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マルボロ

作者:

 朝の肌寒い廊下から体育館に入ると、もやっとした空気が(ひいらぎ)奈緒(なお)の肌に纏わりついた。何百人という生徒が集まって、ステージには目もくれず雑談を交わしている。大まかな整列が済んで、教師がマイクに手を掛ける。

「これから生徒会役員任命式を行います。静かに、静かに」

 教師が言うと、少しずつざわめきが静まっていった。胸に紅白の記章を着けた生徒達がステージに上がると、話し声は一気に消えた。囁き声で息の漏れる音だけが残った。

「選挙により信任が決まった生徒会長、副会長、書記を任命します。生徒会長、二年四組、神崎(かんざき)(あざみ)。前へ」


 ***


 四時限目の振鈴が鳴った。生徒達は弁当箱を取り出し始める。柊は腕時計を確認した。椅子に掛けていた黒いマフラーを取って教室を出る。柊は左右の廊下を見て、人が少ない方にゆっくりと歩き出す。

「聞いた? AVにここの生徒出てたって話」

「何それマジ超気になる」

「AVてか援交って話じゃん」

「実は二年のアザミとかじゃね?」

「あ、あり得るかも」

 柊は教室の方をちらっと見て、ポケットから携帯を取り出しイヤホンを繋げた。黒いショートカットの髪を掻き上げイヤホンを耳につける。ガールズ・ロックの音楽がイヤホンから溢れ出す。柊はブレザーのポケットに手を入れて俯きながら角を曲がった。制服のスカートが遠心力でちょっとだけ傾き、すぐにふらふらとした動きに戻る。

 柊は学校を出た。口から白い息がタバコの煙のように長くすーっと出る。柊はマフラーを巻いて口元を隠した。

 やがて学校から少し離れたコンビニに着いた。中に入ってすぐにパンをひとつ取り、あたたかい紅茶のペットボトルを手に取った。

 すると同じものを誰かが棚から取った。同時に視界に学校の制服が入った。すぐに柊の視線が手の主へと移る。

 長い黒髪、細身の長身。

 神崎薊だ。

 神崎は柊の瞳を覗きこんだ。柊はすぐに目を逸らし、足早にレジへと向かう。小銭を出してパンと紅茶を受け取り、コンビニの外へ出る。

 肩がぐっと後ろに引っ張られた。わっと白い息が舞い、ガールズ・ロックが遠ざかる。

「無視すんなよ」

 振り返ると、神崎が柊の左側のイヤホンを持って立っていた。

「す、すいません」

 柊は急いで右耳からイヤホンを外した。神崎はイヤホンを持ったまま言う。

「何、私のこと嫌いなの?」

「いえ、そういうわけでは」

「じゃあ会釈ぐらいしなよ。スカーフで学年ぐらい分かるでしょ。それとも気づかれてないと思った?」

「あ、……すいません」

 柊は神崎から目を逸らした。ブレザーの胸ポケットにタバコの箱が入っていた。柊の肩を掴んだまま神崎が柊を睨みつける。柊は口をぱくぱくさせて意味のない言葉を発している。

