騒乱の兆し
アルテミスの一席、そこにはちょっとした注目が集まっていた。
店内では様々な楽器が優雅な音色を流し、客の耳を楽しませていたが、その目は一つのテーブルへと向いている。
聖女と魔王を名乗る男、それに――マダム・バタフライ。
貴族といえど、奥方に首根っこを掴まれている男は幾らでも居る。その怖い奥様方を束ねる大ボスがバタフライなのだ。
その影響力は計り知れず、彼女が嫌った者は社交界から締め出される程だ。何の関係も無い、周りの客の方が緊張感を持って成り行きを見守っていた。
「それにしても――マダムはとても美しい。貴女がこれまで美に費やした努力を考えると、頭が下がる思いですな」
「あらあら、こんな老婆を口説いているのかしら」
魔王とバタフライの談笑が始まったが、その目は全く笑っていない。
互いに相手を探りあう様は、白刃を向け合っているに等しい姿であった。
「ねぇ、“魔王様”から見た、この街はどうかしら――?」
「素晴らしいものですな。とても素直で、とても分かりやすい」
「……他国から来られた方の中には、驚かれる方も多いのよ。余りの格差に、まるで天国と地獄である、なんて言う方も珍しくないわ」
「なるほど、言い得て妙ですな。ですが、それを解決する方法が一つあります」
そこまで言って、魔王が言葉を区切る。
解決する策、とまで言っておきながら悠々と煙草に火を点け、続きを語ろうともせずに煙をゆったりと楽しんでいた。
次第に焦れたように、マダムの方からテーブルへと身を乗り出す。
「是非、聞かせて貰いたいわね。“魔王様”の知恵を」
「なに、簡単な事です――“全ての地を天国”にしてしまえば、何の問題も無くなる。至極、単純な話ですよ」
「すべ……こ、これはまた、随分とスケールの大きい御話ね」
「――――仮に私が国の頂点に立てば、数年で実行可能ですな」
魔王の言葉に、マダムが絶句する。
大言壮語、などと言うレベルではない。殆ど頭の病気を疑うレベルである。
これまでもマダムに気に入られようと大きな事を言ったり、美辞麗句を並べたてる者は多かったが、ここまでの事を放言する人物は初めてであったろう。
その実、この男には全てを天国にする策など、ありはしない。
そんな事が出来るなら、この男は現実世界で政治家にでもなっていた筈だ。
(うははっ。言うだけなら、幾ら言っても無料だからな)
一種の開き直りでもあったし、「途方もない人物である」との印象を持たせる為に打った博打のような演技である。
だが、マダムの見るところ、横に居る美女は“それ”を無言で肯定しているようにも見えた。
今の発言は虚飾では無い、と言わんばかりの態度である。
「しかし、国などという退屈なものの前に――私はマダムにもっと別の“天国”を提供したいのですよ」
「興味深いわね……一体、どんな“天国”なのかしら?」
魔王がテーブルの下で作り出した物を綺麗な紙へと包み、マダムへと手渡す。
女性陣に大好評の《石鹸》である。
だが、それを手渡されたマダムの顔は何とも言えぬ複雑なものとなった。この途方も無い放言をする男が、何を渡してきたのかと思えば石鹸である。
この国では銀貨1枚~5枚で売買される程の高価なものではあるが、マダムからすれば珍しくもないし、ありがたい物でもなかった。
「ぁ、その石鹸ってば凄いのよっ!」
「あら、ルナちゃんのお勧めの品なのかしら……?」
「もう“魔法”かってくらい汚れが落ちて、肌がピカピカになるの!」
「魔……ピカピカ、ね……」
(ナイスアシストだぞ、ルナ!)
