第七節 ― エルンに反応する証
沈み倉庫へ入れる潮は、深夜に満ちる。
カイラはそう言った。
下層水路の奥へすぐ向かうのかと思っていたルカは、そこで一度、潮牙亭へ戻ることになった。理由は単純だった。満潮前の沈み倉庫は、入口の半分が岩と泥に塞がり、狭い水路の奥で待ち伏せを受ければ逃げ場がない。逆に潮が上がりきる頃なら、小舟で中まで入れる。倉庫の出入り口も水に開き、逃げる者も捕まえる者も、同じ水路を使わなければならない。
海賊の理屈だった。
焦って踏み込めば、こちらが沈む。
潮を読むなら、相手が一番動く時を待つ。
ルカはそれを頭では理解した。けれど、胸の中の焦りは消えなかった。
リオの名は、まだどこかへ引かれている。
ほかの証を持った者たちも同じだ。
いま、この瞬間にも、誰かの呼び名の糸が、港の奥にある黒い箱へ細く吸い込まれているのではないか。
そう思うと、足を止めること自体が罪のように感じられた。
潮牙亭に戻った頃には、イシュラ=マレの空は夜の色に沈み始めていた。
霧に隠れた港の夜は、陸の夜とは違う。
月明かりは岩礁の上で裂け、黒帆の影は水路へ深く落ちる。赤い珊瑚灯が、家々の軒先や橋の下でぼんやり灯り、船底を洗う水が暗い鏡のように光っていた。笑い声は昼より低く、歌声は遠く、どこかで鎖を巻く音が響いている。
潮牙亭の扉は半分だけ開いていた。
中の広間は、昼の騒ぎが嘘のように抑えられている。酒を飲む者はいる。賭けをしている者もいる。だが、声は低い。誰もが今夜、この港で何かが起きることを知っている。
宿の壁に吊るされた名札の紐が、珊瑚灯の赤い光を受けて、細い影を落としていた。
その紐の下、広間の奥の長卓には、偽造潮名証が並べられている。
白布に包まれた十三枚。
それぞれの横には、本名ではなく、今夜の呼び名だけが記された小さな札が置かれていた。
《小鳥》
《裂け帆》
《頭巾》
《昔の罪》
《思い出しかけ》
《渡り荷》
どれも本名ではない。
でも、誰かが今夜その名で守られている証だった。
ルカは長卓の前に立ち、そっと息を吐いた。
カイラは広間の中央で、船員たちに短く指示を飛ばしている。
「下層水路は二手に分ける。正面から入るのはあたしと名拾い、それから坊主。裏の排水口に三人。逃げる小舟は沈めるな。積み荷だけ止めろ。灰外套を見たら追うな、印だけ覚えろ」
灰外套。
その言葉に、ルカは顔を上げた。
「錨記庁の人間が来ると思っているんですか」
「来るかもしれない、と思って動く」
カイラは答えた。
「来てから驚くのは、死ぬ奴の癖だ」
乱暴な言い方だった。
けれど、否定はできない。
カイラはルカの横に立つエルンを見た。
「坊主、立ってられるか」
エルンは頷いた。
「立てる」
けれど、声は少し弱い。
潮牙亭へ戻ってから、彼の疲れは明らかだった。昼からずっと、港に浮く名、偽造潮名証の糸、下層水路の名抜き墨の匂いを聞き続けている。普通の船旅で疲れたのとは違う。目に見えないものに、ずっと耳を引かれている疲れだ。
ルカは心配になった。
「少し休もう。満潮まで、まだ時間があるんでしょう?」
カイラはちらりと外の水路を見た。
「半刻はある。休むなら奥の部屋を使え。寝るなよ。寝たら起こす」
「寝ません」
ルカが答える前に、エルンがそう言った。
だが、その声にも眠気ではない重さがあった。
奥の控え部屋には、リオがまだ横になっていた。
リオは起きていた。寝台の上で身体を起こし、膝の上に毛布をかけている。顔色は少し戻ったが、呼び名への反応の遅れは消えていない。カイラが用意させた温かい汁を少しずつ飲み、帳場の老婆が時々様子を見に来ている。
ルカが部屋に入ると、リオは少し遅れて顔を上げた。
「……名拾いの人」
「ルカでいいよ」
言ってから、ルカは少しだけ迷った。
ここでは本名を出さない方がいい。
けれど、自分で渡す分には違うのだろうか。
カイラなら何と言うだろう。
リオはその名を、口の中で確かめるように繰り返した。
「ルカ」
遅れている。
でも、届いている。
「うん」
ルカは微笑んだ。
「無理しないで。今夜、証を作った人を探しに行く」
