震え、涙目になる。
普段の彼女ならば、こうも感情を揺さぶられるような事はなかっただろう。彼女は二人の妹とは違い、対人接触の経験も豊富であり、優雅でさえあるのだから。
だが――
生まれて初めて男に裸を見られ、初めて男の裸まで見たのだ。まして、その相手が諸悪の根源ともいえる魔王であったのだから堪らない。
その上、目に毒だの、刺激が強いだのと言われ、混乱のあまりそのまま意味で受け取ってしまい、その心は千々に乱れていた。
「マダムに関しては、そうですな――この湯が、一つの答えとなるでしょう」
「湯が何を答えるというのですか……!」
「心を落ち着け、肩まで浸かられるといい」
そう言いながら、魔王も逃げるようにして目を閉じる。
暗闇に逃げ込めば、集まったマグマも鎮火されるだろうと考えたのだ。
ホワイトはその姿を睨み付けていたが、魔王が微動だにせず、口を開こうともしない態度を見て渋々、自らの体も湯へと沈めた。
暫しの沈黙の中――外からの作業音だけが響く、静謐な空間が出来上がる。
それら色気の無い音と暗闇に、魔王がようやく愁眉を開く。
(いいぞ、光あるところには必ず闇がある。私は今、無だ。無の中に居る)
「ぁぅ……この湯、何か……あっ、肩が……はぅぅっ……」
(お前、変な声出すな! 声まで可愛いとかアホかッッッ!)
「な、何なんですか、これ……こんなの……初め……てっ……」
(だぁぁぁぁ! お前、わざとだろコラッ!)
折角、散りかけたマグマが再集結するのを感じ、魔王が慌てて口を開く。その姿を俯瞰して見れば、聖女が魔王を追い詰めていると見えなくも無い。
「この露天風呂には疲労の回復だけでなく、“日常からの解放”という効果があるのですよ。辛い日常を忘れ、一時の解放を得る……そして、また英気を養って明日へと向かう、という施設なのです」
「日常……解放……」
「他の湯にも荒れた肌を整えたり、潤いを保つ効果などがありましてね。マダムがこの村で療養する、というのは別に冗談でも何でも無いのですよ。今、貴女が感じている“心地良さ”が――全ての答えだ」
魔王が日本酒で満たされた杯を差し出す。
その視線は前へ向けられたままであったが、有無を言わせぬ雰囲気があった。後は酒でも飲ませて、全てを有耶無耶にして逃げようとしているのだろう。
「わ、私にこれを飲めと言うのですか……」
「魔王が差し出す酒など、恐ろしくて飲めませんかな? 一国の頂点たる貴女の慎重さと臆病が、この国を乱れさせている原因の一つだというのに」
「あ、貴方にそんな事を言われる筋合いはありません……! 第一、私に毒物を飲ませようとしているのなら、無駄ですから!《天使のスプーン》」
ホワイトがスキルを発動させ、その瞳が淡く光る。
これは毒や危険物の有無を判別するものであり、一部の聖職者が修めているものだ。だが、それに対する魔王の返答は激烈なものであった。
「私からすれば、毒物とはこの国の上層部の人間に他ならない。多くの人民に塗炭の苦しみを舐めさせ、省みる事がない。その上、現状を打破しようともせず、そのための政策すら何一つ持ち合わせていない。私の国では、こういった者を“無能”と呼ぶ」
最早、言いたい放題である。
ある意味、この魔王の姿にこそ、とにかく“この現状を打破しよう”とする強靭な意思があったといえるだろう。
無論、保身から出たに過ぎない台詞であったが、ホワイトの胸には強烈にその言葉が突き刺さった。魔王の発言に――反論出来なかったからだ。
「……貴方から見れば、確かにそうなのでしょうね。私のような小娘が空回りしている様は、さぞ可笑しいのでしょう」
ホワイトが力無く杯を受け取り、その瞳に日本酒を映す。
その透明な液体は光に反射し、キラキラと光っていたが、それを持つホワイトの方が遥かに輝いており、その姿には言葉に出来ぬ淑やかさがあった。
(傾国の美人とはこういう女を指すんだろうな……いや、この世界風に言うなら、それこそ天使というやつか)
まるで、一枚の絵を刳り貫いたかのような姿に魔王が密かに息を飲む。
その身から溢れる神聖なオーラに、魔王の体の一部分に集まっていたマグマも散らばっていった程だ。
