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ネル=エル諸海域と潮名の航海士 〜名が沈み、潮が還す海へ〜  作者: 秋月キアラ
第5話 浮かぶ都市は、帰る場所を忘れた
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第十二節 ― 還名の火

 ミラ=セレイは、すぐには進まなかった。


 静潮接続が外れたあとも、巨大な都市はしばらく揺れ続けていた。外縁区がゆっくり沈めば反対側が持ち上がり、吊り橋が波打つ。何週間も真っ直ぐ垂れていた潮帆は、久しぶりに海の力を受けて大きく膨らみ、街のあちこちから索具の軋む音が聞こえていた。


「第一主核、安定!」


「東環、傾斜戻る!」


「補助帆二番、開きすぎるな! 三割のまま!」


 船頭たちの声が飛び交う。


 《潮構文刻盤》の前にいたルカも、まだ柱から完全には手を離せなかった。右へ、左へ。足元から身体へ、街そのものの動きが絶え間なく伝わってくる。


「……これが普通なんですよね」


 隣の記録士は、盤の数値を追いながら答えた。


「いや」


「違うんですか?」


「今は普通よりずっと酷い」


「ですよね」


 少し安心した。毎日これなら、浮上都市の住民は全員、とんでもない平衡感覚の持ち主になってしまう。


 それでも最初の大きな傾きに比べれば、揺れは明らかに小さくなっていた。一度、二度と大きく上下するたび、都市は海の上で自分の重心を思い出していく。


 固定される前。潮を受け、風を受け、浮上核と帆を使って、そのたびに姿勢を変えていた頃の身体を。


「ルカ!」


 聞き覚えのある声がした。


 振り返ると、広場の入口からエルンが歩いてきていた。


「エルン!」


 ルカは柱から手を離し、数歩走る。


 その途端、床がぐらりと揺れた。


「わっ」


 身体が横へ流れ、エルンが慌てて腕を伸ばす。二人まとめてよろけ、危うく記録盤の縁へぶつかりそうになった。


「危ない」


「エルンもふらついてるじゃん」


「ルカが来たから」


「受け止めてくれたんじゃないの?」


「途中までは」


「途中で諦めないでよ」


 それでも互いにちゃんと立っていることを確認すると、ルカは少し笑った。


「下、大丈夫だった?」


「うん」


「古い構文は?」


「まだ聞こえる」


「閉じてない?」


 エルンは少し考え、首を横に振る。


「一つだけ、遠くなった」


「遠く?」


「通ったから」


 エルンは指先で、外へ向かう動きを作った。


 七方向へ伸びていた古い構文。そのうち一方向、ミラ=セレイへ重ねられていた静潮構文だけが外れた。


「じゃあ、やっぱり」


 ルカは《潮構文刻盤》を見る。


 現在位置。そして、その先。


 細いながらも、確かに新しい光の線が伸びている。


「戻ったんだ」


「何が?」


「次」


 エルンも盤を見た。


「うん」


 短い返事だったが、その一言だけでルカには十分だった。


     *


 街が動いたと最初にはっきり分かったのは、建物ではなく海だった。


「見ろ!」


 港湾区から声が上がった。


 都市周辺の安全確認が進み、避難していた住民たちが少しずつ外へ戻り始めている。まだ橋の一部は閉鎖されていたが、中央側の高台からなら海を見ることができた。


「何?」


 ルカも欄干へ近づいた。


 何週間ものあいだ、同じ角度に見えていた水平線。遠くに浮かぶ小さな岩礁。退避している交易船。


 そのすべてが、ほんの少しずつ横へ流れている。


 船が動いているのではない。


「街の方が……」


 ルカは息を呑んだ。


「動いてる」


 ミラ=セレイが、本当にゆっくりと海を進み始めていた。


 カイラがこの街を見た時、最初に違和感として拾ったのは「揺れていない」ということだった。あの時のミラ=セレイは完璧なほど安定し、海だけがその周囲を流れていた。


 今は違う。


 橋が揺れる。建物も軋む。潮帆が水を受け、港湾区そのものが波に合わせて上下している。


 便利になったはずの街が、不便な身体を取り戻していた。


「動いてる……」


 誰かが、もう一度言った。


 今度は泣きそうな声だった。


 赤い島のことを思い出せなくなっていた老人が、欄干のそばで杖を両手に握り、海を見つめている。


「本当に……動いてる」


 隣にいた者が老人の肩へ手を置いた。


 歓声は起きなかった。


 まだ怪我人の確認も終わっていない。落ちた商品も片付いていなければ、外縁区へ戻れるかどうかも分からない。ここで無邪気に喜べるほど、動くということは軽くなかった。


 ただ、人々は海を見ていた。


 昨日とは違う景色へ、ほんの少しずつ街が進んでいくのを。


「予定航路は?」


 ルカが記録士へ訊いた。


 男は携帯用の潮盤を確認する。


