46-3話
パリンッ。
まるで薄いガラスが砕けるような儚い音が、音のない世界で響いた。
「俺の可愛い娘を泣かせるのは誰だ」
続く儚さ全く含まない低い声に、驚きで涙も引っ込む。
ぼんやりしていた視界も、パチパチと数回瞬きをすれは涙がなくなり鮮明に周りを映し出す。そこには私の前に立ちふさがるアスタの姿が――って、えっ?
「……アスタ?」
「うん?何だい?」
アスタは冥府の底から聞こえてくるような低い声を出したとは思えないほど、普通に笑顔で私を見た。いや。何だいって……。
まるでピンチのヒロインを助けに来たヒーローのような登場の仕方に、私は小さく笑った。会いたいと思ったけど、こんな風に現れるなんて誰が想像できるだろう。
「今すぐこの精霊族をシメるから、待ってろ」
訂正。笑えません。本当に笑えません。大切なことなので2度言ってみましたのノリで、心の中でツッコミを入れる。
ヒーローはそんなセリフ言っちゃいけないと思う。
「あ、アスタ、ストップっ!」
私は話を聞かずに、今にもトキワさんに攻撃魔法をかましそうなアスタの服の裾を引っ張った。このままでは、アスタとトキワの大決戦が行われてしまう。いやいやいや。精霊と魔族が最終決戦などしたら、私はたぶん魔法に巻き込まれて一瞬で死にいたる気がする。うん。何その罰ゲーム。
ここにはゲームの世界のような魔法があるけど、ゲームのようにやり直しはきかない。ゲームオーバーしたら、私の人生はそれまでだ。
「なんで止めるんだい?この精霊族がオクトを泣かせたんだろう?」
「ち、違うから」
そもそも泣いてしまったのは、自分がとても貪欲で、弱いから。本当は大切なものを一つだけ選ぶ事ができれば悩む必要なんてないのだ。だけど私にはエストとコンユウを助けたいけれど、アスタ達と離れたくないという相反する気持ちがある。2兎追う者は1兎をも得ずという諺が日本にはあったが、まさにその通りな状況だ。
「そうじゃ。オクトは、お主と離れたくないと泣いておったから、わらわの所為ではない」
「えっ。オクトは俺の所為で泣いているわけ?オクト、ごめんっ!」
ガバッとアスタに抱きしめられ、私は予想を裏切っていく斜め上の流れに首をかしげた。いや、明らかにアスタの所為じゃないような。
というか、私は今すごくはずかしい事をトキワさんに暴露されているような。
「あー……とりあえず、アスタの所為でもないと思う」
色々、引きこもりたくなるような現実だが、私はなんとか踏みとどまって、アスタの暴走を止めるために言葉を口にした。謝る必要はないから、むやみにくっつくのも止めてもらいたい。このままでは、恥ずかしさで、踏みとどまりきれなくなる。
「それにしても、社の守りを壊しおって。魔力馬鹿共め。じゃから、わらわは魔族は好かんのじゃ」
「何を言ってるんだ?俺の娘を拉致しておいて」
「別にわらわが拉致したのではなく、オクトの方からわらわについてきただけじゃ」
トキワさんがため息混じりに話すと、アスタは私を抱きしめるのを一度止め、噛みつくように詰め寄った。
しかし私なら裸足で逃げ出しそうなアスタの恐ろしい雰囲気でも、トキワさんはしれっとした様子だ。さすがロリババア。長生きなのは伊達じゃない。
「あれは付いてきたじゃなく、強要したって言うんだよ。とにかく、話が終わったなら、俺はオクトを連れて帰らせてもらう」
「えっ。ちょ。待った!」
何、私の話を聞かずに帰ろうとしてるわけ?
