表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/14

3

 日はのぼり、沈み、月はふくらみ、満ち満ちて、ふたたび欠けはじめる。

 いくつもの昼と夜を超え、二年の月日が過ぎた。ユウナは十六になった。すこし背がのび、からだは丸みをおび、見た目はずいぶん娘らしくなった。

 相変わらず泳ぎは達者で、仕事の合間に海へもぐって魚と遊ぶ日々。そんな、ゆったりと流れる時間のなかにあっても、ユウナを悩ませることがらはある。

 デイゴの花が揺れる初夏のある日、ユウナはひとり、芭蕉の木陰にたたずんでため息をこぼした。

――-逃げてきちゃった。とうさまと、かあさまから。

 ユウナに、嫁にいけというのだ。相手は二十歳になるライラという青年だ。

「でもあたし、まだ十六になったばかりだし、考えられない」

 そう言って、首を横にふった、もちろん。

「ぜひに、と請われたのだ」

 父は眉をさげて頭のうしろを掻いた。

「おまえにべた惚れらしいぞ。毎日毎日思いつめているそうだ。ライラの家はここから遠くないし、畑もたくさんあって豊かだし、ユウナにとっても悪い話じゃない」

「ひとめぼれ、って」

 ユウナはぎゅっと膝の上に置いた手をにぎりしめた。

「それならあたし自身に言えばいいのに。いきなり嫁にだなんて、そんな、あたし、そのひとのことそんなに知らないのに」

 ユウナを欲しいという男の、ライラという名を、聞いたことはあったがうまく像がむすべない。祭りの夜か宴の夜にちらと見かけたことがあるくらいで、その記憶はあまりにもうすく、つかめない霞のようだ。いずれにせよ、二十歳にもなって恋する娘に声ひとつかけられず、親がかりでものにしようとする男なんてごめんだ。

「ユウナ。同じ村のね、近いところで生まれ育った者同士が連れ添うのが、結局はしあわせになれるんだよ」

 母がやさしく諭すように言った。

「それともおまえ、だれかほかに、思っているひとがいるのかい?」

 ぐっと言葉につまった。そんなひとはいないとむきになって言い返すものの、むかし一度だけ会った海色の目をした少年のすがたがいまだによぎってしまうのはなぜだろう。

 ユウナはそのまま家を飛び出し、今にいたる。

 風がふき、さわさわと芭蕉の葉が揺れた。

 あれから結局、彼には一度も会うことはなかった。彼の名はなんというのか、歳はいくつか。知りたかったけど、だれかにたずねるわけにもいかない。

 サリエに止められたのだ。村の女たちで集まって機を織っていたときのこと。サリエは生まれて半年になる我が子に乳をあげていた。そのタイミングで、ユウナは何気なく「空みたいな、海みたいな、そんな色の目をした人間っているのかしら」と、話を向けてみたのだ。サリエは、しっ、とユウナのくちびるに指をあてた。

「となり村の、灯台守の息子でしょ? 得体が知れないって、避けられているという話よ」

 声をひそめ、耳元で、早口でささやく。

「うわさだけど、ね。そういえば前、見かけたことがあるわね。どっちにしろ、灯台守なんてろくなもんじゃないわ。畑もない、舟もない、漁もできないから仕方なくやる仕事よ」

「そんな言い方って。だいじな仕事じゃない。灯台の光がないと船が迷子になるんでしょう?」

 この島の南に、もっと栄えた大きな島があり、大島と呼ばれている。ユウナたちの島のひとびとにとって、貴重な、唯一の取引相手だ。灯台に光をともすのは、大陸にある国と貿易をしている大島からのたっての要望でもあるのだ。大陸と大島とを行き来する船のためだ。

