マダム、吼える
「最初はこれよ、マダム。炭酸泉っていうんだって」
「何だか奇妙なお湯ね……」
マダムは小さな泡が次から次へと浮かび上がってくる湯を見て、微かに眉を顰めた。だが、ルナは躊躇無く全身を浸からせ、心地良さそうな表情を浮かべている。とてもではないが、偽りの表情とは思えない。
遂にマダムが恐る恐る足を踏み入れ、思い切って全身を湯へ浸からせる。
温度としては決して熱くはない。どちらかと言えば温いぐらいであり、長時間入っていられるようなお湯であった。
「マダム、動いちゃダメよ……泡が張り付いてくるから」
ルナがうっとりと目を閉じ、横のマダムへ声をかけた。
泡が張り付くとはどういう意味かとマダムは思ったが、その言葉の意味をすぐに悟る。本当に肌へ、泡が張り付いてきたのだ。
「これ、は……」
炭酸泉の代表的な効果は、血管の拡張と血流の改善である。
高血圧や糖尿病、血栓などの予防にも良く、それらの症状の緩和も期待出来るものであった。血流が良くなれば、冷え性や肩こり、腰痛や関節痛にも効果があるので、肉厚なマダムにとっては打ってつけといっていい。
「いいわ……何だか体が“解放”されていくような感覚よ……」
自らの体に、美に、その半生を費やしてきたマダムだからこそ、それらの効果をすぐさま実感する事が出来た。
彼女が自らの体に費やしてきた金と時間は尋常なものではない。
最早、自分の体の事に関しては“神通力”があるといってもいいだろう。
そもそもの話として、彼女も好きで体が大きくなった訳でも何でもない。
家系の遺伝であり、今は亡き両親も、妹も、その全てが小山のような肉体を持つ一族であったのだ。
彼女がまだ子供の頃は、その所為で周囲の貴族から嗤われ、蔑まれ、社交界では惨めな思いをする事も多かった。それら幼少の頃の体験がマダムを美へと走らせ、妹を芸術へと走らせたのだ。
「ぁ、それとマダム……このお湯って肌にも凄く良いのよ」
そう言いながら、ルナがぱしゃぱしゃと可愛い仕草で顔へ湯をかける。
ルナの発言は嘘ではない。炭酸泉は肌を優しく労わる化粧水としての効果もあり、肌荒れなどを防ぐ高い効果がある。
それを聞き、マダムも慌てて顔へお湯をかけた。
「これは……荒れた、肌が……」
当然、すぐに効果が現れる訳もない。ごくごく僅かなものであろう。
だが、マダムには分かるのだ。
この湯が、自らの肌を改善させているという事を。
「さ、マダム! そろそろ次に行くわよ!」
「え”っ……ちょ、ちょっと待ちなさいよ、ルナちゃん……」
「早く早く!」
ルナが容赦なくマダムを引っ張り上げ、次の温泉へと連れていく。
実際、ルナはマダムに限定すれば案内役として的確であったかも知れない。放っておけば、マダムは何時間でも炭酸泉に浸かっていた事だろう。
また、マダムに対してここまで図々しく踏み込んでいけるのもルナしか居ない。
「次はハーブ風呂よ。良い香りがするんだからっ」
「ハーブ、ねぇ……」
そこにはマダムの体でも悠々と入れるであろう、五つの湯があった。
色とりどりの、見た目からして可愛い湯もあれば、妙に“夜”を連想させるエロティックなものまである。
「私はやっぱり、これねっ!」
ルナが「ピンクゴールド」と書かれた湯に飛び込む。
その他にも「イエロービーム」「ナイトフィーバー」「グリーンフォレスト」「ディープブルー」などと書かれたものがあり、マダムは自らが好んでよく着る碧色の湯へと入る事にした。
グリーンフォレスト――爽やかな朝の森をイメージした湯である。
ちなみに、このハーブ(?)風呂は三十六種類あるのだが、それらは日替わりで変更される。その決定は全くのランダム抽選である為、どの湯になっているのかは誰にも予想出来ないのだ。
「これは“森”なのね……爽やかな香りがするわ」
心憎い事に、この風呂は横臥したままで浸かれる設計となっているのだ。
頭部の当たる場所には金属で出来た枕のようなものが設置されており、その枕の中には冷水が循環している為、のぼせ難いという特長もある。
下手をすれば、このまま寝てしまいかねない程の心地良さである。
「この香りがね、肌に染み込んでいくの♪」
ルナが元気良く隣で声を上げている姿を見て、マダムの顔が思わず綻ぶ。
思えば、この小さな聖女様も随分変わった――と。
昔から無邪気ではあったが、何処か人を寄せ付けないような、誰に対しても牙を剥いて唸っているような、妙な危なっかしさがあったのだ。
「そう……“恋”を知ったのね。ルナちゃんも」
「は、はぁぁぁぁ!? な、何を言い出すのよ!」
「隠しても無駄よぉ? 好きなんでしょ、あの“魔王様”のこと」
「ばばば馬鹿な事を言わないでよ! 何であんな奴をっ!」
その反応を見て、マダムが今度は苦笑を浮かべる。
恋愛初心者、などというレベルではなく、見ている方が恥ずかしくなってしまうような、実に分かりやすい態度であった。
