第九節 ― ヴァルカの妹
「これでいい」
ヴァルカがそう言ったあと、ルカはすぐには何も返せなかった。
目の前にあるのは、同じミラ=セレイだ。
橋は揺れず、荷物は落ちない。子どもたちは安全に走り回り、外縁区の家々も傾くことなく海の上へ浮かんでいる。ヴァルカには、それが故郷の安堵に見えている。
ルカには、その穏やかな暮らしの奥で、《次》というものを少しずつ失い始めている街が見えていた。
どちらか片方だけが嘘なら、もっと簡単だった。
「でも、このままだと、この街は――」
「次の航路を失う」
先に言ったのはヴァルカだった。
ルカは目を見開く。
「知ってるんですか?」
「兆候は報告されている」
「兆候って」
「《潮構文刻盤》の予定座標欠損。住民の航路記憶に生じている不一致。それを指しているのだろう」
淡々とした声だった。驚いている様子もない。
「だったら、どうして『これでいい』なんて言えるんですか」
ルカの声が強くなった。
近くにいた錨記庁の水兵がこちらを見る。だが、ヴァルカは制止もしなければ、怒りもしなかった。
「街が自分の次を忘れてるんですよ。一年ごとの還名だってできてない。《海の燈台礁》を通れなかったから、今年の《ミラ=セレイ》をまだ返してない」
「それも把握している」
「じゃあ――」
「把握していることと、結論が同じであることは別だ」
静かな声だった。
ルカは唇を噛む。
いつもそうだ。ヴァルカは声を荒らげない。こちらが勢いよく言葉を投げても、その勢いに乗って返してこない。だから、ぶつけた言葉だけが自分の側へ跳ね返ってくる。
「名前を返せない街なんて……ずっと同じ名前のまま、同じ場所に閉じ込められる街なんて、おかしいです」
「そうかもしれない」
予想していなかった返事だった。
「……認めるんですか?」
「問題がないとは言っていない」
「じゃあ、直せばいいじゃないですか」
「直す、とは?」
「街をまた動かす」
答えた瞬間、ヴァルカの目がわずかに細くなった。
「それが修復だと?」
「少なくとも、この街はそうやって生きてきた」
「生きてきた」
彼はその言葉を、確かめるように繰り返した。嘲る響きはない。
「はい。名前を変えて、場所を変えて、一年ごとに戻って、それからまた出ていく。それがミラ=セレイだった」
昨日までなら、もっと迷わず言えただろう。
けれど、この街へ来てから見てきたものがある。
揺れなくなった橋を走る子ども。傾かない担架。落ちない荷物。同じ時間に同じ場所へ来られる交易船。
だから最後のところで、どうしても声が鈍った。
ヴァルカも、それに気づいたらしい。
「それで?」
「……それで?」
「動かせば何が起こる」
ルカは答えなかった。
知らないわけではない。むしろ知ってしまったからこそ、簡単には言えなかった。
「橋が揺れる。荷が落ちる。外縁区に傾斜が戻る。病人の移送には再び潮位を読む必要が生じ、交易船は都市の位置を追わなければならない」
ヴァルカは一つずつ並べていく。
「……はい」
「転落事故も戻る」
ルカは目を伏せた。
ちょうど橋の向こうを、子どもたちが笑いながら走っていく。母親は止めない。今のミラ=セレイなら、橋そのものが突然跳ね上がることはない。
「それでも、動かすことが正しいのか」
ルカはしばらく黙っていたが、やがて顔を上げた。
「それを決めるのは、あなたでも、私でもないと思います」
ヴァルカの視線が止まる。
「この街の人たちです」
少しの沈黙のあと、彼は短く答えた。
「そうか」
ルカは拍子抜けしてしまった。
「否定しないんですか」
「何を」
「もっと、危険だから管理すべきだとか」
「私がそう考えていることは、すでに知っているだろう」
「知ってますけど」
「なら、同じ説明を繰り返す意味はない」
本当に可愛げがない。
カイラなら、きっとそう言う。