いつもなら流されやすい私だが、今は流されちゃいけないとさすがに分かる。だって私は何も選んでいないし、これは私が選ばなければいけない事だ。
「嫌だ。待ったらオクトは俺以外を選ぶんだろ?」
「えっ?」
私を見るアスタは、とても悲しげな目をしていた。
まだ何も話していないけれど、これは私がどんな選択で悩んでいるのか知っているのだろう。その場に居なかったので、どうやって知り得たのかは分からないが、チート魔族様なアスタならあり得ない話でもない。
ただ知っているという事は、私がアスタを選ばなかった時、どうなるのかも知っているのだろう。
「オクト、お願いだから行かないで」
アスタの言葉は毒のようだ。
その言葉1つで私の動きを止め、間違った選択をさせようとする。
「正しくなくていいから」
善悪が分からなくなりそうだ。何も考えずにアスタを選びたくなる。
「例えオクトが俺を選ぶ事が悪い事だったとしても、俺がオクトを騙してあげるから」
傷つかないように、真綿で首を絞めるようにアスタは私を守ってくれるのだろう。きっと、エストやコンユウを選ばなかった私をアスタだけは悪くないと言ってくれるに違いない。世界中の誰もが、私が神になるのが正しいと言っても、アスタはその声が私に届かないようにしてくれるだろう。
怖いぐらいに、私は愛されてるんだな。
いまさらながらにそう思う。
甘やかされて、甘やかされて、駄目人間にする気かと思ったものだが、アスタは本気でアスタがいなければ生きていけないようなダメ人間にする気だったに違いない。なんて男だと思うが、その作戦にまんまと引っ掛かっている自分が居る。
でも……。
「駄目」
「……オクトっ」
「私は守られてばかりの子供じゃないから」
ここでアスタを選んで後悔したとして、アスタはきっと俺が悪いのだと思えばいいとか言ってくるに違いない。それはとても楽で魅力的な提案だけど、駄目だ。
私はアスタに守られるだけじゃなくて、ちゃんと対等になって、アスタを守りたいのだから。
あの時、アスタが心臓を刺された時、私は後悔した。
私がもっと強ければ、アスタは私を守ろうとはしなかっただろう。私が守られるだけの存在だったら、またアスタは私の所為で命を落とすかもしれない。
「オクト、何も悩む必要はないぞ。オクトがおらんでも、この世界は回るものじゃ。それに死ぬわけではないしのう」
トキワさんのオブラートに全く包まれていない言葉に苦笑する。でもきっとそういうものだろう。
「俺はオクトが居ないと――」
「うん。ありがとう」
私はトキワさんの言葉の正しさを知っている。
アスタは私を忘れてしまった間もずっと普通に過ごしていた。居たら幸せかもしれないけれど、居なくても世界は変わらない。そして過去は、時間とともに風化し、いつかは忘れる。
「この世界の為にも、わらわはオクトに賢い選択を求める」
ふと、私は再びデジャブに襲われた。
しかも今度は強烈で、トキワさんの声が幾多にも重なって聞こえ、姿も何重にもブレて見える。あまりに情報量の多い視界から頭痛に襲われ、私は目を閉じ頭を押さえた。
「私は――」
上手く言葉が紡げないぐらいにガンガンと頭痛がする。自分の声さえも何重にも聞こえ吐き気がする。
しかしその不快感は目を閉じても収まらない。
瞼を下ろせば真っ暗なはずなのに、何故が目の前を映像が流れていく。前世にあった空港のロビー、そして墜落する飛行機、言葉の分からない異国のヒトに囲まれ身動きがとれない私。隣で何かを頼む友人――前世の記憶のようなものが走馬灯のように走っていく。
そしてそれが終わったかと思うと、次はアラジンに出てきそうな宮殿が見えた。隣で笑う男神。その男神に食ってかかる、大切な時の精霊達。
その映像が終わると、次はカミュやライ、アユムが見えた。アユムは泣き、カミュやライは何やら慌てている様子だ。クロはカズと口論していて――これは、今だろうか?