「戻ってはいない」


「やっぱり?」


「ああ。静潮固定された期間が長すぎる。本来の巡回線からかなり離れている」


「じゃあ、《海の燈台礁》へは?」


「今すぐは行けない」


 ルカは少し肩を落とした。


「どのくらい?」


「船頭たちと計算しなければ分からん。無理に予定線へ戻せば、また浮上核へ負荷が掛かる」


 その言葉に、ヴァルカの妹を奪った事故が脳裏をよぎる。


 航路を戻そうとして、都市へ無理をさせる。


 それを繰り返してはいけない。


「ゆっくりでいいですよね」


 ルカが言う。


 記録士が顔を向けた。


「今年の予定に間に合わせるために壊れたら、意味ないから」


「ああ」


 彼も頷いた。


「都市側でも航路を再計算している」


「新しく?」


「そうだ」


 記録士が少し笑った。


「消えた予定を、そのまま取り戻したわけではない。今いる場所から、もう一度引き直している」


 ルカは、その言葉が好きだと思った。


 元通りではない。


 失った三週間を、なかったことにもしない。ここで止まってしまった時間も、揺れずに過ごした日々も抱えたまま、今いる場所から次へ向かう。


「それでいいんだ」


 小さく呟く。


「何が?」


 エルンが訊いた。


「ううん」


 ルカは首を振り、もう一度海を見た。


「たぶん、こっちの方がいい」


     *


 カイラが戻ってきたのは、夕方だった。


 《ネームレス・ガル》は、見事に傷だらけになっていた。


「ちょっと!」


 港へ戻ってきた船を見て、ルカは声を上げた。


 黒い帆の端が裂けている。船縁には焦げ跡が走り、珊瑚赤の補修布にまで新しい傷が増えていた。


「何したんですか!」


 桟橋へ降りてきたカイラは、何でもないように肩をすくめる。


「散歩」


「散歩で船が焦げるんですか」


「今日は日差しが強かった」


「嘘つけ!」


「お、言葉が荒くなったね」


「誰のせいです!」


 船員たちも次々と降りてくる。全員疲れた顔をしているが、大きな怪我をした者はいないらしい。


「監視船は?」


 ルカが訊く。


「さあね」


「さあって」


「少なくとも、しばらくこっちへ来る気にはならないんじゃないか」


 カイラは街を見る。


 その足元が、ゆっくりと揺れた。


 一瞬だけ、彼女の口元が上がる。


「動いたね」


「うん」


「怖かった?」


「すごく」


「物、落ちた?」


「いっぱい」


「怪我人は?」


「今のところ、大きな怪我をした人はいないって」


「上出来だ」


 カイラはあっさり言った。


 ルカは少しだけ迷ってから、続ける。


「でも、前より不便になりました。橋も揺れるし、荷物も縛らないと駄目だし、交易船だってまたこの街を探すことになる」


「そりゃそうだろ」


「……なのに」


 ルカは海を見た。


 ミラ=セレイの周囲では、景色が少しずつ変わっている。


「みんな、ちょっと嬉しそう」


 カイラは何も言わなかった。ただ、しばらくルカと同じ海を見ていた。


     *


 夜。


 ミラ=セレイでは、いつもより灯りの数が少なかった。


 解除時の揺れで壊れた潮灯もあれば、念のため消している区画もある。外縁区にはまだ戻っていない住民が多く、市場では後片付けが続いていた。


 それでも、街は夜になっても動いている。


 ゆっくりと、ときおり大きな波を受けて揺れ、潮帆の向きを少しずつ変えながら、海の上を進んでいた。


 その夜、住民たちはなかなか家へ戻ろうとしなかった。


 中央区の海側。橋。祈り場。屋根。港。


 海が見える場所という場所へ、人が集まっている。


 ルカも、エルンも、カイラも、白い祈り場の前にいた。


 そこには、以前アラ婆から還名の儀について聞いた石皿がある。


 本来なら十二日前、ここへ青白い火が映るはずだった。


 《海の燈台礁》。


 一年に一度、ミラ=セレイが同じ潮へ帰り、その年の名を海へ返す夜。


「やっぱり、今日は無理ですよね」


 ルカは遠い海を眺めながら言った。


 隣にいた古老が答える。


「何がだい」


「《還名の火》」


「燈台礁は遠いよ」


「ですよね」


「予定航路へ戻ったわけでもない」


「うん」


「なら、普通なら灯らない」


 普通なら。


 その言葉だけが、少し引っかかった。


「みんな、どうしてここにいるんです?」


 ルカが訊く。


 古老は笑った。


「分からんからさ」


「何が?」


「何が起きるか」


「何も起きないかもしれないですよ」


「それなら、それを見届ける」


 そういうものらしい。


 祈り場には、返せなかった札がまだ残っていた。亡くなった者の潮名、使われなくなった橋の名前、古い街区、終わった航路。そして、本来なら海へ返されていたはずの、今年の《ミラ=セレイ》。