ルカも口にしかけて、やめた。
今は少し、違うことの方が気になっていた。
ヴァルカの視線は、また外縁区へ向いている。
先ほどから何度も。
橋よりも、市場よりも、港よりも長く、彼はそこを見ていた。
「あそこ」
「何だ」
「さっきから、ずっと見てますよね。外縁区」
「私の故郷だ。見ることに不自然はない」
「ミラ=セレイ全部が故郷なんじゃないんですか?」
ほんの一瞬、ヴァルカが黙った。
それでルカは気づいた。
「そこで育ったんですか」
「近い」
「旧七橋街?」
「そうだ」
ヴァルカは再び外縁区へ視線を戻した。
街の端。今は固定され、まっすぐ海へ張り出している区画だ。白い家が何十軒も並び、その下には幾重もの浮力構造が見える。
昔なら、あそこも潮に合わせて大きく上下していたのだろう。
「橋でよく転んでたって聞きました」
「誰から聞いた」
「お婆さんが言ってました」
「余計なことを」
ほんの少しだけ、本当に少しだけ、嫌そうな顔をした。
ルカは思わず笑いそうになる。
「本当なんだ」
「幼少期の話だ」
「ヴァルカさんにも幼少期あったんですね」
「人間だからな」
「なんとなく、最初から今の顔だったのかと」
「どういう意味だ」
「そのままです」
ヴァルカがルカを見る。
怒ってはいない。
呆れているだけだった。
それだけで、少し普通の人間に見えた。
けれど、次に外縁区へ戻った視線からは、そのわずかな軽さが消えていた。
ルカも笑みを引っ込める。
「何かあったんですか」
ヴァルカは答えなかった。
ルカも重ねて訊かなかった。
昔話を進んでする男には見えない。むしろ、聞かなかったことにしてそのまま去ると思っていた。
だからこそ、
「昔、ミラ=セレイが巡回航路を大きく外れた年がある」
とヴァルカが口を開いた時、ルカは少し驚いた。
彼はそれだけ言って、また黙る。
ルカは待った。
潮風が二人の間を抜けていった。
「嵐ですか?」
「複数の潮が重なった」
「それで?」
「都市は予定していた潮へ戻れなかった。進路を修正するため、通常なら入らない潮へ乗った」
ヴァルカは外縁区から視線を外さない。
「浮上核への負荷が偏った。中心街は耐えたが、外縁区は耐えなかった」
ルカの指が、胸元の貝殻護符へ触れた。
「崩れたんですか」
「ああ」
それ以上、ヴァルカは説明しなかった。
だからこそ、かえって想像してしまう。
大きく揺れる街。傾く床。張り詰めた潮索。外縁を支える柱が一つずつ限界を越え、橋や家ごと海へ引かれていく。
海に近い区画ほど、逃げ場は少なかったはずだ。
「ヴァルカさんは?」
「いた」
「あそこに?」
「ああ」
ルカは彼を見る。
今のヴァルカではない。
まだ提督でも、錨記庁を率いる立場でもなかった頃。揺れる浮上都市の外縁で暮らしていた、ただの少年。
「……怪我は?」
「した」
それで話が終わるのだと思った。
けれど、ルカが次の問いを口にするより先に、ヴァルカが続けた。
「妹がいた。年下だった」
ルカの動きが止まった。
ヴァルカは年齢を言わなかった。
名前も、どんな少女だったのかも話さない。
ただ、必要な事実だけを置くように言った。
「外縁区が崩れた時、海へ落ちた」
ルカの喉が詰まる。
視線が、遥か下で穏やかに光っている海へ向いた。
浮上都市からの転落事故については、すでに聞いている。子どもが橋から落ちたこともあり、命綱が間に合わなかったこともあると。
その時は、遠い昔に起きた、顔も知らない誰かの事故として聞いていた。
今は違う。
「助からなかったんですか」
「遺体は見つからなかった」
ルカは息を止めた。
見つからなかった。
海でそれは、死んだと言い切ることさえ許してくれない言葉だった。
「探したんですよね」
「ああ」
「どのくらい……」
ヴァルカは答えなかった。
けれど、訊かなくてもよかった。
きっと探したのだ。