「……まあいいや」

 神崎はぱっとイヤホンから手を離した。柊はイヤホンを仕舞いながら神崎の様子を窺っている。

「戻んないの? 間に合わないよ」

「あ、戻ります……」

「じゃあさっさと戻れ」

 神崎は柊を払う仕草をした。柊は神崎に背を向けて、小走りで学校へと戻った。パンは途中で歩きながら食べた。紅茶は手を温めてから、少しずつ飲んで途中のごみ箱に捨てた。

 学校に入ると柊はマフラーを外した。イヤホンを取ろうとした手は空を切った。

「あ、あいつ帰って来た」

「いつもどこ行ってんだろ」

 教室に着くと、ちょうど五時限の始まりを告げる振鈴が鳴った。柊はすまし顔で席に着き、学生鞄から教科書とノートを取り出した。


 ***


「起立、礼」

 柊は小さく礼をして、学生鞄を肩に掛けた。黒いマフラーを首に巻き、足早に教室を出ていく。廊下を歩きながら、ポケットのイヤホンを取り出して携帯に繋げる。

「ねえ、そのマフラーおしゃれだね。どこで買ったの?」

 柊が振り返ると、同じ組で見たことのある女子生徒が居た。口元を隠したまま柊はもごもごと言った。

「……え、何で?」

「買ったお店とか教えてほしいなって思って」

 柊がじっと彼女を見つめる。微妙な間が生まれて彼女が苦笑いを挟むと、柊は言った。

「……えっと、原宿」

「あ、原宿!? すごーい。原宿のどこ?」

「あー、それは……忘れた」

「そっか。あ、今日この後暇?」

「ごめん、暇じゃない」

「あ、まじか。良かったら一緒にどっか行こうかと思ったんだけど」

「また誘って」

「あ、うん。また誘うね。じゃあね」

「うん」

 柊は彼女に背を向けて、イヤホンを耳に付けた。

「何あれ、感じ悪」

「せっかく話しかけてあげたのにね」

「また誘ってって上からじゃん」

「ていうかあれおしゃれかよ」

「いや言ったけどホントに思ってるわけな――」

 女子生徒の声を、ガールズ・ロックの爆音が掻き消した。


 ***


 校門を出ると柊は左へ曲がった。他の多くの生徒達も左へ曲がる。駅を利用するためだ。直線の道路の先には高架線が見えていて、数分おきに電車が走り抜けている。

 柊は途中でもう一度曲がり、小さな道へ入った。陽が落ちかけていて薄暗い。しばらく歩いて大通りの生徒達が見えなくなったところで左に曲がる。そのまま柊は二十分ほど歩き続けた。地図上では、学校から駅の反対側へと向かっていることになる。

 やがて柊はコンビニに到着した。中に入り、窓際の雑誌コーナーの前で鞄を下ろす。漫画雑誌を手に取って、開いたページに目を落とす。

 先週からの続きだ。災いをもたらしていた龍を主人公が倒した後から始まっている。主人公がヒロインに駆け寄る。主人公の言葉にヒロインが涙する。仲間達が駆け寄り、ヒロインの身を案ずる。龍から冒険の新たな手掛かりを見つけて仲間達と励まし合う。主人公はかつての約束を思い出し、改めて決意を胸にする。

 柊の手がどんどんページをめくっていく。主人公の前に新たな敵が現れて、今週の連載が終わった。柊は溜息をつき、凝った首をくるりと回した。

 その瞬間、窓の外に学校の制服が見えた。柊は首を止めてその人物を凝視した。柊に背中を見せていて誰かは分からない。長髪とスカートから女子生徒であることは分かった。そしてその人物はタバコを吸っていた。

 柊の目が泳ぐ。柊は漫画雑誌を棚に戻し、鞄を肩に掛けた。

 そのとき、タバコを吸っていた生徒の横顔が夕陽に照らされた。

 神崎薊だ。

 そして神崎はその目で柊を捉えた。

「あっ……」

 柊が小さく声を漏らした。神崎は柊に気づき、じっと見つめている。柊はその場に立ち尽くす。

 すると神崎は微笑んでタバコを灰皿に捨て、店内へと入って来た。柊は慌ててイヤホンを耳から外す。

「あ、昼の失礼な人だ」

「ど、どうも」

「家どこ?」

「家は隣駅です」

「いつもここで漫画読んでんの?」

「ま、まあ」

「へえ、漫画好き?」

「はい、好きです」

「へえー。私も漫画好きだよ」

「え、ほんとですか?」

 柊は吐息のこもったマフラーをずらして口を外に出した。

 その途端、神崎が目を丸くした。柊は咄嗟にマフラーを強く握った。

「君、弓道部来たことあるでしょ」

「え、……ああ~そういえば一回だけ」

「そうそう、今顔見て思い出した。確かなー……な……奈緒ちゃん!」

「あ、はい、そうです」

「だよね。一年生でしょ」

「はい」

「よっしゃ覚えてた! あ、私ほら、弓道部の部長やってるから」

「あ……ああー!」

「おまえ忘れてたなぁ!」

 そう言って神崎は柊の脇を小突く。

「すみません」

 柊はちょっと微笑んでそう言った。

「まったくもう。暇だったら弓道部来てね。人少なくて寂しいからさ」

「はい、暇だったら」

「うん、それじゃあまたね」

「はい」

 神崎は柊に背中を向けると、左手を上げてコンビニを出ていった。

「またね……」

 柊は、神崎の後ろ姿を目で追いながらぽつりと呟いた。夕陽が高架線の陰に沈んだ。柊は再び漫画雑誌を手に取った。


 ***


 学校の廊下に朝陽が差し込んでいる。柊はマフラーで口元を隠し、廊下を歩く。ガールズ・ロックが周りの音を消していた。足音も話し声も聴こえない。柊はぼんやりと歩きながら、脳裏に焼き付いた神崎薊のタバコの煙を思い描いていた。

