月日は流れ
いよいよと言うか、この話です。
人間の体感速度の仕組みには驚かされるばかりだ。
退屈な毎日は長く感じ、忙しい毎日は短く感じる。誰でも思っている事だろう。
この一年間の俺は後者で、転校してきてからは時間がとても早く感じられた。
特に進級してからは学年主席様こと香里のご厚意により受験勉強に励み、それからはあっという間に月日が流れて行った。
夏休みは息抜きもそこそこにほぼ勉強尽くし、学校が始まってからもそれは同じ。たまにあるイベント事、つまりは体育祭や学園祭ではその鬱憤を晴らすかの如く暴れさせてもらった。
クリスマスは何となく香里と出かけ、正月は水瀬家で適当に祝い、それ以外は勉強。
元からそれほど勉強をする方でも無い俺が、ここまで打ち込めたのは他ならぬ香里のお陰だろう。問題を解くのが楽しいと思った事は初めてだった。
それからセンター入試まで一気に突き進み、結果は良好。しかし本番はまだ先なので休む暇もない。それは同じくセンターを受けた香里も同じの様だ。
そう、俺達には時間が無い。どれだけ勉強しても足りない。本番まで気を休めることは出来無い。
……はず、なのだが。
「ほら相沢君、行くわよ」
「へーへー」
今俺と香里は商店街にいる。毎度ーという店員の声が聞こえる花屋を出て、ある場所に向かっている。
この大切な時期に、俺達は暢気に買い物をしているのだった。他の受験生から見たら馬鹿としか思えない光景。
だが、この時期だからこそ行く所があるのだ。
早過ぎる月日の流れ、足りない時間。それを更に削ってまでも行かなければ行けない場所。
そんなもの、俺達には一つしかない。
「早く行かないとバニラアイス奢らされるわよ?」
「わーってるよ。つっても、既に俺の奢りは確定しているわけだが」
「そりゃそうよ。生前好きだったものを墓標に添えるのは親愛の証でしょ? それとも相沢君の思いはその程度だったのかしら?」
「……まあ、百円で済むなら安いもんか」
今日は二月一日。
またこの街に来て、二回目の二月一日。去年は前日から続く雪が厳しい日だったが、今日は快晴とまではいかないまでも太陽が見えている。
あいつが死んで、もう一年。全く、月日の流れる早さには驚かされるばかりだ。
「何言ってるの。栞ならこういうわよ、『ハーゲンダッツ以外は許しません! って』」
「うげぇ……」
俺達の向かっている先は、墓場。栞が眠っている場所だ。
……その前にスーパーに寄るのが先だが。
「あ、ついでに私の分もお願いね」
「だが断る」
暖かいと思ったのに、何処か寒い。
月日は流れ
美坂栞。
この街にいる知り合いはどちらかといえば昔からの馴染みが多い俺にとって、数少ない例外の内の一人。
初めての出会いはあゆと鯛焼きのオヤジから逃げている時。俺とあゆの感動の再会ののち、あゆが感極まって木に勢い良く抱き付いた事が原因で知り合った。
その木の下に立っていた少女。ぶつかった衝撃で積もっていた雪が落ち、少女の頭に落ちてしまった。それが栞との出会いだ。
とてもドラマティックとは言えない奇妙な出会いだが、それでも栞はドラマみたいだと言った。
何がドラマみたいなのかはその時わからなかったが、後にして思えば確かにドラマティックだと思う。
栞の、身体の事を考えれば確かに。
「相沢君」
「……おう」
今俺と香里が立っている場所は、墓地。文字通り墓が並んだ地だ。
水を汲み、用意していた線香に火をつけ、目的の墓標まで歩く。
着いた先には『美坂 栞』と書かれた墓の前。
栞は生まれつき体が弱かった。そのことを聞いたのは知り合って少ししてからだ。
幼い頃から入退院を繰り返し、懸命の治療と家族の支えも実らず、俺と会った時には既に一ヶ月持つかどうかの命となっていた。
どう足掻いても助からない状態、リストカットさえ考えたという栞の目の前に現れた少年。それが俺。
この出会いがドラマティックと言わずしてなんと言うのだろう。
その境遇を知った俺は、一ヶ月近くを栞と共に過ごした。それが俺にしてやれることの全てだった。
栞が何かを求めたわけではない。助けてくれと言ったわけでもない。ただ、一つだけして欲しいことがあったことは理解できていた。
生まれつきこの体で、青春を病気との闘いで過ごし、出てきた結果が周りより遥かに早い、逃れることのできない死。
ならば。
自分は。
何のために生まれてきたんだろう?