その疑問の答えを得る前に、さらに映像が飛ぶ。次はエストだった。何やらトキワさんと話している。さらにパッと切り替わると今度はコンユウが大きく映し出され、私に向かって叫んだ――。
「馬鹿って何?!」
――馬鹿っていう方が馬鹿なんだけど。
とっさに反論しようとして目を開けるが、そこにコンユウが居るはずもなく、視界の先には心配そうに私を見るアスタだけだった。
「オクト、大丈夫か?」
「あ……うん」
先ほどの強烈な頭痛と吐き気はもうない。ただ目を閉じる前とは違う光景に、私は目を大きく見開いた。
ひらひらと無数の紙が、まるで雪のように部屋の中を舞い落ち積もる。……何だこれ。
「まさか、こちらの時を干渉されるとはのう」
天を見上げ、トキワさんがつぶやく。
「干渉?」
何が起こったのかも分からない。
ただ、おもむろに私は、どこからともなく落ちてくる紙を手に取った。そして二つ折りになっているそれを開く。
『1人だけ格好つけようとしてんじゃねーぞ、バーカ』
「へっ?」
この文字ってコンユウだよね。
紙に書かれた文字は、図書館で一緒に働いている時に何とも見た気がする。ただどうしてここにコンユウの文字があるのだろう。
さらにソファーの上に乗っている紙を私は片っ端から開いた。
『性悪魔族だけじゃなくて、俺もエストも、オクトが時の神になる事なんて望んじゃいないんだからな』
『オクトみたいなチビに助けてもらおうなんて思ってないから。勘違いしてるんじゃねーぞ』
『オクトに時の神とか似合わないから』
『オクトは根暗な、引きこもりでちょうどいいんだよ』
『ものぐさなくせに、何張り切ってるんだよ。ものぐさが張り切っても何もいい事はないんだからな』
……おいっ。
心配しているのか、喧嘩を売ってるのか分からない言葉の羅列に、私は呆れればいいのか、怒ればいいのか分からない。
ただ『もうオクトが目を覚まさない姿は見たくない』という言葉に私は紙を開く手を止めた。
そうか。未来の私は時の神になったのか。
そしてコンユウは時の神になって眠っている私に会ったのだろう。私が時の神となってもすぐに混融湖が閉じる事はないらしいし、理屈的にはあり得る話だ。
でもどうやってコンユウはこのおびただしい数の手紙をこの時間へ送っているのか。今ある既存の時魔法の魔法陣にはそんなものは存在しない。未来ではその手の魔法陣が開発されたのか、それとも――。
「他の神の干渉を感じたけれど、流石時の神。やる事が派手よね」
トキワさんとアスタと私しかいない場所で、新しく女性の声が聞こえた。そして瞬きした間に、茶色いウエーブのかかった髪の少女が現れる。
「ごきげんよう、トキワちゃん」
そう言って、ハヅキは悠然と微笑んだ。
「これは、これは。樹の女神様。ご機嫌麗しゅう事で何より……」
対するトキワさんはどこか憮然とした表情でハヅキを見返した。
「……ただ。勝手に他の土地へ来るのはいかがなものかと思うのじゃが」
「勝手ではありませんわ。今はこの場所は光と闇の神が治める土地。ちゃんと訪問の許可はとっているもの」
時の神の社なのに……と思ったが、よく考えれば時の女神が司っていた土地はもうないのだ。きっと建物はそのままで、光と闇の神が治める事になったのだろう。
「なんでしたら、ムツキさんに問い合わせてもらって構わないわ」
「そうじゃな。用意周到な樹の女神がそのようなミスを犯すことはないじゃろうな。ただ今はこちらも取り込み中なんじゃがのう」
「あらまあ。それはごめんなさいね。でも私の要件はとても簡潔なので安心して」
心底迷惑そうな顔をするトキワさんに対してハヅキさんは全く意にも解していないかのように、微笑むのを止めなかった。……さすが神様。迷惑そうにされたら、私ならきっと途中で心が折れて、後に要件を回しそうだ。
もしかしたら無視してしまえるぐらい、取り急ぎの用だったのだろうか。それとも一般人と精霊族との会話だから遮ってもいいという感じなのか――。
「私、嘘大げさ紛らわしいは、詐欺と変わらないと思うの。その事についてトキワちゃんはどういう見解かしら?」
ん?
J○ROのCMで聴きそうな言葉に、私は首をかしげる。何かハヅキさんはトキワさんに騙されたのだろうか?
「それと、私の愛児を勧誘する場合は、私を通してくれないと困るわ」
「……愛児じゃと?」
トキワさんは私をジロリと音がするぐらいマジマジと見つめた。
えっ?もしかして、もしかしなくても私ですか?
とっさに助けを求めるようにアスタを見たが、アスタもキョトンとした顔をしている。えっ?愛児って何?というか、そんなものになった記憶ないんだけど。
「どこにもそのような契約の証はないようじゃが?」
「ええ。そうよ。私がいきなりオクトちゃんに印なんてつけたら、樹の属性を持ち合わせていないオクトちゃんが倒れてしまうもの」
「契約の証がなければ、愛児とは呼べまい」
「いいえ。ちゃんと、オクトちゃんの住まいに目印は立てたわ。私の力が通った木をと通して、徐々にオクトちゃんを樹属性に馴らしている最中なの」
えっ?
