第十二節 ― 還名の火
ミラ=セレイは、すぐには進まなかった。
静潮接続が外れたあとも、巨大な都市はしばらく揺れ続けていた。外縁区がゆっくり沈めば反対側が持ち上がり、吊り橋が波打つ。何週間も真っ直ぐ垂れていた潮帆は、久しぶりに海の力を受けて大きく膨らみ、街のあちこちから索具の軋む音が聞こえていた。
「第一主核、安定!」
「東環、傾斜戻る!」
「補助帆二番、開きすぎるな! 三割のまま!」
船頭たちの声が飛び交う。
《潮構文刻盤》の前にいたルカも、まだ柱から完全には手を離せなかった。右へ、左へ。足元から身体へ、街そのものの動きが絶え間なく伝わってくる。
「……これが普通なんですよね」
隣の記録士は、盤の数値を追いながら答えた。
「いや」
「違うんですか?」
「今は普通よりずっと酷い」
「ですよね」
少し安心した。毎日これなら、浮上都市の住民は全員、とんでもない平衡感覚の持ち主になってしまう。
それでも最初の大きな傾きに比べれば、揺れは明らかに小さくなっていた。一度、二度と大きく上下するたび、都市は海の上で自分の重心を思い出していく。
固定される前。潮を受け、風を受け、浮上核と帆を使って、そのたびに姿勢を変えていた頃の身体を。
「ルカ!」
聞き覚えのある声がした。
振り返ると、広場の入口からエルンが歩いてきていた。
「エルン!」
ルカは柱から手を離し、数歩走る。
その途端、床がぐらりと揺れた。
「わっ」
身体が横へ流れ、エルンが慌てて腕を伸ばす。二人まとめてよろけ、危うく記録盤の縁へぶつかりそうになった。
「危ない」
「エルンもふらついてるじゃん」
「ルカが来たから」
「受け止めてくれたんじゃないの?」
「途中までは」
「途中で諦めないでよ」
それでも互いにちゃんと立っていることを確認すると、ルカは少し笑った。
「下、大丈夫だった?」
「うん」
「古い構文は?」
「まだ聞こえる」
「閉じてない?」
エルンは少し考え、首を横に振る。
「一つだけ、遠くなった」
「遠く?」
「通ったから」
エルンは指先で、外へ向かう動きを作った。
七方向へ伸びていた古い構文。そのうち一方向、ミラ=セレイへ重ねられていた静潮構文だけが外れた。
「じゃあ、やっぱり」
ルカは《潮構文刻盤》を見る。
現在位置。そして、その先。
細いながらも、確かに新しい光の線が伸びている。
「戻ったんだ」
「何が?」
「次」
エルンも盤を見た。
「うん」
短い返事だったが、その一言だけでルカには十分だった。
*
街が動いたと最初にはっきり分かったのは、建物ではなく海だった。
「見ろ!」
港湾区から声が上がった。
都市周辺の安全確認が進み、避難していた住民たちが少しずつ外へ戻り始めている。まだ橋の一部は閉鎖されていたが、中央側の高台からなら海を見ることができた。
「何?」
ルカも欄干へ近づいた。
何週間ものあいだ、同じ角度に見えていた水平線。遠くに浮かぶ小さな岩礁。退避している交易船。
そのすべてが、ほんの少しずつ横へ流れている。
船が動いているのではない。
「街の方が……」
ルカは息を呑んだ。
「動いてる」
ミラ=セレイが、本当にゆっくりと海を進み始めていた。
カイラがこの街を見た時、最初に違和感として拾ったのは「揺れていない」ということだった。あの時のミラ=セレイは完璧なほど安定し、海だけがその周囲を流れていた。
今は違う。
橋が揺れる。建物も軋む。潮帆が水を受け、港湾区そのものが波に合わせて上下している。
便利になったはずの街が、不便な身体を取り戻していた。
「動いてる……」
誰かが、もう一度言った。
今度は泣きそうな声だった。
赤い島のことを思い出せなくなっていた老人が、欄干のそばで杖を両手に握り、海を見つめている。
「本当に……動いてる」
隣にいた者が老人の肩へ手を置いた。
歓声は起きなかった。
