6
また遊びにおいでというトキのことばに甘え、ユウナはつぎの日も会いにいった。こんどは灯台まで登らず、海を泳いでトキの浜まで行った。潮は引いていて浅く、二年前、満月の夜に流れ着いたときよりも楽に泳げた。
海からあらわれたユウナに、貝をひろっていたトキは驚いて目を見はった。
「また来ちゃったけど……、めいわく、だったよね」
昨日の今日でまた来るなんてと思ったが、会いたい気持ちを押さえられなかったのだ。ユウナはじっくり考える前にまず行動を起こしてしまうたちだ。そしてあとから悔やむ。
「迷惑なもんか。でも……、まさか泳いでくるとは思わなかった」
「歩くより早いし」
「岬のまわりは潮の流れも速いし、あぶないよ」
「大丈夫だったけど」
ユウナは首をかしげた。
海蛇に噛まれて溺れた五歳のあの日以降、ユウナは海で危険な目にあったことがない。蛇はおろか海月にもイモガイにも刺されないし、渦にのまれて流されることもない。トキにはじめて会った夜ぐらいだ、コントロールを失ったのは。それだって大事には至らなかった。
そう考えるとふしぎだ。五歳のころ、たしかに毒蛇に噛まれたはずなのに、浜に打ち上がり、助けられたときのからだには噛みあともなく、無傷だった。蛇に噛まれたと大人たちに告げたが信じてもらえなかった。蛇にやられたらとっくに召されてるさ、などと言って。
「どうしたの?」
「うん……。あたしって、ちょっと変なのかも」
「ちょっと?」
「なによ。だいぶ変って言いたいの?」
口をとんがらせて言い返すとトキはふき出した。
「あのね。そうじゃなくって、あたしの性格がどうとかいう話じゃなくって」
むきになってことばをさがす。
「あたし……、海に、まもられてるみたいだなって」
「どういうこと?」
トキは笑みをうかべたまま、ユウナがどんな突拍子もないことを言い出すのか、待ちかまえている。
「かみさまに会ったことがあるんだ。海の、かみさま」
「へえー」トキは片眉をあげた。
「海の底にたましいの還る国があって、神様が守ってるって話? あれ、信じてるの?」
「信じる信じないじゃなくって、実際に会ったの。小さいころ、溺れて沈んだときに。あなたはかみさまですかって聞いたらちがうって言ってたから、ほんとはちがうのかもだけど……、でも、すっごく大きくて、銀色に光ってて、大きな大きなへびみたいにからだが長くてうねってて、でも大きすぎて顔とかしっぽとか手足があるのかとか、わかんなかったの」
あの存在をどう言い表せばいいのか、つたない言葉をつなぎながらユウナは必死に説明する。
「銀色……」
トキはつぶやくと、じっと波打ち際を見つめて、黙り込んでしまった。すぐに自分のなかの世界に沈みこむくせがあるようだ。
「トキ。トキっ」
「あ。ああ、ごめん」トキはわれに返る。
「それできみはずっと信じてるのか、かみさまのような何かが、自分をまもってくれてるって」
ユウナは首を横にふった。
「今はじめて気づいたんだよ、まもられてるのかもって。だってあまりにもあたしは海に溶け込みすぎてて、不自然なくらい」
水のなかで、息も長くつづく。ほかの同世代の人間とくらべたことはないが、かなりのものだろう。
「きみは海に愛されてるんだろう」
トキはふっと目元をほころばせた。
「ユウナ。きょう、おれは灯台にはやく戻らなきゃいけないんだ。灯をともす作業を、おれがやるんだ」
「もう戻るの? だって、陽はまだ高いのに」
「ひろった貝も片づけなきゃだし、それに」
ユウナの頭をぐりぐりと撫でる。
「きみにいいものを見せようと思って」
昨日下ってきた灯台までの近道を、トキの広い背中を追いかけてのぼっていく。額から汗がしたたり落ちるのをこぶしでぬぐう。
小高い山のてっぺん、白い雲の湧き立つ青空を背に石積みの灯台は立つ。
いったん家へ帰り収穫物を置くと、トキは引き戸のそばで所在なく待っているユウナのもとへもどってきた。
「きょうはお父さんはいないのね」
「釣りにでも行ったんだろう」
トキの返事はそっけない。
「いいものって、なに?」
やわらかな笑みだけを返すと、トキはユウナについてくるように手招きした。