「……木って……えっ?あの木ですか?」
「ええ。そうよ。オクトちゃんの家に生えている木の事よ」
ハヅキに言われて、私は家の真ん中に陣取っている木を思い出した。
えっ。いや、でもあれって、確かカンナさんにコンプレックスを刺激されて、怒りのままに生やしたものじゃ。
まさかの木の意外な効能に驚くしかない。あの木に、そんなすごい力があったとは。そりゃ神様が生やしたものだけど、てっきり単なるオブジェかと思っていた。今度から神木という事で、何かそれっぽくたてまつった方がいいだろうか。
「えっと。それと、その愛児って……一体……」
ここは聞くべきなのか聞かぬべきなのか。どうにも判断がつけられなかったが、私は聞くを選択した。だって、明らかに私が巻き込まれている話だ。スルーしたら、後々痛い思いをする可能性がある。
「私が管轄する存在……樹の精霊族と同じような立場かしら?でも特に制約はないから安心してね」
いや。えっと、安心って。
何が何だか、さっぱり分からない。
「風の神の差し金か?同じ血を持つモノへ干渉するのは禁忌じゃぞ」
「さあ。何のことかしら?別にこの件は私の独断。オクトちゃんを気にいったのだから仕方ない事なのよ。別にカンナちゃんに何か言われたわけではないわ。それに私もトキワちゃんに言いたい事があるの。神は6柱いれば問題ないわ。勝手に私達が死んだ話をしないでくれないかしら?」
ハヅキさんは微笑みながらも、きっぱりとトキワさんに言った。ふわふわした感じの可愛らしい姿なのに、その口から出てくる言葉は鋭い。
「神が立ち聞きとは嘆かわしい」
「あら。私の愛児の気配が突然消えたら、心配するのは当然でしょう?しかもはるか未来の時の神の干渉まで感じたのだもの。私が赴くのは当然の事だわ。その先でたまたまトキワちゃんがオクトちゃんへ神になるように強要していただけ。でも神への強要は本来ご法度でしょう?」
「たまたまじゃと?」
「ええ。たまたまよ」
にっこりとほほ笑むハヅキさんには隙がない。しばらくすると、トキワさんが、幼い姿には似つかわしくない大きなため息をついた。
「……樹の属性は腹黒いのが多いから嫌いじゃ」
「お褒めの言葉としてもらっておくわ」
そういうと、ハヅキさんは私の方を見た。
「世界がどうとか、オクトちゃんはそういう難しい事は考えなくてもいいの。もちろん神になってくれたらありがたいけれど、私達はまだまだ消える気はないもの。だからオクトちゃんは、オクトちゃんが好きなようにしてね。……っと、ああ、忘れるところだったわ」
そう言うと、すっとハヅキさんは私の手をとった。
「遅くなってごめんなさいね。もう大丈夫よ。精霊達、貴方達の神から話は通っているでしょ?契約を解除なさい」
ハヅキの言葉で、私の腕から巻きつくように付いた無数の痣が消えていく。
「……えっ?」
「私もあまり干渉をする気はないけれど、多種の精霊との契約は毒よ。それに私の愛児になったのだから、これからは精霊との契約は控えてね。今回は私が、すべての神に交渉して精霊に契約解除するように伝えておいたから」
……さすが神様。テラチート。
私は久々に見た痣のない腕をさする。この痣は絶対消える事のないものだと思った。これは罪の証だと、そう思って諦めていた部分もある。そんな私の耳元でハヅキさんは小さく囁いた。
「お礼は、カミュちゃんに」
そうか。
カミュがハヅキさんに頼んだのか。そしてカンナさんもきっと色々とハヅキさんに頼んだのだろう。そうでなければ私がハヅキさんの愛児となるわけがない。
私は……本当になんて、幸せモノなのだろう。
幸せすぎて泣きたい気持ちになる。それと同時に、私は皆を幸せにしたいと心の底から思った。エストやコンユウだけではない。カミュやライ、クロやアユム……そしてアスタ。でもそれだけじゃない。アリス先輩や、ヘキサ兄、海賊の人達もだし、ミウも、皆だ。
それはとても都合がいい話で。
とても強欲で……でもそれの何が悪いと開き直った。大切なものが多くて何が悪い。1番とか順番をつけろと言われればつけられるかもしれないけれど、でも1番だろうと2番だろうと、大切なのには変わりないのだ。
「トキワさん、私は――」
私は私の未来を……願いを、口にした。