思わぬ援護射撃に、魔王が内心ガッツポーズを作る。
実際、ルナの口から出た“魔法”という言葉は重かった。
マダムからすれば、ルナなどはまだまだ子供であり、その無邪気さを愛でているだけに過ぎない。
が、彼女の魔法の才だけは違う――紛れも無く“本物”であった。
ルナが自らの魔法に強い誇りを持ち、そこに自尊心の全てがあると熟知しているマダムにとって、ルナの口から出た“魔法”は非常に重い。
「確かに、ここに居る御嬢さん方の肌は輝くようね」
マダムがテーブルに着いている女性陣を見渡し、微かな嫉妬を浮かべる。
年齢も若く、その肌には皺一つない。
その上、揃いも揃って――美少女と美女ばかりであった。
「是非、今晩にでもお試し下さい。効果の程がお分かり頂けると思います」
「そうね……魔王様からの素敵なプレゼントに感謝するわ」
マダムがつい、手にした石鹸へ熱い視線を送る。
幾つになろうと、女性にとって肌というものは気になるものだ。どれだけの富があっても、老化ばかりはどうしようもないという事もあり、“美”という項目は鉄壁とも言えるマダムの唯一の弱点でもあった。
「いえいえ、その程度で感謝されては困ります。近々、ラビの村に温泉を用意しようと思っていまして――文字通り、肌が、全身が、“生き返り”ますよ」
それは――魔を統べる王に相応しい、“魔性の言葉”であっただろう。
「生き返るだなんて、随分と大きな事をおっしゃられるのね……」
「私は自らが用意するものに対し、一切の虚飾を述べない――私の口から出た言葉は、“全てが現実”となるからだ」
(くぅぅぅぅぅ……っ! 格好良いです、長官!)
もう言いたい放題であった。
こうなってくると、この男の独擅場であろう。
「そこでは一般的な湯だけでなく、炭酸泉や壷湯、岩湯、岩盤浴、水風呂や電気風呂、薬草風呂や塩ミストサウナ、ロウリュウサウナなど、様々なものを楽しむ事が出来ましてな。疲労が取れるばかりでなく、肩こりや腰痛、冷え性などにも効果が高いものばかりです。無論、湯上りの肌も若返る事でしょう」
「そ、そう、なの……」
魔王の言ってる内容は、マダムには正確には伝わっていない。
だが、それらが「とんでもないモノ」である事だけはひしひしと伝わった。聞いているだけで、今すぐにでも行きたくなる程だ。
実際、この男が“それ”を建てた暁には、それは“現実”のものとなる。
本来なら体力の回復を早める施設であるが、温泉に書かれている効果もまた、現実に即した“結果”を生むであろう。
「とても、楽しみね……いえ、それはいつ用意されるのかしら……」
「ここでの調べ物が終われば、すぐにでも」
「ぜ、是非、是非、伺わせて貰うわ。ルナちゃん、カキフライには内緒よ?」
(カキフライって! お前ら、揚げ物ばっかりか!)
魔王が心の中で突っ込んでいたが、そんな表情はおくびにも出さない。だが、笑いを堪えているのか、煙草を持つ手だけは微かに震えていた。
「分かったわ。でも、マダムってば、相変わらず妹さんとは仲が悪いのね」
「ルナちゃんの所と同じよぉ? 姉妹ってのは中々、分かり合えないものなの」
(揚げ物同士、仲良くしろよ……)
魔王が吹き出しそうになるのを必死に堪えながら、満面の笑みでマダムと握手を交わす。一時はどうなる事かと思った遭遇であったが、無事に終了したようだ。
その後、一行は賑やかに食事を楽しんでいたが、絹を裂くような悲鳴が響き、店内が騒然となった。
外から響いてくるのは振動と、怒号。
耳をすませば、叫ばれている内容は一つであった。
「「さ、サタニストの襲撃だぁぁぁぁぁぁぁ!」」
――魔王の表情が変わる。
それはオモチャを見つけた子供のようでもあり、湧き上がる喜悦を抑えかねているような姿であった。
「晩餐会の余興に、丁度良い道化が来たようですな――――」
その姿に、マダムが唾をごくりと飲み込む。
そこには今までの姿とはまるで違う――“正真正銘の魔王”が居たからだ。