8-1話 不思議な伯爵邸
「父上。オクトが、驚いていますから、悪人面は止めて下さい」
「……そうか」
驚いたを通り越し、いっそ恐怖を感じていたのだが、伯爵様の少し残念そうな声を聞くと首をかしげたくなった。あれ?もしかしていい人?
「本当よねぇ。この人、顔の筋肉が退化しているからごめんなさいね」
っ?!この人いつの間に?
喋りかけられた事で、初めて伯爵様のななめ右に女性が居る事に気がついた。茶色の髪に紅い瞳をした細身の女性は、伯爵様やアスタのような派手な顔ではない。不細工とかそういう事もなく、少し垂れ目だなぁとは思うが、普通だ。あまり特徴のない顔立ちといえばいいのだろうか。
「母上も、気配を消すのはおやめ下さい」
「あら、嫌だわぁ。私はそんな事してなくてよ。普通にここで立っていただけよ」
「母上の普通は、俺らと違うんです」
普通に立っていたっけ?
記憶を探るが、伯爵様ばかりに気を取られて、全く記憶に残っていない。良くも悪くも伯爵様が濃い方なので、余計影が薄く感じるのだろう。アスタとはあまり似ていない母親だ。
「初めまして、オクトちゃん。私はアスタリスクの母親のウェネルティよ。ウェネお婆様って可愛く呼んでね」
……訂正。彼女の性格が、まるっとアスタに引き継がれている。
「駄目です。まだ俺も、お父様って呼ばれてないんですよ」
「あらあら。アスタちゃんったら、とんだ甲斐性なしね。引き取ってから結構経つでしょうに」
「こちらにも色々あるのです」
伯爵様は、この頓珍漢な会話の間も、表情筋を崩さず、じっと私を見ていた。表情筋が退化しているのは本当かもしれないが、伯爵様の意図が見えない。
「あ、あの。アスタ……リスク様。降ろしていただけないですか?」
できれば、伯爵の視界から消えたいですといいたいところだが、それは無理だろう。ならばせめてまっすぐ見つめ合う状況だけは回避したい。
「えー」
…何で渋る。痩せており、発育も悪いので、普通の5歳児よりは軽いと思う。それでも、紙のように軽いかと問われればそうではない。降ろしてしまった方が楽だろうに。
「アスタちゃんが嫌なら、お婆様の方へ来ない?」
「……ご遠慮します」
幼児扱いされるのは初めてではないだろうか。
正直、恥ずかしいよりも、どうしたらいいのか分からず困惑してしまう。ウェネに何か思惑があるのかどうかも、まだ分からない。
「そう。残念だわぁ。娘はお嫁に行ってしまっていないし、アスタちゃんもヘキサちゃんも、だっこさせてくれないし。男の子って嫌ねぇ」
ウェネは小柄ではないものの、アスタより小さく細身だ。抱っこするのは体格的に無理なように感じた。
「そういう事を言うから、ヘキサも学校の寮に入るんです」
学校という事は、ヘキサさんというのは、まさか今年院を卒業するアスタの息子の事?!
いや、その人も物理的に抱っこは無理だと思う。このお婆様、色々常識が吹っ飛んでいる。
「酷いわ。アスタちゃんはいつも私を苛めるんだから。オクトちゃん、お婆ちゃまを慰めてぇ」
「とにかく、オクトも俺も長旅で疲れているんです。話がそれだけでしたら、失礼しますよ」
どうしても抱っこがしたいのか手を伸ばしてきたウェネに、アスタはピシャリと拒絶すると、少しだけ距離をとった。もしかしたら、アスタが私を抱っこしているのは、ウェネ対策かもしれないと気がつく。でも、何で?