リオの手が、毛布を握った。
「ぼくの名前、戻る?」
ルカはすぐに答えられなかった。
戻る、と言いたかった。
安心させたかった。
けれど、第1話でも第2話でも、ルカは知っている。名は、戻ればすべて元通りになるものではない。戻ったように見えて、別の形で残ることもある。完全には戻らなくても、呼ばれることで少しずつ輪郭を取り戻すこともある。
だから、嘘はつけなかった。
「戻せるところまで、戻す」
ルカは言った。
「でも、無理に全部を見たりはしない。あなたが呼ばれたい名を、ちゃんと残せるようにする」
リオは、しばらく黙っていた。
それから、小さく頷いた。
「ぼく、リオでいい」
声は細い。
「本当の名前じゃないかもしれない。でも、母さんが最後にそう呼んだ気がするから」
ルカの胸が痛んだ。
昔の呼び名を思い出せなくなる。
偽造潮名証の症状の一つ。
リオは今、そのぎりぎりのところで、母の声の欠片を握っている。
「うん」
ルカは頷いた。
「その名を、守ろう」
エルンは、部屋の隅に座った。
壁に背を預け、膝を抱える。目を閉じたが、眠ってはいない。潮の音を聞いている時のように、眉間に小さなしわが寄っている。
ルカは隣に座った。
「大丈夫?」
「うん」
「本当に?」
エルンは少しだけ目を開けた。
「ここ、名前が多い。でも、さっきより静か」
「みんな、本名を隠しているから?」
「ううん」
エルンは首を振った。
「カイラが怒ってるから」
ルカは思わず瞬いた。
「怒ってると静かになるの?」
「うん。この宿の名前が、まっすぐになる」
それは不思議な表現だった。
だが、何となく分かる気もした。
潮牙亭は、昼には酔いと笑いと呼び名で揺れていた。けれど今は違う。カイラが名売りを追うと決めたことで、宿の空気全体が一本の縄のように張っている。
名を読まない宿。
でも、名を売らせない宿。
その輪郭が、夜になってはっきりしたのだ。
ルカは、エルンの横顔を見た。
「エルンは、怖くない?」
「何が?」
「錨記庁」
エルンは黙った。
その沈黙は、答えを探す沈黙ではなかった。自分の中にある感覚を、どの言葉にすればいいか分からない沈黙だった。
「名前は知らない」
やがて、彼は言った。
「でも、身体が知ってる気がする」
「錨記庁を?」
「うん。錨の印を見ると、下が近くなる。水が重くなる。僕の名前が、底へ引かれる」
ルカは、思わず手を伸ばした。
エルンの袖をつかむ。
「大丈夫。引かせない」
エルンはルカの手を見た。
少し不思議そうに。
「ルカが?」
「うん」
「でも、僕の名は、僕にも読めない」
「それでも」
ルカは言った。
「あなたがここにいることは、分かるから」
その言葉を口にした瞬間、ルカ自身の胸も少し震えた。
自分の本当の名を読めない少女。
自分の名を底に置いてきた少年。
二人とも、自分の名の全部を持っていない。
それでも、ここにいる。
呼び合える名がある。
ルカ。
エルン。
完全ではなくても、その名で互いを探せる。
エルンは少しだけ目を伏せた。
「うん」
その時だった。
広間の方で、かた、と音がした。
最初は、食器が当たった音かと思った。
しかし、すぐに二度目が鳴る。
かた。
かたかた。
ルカは顔を上げた。
部屋の外、長卓の方だ。
エルンも同時に目を開けた。
その表情が変わる。
「エルン?」
「呼んでる」
彼は立ち上がった。
ふらつく。ルカは慌てて支えた。
「何が?」
「証」
広間へ出ると、潮牙亭の者たちも音に気づいていた。
長卓の上に並べられた白布包みが、震えている。
一枚ではない。
リオの証だけでもない。
十三枚の偽造潮名証が、白布の中で小さく跳ねていた。かたかた、かちかち、と音を立てながら、少しずつ卓の端へずれていく。
その向きが、すべて同じだった。
エルンの方。
ルカは息を呑んだ。
「何で……」
証は、持ち主の呼び名を吸っているはずだった。
それぞれの名の糸は、下層水路の沈み倉庫へ繋がっているはずだった。
なのに今、証はエルンへ向かって震えている。
カイラがすぐに近づいた。
「全員、下がれ。素手で触るな」
船員たちが動く。白布を押さえようとした若者を、帳場の老婆が杖で叩いて止めた。