 突然ガールズ・ロックが消え、生徒達の話し声が耳に入って来た。

「校内で音楽を聴いたらだめだよ」

 いつのまにか柊の後ろに女性教師が居て、外したイヤホンを柊に差し出していた。

「学校の中で音楽聴くとかないわ」

「あいつ友達居なさそうだしな」

 柊はおずおずとそれを受け取り、携帯から抜いてポケットに仕舞う。

「あと柊さん、ちょっと話があるから来てもらっていい?」


 ***


 柊は教師に言われて職員室近くの個室に入った。テーブルが二個ずつ向かい合っていて、椅子と本棚と時計があるぐらいの小さな部屋だ。

「座って」

 柊が座ると、教師は対面に腰を下ろした。

「最近勉強どう?」

「まあ、ぼちぼちです」

「そっか。……学校楽しい?」

「楽しいですけど」

「楽しいかあ。良かった。……あのね、柊さんを疑ってるわけじゃないんだけど、……最近ネットで18禁のサイトに上がった動画が柊さんにそっくりだっていう噂があるの」

「え、そうなんですか」

「心当たりとかある?」

「……いえ……ないです」

「そうだよね……。……よし、わかった。ごめんね、変なこと聞いちゃって」

 教師は立ち上がって部屋の扉を開けた。その瞬間、外を歩いていた男子の目と柊の目が合った。男子は視線を外し、素知らぬ顔で通り過ぎた。

「じゃあ、一時限始まるからちょっと急いでね」

「はい、分かりました」


 ***


 コンビニに着くと、灰皿の周りに人は居なかった。柊は店内に入り、パンと紅茶を手に取ってレジに並んだ。イヤホンを外して品を差し出す。

「いらっしゃいませ」

 店員は手際良くバーコードを読み取り、レジのボタンを叩く。

「238円になります」

「30番ひとつ」

 神崎の声だ。柊は横のレジを見た。小銭を取り出している神崎と目が合った。

「おっす」

 柊は会釈して会計を済ませた。神崎も会計を済ませ、柊と足並を揃えてコンビニを出る。

「お前いつも来てたんだな」

「先輩はいつもここでタバコ買ってるんですか?」

「うん。じゃあ私は吸ってから戻るよ。またね」

「先生とか来たりしないんですか?」

「まあ来ても大丈夫。黙認みたいなもんだし。あれ、私が二十歳超えてるの知ってる?」

「え、知らなかったです」

「そっか。というかさ、奈緒ちゃんはなんでここまで来てんの?」

「私は購買でいっつも負けちゃうんで」

「なるほど。購買行ってからじゃ間に合わないもんね」

「はい」

「ふーん……あ、ごめん引き留めちゃった。じゃまたね」

 神崎は片手を上げて灰皿の方へ歩いていった。柊は会釈して学校の方へ歩き出す。コンビニが見えなくなるギリギリで振り返ると、神崎がついさっき買ったタバコに火をつけて、すーっと煙を吐き出していた。


 ***


 五時限終わりの振鈴が鳴った。柊は教室を出ると、階段を下りて教室が無い階のトイレに入った。扉を閉めて便器の蓋の上に座ると、イヤホンを耳に付けて再生ボタンを押した。

 柊は息を殺して溜息をつき、空を仰いだ。

 扉の目線よりちょっと高い所にある鉛筆の落書きが目に留まった。

「柊奈緒は売春女 by生徒会長」

 柊はしばらくそれを見つめていた。やがて顔をこわばらせ慌てて立ち上がり、落書きを人差し指でこすった。落書きはぼやけるだけでなかなか消えない。柊はイヤホンを外した。鍵に手を掛ける。トイレに入ってくる生徒の話し声が聞こえてきて、柊は鍵からゆっくりと手を放す。柊の息が乱れる。水洗を流して人差し指を水に当て、音が出ないように落書きをこすった。何十回もこすってやっと落書きは読めなくなり、黒い跡が残った。柊はもう一度水洗を流して指に水を付け、目立たなくなるまで何度も黒い跡をこすった。