まだ怪我人の確認も終わっていない。落ちた商品も片付いていなければ、外縁区へ戻れるかどうかも分からない。ここで無邪気に喜べるほど、動くということは軽くなかった。
ただ、人々は海を見ていた。
昨日とは違う景色へ、ほんの少しずつ街が進んでいくのを。
「予定航路は?」
ルカが記録士へ訊いた。
男は携帯用の潮盤を確認する。
「戻ってはいない」
「やっぱり?」
「ああ。静潮固定された期間が長すぎる。本来の巡回線からかなり離れている」
「じゃあ、《海の燈台礁》へは?」
「今すぐは行けない」
ルカは少し肩を落とした。
「どのくらい?」
「船頭たちと計算しなければ分からん。無理に予定線へ戻せば、また浮上核へ負荷が掛かる」
その言葉に、ヴァルカの妹を奪った事故が脳裏をよぎる。
航路を戻そうとして、都市へ無理をさせる。
それを繰り返してはいけない。
「ゆっくりでいいですよね」
ルカが言う。
記録士が顔を向けた。
「今年の予定に間に合わせるために壊れたら、意味ないから」
「ああ」
彼も頷いた。
「都市側でも航路を再計算している」
「新しく?」
「そうだ」
記録士が少し笑った。
「消えた予定を、そのまま取り戻したわけではない。今いる場所から、もう一度引き直している」
ルカは、その言葉が好きだと思った。
元通りではない。
失った三週間を、なかったことにもしない。ここで止まってしまった時間も、揺れずに過ごした日々も抱えたまま、今いる場所から次へ向かう。
「それでいいんだ」
小さく呟く。
「何が?」
エルンが訊いた。
「ううん」
ルカは首を振り、もう一度海を見た。
「たぶん、こっちの方がいい」
*
カイラが戻ってきたのは、夕方だった。
《ネームレス・ガル》は、見事に傷だらけになっていた。
「ちょっと!」
港へ戻ってきた船を見て、ルカは声を上げた。
黒い帆の端が裂けている。船縁には焦げ跡が走り、珊瑚赤の補修布にまで新しい傷が増えていた。
「何したんですか!」
桟橋へ降りてきたカイラは、何でもないように肩をすくめる。
「散歩」
「散歩で船が焦げるんですか」
「今日は日差しが強かった」
「嘘つけ!」
「お、言葉が荒くなったね」
「誰のせいです!」
船員たちも次々と降りてくる。全員疲れた顔をしているが、大きな怪我をした者はいないらしい。
「監視船は?」
ルカが訊く。
「さあね」
「さあって」
「少なくとも、しばらくこっちへ来る気にはならないんじゃないか」
カイラは街を見る。
その足元が、ゆっくりと揺れた。
一瞬だけ、彼女の口元が上がる。
「動いたね」
「うん」
「怖かった?」
「すごく」
「物、落ちた?」
「いっぱい」
「怪我人は?」
「今のところ、大きな怪我をした人はいないって」
「上出来だ」
カイラはあっさり言った。
ルカは少しだけ迷ってから、続ける。
「でも、前より不便になりました。橋も揺れるし、荷物も縛らないと駄目だし、交易船だってまたこの街を探すことになる」
「そりゃそうだろ」
「……なのに」
ルカは海を見た。
ミラ=セレイの周囲では、景色が少しずつ変わっている。
「みんな、ちょっと嬉しそう」
カイラは何も言わなかった。ただ、しばらくルカと同じ海を見ていた。
*
夜。
ミラ=セレイでは、いつもより灯りの数が少なかった。
解除時の揺れで壊れた潮灯もあれば、念のため消している区画もある。外縁区にはまだ戻っていない住民が多く、市場では後片付けが続いていた。
それでも、街は夜になっても動いている。
ゆっくりと、ときおり大きな波を受けて揺れ、潮帆の向きを少しずつ変えながら、海の上を進んでいた。
その夜、住民たちはなかなか家へ戻ろうとしなかった。
中央区の海側。橋。祈り場。屋根。港。
海が見える場所という場所へ、人が集まっている。
ルカも、エルンも、カイラも、白い祈り場の前にいた。
そこには、以前アラ婆から還名の儀について聞いた石皿がある。
