3-1話 理不尽な選択
「あれ?母さんいないね」
テントに戻ったが、アルファさんの姿はそこにはなかった。たださっきまで居たらしく、飲みかけのコーヒーが置きっぱなしだ。その隣には新聞が開いてある。
「トイレかな?ま、いいや。よごれるまえにきがえよ」
クロの言う通りだと私も元の服に着替える。ゴアゴアとした麻の服に着替えると、なんとなくほっとした。やっぱり舞台衣装は肩がこる。
携帯電話を衣装のポケットから取り出すと、忘れないうちに自分用の鞄に入れた。私の荷物はこの小さなカバンに詰まったものだけだ。基本的に服は着まわしというか、団員のお古がまわってくるし、ママもあまり荷物をもつ方ではなかったので鞄一つで事足りている。
服をたたみ衣装ケースに戻した私たちは地べたに座った。
仕事が全くないというのはあまりないので、こういう時何をすればいいのか分からない。困ったすえ私は机の上にあった新聞を手に取った。
「クロ。何が書いてあるか分かる?」
新聞は龍玉語で書かれているのは分かるが、縦書きか横書きかさえ分からない。一応イラストを入れてくれているがそのイラストにすら文字が入っており、さっぱりだ。
「……んーと、えーっと……んんんん」
「ごめん。そんなに読みたいわけじゃないから」
新聞とにらめっこをして唸るクロに、私はすぐさま謝った。どうやらクロにとって新聞はまだ難易度が高いようだ。確かに6歳で新聞がすらすら読めたらかなり凄いだろう。
「えっと。ならクロって、どう書くの?」
「それならわかる。ちょっと待ってって」
そう言ってごそごそと道具箱をあさったクロは、羽ペンと紙を取り出した。そこに大きく文字を書くと私に渡してくれた。
「ク・ロー・ド。これがりゅうぎょくごで、こっちがホンニこくご。オレはホンニこくうまれだから母さんがおしえてくれたんだ」
「えっ。クロ―ド?」
アルファさんをはじめ、皆クロクロ言っていたので、てっきりクロが名前だと思っていた。そうか、愛称だったのか。新たな事実だ。
「なまえをかくときは、くろーどってかけって、母さんいってたんだ。で、ひとまえでは、クロってなのれってさ。だれにもいっちゃいけないっていってたけど、オクトはとくべつな」
それって……本当に愛称?
特別は嬉しいが、ちょっと荷が重い気がするのは気のせいだろうか。とりあえずクロがくれた紙をどうするべきかと迷う。
「えっと……」
「それやるな。オレのサインはきっとしょうらいたかくうれるから」
返そうと差し出したが、断られてしまった。どうしよう。
悩んだ末、とりあえず後でアルファさんに相談する事にした。もしかしたら考え過ぎかもしれない。ドキドキしながら、私はクロのサインをカバンの中にしまった。これも携帯電話と同様見つからないように奥の方に入れる。
「あら、もう帰ってたの?早かったじゃない」
「母さんただいま」
突然声をかけられて、私は慌ててサインから手を離した。
「クロ、オクト、おかえりなさい」
「ただいま」
サインの事を早く伝えてしまいたかったが、挨拶をしないとアルファさんが怖いので、先にちゃんと挨拶をする。
「ちょうどよかったわ。2人に大切な話があるからちょっと聞いてくれる」
いざ名前の事を話そうとすると、先にアルファさんが話し始めてしまった。大切な話とは何だろう。この旅芸人一座の事だろうか。
話の腰を折るのもアレだし、名前の事ならばいつでも聞けるので、私はコクリと頷いた。
「たいせつなはなしってなに?」
アルファさんは私たちと同様に地面に座ると、黒い瞳でまっすぐ私とクロを見た。
「この町での公演が終わったら、この一座を抜けるわ」
……へ?
思ってもみない言葉に私は目を見開いた。稼ぎ頭のアルファさんが抜ける?