「触るんじゃないよ!」
証の震えは強くなった。
一枚が白布から滑り出し、卓の上を細かく震えながら進む。黒く濁った表面に、珊瑚灯の赤が不気味に滲んでいる。
エルンは胸元を押さえた。
割れた貝殻の飾りが、小さく鳴った。
ルカは彼の前に立とうとした。
「エルン、下がって」
「待って」
エルンの声は震えていた。
怖がっている。
けれど、逃げようとはしていない。
「これ、僕を探してる」
ルカの背筋が冷えた。
「リオたちの名じゃなくて?」
「違う」
エルンは首を振った。
「僕の名前じゃない」
彼は、胸元を押さえる手に力を込めた。
「でも、僕みたいに沈んだ名を、集めようとしてる」
広間にいた者たちが、誰も声を出さなかった。
潮牙亭の壁に吊るされた名札の紐が、風もないのに揺れる。珊瑚灯の赤い光が、偽造潮名証の黒い縁を照らす。証はなおも、エルンの方へ向かおうとしている。
ルカは、エルンの前に立った。
今度は迷わなかった。
両手を広げるようにして、エルンと証の間へ入る。
「これ以上、近づけないでください」
声が自分でも驚くほど硬かった。
カイラがルカを見る。
ルカは視線をそらさない。
「エルンを、道具みたいに見ないでください」
「見ちゃいない」
カイラは短く答えた。
だが、ルカの胸の中の警戒は消えなかった。
偽造潮名証が、エルンに反応した。
それはつまり、エルンがこの事件の仕組みにとって特別な何かを持っているということだ。
錨記庁がそれを知れば。
ドゥラ=ヴェックがそれを知れば。
この港の誰かが、それを売れる情報だと考えれば。
ルカは、急に怖くなった。
エルンはまだ自分の名を知らない。
自分が何者かも分かっていない。
海底から来た少年。沈んだ名を読む少年。
その曖昧さを、誰かが値段に変えるかもしれない。
カイラは、ルカの顔をしばらく見ていた。
そして、初めて笑わずに言った。
「その坊主、ただの漂流者じゃないね」
ルカは答えなかった。
答えれば、その言葉が何かの形になってしまう気がした。
エルンが小さく言う。
「僕も、分からない」
カイラはエルンを見た。
いつもの値踏みするような視線ではなかった。
慎重で、少しだけ苦い目だった。
「分からないままでいい」
カイラは言った。
「少なくとも今はね」
ルカは少しだけ目を見開いた。
カイラは続ける。
「錨記庁に匂いを覚えられる前に、隠し方を覚えな」
それは、エルンへ向けた言葉だった。
エルンは首を傾げる。
「匂い?」
「名の匂いだよ。あいつらは潮を測る。流れを測る。深さを測る。最近じゃ、名の沈み具合まで測りたがる。あんたみたいに、海底由来の名に触れる奴は、連中からすりゃ珍しい魚だ」
珍しい魚。
言い方は乱暴だったが、そこに売ろうとする響きはなかった。
むしろ、捕まるなと言っている。
ルカはそれを感じ取った。
カイラは長卓へ近づき、短剣の鞘で震える証の前を押さえた。刃は抜かない。白布越しに、証の動きを止める。
「名抜き墨は、ただ名を吸うだけじゃない。沈んだ名、戻りきってない名、海の底に触れた名に反応するよう仕込まれてる可能性がある」
「網……」
ルカは呟いた。
カイラが頷く。
「そうだ。これは証じゃない。網だ」
偽造潮名証。
安い身分隠しの札。
本名を隠せると売られた道具。
けれど実際には、呼び名の糸を抜き、名を売れる形に切り分ける針。
そして今分かった。
それだけではない。
この証は、普通の漂流者だけを狙っているのではない。
失名者。名を思い出しかけている者。海底に触れた名を持つ者。沈んだ名を抱えた者。
そういう存在を探す網でもある。
錨記庁は、沈んだ名を集めているのかもしれない。
ルカは、エルンの前に立ったまま、奥歯を噛んだ。
第2話で、エルンは海底から来た。
彼自身の名も、全部は浮かんでいない。
もし錨記庁が、そういう名を集めているなら。
エルンは、もう狙われている。
「カイラさん」
ルカは低く言った。
「エルンのことは、潮議会に言わないでください」
「言うと思うかい」
「分かりません」
「正直だね」
カイラは少しだけ口元を歪めた。