本来なら十二日前、ここへ青白い火が映るはずだった。
《海の燈台礁》。
一年に一度、ミラ=セレイが同じ潮へ帰り、その年の名を海へ返す夜。
「やっぱり、今日は無理ですよね」
ルカは遠い海を眺めながら言った。
隣にいた古老が答える。
「何がだい」
「《還名の火》」
「燈台礁は遠いよ」
「ですよね」
「予定航路へ戻ったわけでもない」
「うん」
「なら、普通なら灯らない」
普通なら。
その言葉だけが、少し引っかかった。
「みんな、どうしてここにいるんです?」
ルカが訊く。
古老は笑った。
「分からんからさ」
「何が?」
「何が起きるか」
「何も起きないかもしれないですよ」
「それなら、それを見届ける」
そういうものらしい。
祈り場には、返せなかった札がまだ残っていた。亡くなった者の潮名、使われなくなった橋の名前、古い街区、終わった航路。そして、本来なら海へ返されていたはずの、今年の《ミラ=セレイ》。
今日は、まだ流さない。
《還名の火》がないからだ。
ルカも、それでいいと思った。無理に儀式の形だけをなぞっても意味はない。帰れなかった一年も、遅れてしまった還名も、今のミラ=セレイが生きた時間には違いない。
夜が深くなっていく。
誰かが欠伸をし、子どもが母親の膝で眠り始めた。港の鐘が一度、静かに鳴る。
もう何も起きない。
そう思い始めた頃だった。
「……あれ」
エルンが言った。
ルカが振り向く。
「何?」
「向こう」
少年が海を指していた。
街の灯が途切れた、そのさらに先。暗い水平線。
「何か見える?」
「うん」
ルカは目を凝らした。
最初は、星だと思った。
あまりにも小さい。水平線のすぐ上に浮かぶ、青白い一点。
「……灯?」
誰かが言った。
周囲の人々も海を見る。
古老が立ち上がった。
「まさか……」
声が震えていた。
光は強くない。灯台として船を導けるほどの明るさでもなく、むしろ消えかけた名灯のように小さく淡い。
「どこです?」
ルカが訊く。
記録士が携帯潮盤を開き、方角を測った。一度、もう一度と確かめ、その顔が変わる。
「《海の燈台礁》の方向だ」
ざわめきが広がった。
「でも遠いんでしょう?」
「ああ」
「見える距離?」
「本来なら、ほとんど――」
言葉が終わるより先に、青白い光が一瞬だけ大きくなった。
その瞬間。
石皿が光った。
「……!」
ルカは息を呑む。
火はない。
何も燃えていない。
それなのに石皿の底へ、遠い青白い炎が映っていた。
小さく、優しく揺れる光。
《還名の火》。
十二日前、この年のミラ=セレイが同じ潮へ帰ったなら、そこで灯るはずだった火。
忘れ去られていた奇跡が、今になって蘇ったわけではない。
ミラ=セレイが遅れてようやく自分の次へ手を伸ばした。そのことへ、遠い火がほんの一瞬だけ応えたように見えた。
「ああ……」
誰かが泣いた。
声を上げたのではない。
老いた男の頬を涙が伝い、その隣では若い女性が口元を押さえている。
子どもを抱いた母親は、眠っていた娘をそっと起こした。
「見て」
「なに……?」
「火よ」
「火?」
「そう」
母親も泣いていた。
「ミラ=セレイの火」
子どもは眠そうな目で、遠い青白い光を見る。
「戻ったの?」
母親はすぐには答えなかった。
以前なら、言葉に詰まったのは、街がどこへ行っていたのか思い出せなかったからだ。
今は違う。
ちゃんと自分で、答えを選んでいる。
「ううん」
母親は言った。
「これから行くの」
その言葉を聞いた瞬間、ルカの胸の奥に小さな温かさが広がった。
遠い火は、ほんの数呼吸で弱くなっていく。
「消える」
エルンが言った。
「うん」
ルカは頷く。
青白い光は細くなり、最後に一度だけ波に揺れるように瞬いて、消えた。
石皿からも光がなくなる。
暗闇が戻った。
それでよかった。