答えが出なくなるまで。
海へ落ちた人間の身体が見つからず、名前だけが家族のもとに残る。呼ぶ者だけが岸に残り、返事のない海を見つめ続ける。
この海では、決して珍しくない。
だからこそ残酷だった。
「名札は?」
名拾いとして、気づけば尋ねていた。
ヴァルカの目がわずかにルカへ向く。
「流した」
「妹さんの?」
「ああ」
遺体はない。
それでも、名札だけを海へ返した。
「還名の儀も?」
「行った」
ルカは何も言えなくなった。
ネリュエの潮へ、帰るべき名を返すために名札を流し、祈り、待ったのだろう。
きっと一度ではない。
「……還ってきましたか」
聞くべきではなかったかもしれない。
けれど、聞かずにはいられなかった。
ヴァルカはすぐに答えた。
「一度も」
声は変わらない。
たったそれだけだった。
一度も還らなかった。
名札も、名の欠片も、声も。
何ひとつ。
ルカは胸元の護符を強く握った。
名は、必ず還るわけではない。
昔、老いた鯨歌いから聞いた言葉が胸の奥で蘇る。戻ったように見えて誰かに残る名もあり、戻らぬように見えて底で待っている名もある。
けれど、待つ側にとって、その言葉は本当に救いになるのだろうか。
十年。
二十年。
それより長く。
明日なら還るかもしれない。あるいは、もう二度と還らないかもしれない。どちらとも分からないまま海を見続けることが、どれほど人を削るのか。
「だから……止めようとしてるんですか」
ルカは小さく言った。
ヴァルカの目が細くなる。
「流れたから。妹さんを失ったから」
「単純化するな」
声は強くなかった。
しかし、それまでより明確な拒絶があった。
ルカは口を閉じる。
「一人の喪失だけで、海域全体を管理しているわけではない。難破で死ぬ者がいる。漂流する都市がある。交易路が途切れれば飢える島もある。流された名を待ち続ける者もいる」
どれも、この街で見てきたことと繋がっている。
ヴァルカは妹一人のためだけに理屈を作ったのではない。
彼の政策によって、本当に救われる者がいる。
そのことを、ルカ自身がもう知ってしまっていた。
「ただ、私は知っている」
ヴァルカが続けた。
その声は変わらないまま、視線だけが外縁区へ戻った。
「動くことで失うものを」
ルカは答えなかった。
悲しみを語る声音ではなかった。少なくとも表面には出ていない。
それでも、その言葉はきっと長い年月の中で何度も繰り返されてきたのだろうと思えた。自分に言い聞かせ、部下へ説明し、役人へ示し、政策へ落とし込み、最後には海を止める装置の形にまでした。
「その年、都市は予定より早く次の潮へ入った」
「……はい」
「外縁構造は、その変位に耐えられなかった。事故報告では、崩落の半日前までは限界値を下回っていた」
そこでヴァルカは、初めてルカをまっすぐ見た。
「都市があと半日、同じ位置にいたなら妹は生きていた」
ルカは何も言えなかった。
言葉なら、いくつも浮かんだ。
海は流れるものだ。
止めれば名は還れない。
変わらなければ次へ進めない。
ミラ=セレイは動くことで、ミラ=セレイであり続けてきた。
どれも今のルカには本当だと思える。
それでも、妹を失った日のことを話した男へ、「それでも街は動くべきだった」と言うことはできなかった。
本当にあと半日だけ、都市が同じ位置に留まっていたなら。
それだけで一人の子どもが海へ落ちなかったのなら。
その家族にとって、動く都市の美しさや伝統が、どれほどの意味を持てただろう。
ルカは拳を握った。
「……でも、今、この街は次を失い始めてます」
「ああ」
「それも、失うことですよ」
今のルカに言えるのは、そこまでだった。
ヴァルカは否定しない。
「そうだ」
ルカは顔を上げた。
「だったら――」
「だから、どちらを失うかという話になる」
その言葉に、続きが止まった。