「団長にも許可はとれているから、明後日の公演が最後ね」
何の話をされているのか理解できずに私はアルファさんをただ見つめた。今は凄く安定しているはずなのに何故?しかも団長が許可したって。
どんな風に話したのかは分からないが、この話は希望ではなく決定事項という事だというのは分かった。
「母さん!じゃあオクトはどうするんだよ」
「それでね、オクト。もし良かったら、私たちについてこない?」
「えっ、オクトもいっしょ?」
「ええ。ただし、オクトが承諾してくれたらだけど」
「もちろん、くるよな!」
クロがニコニコと私に笑いかけてくる。
でも私はどう答えていいのか分からなかった。一緒のテントに入れて貰っているが、私とアルファさんは赤の他人だ。
「……どうして?」
「それはどうして抜けるかってこと?それともどうして一緒にこないかと誘っているのかっていう意味?」
「どちらも」
いきなりすぎて、私は混乱していた。
何が最善なのか理解するだけの情報と時間が欲しかった。ここでアルファさんの話を承諾しついて行くのが一番簡単で楽だと分かっている。でも本当にそれでいいのだろうか。
「まずなんで出ていくことを決めたのか。それはこの一座が次はホンニ国へ行くことが決まったからよ。でもね、この新聞にホンニ国の王様が殺された事が書かれてたの。次に控えているのはその弟。きっとしばらく荒れるわ。そんな危険な場所に行きたいわけがないでしょ」
「……詳しい」
「ええ。一応腐っても生まれ故郷だから、チェックは欠かさないようにしているの」
いやいや。生まれ故郷は腐りません。そんなどうでもいいツッコミが心をよぎるのは、たぶんまだ頭がちゃんと働いていないからだろう。
「団長にそれだけ危険だと伝えれば--」
「団長の考えでは、弟が即位するから、国中がお祭りになるだろうという予想よ。だから祭り会場で公演をさせて貰おうって思っているの。それも確かに一理あると認めるわ。私の意見と団長の意見があれば、団長の意見が優先されるのは当然。でも私は行きたくない。だから抜けるの」
アルファさんの話は筋が通っているような気がする。でもどこかおかしい気もした。
何故荒れるとと思うのだろう。兄が殺されたのは、弟が関係しているのだろうか。だとしたら兄弟の仲が悪のはホンニ国では公然の秘密だったりするとか?……分からない。
「それと、何でオクトを引き取りたいかだったわね。それはオクトが親友の娘だからよ。ここで一人で生活をするのは大変だわ。オクトは一人で生きるにはまだ幼すぎると思うの」
アルファさんの言い分は正しい。はたしてアルファさん達が居なくなった後、私はここでやっていけるだろうか。残念な事に私は、まだ買いだしもまともにできない年齢なのだ。
特技も歌うだけで、混ぜモノである物珍しさぐらいしか売りがない。そして混ぜモノである事は、いい面と悪い面を両方兼ね備えていて、どちらかと言えば後者寄りだ。
「ただ一緒に来てもここよりもいい生活はできないわ。むしろ悪くなる可能性が大きいわね。だけど貴方にはまだ保護者がいると思うの。そして私はそれになれるわ」
赤の他人である自分に、そんな事を言って貰えるのがどれだけありがたいことかは分かっている。
ただどう判断していいのかはやっぱり分からなかった。まだ働く事の出来ない自分は、ついて行ったとしても、アルファさんに迷惑をかける事しか出来ない。
「分かったわ。これはオクトにとって大切な事だものね。明後日まで、よく考えておいて」
何も返事する事ができない私に、アルファさんは考える猶予を与えた。私は5歳児なのだから問答無用という事もできたはずだ。それどころか、いい面しか話さない事だってできる。でもアルファさんは違った。私が考えられるように情報を与え、なおかつ返事を待っていてくれる。それだけでも、何ていい人なんだろうと思う。
でもだからこそ私はどうしていいのか分からなかった。