 思わずむきになるユウナをサリエは制した。

「声が大きい。とにかく、あんまり人に聞かないほうがいいよ、そのひとのこと。それともまさか、ユウナ」

 じっとりしたサリエの目つきに、ユウナはあわてて首をふる。

「知らないよ、ほんとに、そのひとのこと。ただ、ちょっと気になっただけで」

 そう。ちょっと気になっただけ、それだけだ。

 乳が離れて、赤ん坊が甘えた泣き声をはなつ。サリエは、もうこのお話はおしまいと言わんばかりに、よしよしと赤子をあやしはじめた。

 得体が知れないって……ほんとうかしら。ユウナは思う。なぜあのひとが皆に避けられるの。だってあんなにやさしい声、あんなにやさしいまなざし。

 思い出すと胸の奥がじんわり熱くなって、ユウナは袂に手をあてて動悸がしずまるのを待った。たった一度、みじかいやり取りをしただけなのに、どうして自分はこんなにおかしくなるのか。

 気づいてしまうのが、怖かった。

 それに。気づいたからといって、どうにかできるものでもない。

 母のことばが耳の奥でこだまする。同じ村で生まれ育ったもの同士が連れ添ったほうがいい、それが父母の望み。ちがう村の、しかもみんなに避けられている少年だなんて。許してくれるわけがない。

 そこまで考えて、ユウナはふふっと笑いをもらした。ばかみたい。結婚のゆるしだなんて、彼は自分のことを忘れているかもしれないのに。彼には、思い人がいるというのに。

 あれから二年。彼はいまもまだ、あの、星読みの娘のことを。忘れられないでいるのだろうか。

 ……星読み。未来を見通す力があるという、星に選ばれた、とくべつな娘。

 ユウナは突如ひらめいてひざを打った。

 あの娘のところに行こう。そして、まだ結婚などしないほうがいいと、助言してもらうのだ。星読みの言うことならば両親も相手の男もすんなりと受け入れるだろう。おたがい運命の相手ではない、縁がないのだと。

 すっくと立ち上がる。思い立ったらすぐに行動にうつそう。

 いったん家にもどり、家族の目をぬすんで、こっそりと魚の干物や芋や果物をカゴに詰めた。気づかれないようにそっとふたたび家を出る。星読みに未来を占ってもらうにあたり、食物や日用品を礼として渡すのがならわしだ。星読みに選ばれた娘はどこの村にも属さず、ひとり森のはずれで孤独に暮らす。占いの報酬で食べていくしかないが、市に出かけて買い物をするのもままならない身なので、直接品物を渡すのがむしろ望ましいのだ。

 かわいそうだと、サリエは言っていた。家族とも友人とも引き裂かれて。もちろん、恋人、とも。

 神聖なガジュマルの森に続く道すがら、甘いかおりがしてふと立ち止まると、プルメリアの木立にたくさんの花が咲き誇っていた。そっと、ひと房手折る。星のかたちをした白い花たち。あの日、あの娘は、編みこんだ髪にこの花を挿していた。あれから二年、あの娘は今、十八。さぞかし美しい娘になっているだろう。

 照葉樹の森に入ると道はゆるやかな坂道になり、だんだん勾配がきつくなり、狭く細くなっていった。白っぽい岩に樹の根が無数にからみつき、気を付けないと転んでしまいそうだ。

 やがて視界に巨大なガジュマルがあらわれ、そのすぐそばに一軒のちいさな家を見つけた。ガジュマルの気根が触手のように伸び、家にまで絡みついている。その奥にはガジュマルたちの森が広がっている。

 ここだ、とユウナはつぶやいた。茅葺の、ユウナたちの村の人間がすむのとなんら変わりのない素朴な住まいで、聖なる仕事に一生をささげる巫女にはふさわしくないようにも思えたが、ここ以外に家らしきものはない。星読みの住む家。

 水の流れる音がする。すぐそばに泉水が湧いているのだろう。

「占いですか」

 背後から声をかけられてびくんと震えた。細いけれど芯のある、透き通るような、鈴の音のような声。ふりかえると、少女がいた。いつかそのすがたを垣間見た少女そのものであった。ゆたかな黒髪は腰のあたりまであり、木漏れ日をうけて艶めいている。ユウナよりあたまひとつぶん背がひくく、目がくるんと丸くて幼い顔立ちも相まって、ユウナと同じか、もしくは年下にすら見える。