 柊は落書きの無くなった扉を見つめると、指を止めて長く息を吐いた。白い人差し指の腹が黒く汚れていた。柊は反対の手の綺麗な人差し指を扉に当てた。

 授業の始まりを告げる振鈴が鳴った。柊は生徒会長と書いてあった場所を指で優しく撫でてから、扉の鍵を開けた。


 ***


 柊は夕陽の差し込む六畳間の家に帰ると、漫画やぬいぐるみで少しだけ散らかっている床に鞄を落とした。制服のまま布団に潜り込み、うさぎのぬいぐるみを抱き締めた。

「可愛いものが好きな自分が好きなんだよ」

 柊はぬいぐるみをぎゅっと抱き締めた。時計の秒針の音と電車の走る音だけが部屋に響き、その度に部屋は薄暗くなっていった。

 真っ暗になった部屋の中で、柊はぬいぐるみを抱き締め続けた。


 ***


 ピンポーン、と呼び出し音が響いた。柊が目を開くと、部屋に夕陽が差し込んでいた。

「おい、売春女」

「居留守だろわかってんだよ」

 柊はぬいぐるみを抱き締めて、身体を縮めた。うさぎのぬいぐるみが苦しそうな顔をする。

 もう一度、呼び出し音が響く。

「神崎ですけど、奈緒ちゃん居ますか?」

 うさぎの苦しそうな顔が、ふっと緩んだ。

「てか一人暮らしかな……おっと」

 突然扉が開き、制服姿の柊が出迎えた。

「どうぞ」

「よ。奈緒ちゃんって一人暮らし?」

「はい」

「ふーん。あ、おじゃまします」

 神崎は丁寧に靴を脱いで部屋に上がると、真っ先にベッドの上に腰掛けた。

「あ、奈緒ちゃん座って」

「先輩、私の家ですよ」

「そうか、ごめんごめん」

 神崎は笑いながら言う。柊はふっと微笑んで、神崎の隣に腰掛けた。

「今日漫画読んだ?」

「いえ、読んでないです」

「あ、読んでないのか」

「体調悪かったので。明日読みます」

「そっか……。奈緒ちゃんどんなの読んでるの?」

「私は少年漫画読んでますね」

「そうなんだ。ジャンプとか?」

「はい」

「お、私も読んでるよ。ドラゴンチルドレンとか」

「あ、それ私も読んでます」

「お、今週熱いよ!」

「待って、言わないでください!」

「リンが先週出てきた敵とね、」

「うわー、うわーっ!」

 柊は立ち上がり、神崎の口を抑えようとする。

「言わないって!」

「言わないでください」

「はいはい。奈緒ちゃん少女漫画は読まないの?」

「読まないですね」

「へえー、意外。部屋とかも女の子っぽいから読みそうなのに」

「嫌なんです。妙に現実っぽくて」

「あー、わかる気がする」

「私、陰口が苦手なんです」

「へー、何で?」

「真に受けないで笑ったりできればいいんですけど、私上手く人と話せなくて、陰口がどんどん私になっていく気がしちゃうんです。だから怖くて、言われてない陰口も気になっちゃって……」

「なるほど」

「そういうのってないですかね?」

「うーん……私も前はあったよ」

「あったんですか」

「うん。他の人にはあんま言ってないんだけど、私不登校で原級したんだ」

「先輩がですか?」

「うん。あ、一年だけね。もう一年は帰国子女のせい」

 そう言って、神崎は屈託のない笑顔を見せた。

「へえ……」

「プライドが高くて周りと上手くいかなくなっちゃったんだよね。孤高を気取って嫌われちゃって。今は丸くなったけどねー」

 神崎はその場で伸びをして、胸ポケットからタバコの箱を取り出した。

「あ、ここ吸えないか」

「ベランダなら」

「なるほど。マルボロ、要る?」

「いえ、遠慮します」

「そうだよね。やっぱやめとこ」

 神崎はタバコを胸ポケットにしまった。

「私、援交したことあるんです」

「え、まじで?」

 神崎の顔が少しだけこわばった。

「最近の噂、あれ本当です。まぐれ当たりですけど」

「あ、そうなんだ……」

「やっぱり嫌ですよね、援交してる後輩って」

 柊の語気が強まる。

「いや、そんなことないけど」

「けど、何ですか」

「そんなことないけどさ、奈緒ちゃんは良い子だから」

「なんで分かるんですか」

「分かるよ」

「冷やかさないでください」

 柊は神崎を見つめながら、肩を上下に動かして呼吸していた。神崎は静かに言った。

「ほんとだって。わかるんだ私。弓道結構やってたから、振る舞いとかで」

「……そうなんですか」

「うん」

「……そうなんだ」

 柊の肩の動きが、少しだけ小さくなる。

「ほんとだけど、もうやめな」

「……はい」

 柊は深呼吸をして顔を伏せた。神崎はそれを見て、柊の頭をぐいっと抱き寄せた。

「……タバコくしゃい」

「奈緒ちゃん、本当はなんか……間違ってるって分かってるんだよね」

「……ひゃい」

「一人暮らし、寂しい?」

「……うん」

「そっか。……今度うちに遊びにおいで」

「……いきます」

「よしよし」

 神崎は柊の頭を撫でる。柊は神崎の胸にうずまりながら神崎を見た。神崎は柊を見て、柔らかく微笑んだ。


 ***


 ガールズ・ロックが鳴り響く。柊は西陽に染まる肌寒い廊下を早足で歩く。二つあるうちの、人気が少ない方の階段へ続いている。何気無く途中の掲示板を見ると、一枚の貼り紙が目に留まった。