「何も失わない方法があるなら、私はそれを選ぶ。だが、ない」
ヴァルカの視線の先には、揺れない橋と、その向こうへ続く静かな街がある。
安全な都市。
生き続ける都市。
今を壊さないこと。
次へ進み続けること。
どれか一つだけを選べば済むほど、海は単純ではなかった。
「少なくとも、私はまだ見つけていない」
その言い方が、ルカには少し意外だった。
自分の答えだけが絶対に正しいと信じている人間なら、きっとそんな言葉は使わない。
「だったら」
ルカが口を開きかけると、ヴァルカはわずかに首を振った。
「今日は議論をしに来たのではない」
「逃げるんですか」
「そう思いたければ構わない」
「ずるい」
「否定はしない」
そう言って、ヴァルカは歩き出した。
「待って」
追いかけようとして、ルカは二歩で止まる。
何を言えばいいのか、自分でも分からなかった。
答えはない。
ヴァルカにも。
自分にも。
ここでどちらかが相手を言い負かせば終わるような話ではなかった。
「ヴァルカさん」
背中へ声を投げる。
男が足を止めた。
振り返らない。
「妹さんの名前……」
そこまで言って、ルカは続けられなくなった。
聞きたいのだろうか。
自分でも分からない。
名拾いだから、還らなかった名と聞けば探したくなる。今もどこかの潮に残っているのではないかと、手を伸ばしたくなる。
けれど、それはルカの願いだ。
ヴァルカが望んでいないなら、勝手に触れていい名ではない。
ルカは少し迷ったあと、首を振った。
「……いえ。なんでもないです」
ヴァルカはしばらく動かなかった。
やがて静かに答えた。
「それでいい」
名前は告げなかった。
ルカも、もう訊かなかった。
ヴァルカはそのまま錨記庁の一行へ戻っていく。水兵たちが左右へついたが、最後まで指揮杖が上がることはなかった。エルンを拘束しようともせず、ルカたちの持つ潮紙を奪うこともしない。
戦うために来たのではないのだろう。
ただ、自分が固定した故郷を確かめ、必要な言葉だけを残して去っていく。
少し離れた場所で待っていたカイラが、ルカの隣へ来た。
「何を話した?」
「……昔のこと」
「そうか」
それ以上は聞かなかった。
エルンも近づいてくる。
「ルカ」
「うん」
「負けた?」
「何に?」
「話」
ルカは少し考えた。
「分からない」
「勝った?」
「それも分からない」
「じゃあ、同じ?」
「たぶん、それも違う」
エルンは首を傾げる。
「難しい」
「うん」
ルカは、人の流れへ戻っていくヴァルカの背中を見つめた。
「難しくなった」
以前、海の上で対峙した時は、もっと簡単だった。
潮を止める男。名を固定しようとする男。エルンを一人の少年ではなく、回収すべきものとして扱おうとした敵。
間違っていると思えば、それでよかった。
今も、彼が間違っていると思うことはある。
けれど、ヴァルカが見ているものまで間違いだとは、もう言えなかった。
ルカは外縁区を見る。
今日は崩れない。
子どもも落ちない。
橋も揺れない。
その一方で、安全になった街の中心では、《潮構文刻盤》から次の座標が消え、人々は少しずつ自分たちの航路を忘れ始めている。
どちらも本当だった。
『都市があと半日、同じ位置にいたなら妹は生きていた』
その言葉が、耳の奥に残っている。
ルカは反論できなかった。
だからといって、止まったままでいいとも思えない。安全だけを残して明日へ進む道を失えば、それもまた別の何かを失うことになる。
まだ答えは出なかった。
今は、それでいいのだと思った。
名だって、無理に答えを出そうとすれば壊れることがある。なら、この問いも今すぐ一つの正しさへ押し込む必要はない。
ヴァルカとの話も、まだ終わっていない。
彼が人の波の向こうへ消えたあとも、ミラ=セレイの橋は微動だにしなかった。
その下を、海だけが変わらず流れ続けていた。