その答えを教える為に、俺は栞と短い月日を過ごした。そして栞は死んだ。
教えるとは言いつつも、俺は何も言わなかった。結局は自分自身が気付かなければ意味の無い事だからだ。
栞の死に際。俺は訊ねた。
『栞』
『はい』
『どうだった?』
『……どうだった、とは?』
『お前は、お前の人生はどうだったと聞いているんだ』
そうですねぇ、と言いながら目を閉じる。
次に開く時はあるのだろうか。このまま永遠に眠ってしまうのではないだろうか。
そんな女々しいことを思っていた俺の期待は裏切られ、また栞は目を開ける。
『色々かっこいい事を言おうとしましたが、この言葉しかないですね』
『……なんだ?』
『祐一さん。私は、わたしは──』
その時の栞の表情は、今も忘れられない。
まず水をかけ、次に花と一緒に水も入れ替える。
次に線香も入れ替え、一通りの作業はこれで終了。
……ともいかないらしい。
「ほら、相沢君」
「おっと、これを忘れちゃあ栞じゃないよな」
袋から出したのはバニラアイス。……勿論ハーゲンダッツ。しかも三人分。
曰く「栞だけ食べるのも可哀想じゃない。私達三人で食べましょ」との事。五枚着込んでいる俺に対しての嫌がらせか。あと自分の分ぐらい払え。
一つ墓標に沿え、一つ香里に渡し、一つ開ける。そして一口。
「寒い」
「何で栞はこんな寒い中平気でこんなもの食べてたんでしょうね」
全く同意見だ。
横を見ると、それでも黙々と口に運ぶ香里。風で靡くウェーブの掛かった髪が時々鬱陶しそう。
美坂香里。
栞と同じく昔からの知り合いでは無い例外の一人で、名雪を通して出会った。
当時は名雪の親友、クラスメイトと言う事ぐらいしか接点は無かった。もっともその頃は転校したばかりの頃で、学園の中では名雪以外で気軽に喋れる貴重な友人ではあったが。
それが今ではどうだ、多くの時間を共有し、周りから誤解されるほどの仲になり、そして二人でここにいる。
受験という共通した目的があったとは言え、あのまま何も知らずに過ごしていたらこれほど一緒にいる事も無かっただろう。
栞と出会わなければ。
栞と関わらなければ。
今の俺達はいない。ひょっとしたら香里もこの世にいなかったかもしれない。
香里。
栞と同じ、美坂の姓を持つ者。
美坂香里は、美坂栞の姉である。
香里は、栞を避けていた。
幼い頃から病弱だった栞に付きっ切りの両親。愛を独占されることに不満を持った事もあるだろう。
だけど、それ以上に栞のことを愛していた。
だから香里も懸命に栞の看病を続けた。時には苦しみ、時には悲しむ栞を支え続けた。
いつか、いつか報われる時が来る。
病気が治ったらその時は一緒に学園に通おうね、そんな約束もしたと言う。
香里は栞を愛し、また栞も香里を愛していた。
そんな美しき姉妹愛は、残酷な形で引き裂かれる事となる。
ある日、両親が話していた事を偶然香里は耳にした。
次の誕生日まで、栞は生きられない。
目眩がした。
何で、こんな。
一緒に出掛けて。一緒に買い物して。一緒に外でご飯を食べて。一緒に学園に通って。
どれも普通の姉妹が普通にしているような事を、ただ一回でもしたかった。だがそれさえ叶わない。
なぜ?
どうして?
あの子だけが?
『私は……こんなに辛いのなら……』
雪の降る日、俺は香里に呼び出され、栞との事を全て聞いた。
不安から香里は栞から距離を取り始め、それを不審に思った栞は香里に問い正し、余命の事を聞いて。
栞は、笑った。
ここで泣いては香里まで泣いてしまう。姉のそんな姿は見たくない。だから笑い続けた。
そんな栞が痛々しくて、自分を気遣ってくれているのが愛しくて。
こんなにも愛しい妹がいなくなるなんて信じられない。
いなくなるぐらいなら、せめて。
『最初から……最初から……妹なんて、いなければよかった……って……』
栞を見ているのも辛くなった香里が出した結論は、忘却。
いなくなるぐらいなら、初めからいなかった事にすればいい。
ただの現実逃避と分かっていながらも、香里は頑なに妹の存在を否定した。
「私に妹はいない」、そう言った。
出来る筈が無いのに。
十六年間ずっと愛し続けてきた栞を忘れる事なんて、出来る筈が無いのに。
それでも、香里は言い続けた。じゃないと心が壊れてしまうから。
また香里は言った。
『この頃体調がいいのよ。だから、もしかしたら誕生日は越えられるのかもしれない。……でも変わらない。あの子がやがて消えるという事実は』
何度ぬか喜びしてきた事か。
栞が学園に入学すると聞いた時は、香里はついに夢が叶ったのかと思った。だが、それは気休め。
もう手遅れの栞に、医者が許した精一杯の懺悔だったのだ。
何度も喜び、何度もそれ以上の悲しみを背負い、最後は絶望しか無く。
香里も、また答えを探していた。
『あの子……なんのために生まれてきたの……?』
その時、俺は答えれなかった。
確かに俺は知っている。だけど、それを言うのは俺じゃない。
自分の生きる意味は、自分で見付けなければならない。
「……ねぇ、相沢君」