「ルナちゃん、あの人は強敵よぉ……? よっぽど女を磨かなきゃ、そこらの女じゃ見向きすらしてくれないでしょうね」
マダムが見るところ、あの魔王はどう考えても“普通の存在”ではない。
この施設もそうだが、あの恐ろしいサタニストの集団を一瞬で屈服させた挙句、噂では中級悪魔すら鼻歌交じりに爆殺したとも聞いているのだ。
人間以外の“ナニカ”である、と言われてもマダムは驚かないだろう。
また、そうであったとしても、マダムとしては一向に構わない。
(あの魔王様は、私に何らかの大きな価値を見ている……)
でなければ、こうも良い待遇はしないだろう。
なら、自分の価値を更に高めれば良い。利用しあう間柄など、マダムのような大貴族にとっては当たり前の事であり、むしろ望むところであるのだから。
利害が一致する事ほど、“安心”出来るものはない。
「あ、ああああんな奴の話なんていいでしょ! 次に行くわよ!」
「ちょ、ちょっと、ルナちゃん……せめて、もう少し浸からせなさいよ」
「ダメ! ダメったらダメ!」
顔を赤くしたルナがまたしてもマダムを引っ張り上げ、「次に行くわよ!」と元気良く先導する。
次に辿り着いたのはサウナであった――それも塩サウナである。
マダムにとって、運命の出会いとなる施設であった。
■□■□
「ここがね、塩サウナっていうの」
「塩って……」
聖光国は南側が高い山に覆われており、海と面していない。
故に塩は輸入品であり、決して安い品ではないのだ。
ルナがドアを開けると、程よい熱気が噴き出してきたが、その部屋の中身はとんでもないものであった。
幾つもの椅子や、長椅子が置かれてあり、部屋の中央にはこれでもかという程の塩がてんこ盛りにされてあったのだ。
驚く事に、床にまでくるぶしが埋まってしまう程の塩が撒かれていた。
まさに、一面の白――それも、塩で出来た白色であった。
「大昔に都市国家で見た……“雪”のようね……」
マダムが遠い記憶を引っ張り出したが、あれは空から“無料”で降ってくるものであり、この“白”とは意味合いが違いすぎた。
「ささ、私が教えてあげるから座って」
「え、えぇ……」
ルナが自慢気に口を開き、まるで教師のような態度をとる。
先日、ルナも悠から教えて貰ったばかりだというのに、まるでこの道のベテランであるかのような顔付きであった。
塩サウナの入り方は別段、難しいものではない。中に入って発汗するのを待ち、汗が出てきたら塩を肌へおいて溶かし、それを撫でるように体へと塗り込む。そして暫くしたらシャワーで洗い流すのだ。
ただ、これを繰り返すだけである。
だが、その効果は女性にとっては嬉しいものばかりなのだ。
まず、顔にそれを行えば皮脂や老廃物がどんどん排出され、すべすべ肌へと生まれ変わる。やりすぎは厳禁だが、スクラブする事によって古い角質が落ち、肌の色が明るくなるとまで言われている程である。
「昨日ね、これをしたら効果覿面だったの」
「そう――」
マダムの様子が少し変だと思ったが、ルナが構わず説明を続ける。
いわば顔はオマケのようなもので、体への効果がやはり一番大きいであろう。
塩は体に塗りこむ事によって――皮下脂肪を外へと出す効果があるのだ。
分厚い脂肪に包まれたマダムにとって、堪らないものである。どんな世界であっても、一度ついた脂肪とは中々消えないのだから。
これまでマダムはどれだけ運動しようと、食事に気を使おうと、古今東西のあらゆる魔道具を試そうと、全て無駄に終わったのだ。
だが、塩を塗りこんでは発汗させ、シャワーで綺麗に流すというのを繰り返している内に、マダムの表情が変わっていく。
この繰り返しが意味するところは――新陳代謝を大きく高め、皮下脂肪を燃焼させていくという行為に他ならない。
それも、狙った部分を“狙い撃ち”出来るという優れものだ。
これが只の塩であるなら、只のサウナであるなら、その効果は人によって個人差が出るだろうし、そこまで急激に何かが変わるような事はないだろう。
だが、滑車がそうであったように、これは“GAME”のものである。
設定のままに“結果”を生む――1+1が2になるように、肌を美しく甦らせ、皮下脂肪を綺麗に燃焼させていく。そうせざるを得ない。
それが、この施設に書かれている設定なのだから。
「ね? 肌も綺麗になるし、太もものお肉……って、マダム?」
「お……ぁ”……」
「どうしたのよ、マダム??」
「お……おぉぉぉぉぉぉおおおおおああああッッッ!」
「ヒィィッ!」
「よっっっっしゃあああああああああああいいいいいッ!」
マダムが咆えた。
それは戦場で武人が咆え猛るような、凄まじい咆哮であった。彼女が咆えるのも無理はない――実感してしまったのだ。
――――否、聞こえてしまった。
自らを覆う厚い脂肪が、“悲鳴”を上げたのを。
それも、抗う事すら出来ぬ敵へとあげる、“断末魔の絶叫”であった。
これまでついぞ聞く事の出来なかった悲鳴が、先程から耳を割るような大きさで鳴り響いているのだ!