「待て」
伯爵が低い声でアスタの動きを止めた。伯爵様の視線は、私に向いている。その紅い瞳が怖くて逃げ出したくなったが、ぎりぎりの所で目をそらさず踏みとどまった。罵られたって仕方がないと覚悟してここまできたのだ。
さあ、どんとこい。思う存分罵るがいい……嘘です。少し手加減してくれるとありがたい。
「私の名は、セイ・アロッロという」
「……オクトと申します」
伯爵様が名前だけ言って、じっと私を見つめたので、慌てて空気を読んだ。たぶん、名乗ればいいんだよね?間違っていないかドキドキする。自己紹介が必要なら、名を名乗れと分かりやすく命令してくれればいいのに。ちゃんと空気が読めるかヒヤヒヤものだ。
「私の事はセイお爺様と呼びなさい」
……貴方もですか。
私はアスタの腕の中で、どっと疲れを感じた。
◆◇◆◇◆
「貴族ってめんどくさい」
私は伯爵家2日目の朝にしてすでにうんざりしていた。
何故1日に何度も服を着替えさせられているのだろう。夜の寝巻に着替えるのは理解できる。起きてから部屋用のドレスに着替えるまではまだ納得できた。しかしその後外出するわけでもないのに、3時のお茶の時間に1度着替え、夕食時にまた着替える意味がわからない。アスタに言わせると貴族の女性は、お茶と夕食の間にもう1度着替える事もあるそうなので、まったくもって理解不能だ。
貴族の方々に1度問いたい。何故着替えた?と。
これでは、着替えだけで1日が終わってしまう。しかし貴族の生活はそれで構わないらしい。と言うのも、家事などは全てメイドや執事がやってしまうので、家ではやる事がないのだ。なんて恐ろしい生活。女性が唯一してもいいのが、刺繍又はレース編み。……これだけって、何、その拷問。
「私も働きたい……」
やる事がない事が、これほどつらいとは。
いや、アスタとの生活でも感じていたけれど。仕方がないので、文字の練習をしているが、つらい。そろそろ飽きてきた。かといって、我儘を言ってメイドさんを困らせるわけにもいかない。一緒に窓ふきさせて下さい何て言ったら、メイドさんが怒られそうだ。実際、服の着替えの手伝いを断ったら、泣きそうな顔をされた。……あれは申し訳ない事をした。
文字の練習にも飽きた私は、紙を正方形に切って、折り鶴を折りながらため息をつく。これではボケそうだ。何か私でもできる事はないだろうか。
「そういえば、山に行ってもいいとかってアスタ言ってたっけ」
窓の外を見て、来た時にアスタが言っていた事を思い出した。
山で何ができるか分からないが、家の中でじっとして、文字の練習を永遠としているよりはマシのように思えた。
『メイドさんへ。いつも、ありがとうございます。プレゼントです。オクト』
手紙と折り鶴を机の上に置くと、私はドアの方へ向かった。1人で窓から脱走という手もあるが、迷惑がかかる事も分かるので、正式にアスタにお願いするつもりだ。安全運転第一。危険は冒さない。それが誘拐された時に学んだ事だ。危険なフラグは全て叩き折るに限る。
「オクトお嬢様、何かご用でしょうか?」
廊下に出ると、笑顔の執事にばったり会った。何故いる。
他意はないとは思うが、監視を付けられているように感じた。アスタが一人暮らしをするのもよく分かる。
「アスタ……リスク様に会いたいのですが」
「アスタリスク様は、早朝から外出なされております」
何だって?
咄嗟に逃げやがったと思ってしまったのは、仕方がない事だと思う。きっとここでの生活に耐えられなくなったに違いない。
さて、アスタがいないとなると、誰に外出の許可を取ったらいいのだろうか。
「それとオクトお嬢様。我々に敬語は不要でございます」
「そう言われましても……」
敬語で話されると、敬語を返さなければと思ってしまう。特に私は、アスタの養子という立場だ。政略結婚にも使えない私では、今後もずっと養子でいられる保証はない。そう考えるとあまり無茶はできないように思う。いつか私も彼らと同じ立場……むしろ混ぜモノである私は、彼ら以下になる可能性大だ。その時、今無茶をやった事が巡り巡って私に返ってくるとも限らない。
うん。礼儀は忘れちゃいけない。
「あの。少し山へ散策に行きたいのですが、どうしたらいいですか?」
濃い緑の髪をした執事を見上げると、小さくため息をつかれた。敬語はそんなに駄目ですか?
「……旦那様に許可をいただくのが一番かと思います」
マジか。
いきなりボス対決とはついてない。外出を諦めるべきかと思うが、アスタと明日会えると限らなければ、会いに行くべきだろう。いくら引きこもり生活が好きでも、至れり尽くせりでやる事なし生活は拷問だ。1週間これが続くのは勘弁したい。
「分かりました。伯爵様はどちらに見えますか?」
「ご案内させていただきます」
執事が礼をしたので、慌てて私も礼をし返すと、また困った顔をされた。もしかして、これも駄目ですか?
……本当に貴族ってめんどくさい。