 今日は、まだ流さない。


 《還名の火》がないからだ。


 ルカも、それでいいと思った。無理に儀式の形だけをなぞっても意味はない。帰れなかった一年も、遅れてしまった還名も、今のミラ=セレイが生きた時間には違いない。


 夜が深くなっていく。


 誰かが欠伸をし、子どもが母親の膝で眠り始めた。港の鐘が一度、静かに鳴る。


 もう何も起きない。


 そう思い始めた頃だった。


「……あれ」


 エルンが言った。


 ルカが振り向く。


「何?」


「向こう」


 少年が海を指していた。


 街の灯が途切れた、そのさらに先。暗い水平線。


「何か見える?」


「うん」


 ルカは目を凝らした。


 最初は、星だと思った。


 あまりにも小さい。水平線のすぐ上に浮かぶ、青白い一点。


「……灯?」


 誰かが言った。


 周囲の人々も海を見る。


 古老が立ち上がった。


「まさか……」


 声が震えていた。


 光は強くない。灯台として船を導けるほどの明るさでもなく、むしろ消えかけた名灯のように小さく淡い。


「どこです?」


 ルカが訊く。


 記録士が携帯潮盤を開き、方角を測った。一度、もう一度と確かめ、その顔が変わる。


「《海の燈台礁》の方向だ」


 ざわめきが広がった。


「でも遠いんでしょう?」


「ああ」


「見える距離?」


「本来なら、ほとんど――」


 言葉が終わるより先に、青白い光が一瞬だけ大きくなった。


 その瞬間。


 石皿が光った。


「……!」


 ルカは息を呑む。


 火はない。


 何も燃えていない。


 それなのに石皿の底へ、遠い青白い炎が映っていた。


 小さく、優しく揺れる光。


 《還名の火》。


 十二日前、この年のミラ=セレイが同じ潮へ帰ったなら、そこで灯るはずだった火。


 忘れ去られていた奇跡が、今になって蘇ったわけではない。


 ミラ=セレイが遅れてようやく自分の次へ手を伸ばした。そのことへ、遠い火がほんの一瞬だけ応えたように見えた。


「ああ……」


 誰かが泣いた。


 声を上げたのではない。


 老いた男の頬を涙が伝い、その隣では若い女性が口元を押さえている。


 子どもを抱いた母親は、眠っていた娘をそっと起こした。


「見て」


「なに……?」


「火よ」


「火?」


「そう」


 母親も泣いていた。


「ミラ=セレイの火」


 子どもは眠そうな目で、遠い青白い光を見る。


「戻ったの?」


 母親はすぐには答えなかった。


 以前なら、言葉に詰まったのは、街がどこへ行っていたのか思い出せなかったからだ。


 今は違う。


 ちゃんと自分で、答えを選んでいる。


「ううん」


 母親は言った。


「これから行くの」


 その言葉を聞いた瞬間、ルカの胸の奥に小さな温かさが広がった。


 遠い火は、ほんの数呼吸で弱くなっていく。


「消える」


 エルンが言った。


「うん」


 ルカは頷く。


 青白い光は細くなり、最後に一度だけ波に揺れるように瞬いて、消えた。


 石皿からも光がなくなる。


 暗闇が戻った。


 それでよかった。


 今年の還名が終わったわけではない。まだ燈台礁へ着いてもいないし、札も流していない。今年の《ミラ=セレイ》という名も、まだ海へ返してはいない。


 あの火は、儀式の完了を告げに来たのではないのだろう。


 ただ、遠い潮の向こうから、道がまだ残っていることを知らせた。


「待ってるんだ」


 ルカが呟いた。


「火が?」


 エルンが訊く。


「うん。ちゃんと来いって」


 エルンは少し考える。


「火、喋る?」


「そういう意味じゃない」


「分かってる」


「絶対分かってない顔してる」