今年の還名が終わったわけではない。まだ燈台礁へ着いてもいないし、札も流していない。今年の《ミラ=セレイ》という名も、まだ海へ返してはいない。
あの火は、儀式の完了を告げに来たのではないのだろう。
ただ、遠い潮の向こうから、道がまだ残っていることを知らせた。
「待ってるんだ」
ルカが呟いた。
「火が?」
エルンが訊く。
「うん。ちゃんと来いって」
エルンは少し考える。
「火、喋る?」
「そういう意味じゃない」
「分かってる」
「絶対分かってない顔してる」
ルカが小さく笑った、その時だった。
ミラ=セレイが大きな波へ乗った。
街全体がゆっくりと持ち上がり、橋が揺れ、祈り場の吊り灯が一斉に鳴る。人々は慌てて欄干や柱へ手を伸ばした。
「うわっ!」
「また来た!」
「子ども押さえて!」
「棚は大丈夫か!」
悲鳴と笑いが混ざる。
昨日までなら、こんな揺れはなかった。
安全でもない。
便利でもない。
けれど今、この瞬間、誰も街を止めろとは叫ばなかった。
ルカも柱へ片手をつき、身体を支える。隣ではエルンが少しよろけていた。
「大丈夫?」
「うん」
「揺れる街、苦手?」
「まだ慣れてない」
「私も」
「ルカ、船乗りなのに」
「街と船は違うの」
後ろからカイラが笑った。
「そのうち腰で覚えるさ」
「何を?」
「揺れ方」
「ずっと住む予定ないですよ」
「残念だね」
ルカは海へ目を戻した。
《海の燈台礁》の火はもう見えない。そこにあるのは暗い水平線だけだ。
けれど、その向こうへミラ=セレイは少しずつ近づいている。
まだ遠い。
予定からも外れている。
この先、何日かかるかも分からない。
それでも、もう行けないわけではない。
その違いは、思っていたよりずっと大きかった。
「帰るって」
ルカは呟いた。
エルンが顔を向ける。
「帰る?」
「うん」
ルカはメルナ=レイを思い出した。
ナミル=レイ。
自分が漂着した港。
今の名前をもらった場所。
けれど、自分には本当に帰るべき場所が別にあるのかもしれない。失った名前の眠る場所。知らない海。知らない過去。
ずっと、帰るというのは、失ったものと同じ形へ戻ることなのだと思っていた。
元の場所へ。
元の名前へ。
元の自分へ。
そこへ辿り着くことが、帰ることなのだと。
けれど、ミラ=セレイは違った。
一年後、この街はまったく同じ場所へ帰るわけではない。同じ水にも、同じ街にも、同じ人々にも、二度と戻らない。それでも同じ潮へ帰り、その年の自分を返して、また次の一年へ出ていく。
海は、戻るものだけを覚えているわけではない。
変わりながら、それでも帰ってくるもののことも覚えている。
「同じところに戻ることだけが、帰るってことじゃないのかも」
ルカが言った。
「じゃあ?」
エルンが訊く。
ルカは少し考え、遠い海と、ゆっくり進んでいくミラ=セレイの足元を感じた。
「また出ていける場所に戻ること……なのかもしれない」
言ってから、少しだけ笑う。
エルンはしばらく考えていた。
「難しい」
「うん」
「でも」
「でも?」
「ルカ、帰ってもまた出ていきそう」
思ってもいなかった言葉に、ルカは目を瞬かせた。
それから吹き出す。
「何それ」
「違う?」
「……どうだろ」
まだ、自分には分からない。
本当の名も。
帰る場所も。
その先も。
けれど、もし、いつか全部を見つけたとしても、そこで終わらなくていいのかもしれない。
見つけた名前を抱えたまま。
今の《ルカ=ネリス》も手放さずに。
もう一度、海へ出る。
そんな帰り方も、きっとある。
夜のミラ=セレイは揺れていた。
橋も、帆も、灯りも、海の上で絶えず動いている。
不安定で、少し怖くて、昨日より不便な街だった。
それでも、その揺れの一つ一つが、もう同じ場所へ戻るためだけのものではない。
昨日まで存在しなかった《次》へ向かい、ミラ=セレイは確かに進んでいた。