「な、何!? 怒ったの!? な、何が気に入らなかったの……?」
「ルナちゃん。私、決めたわ――」
「な、何を……?」
「――今日から、この村に住むわ」
「ええええええええ!?」
■□■□
――その夜 温泉旅館「松の間」
部屋の中では二組の羽毛布団が敷かれ、ルナは既に寝息を立てていた。
マダムも横たわり、静かに天井を見上げている。
部屋に入ってもマダムはその内装に驚かされっぱなしであったが、一番驚いたのは奇妙な草で編まれた床であった。
当然、それは畳であるのだが、マダムの目からしたら実に奇妙なものである。
しかし、慣れてしまえば、えも言われぬ味わいがあるのだ。良い香りがするだけでなく、彼女の好きな“色”でもあった事も大きかったかも知れない。
(何だか、この調子だと眠れそうね……)
マダムの巨体では、必ずベッドが軋みを上げるのだ。それこそどんなベッドに横たわろうとも、ギシギシという耳障りな音は決して消えない。それに苛立って、彼女は中々眠る事が出来なかったのだ。
今ではそれが体質になるまで悪化しており、完全に不眠症の状態に陥っていた。
だが、大帝国製の羽毛布団はマダムの体など余裕綽々で受け止め、その柔らかさと弾力でマダムの体を逆に悠々と持ち上げてくる始末である。
まるで「お前が重さを語るなど、千年早い」と嘲笑っているような、不敵さすら漂わせているのだ。
(何て偉そうで、“男前”なベッドなのかしら……)
心強くもあり、妙に腹が立つようでもあり。
そんな奇妙な思いに包まれながらも、マダムは神経を甚振るような軋み音から解放され、遂に数十年ぶりともいえる“熟睡”の気配を感じた。
――住むって、マダムのような立場で移住なんて出来る訳ないじゃない!?
眠りへと誘われる中、マダムの頭に先程のやり取りが蘇る。
「そうね、立場ある者の移住なんて認められないわ。下手をすれば、横の繋がりを勘ぐられて、反逆の意思ありとでも思われかねないもの」
「そ、そうよ……」
「でもね、一つだけ前例……というより、抜け道があるの」
「抜け道?」
「そう――“療養”よ」
実際、不治の病に冒された老貴族などが草深い田舎へと引っ込む事もある。老い先短い者が「最期は友と」と戦友の館へ転がり込み、短いながらも最期の時を共に過ごしたケースもあった。
中には腕の良い医者の下で療養する為、僅かな期間ではあったが、国外に身を置いた者も居ない訳ではない。どの国も医療レベルは似たり寄ったりなので、わざわざ不便な国外へ行く者などは居ないし、許可されるケースも稀ではあるが。
これらは極端ではあるが、前例といえばまぁ、前例といえる。
無論、マダムは至って健康であり、病気でも何でもないが。
(多少の無茶なんて知った事じゃないわ……)
マダムは揺るがない決意で“それ”を想う――
これまで、この巨体の所為でどれだけ蔑まれてきた事だろう。
遠い日の断片を思い出す度、マダムの胸中に悔しさが蘇る。長じてそれらを実力で黙らせてきたが、やはり美への想いは捨てがたいのだ。
マダムは固い決意を秘め、目を閉じる。
(私は、私の運命に抗う……!)
彼女のその決意が、女としての想いが。
何処かの魔王様の思惑などを遥かに超え、国を揺るがす事になっていくのだ。