「職員会議にて最近の本校生徒による援助交際の噂について調査することとなり、結果が出たので報告致します。本校学生が援助交際をしたという噂は事実に基づくものではないと判明致しました。これからはそのような噂を流すことは厳に慎むとともに、各々が本校の生徒としての誇りを持ちながら学生生活を送ることを祈ります。

 神崎薊」

 柊はそれを読み終えると、またゆっくりと廊下を歩き始めた。階段の手前で流れていた曲が途切れる。

 階段下からの男子達の声が、柊の耳に飛び込んだ。

「いや、実際ビッチだろ」

「わかる。ふわふわ系ビッチってやつ?」

 柊の足が止まった。その膝が、ひとりでに震え出す。

「柊だろ?」

 柊の呼吸が乱れる。その場に立ち尽くしたまま肩が上下に荒々しく動く。

「やめてくれ」

 階段の下の方から、声が聞こえた。

「え、すみません」

「私の後輩なんだ」

 イヤホンから再びガールズ・ロックが鳴り響いた。

 柊の目から涙がぼろぼろと零れた。肩が震え、顔がくしゃくしゃになった。

 神崎が階段を上って来て夕陽を背に受ける柊に気づいた。

「あ、奈緒ちゃん。漫画読みに行くの?」

 柊は数段下の神崎に飛び付いた。

「うわっ! あぶな」

 神崎は慌てて柊を受け止める。柊は両手を神崎の頭に掛けて、一段上から顔を近づけた。それでもちょっとだけ柊の方が低かった。

 そのまま柊は、神崎に顔を近づけていく。

「え、ちょっ」

 柊は神崎の目を見つると、イヤホンを外してそのまま手から離した。階段に落ちてコンッ、と音を立てる。

「口は使ったことないので」

「そういう問題じゃないって」

「駄目ですか」

 神崎は泣き腫らした柊の顔をじっと見つめた。

「……やっぱそっ――」

 神崎が口を開く直前、柊は神崎の唇に自分の唇を重ねた。神崎の生の体温が柊に伝わる。柊の舌が神崎の舌に当たる。柊は神崎を求めるように唇を押し付ける。舌と舌が絡み、ねっとりと唾液が混ざり合う。口の端から垂れた唾液がスカーフを濡らす。

 やがて息が詰まり、柊は唇を離した。二人の唾液が唇と唇とをだらりと伝った。柊は制服の袖で唾液を拭った。

「タバコの味がする」

「……病みつきになるだろ」

「でも身体に悪いような気がします」

「うん、一回きりにしてくれ」

 神崎は柊から目を逸らして言った。

「はい」

 階段に垂れたイヤホンから、ガールズ・ロックが鳴り響いていた。


 ***


 柊は射場に横向きに立ち、地面と垂直に弓を構える。弦を引き、矢羽を掴む右手が顔の前に来る。短い茶髪の間に覗く柊の目は、真っ直ぐ的を見据えている。ふらふらとしていた黒い袴が静止する。木の葉の擦れる音と蝉の鳴き声だけが聞こえてくる。柊は右手を離した。弦が一瞬で胸当ての前を横切り、矢が風を切って飛んでいく。ばすっと言う音が小さく響いて矢が消えた。目を凝らして確かめると、矢は的の図星に刺さっている。

「出たー柊先輩の上手いアピール」

「そのために一番乗りしてるんですよねー」

 柊が前を見ると、弓道着の女生徒が二人、柊を見てにやにやとしている。

「悔しかったら上手くなってみろバーカ」

 柊は舌を出して、これでもかという見下した顔を作って言った。

「上手くなりますしバーカ」

 女生徒の片方が言った。

「おい今先輩にバカって言っただろ」

「言ってません」

「ははは」

 女生徒のもう片方が笑う。

「ちくしょー覚えてろよ」

 柊は歯を食いしばりながら、矢場へ顔の向きを戻す。顔の左側で、後輩達に見えないように微笑んだ。

 柊は息を深く吸って、弓を構える。顔の前まで矢を引いて、静止する。

 木の葉の擦れる音と蝉の鳴き声だけが聞こえてくる。

 柊は微かに震えている右手を離す。右手は力を解かれ、ふわりと宙に舞う。


「先輩って何でタバコ吸い始めたんですか」

「あー……。……踏ん切りがつくかなって思ったんだ」


 ばすっと言う音が響く。


「おいしいんですか」

「慣れたらね」


 柊は微笑んで、息をすーっと吐き出した。

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