しかし、すぐに真顔に戻る。
「言わないよ。売れる情報だとしてもね」
売れる情報。
その言葉に、エルンの肩が小さく震えた。
ルカはまた一歩、彼の前に出る。
カイラはそれを見て、ため息をついた。
「嬢ちゃん、あたしを睨む前に覚えな。守るには、隠す技がいる。立ちふさがるだけじゃ足りない。船の名も、人の名も、見せる部分と隠す部分を決めるんだ」
「エルンを隠す、ということですか」
「エルンを消すんじゃない。余計な目に見せない」
カイラはそう言って、エルンへ視線を戻した。
「坊主。あんたは、証の前で胸の貝殻を押さえた。癖かい」
エルンは自分の手元を見た。
「分からない。ここが鳴るから」
「人前ではやめな」
エルンは瞬いた。
カイラは続ける。
「鳴るものを押さえると、そこに何かあるって教えてるようなもんだ。怖い時ほど、何でもない顔をしな。分からない時は黙れ。聞こえても、全部は言うな。言葉は、出した瞬間に拾われる」
それは海賊の教えだった。
優しい言い方ではない。
でも、生きるための知恵だった。
エルンは少し考え、ゆっくり頷いた。
「全部は、言わない」
「いい子だ」
カイラはそれだけ言い、長卓の証へ視線を落とした。
証の震えは、まだ完全には止まっていない。
カイラが船員へ命じる。
「証を鉛箱に入れろ。白布ごとだ。坊主から離せ。名灯のそばには置くな。名灯は呼び水になる」
「了解」
船員たちが動き、鉛で内張りされた小箱を持ってくる。偽造潮名証を一枚ずつ入れるたび、かたかたという音が箱の内側で鈍くなっていった。
最後にリオの証を入れた時、リオのいる奥の部屋から、小さな声が聞こえた。
「……ルカ?」
呼ばれた。
少し遅れて。
でも、呼ばれた。
ルカは振り返り、返事をした。
「ここにいるよ」
リオは部屋の入口に立っていた。老婆に支えられ、まだふらついている。けれど、その目は先ほどよりはっきりしていた。
「今の、何?」
ルカは答えに迷った。
カイラが先に言った。
「あんたの名を抜いた札が、別の子まで探そうとした」
隠さないのか、とルカは思った。
だが、リオは被害者だ。知る権利がある。
リオはエルンを見た。
「エルンも、取られるの?」
エルンは少し黙った。
それから、ルカの背中越しに答えた。
「まだ」
短い答えだった。
リオは唇を噛んだ。
「じゃあ、隠れて」
その言葉に、エルンが目を見開いた。
リオは続ける。
「ぼく、隠したくて証を買った。でも、間違えた。だから、エルンは、ちゃんと隠れて」
潮牙亭の広間が静かになる。
エルンは、どう返せばいいのか分からない顔をしていた。
ルカは胸が詰まった。
名を隠したいという願いは、間違っていない。
間違っていたのは、その願いにつけ込んだ者たちだ。
カイラが低く言う。
「聞いたかい、坊主」
「うん」
「隠れるのは、恥じゃない」
エルンはリオを見て、それからカイラを見て、最後にルカを見た。
「ルカ」
「うん」
「僕、隠れ方を覚える」
ルカは頷いた。
「一緒に覚えよう」
その言葉を聞いて、カイラは小さく鼻を鳴らした。
「名拾いが隠れ方を覚えるか。いいね。少しは海賊らしくなる」
「海賊になるつもりはありません」
「海で追われるなら、似たようなもんだ」
カイラは外套を羽織り直し、扉の外を見た。
潮の音が変わっている。
港の下から、満ち潮が上がってくる音。
沈み倉庫へ入る時間が近づいていた。
鉛箱の中で、偽造潮名証が最後に一度だけ、鈍く鳴った。
かたん。
それはまるで、箱の奥にいる何者かが、エルンの存在を覚えたと告げる音のようだった。
ルカはエルンの袖を握った。
今度は、守るためではなく、確かめるために。
ここにいる。
まだ、呼べる。
まだ、連れていかれていない。
カイラは扉へ向かいながら言った。
「行くよ。名売りの倉庫を荒らす時間だ」
ルカは頷いた。
エルンも、今度は胸元の貝殻を押さえなかった。
ただ一度、深く息を吸い、何でもない顔をしようとして――少しだけ失敗した。
カイラはそれを見て、肩をすくめる。
「まあ、最初にしちゃ上出来だ」
夜の潮が、イシュラ=マレの下層水路を満たし始めていた。