ホワイトが伏し目がちに杯を傾け、その可憐な唇に日本酒が触れた。
「これ、は……」
これもGAMEのアイテムであり、気力を回復させる効果がある。
元々、日本酒は飲みすぎなければ体に良いものなのだ。百薬の長、などといわれるのは伊達ではない。
「これは、私の国の酒でね。古くから愛されているものですよ」
ホワイトの手から杯を取り、魔王も杯を傾ける。
その姿に一瞬、ホワイトの口が「間、接……」と洩らしたが、魔王は全く気にせず、容赦なく日本酒を胃の中へと叩き込んだ。
むしろ、ホワイトが最初に飲んだ時こそ間接キスだったのだが、あの時は気落ちしていて気付かなかったのだろう。
「間接キスなど……処女のガキでもあるまいし、何を寝言を――」
魔王が鼻で笑う。
この男の感覚からすれば、初体験の年齢などニュースなどでは年々下がっており、今では小学生の時でした、などという話までよく聞くのだから。
今時、間接キスなどでどうこう言う女など絶滅種であろう。
だが、その不遜な言葉が途中で止まる。
相手が、聖女であった事を思い出したのだ。ホワイトの細い肩が震え、その口から搾り出されるようにして言葉が漏れる。
「……悪かったですね」
そう、運が悪かった。
そして、タイミングまで悪かった。
彼女は先日、クイーンに散々からかわれたばかりである。
その上、「姉貴の固さじゃ、喪女確定だわな」とまで言い放たれており、密かに傷付いていたのだ。先に妹二人が良い相手を見つけたような話まで聞かされ、姉妹の中で一人だけ取り残されたような気分まで味わっていたのだ。
「どうせ私は喪女ですよ! 処女ですよ! 悪いですかっ!?」
露天風呂が与えてくれた開放感と、日本酒が齎した酔いも後押ししたのだろう。ホワイトの口から、普段は絶対に漏れないであろう言葉が迸った。
「い、いや、別に悪いとは言っていない。むしろ、貞淑な女性というのは好まれるものだ。胸を張って良いのではないか?」
「こんな事で、どうやって胸を張るんですか! 私を小馬鹿にして笑っているんでしょう!?」
「小馬鹿になどしていない。むしろ、その固さを褒めている程だ」
「貴方もクイーンも、固い固いって……私をゴーレムか何かのように……っ!」
最早、収拾が付かないと思ったのだろう。
内心は慌てながら、しかし、見た目だけは重厚な仕草で魔王が漆黒の空間へと手を突っ込み、一つのアイテムを取り出す。
頭に装着する防具――《天使の輪》である。天使の輪はその名の通り、光り輝く輪であり、ふわふわと浮遊していた。
防御力は2とゴミ性能だが、見た目が可愛いので女性プレイヤーが好んで良く装備していたものだ。逆に《小悪魔の角》という頭防具もあったが、これも防御力が低い割には人気があった。
「な、何ですか……これ……。どうして、貴方が天使様の輪を!?」
「聖女の名に恥じぬ貴女へ――これを贈りたいと思いましてな」
魔王がホワイトの頭へ、優しく天使の輪を乗せる。
その顔には微笑が浮かんでおり、ホワイトの目から見てもそれは渋い、と思えるものであった。長い髪を後ろで束ねている事もあって、精悍でもある。
その筋骨隆々の肉体といい、容貌といい、その悪辣な頭脳といい、ホワイトからすれば、その全てが生まれて初めて見るタイプの男であり、大人の男性でもあった。
「その輪に恥じぬよう、研鑽したまえ。私は、君の敵ではない――」
魔王はその言葉を残し、霧のようにその姿を消した。
単に《全移動》で脱衣所に戻っただけなのだが、ホワイトからすれば“消えた”としか思えなかっただろう。
「天使様の、輪……どうして、魔王が……」
ホワイトが呆然と呟いたが、魔王の頭にあったのはただ一つである。
「女関係で困った時には、とりあえずプレゼントしとけば機嫌が直る」という、世の女性が聞けばふざけるな、としか言いようがないものであった。
しかし、ホワイトにとって――
このアイテムは到底、軽く考えられるようなものではない。
慌てて露天風呂から上がり、鏡にその身を映す。その頭には光り輝く天使の輪が浮かんでおり、その荘厳な美しさと神聖な輝きに、ホワイトは息を飲んだ。