先端に向かってゆるやかに細くなる、石積みの塔の入口には扉もなにもなく、ぽっかりと四角く開いている。トキはかがむようにして中に入り、ユウナに「おいで」と告げる。おそるおそるついて行くと、中は暗くてひんやりとすずしい。人ひとりが通れるぐらいの幅のらせん階段がある。
「いつも槇を抱えてこの階段をのぼるんだ」
「へえ……」
はじめて見る塔の内部。
「巻貝の中みたいね。ふしぎ。この塔、いったいだれがつくったんだろう」
「さあ、ね」
この灯台と星読みの塔は、はるか昔から島にそびえたっているらしく、村の長老いわく、彼の祖父母のそのまた祖父母も、その先にあるご先祖たちも、正確なルーツは知らないという。灯台も星読みの塔も石積みで内部にらせん階段があり、構造は良く似ている。星読みの塔にいたっては、無数のガジュマルの気根が絡み付き、まるで下半分は木に取り込まれているように見えることから、ずいぶん古い時代からあるものだと予想はつく。もっとも、星読みの塔の内部について知っているのは歴代の星読みたちだけだが。
ゆっくりと階段をのぼり、てっぺんにたどりつく。まるい小さな部屋の真ん中に火桶があり、そこに薪をくべて火を焚くのだとトキが言った。
「この部屋でずっと火を見ているの?」
トキは首を横に振る。
「熱いし、すすだらけになるよ。おれは、階段の下で、小さな灯りをともして、貝の細工をしている。時々ここへ上がって火のようすを見る。作業に集中しすぎて、火が消えちまったことに気づかなかったときもあったよ。親父にひどく叱られたっけ」
頭に思い描いてみた。夜、ひとり、この古びた塔のなかで火を見ているトキのすがたを。
トキは、じっと火桶を見つめて想像しているユウナの肩をたたく。
「外を見てごらんよ」
言われてユウナは顔をあげた。丸く大きくくり抜かれた石壁の窓から、青い空が見える。
「もっとこっちに」
「怖い」
「だいじょうぶ、落ちないから」
おずおずと窓に近寄る。窓といってもユウナの身長とほぼ同じ大きさで、手すりもなにもない。壁につかまって、おそるおそる外をのぞく。
「わあ……」
すぐにその景色に心を奪われて、ユウナは恐ろしさを忘れてしまった。
海。エメラルドグリーンの、ユウナの慣れ親しんだ珊瑚礁の海。そのむこうに、群青色の海が、遠くまでひろがっている。点々と小島が浮かび、さらにその果てには、はるかなる大陸の影がある。そして、すべてを包み込むみずいろの空、浮かぶのは真っ白い夏雲。
「すごい。あたしのいる島って……、あたしって、小さいんだね」
「うん」
「あの大陸にはどんなひとたちが住んでいるんだろう」
昔、村長の家で見た真珠も、あの大陸から大島にわたってきたものだという。真珠だけじゃない、美しい宝石や織物や工芸品、機械や道具や書物、めずらしい食べ物などがあふれているという。
「ユウナ? どうしたの?」
さびしげにかげったユウナの顔を、トキがのぞきこむ。
「ん。あたしはきっと一生、この島の外の世界を見られないんだろうなって、思っちゃった」
「だけどユウナは、ほかのどんな人間も見られないものを見たんだろう?」
「なに?」
「海のかみさま」
からかうような笑みをうかべるトキ。ユウナはふいっと彼から目をそらした。
「この灯台も、星読みの塔も。かみさまがつくったんだって、みんな言ってるよ」
「聞いたことある」
「かみさまって、いったい、なに? 世界をつくったひとたち? じゃあ、その『かみさま』をつくったのは、いったい、だれなの?」
「こんなこと言うと、またみんなに疎まれそうだけど」
トキがはるかなる海を見つめて、言った。
「おれは信じてない。かみさま」
ユウナは驚いて彼の横顔を見上げた。こんなにはっきりと神の存在を否定するひとを、はじめて見たのだ。
「この灯台をつくったのも、人間だよ。おそらく、おれたちよりずっとずっと古い時代の人間たちだ。どんな暮らしをしていたのかわからないけど、きっとかれらも、ここで火を燃やして航路を照らしていた。ずっとずっと昔の、ふるい人間も、海をわたって世界をひろげようとしていたんだ。きっとそうだ」
トキの海色をした瞳が、ひときわ輝いた気がした。まぶしくて、ユウナは目を細める。
ずっとずっと昔の、ふるい人間たち。トキの語った夢物語を、ユウナはおもしろいと思った。遠い世界へあこがれる気持ちはきっと、ずっとずっと昔から脈々と受け継がれて、今、自分のからだにも流れているのだと。そう思った。