伊藤の試練
「どうしたんだ、伊藤」
練習が終わって、新2年生の部員が部室に残った時、
雄介が声をかけた。
伊藤は考え込むようにして、口を開いた。
「実は俺、二日ほど前に安田監督に呼ばれたんだ。
その時に、監督からチームのサポート役に回ってくれないか、
と打診されたんだ。
今のチームには、チーム全体の事を考えて、
一年生と三年生の橋渡しをしたり、他チームの戦力分析をしたりする
選手が必要なんだと。
それに、監督自身も最近、体調がよくない時があるから、
時には、チームの監督になったつもりで、俺の代わりに、
チームの面倒を見てほしいとまで言われたよ」
雄介は、伊藤の言葉に驚きながらも、 監督の気持もわかる気がした。
伊藤はチームのムードメーカーで、学校の成績もトップクラスで、
性格も申し分なく、いつもチームの雰囲気をよくしてくれる選手だった。
それに、練習に対しても、人一倍の努力家でもあった。
ただ一つ、難点があるとすれば、走力などの体力面や、
野球センスの部分で、どうしても他の選手に追いつかない
部分があることだった。
「それで、お前はどう答えたんだ」
三島が静かな口調で言った。
監督の言葉は伊藤にレギュラー選手と
しての道をあきらめてくれ、といっているのに等しかった。
伊藤が何としでもレギュラーポジションを取って、家族を喜ばしたい
という気持でいる事は、他の選手の誰もがわかっているだけに、
他の仲間は何もいうことが出来なかった。
部室内に気まずい沈黙が広がった。
だが、それを破ったのは他でもない伊藤自身だった。
「今、皆の俺を心配してくれている顔を見ていて、
決心がついたよ。皆のために頑張りたい、
俺に出来ることは、何でもやりたいという気持になったよ。
チームの勝利のために何でも」
伊藤は、そういうといつものムードメーカーらしい
笑顔を見せた。
「その代わり、俺の目の前で練習の手を抜く奴は許さないぞ」
とおどけたように言って、皆を笑わせた。
「ありがとう、お前が一生懸命、サポート役に徹しようと
決心してくれた気持を裏切らないように、
俺たちも必死でやるよ」
西城や三島、田所も目に涙を見せて、伊藤の肩を叩いた。
翌日、監督の安田が練習前に全員を集合させて、
伊藤にチームのコーチ的な役目をしてもらうと伝えた。
伊藤はまだ、2年生だがチームの副主将にして、
試合でも、背番号18番の選手として、
三塁のベースコーチに立ってもらうという説明もあった。
誰も、安田監督の話に異論を挟む選手はいなかった。
やがて、4月の半ばになって、春季の地方大会の時期になった。