 ルカが小さく笑った、その時だった。


 ミラ=セレイが大きな波へ乗った。


 街全体がゆっくりと持ち上がり、橋が揺れ、祈り場の吊り灯が一斉に鳴る。人々は慌てて欄干や柱へ手を伸ばした。


「うわっ!」


「また来た!」


「子ども押さえて!」


「棚は大丈夫か!」


 悲鳴と笑いが混ざる。


 昨日までなら、こんな揺れはなかった。


 安全でもない。


 便利でもない。


 けれど今、この瞬間、誰も街を止めろとは叫ばなかった。


 ルカも柱へ片手をつき、身体を支える。隣ではエルンが少しよろけていた。


「大丈夫?」


「うん」


「揺れる街、苦手?」


「まだ慣れてない」


「私も」


「ルカ、船乗りなのに」


「街と船は違うの」


 後ろからカイラが笑った。


「そのうち腰で覚えるさ」


「何を?」


「揺れ方」


「ずっと住む予定ないですよ」


「残念だね」


 ルカは海へ目を戻した。


 《海の燈台礁》の火はもう見えない。そこにあるのは暗い水平線だけだ。


 けれど、その向こうへミラ=セレイは少しずつ近づいている。


 まだ遠い。


 予定からも外れている。


 この先、何日かかるかも分からない。


 それでも、もう行けないわけではない。


 その違いは、思っていたよりずっと大きかった。


「帰るって」


 ルカは呟いた。


 エルンが顔を向ける。


「帰る?」


「うん」


 ルカはメルナ=レイを思い出した。


 ナミル=レイ。


 自分が漂着した港。


 今の名前をもらった場所。


 けれど、自分には本当に帰るべき場所が別にあるのかもしれない。失った名前の眠る場所。知らない海。知らない過去。


 ずっと、帰るというのは、失ったものと同じ形へ戻ることなのだと思っていた。


 元の場所へ。


 元の名前へ。


 元の自分へ。


 そこへ辿り着くことが、帰ることなのだと。


 けれど、ミラ=セレイは違った。


 一年後、この街はまったく同じ場所へ帰るわけではない。同じ水にも、同じ街にも、同じ人々にも、二度と戻らない。それでも同じ潮へ帰り、その年の自分を返して、また次の一年へ出ていく。


 海は、戻るものだけを覚えているわけではない。


 変わりながら、それでも帰ってくるもののことも覚えている。


「同じところに戻ることだけが、帰るってことじゃないのかも」


 ルカが言った。


「じゃあ?」


 エルンが訊く。


 ルカは少し考え、遠い海と、ゆっくり進んでいくミラ=セレイの足元を感じた。


「また出ていける場所に戻ること……なのかもしれない」


 言ってから、少しだけ笑う。


 エルンはしばらく考えていた。


「難しい」


「うん」


「でも」


「でも?」


「ルカ、帰ってもまた出ていきそう」


 思ってもいなかった言葉に、ルカは目を瞬かせた。


 それから吹き出す。


「何それ」


「違う?」


「……どうだろ」


 まだ、自分には分からない。


 本当の名も。


 帰る場所も。


 その先も。


 けれど、もし、いつか全部を見つけたとしても、そこで終わらなくていいのかもしれない。


 見つけた名前を抱えたまま。


 今の《ルカ=ネリス》も手放さずに。


 もう一度、海へ出る。


 そんな帰り方も、きっとある。


 夜のミラ=セレイは揺れていた。


 橋も、帆も、灯りも、海の上で絶えず動いている。


 不安定で、少し怖くて、昨日より不便な街だった。


 それでも、その揺れの一つ一つが、もう同じ場所へ戻るためだけのものではない。


 昨日まで存在しなかった《次》へ向かい、ミラ=セレイは確かに進んでいた。

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