 星読みの娘は水桶を手にしている。泉に汲みに行っていたのだろう、わずかに息がはずんで、白い肌も桃のように上気している。

「あっ、えっと」

 ユウナはなぜかどぎまぎした。

「持ちます、それ」

「お構いなく、自分でやるわ」

 娘はにっこりとほほ笑んだ。

「あなた、両手が荷物でふさがっているじゃない? すてきな香りがするわね、それ」

 ユウナの右手には土産を入れたかご、左手にはプルメリアの花房。ユウナはすっと、花を差し出した。

「あなた、に」

 娘はみずからの顔をゆびさして首をかしげ、ユウナがうなずくと花開くように笑んだ。

「ありがとう。このお花、大好きよ」

 受け取った花房に鼻をうずめ、うっとりとその香りに酔いしれながら、娘はわずかに瞳をうるませた。一瞬、だけ。

 娘にうながされて家に入る。ユウナの家と変わらぬぐらい質素で飾り気がない。だけどすっきりと片づけられ、清潔な空気に満ちている。

 出された水を飲む。つめたく清らかで、ほんのり柑橘系のさわやかな香りがする。

「島みかんをいただいたから、果汁をしぼって入れてみたの」

「とっても、おいしい」

 ユウナはごくごくと一気に飲み干した。からだじゅうに染み渡るようだ。ここまで来る長い道のりの中、ユウナはなにも口にしてはいなかった。喉がからからにかわいていたのだ。

「あ。ごめんなさい、あたしったら」

 あっという間にぜんぶ飲んでしまうなど、自分の子どものようなふるまいが恥ずかしくなり、ユウナが縮こまっていると、娘は

「気にしないで。いくらでも飲んで」

 と、ほほ笑んだ。おかわりを注ぎに立った娘の足首で、貝の飾りが揺れている。

「すてき、それ」

「ありがとう」

「それも、占いのお礼にもらったの?」

「ううん、これは……」

 娘は答えあぐねている。長い髪を揺らして振り返ると、

「それよりあなたの話をしましょう。ユウナさん」

 と笑顔になった。

 どきりとした。心臓をつめたいものが撫でた。

 まだ名乗っていないのに、この娘は自分の名を知っている。

「あなたのことは、ずいぶん前から知っているの」

「リゼ、さん」

「リゼでいいわ」

「リゼ。あたし、は……」

「心配しなくていい。なにも悩むことなんてない。お父様やお母様のすすめる相手は、あなたの夫にはならない。あなたと結ばれるべき相手は、ほかにいるの」

 見透かされている、すべて。いまの自分がかかえている悩みも、まだ自分も知らない自分自身の未来すらも。これが彼女のちから。

 サリエの話とはぜんぜん違う、と思った。サリエが相談に訪れたときは、リゼは彼女の話をただうなずいて聞くだけで、結局、決断を下したのはすべてサリエ自身だったという。それでも彼女は満足げであったが。

 リゼはそっと、とまどうユウナの手に自分の手のひらをかさねた。冷たくてすべすべした、陶器のような肌の質感。触れあっていると、じんわりとぬくもりを帯びてくる星読みのちいさな手のひら。なにも、なにも心配しなくていい。ほんとうに、そんな気持ちになってくる。

「ユウナ」

 自分の名を呼ぶリゼの声は、どこか切なげにひびいて。ユウナは思わず、リゼの手をぎゅっと握り返した。そうせずにはいられなかった。ことばにならない思いを、リゼは自分に伝えようとしている、そんな気がして。


 日が暮れ始める前に、ユウナはリゼの家をあとにした。まだ明るいうちに森をぬけたほうがいい、とリゼが忠告したのだ。何度もふかぶかと頭を下げ、笑顔でリゼに手を振ってユウナは去った。

 遠ざかるそのうしろすがたを見つめて、リゼは、小さくつぶやいた。

「間もなく。間もなくあなたは出会うわ。星がさだめた、たったひとりのひとに。あのひとに」

 あまりにはかないそのつぶやきは、ガジュマルの森から吹く風にさらわれ、ちりぢりに舞って消えた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