アイスを食べ終わり、ゴミを袋に入れる。
俺も何とか食べ終わりそうだ。しかし風が冷たい。
「栞、他に何か言ってた?」
栞は最期、『お姉ちゃんのこと、宜しくお願いしますね』と言って、今度こそ永遠に目を閉じた。口ももう開く事は無い。
だが、その前に俺の問いには答えてくれた。
『お前の人生はどうだった』、との問いについて。
栞は、正解を見付けていた。
姉に拒絶されても、その答えがあったからこそ最後のあの言葉が出たのだ。
「ああ」
「……何て?」
両親から、香里から、俺からの支えは確かにあった。だが、それでも不満は山ほどあったはずだ。
自分の境遇。ドラマに憧れたのは淡い期待。起きないから奇跡と言ったのは諦め。
笑い続けながらも、栞の自分の体に対する不満は明るい言動の中からいくらでも察知できた。
それでも、最期には姉を気遣う言葉が出た。
最期まで弱音を吐かず、愛する姉の今後を安否した言葉が出た。
恨みではなく、気遣い。
それを死に際に出来ると言う事は、つまり。
答えを、見付けていたからだ。
「栞は、『生まれてこれて幸せでした』、だってよ」
誰もが当たり前のように思っている願い。当たり前過ぎて、誰も気付かない願い。
幸せに、なりたい。
そう、人は誰もが皆、幸せになる為に生まれてきたんだ。
そのことに栞は気付いた。
気付いていて、自分の短い人生を振り返って、その答えが自分の中にある事も分かっていた。
だからこそ、自分が死んだ後の事さえも考える事が出来た。
自分が死んで一番悲しむであろう人の事を、考える事が出来たんだ。
自分の生涯に、満足したとは言い切れない。むしろ、最期の言葉は未練でしかない。
それでも。
それでも、栞は確かに幸せだった。
「そう……」
香里は呟き、少し俯く。
少しして、顔を上げ、栞の墓を目の前にし、
「ありがとう。貴方がいて、私も幸せだったわ」
胸を張って、そう答えた。
一度は拒絶したものの、やはり香里にとって栞は掛け替えのない存在である事に違いはない。
栞と過ごした日々。それがとても幸せだったという事は、俺にも分かる。
だって。
香里の顔が、あの時幸せだと言った栞の顔によく似ているから。
この姉妹に泣き顔は似合わない。
今のような、満面の笑みがよく似合う。そう思った。
「ここが、栞の最期の場所?」
「ああ」
お参りが終わったのち、俺達は以前栞が気に入っていた公園に来ていた。
お参りと言っても、やったことといえば花と水を替えてバニラアイスを食べただけ。
だが、俺達にとってはそれだけで充分だ。
二月一日は栞の誕生日であり、命日であり、そして今年からバニラアイス記念日となりそうである。
……それにしても、寒い。何とか見えていた太陽も今は覆われ、一面雲で覆われている。
そりゃ真冬のこんな天気でアイス食ってればそうなるわな。
「……相沢君は、よくここに来るの?」
「いや。思えば一年ぶりだな」
栞の事を思い出してしまうから、などという理由で来なかった訳ではない。
単純に行く理由が無かったからだ。
「この芝生で、栞は死んだよ」
「……ここで……」
俺が指した場所を眺める香里。
今日は晴れているとは言え気温は低く、あの日と同じく雪が積もっている。
「……相沢君は、後悔してない?」
不意に香里が尋ねてきた。
視線は今は俺の方を向いている。
「何がだ?」
「私達に、関わったことよ」
「何を……」
今更、と言おうとしたが香里の更なる言葉に遮られる。
「私の身勝手さが招いた栞との仲の事もそうだし、何より貴方にも同じ悲しみを背負わせてしまった」
「……」
「栞のことを任せて、終わったら貴方の胸を借りて泣いた。貴方に二人分の悲しみを背負わせたのに、まだ何も返していない」
「俺が見返りを求めてお前達に近づいたとでも思うのか?」
だとすれば心外だ。
そんな打算があったのなら、今頃俺はここにはいない。
「思わない。だから何も返す気はない」
「おい、それはそれでどうかと思うぞ」
「だからこそ聞いてるのよ」
「……」
「貴方は、このまま私と一緒にいていいのか」
そういう、ことか。
つまり。
これは。
俺達の答えを、求めているのか。
「香里、俺は──」
その時、俺のポケットからバイブの振動と共に着信音が聞こえた。
携帯を開くと、画面には『水瀬 名雪』と書かれている。
内心ホッとしたようながっかりしたような、そんな気持ちで俺は通話ボタンを押した。
「もしもし、どうした?」
「祐一……ゆういちぃ……!」
「──! どうした名雪! どこにいるんだ!!」
様子がおかしい。泣き声で話す名雪の後ろから何やら騒がしい声も聞こえる。
「お母さんが、お母さんが……!」
雪が降ってきた。
「交通事故で、今手術室に……!!」
その雪は積もりそうで、傘のない俺の頭に降り注いだ。
俺の心にも、降り注いだ。
一応短編連作として、一つの話は一つで纏めると言った事を守る様にして来ましたが、今回と次回は例外です。
そして次回で完結となります。最後はこの終わり方からも分かるかもしれませんが、一年越しのあの話です。