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ネル=エル諸海域と潮名の航海士 〜名が沈み、潮が還す海へ〜  作者: 秋月キアラ
第1話 還ってきた名は、別人の声で泣いた
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序節 ― 還名の夜

潮は、名を忘れない。


忘れたふりをして、

深いところで抱いているだけだ。

挿絵(By みてみん)


もし、あなたのもとへ知らない声が還ってきたなら、

どうか、すぐに拒まないでほしい。


名はいつも、

正しい持ち主だけを選ぶとは限らない。

 海葬都市オルカ=ベルでは、死者を土に埋めない。


 人は死ぬと、名を海へ返す。


 白い貝殻を敷き詰めた桟橋の先で、遺品を灯籠に結び、髪を小瓶に納め、最後に呼ばれた名を潮紙へ書く。そうして、海へ流す。


 泣き声も、祈りも、別れの言葉も、潮が連れていく。


 そしていつか、名は還る。


 それが十年後であることもあれば、三十年後であることもある。名札となって浜に打ち上げられることもあれば、貝殻の内側に薄く浮かぶこともある。名灯籠の火が、消えたはずの夜にふいに灯ることもある。


 けれど、人として還ってくることはない。


 少なくとも、オルカ=ベルの人々はそう信じていた。


 その夜、海葬桟橋には多くの灯が並んでいた。


 満ち潮の夜だった。


 海は黒く、深く、けれど月の道だけが、白い刃のように沖へ伸びている。波は荒れていない。むしろ、恐ろしいほど静かだった。海面を撫でる風には、潮と真珠粉と、古い香の匂いが混じっていた。


 オルカ=ベルの湾には、鯨骨で造られた鐘が吊るされている。


 海葬の夜だけに鳴らされる、低い鐘である。


 その音は人の耳に届くというより、胸の奥に沈む。骨の内側で鳴り、血の底でゆっくりと広がっていく。まるで海そのものが、遠い底から誰かの名を思い出しているようだった。


 鐘が鳴るたび、桟橋に並ぶ名灯籠の火が小さく揺れた。


 今夜、還るはずの名はひとつ。


 十年前、海に沈んだ少女の名だった。


 ミナ=ベルカ。


 彼女の名は、薄青い潮紙に記され、貝殻の小箱に納められていた。箱の中には、淡い桃色の小さな髪紐と、欠けた真珠の耳飾りが入っている。


 十年前の海葬の日、母が自分の手で入れたものだった。


 母は今、桟橋の最前列に立っていた。


 十年のあいだに、髪には白いものが増えていた。けれど、両手で抱えるように持った貝殻箱を見つめる目だけは、十年前のままだった。


 待ち続けた者の目だった。


 もう帰らないと知っていても、それでも潮が名を返してくれると信じた者の目だった。


「ミナ=ベルカ」


 還名神官が、低く名を呼んだ。


 神官は白と青の祭衣をまとい、額に真珠片を嵌めた冠をつけている。手には細い銀杖があり、その先には潮水を含んだ小瓶が吊るされていた。


「潮神ネリュエの御前に、沈みし名を呼ぶ」


 桟橋に集まった人々が、声を落とした。


 オルカ=ベルでは、還名の儀のあいだ大きな声を出さない。死者の名が潮から顔を出す瞬間、人の声が強すぎると、名は驚いてまた沈んでしまうと信じられているからだ。


「十年前、満ち潮の第三夜。オルカ=ベル南の白珊瑚礁にて、海へ還りし少女。母のもとを離れ、家の灯を離れ、名を潮へ預けし者」


 神官は銀杖を掲げた。


「ミナ=ベルカ。今宵、還るならば還れ。戻るならば戻れ。声なき潮の底より、名の灯へ」


 母の指が震えた。


 彼女は貝殻箱を胸に押し当て、唇だけで娘の名を呼んだ。


 ミナ。


 その声は、ほとんど音にならなかった。


 けれど、灯籠の火が一斉に傾いた。


 海が、答えた。


 桟橋の下で、水がゆっくりと渦を巻きはじめる。黒い海面に、白い泡がひとつ、またひとつと浮かんだ。泡はすぐに弾けず、まるで小さな真珠のように月明かりを受けている。


 人々は息を呑んだ。


 還名の兆しだった。


 神官の表情がわずかに緩む。


 儀式は成功する。


 そう誰もが思った。


 潮が桟橋の先へ集まり、母の持つ貝殻箱へ向かって伸びていく。名灯籠の火が青く変わり、箱の中の潮紙が淡く光り出す。


 母が一歩、前へ出た。


 そのときだった。


 参列者の列の後方で、少年が倒れた。


 乾いた音がした。


 人々が振り返る。


 桟橋の柱にもたれて立っていた少年が、膝から崩れ落ちていた。年は十二、三ほどだろうか。痩せた肩に古い潮布の上着を羽織り、首から小さな貝殻護符を下げている。


「ノア!」


 女の声が上がった。


 少年のそばにいた保護者が駆け寄る。周囲の者たちもざわめいた。


 だが、少年は苦しげに胸を押さえたまま、目を開かなかった。


 彼の貝殻護符が光っていた。


 ミナの貝殻箱ではない。


 神官の銀杖でもない。


 死者の遺品でもない。


 生きている少年の胸元で、還るはずの名が灯っていた。


「どういうことだ……」


 神官が呟いた。


 答える者はいない。


 海面の泡は、もう貝殻箱へ向かっていなかった。潮は向きを変え、桟橋の隙間から少年の足元へ流れ込んでいる。まるで海そのものが、間違えたのではなく、最初からそこへ名を運ぶつもりだったように。


 少年の唇が震えた。


 母が、貝殻箱を抱いたまま立ち尽くす。


 ノアと呼ばれた少年は、ゆっくりと息を吸った。


 それは、少年の息ではなかった。


 細く、弱く、十年分の潮を含んだような息だった。


 そして彼は、目を閉じたまま泣いた。


「……お母さん」


 桟橋の上から、音が消えた。


 波も、風も、衣擦れも、人々の息遣いさえも、すべて遠のいたようだった。


 母の顔が歪む。


 彼女は娘の名を呼びかけようとして、けれど声にならなかった。代わりに両手から貝殻箱が滑り落ちる。箱は桟橋の板に当たって開き、中から桃色の髪紐と、欠けた真珠の耳飾りが転がった。


 少年の目から、涙がこぼれた。


 だがその涙は、少年自身のものではないように見えた。


「寒いよ……お母さん。海の底、ずっと、暗かった」


 その声を聞いた瞬間、母は崩れるように少年へ駆け寄った。


「ミナ……?」


 彼女は震える手で少年の頬に触れようとした。


 その手を、別の女が払いのけた。


「触らないで!」


 ノアの保護者だった。


 彼女は少年を抱き寄せ、母を睨んだ。顔には恐怖と怒りが混じっている。


「この子はノアです。あなたの娘じゃない」


 母は何も言えなかった。


 ただ、少年を見ていた。


 少年の唇がまた動く。


「お母さん……わたし、帰りたかった」


「やめて!」


 ノアの保護者が叫んだ。


 その声で、桟橋の沈黙が割れた。


 人々がざわめき出す。


「ミナの声だ」


「死んだ子の名が戻ったんだ」


「でも、なぜあの少年に」


「ネリュエ様の奇跡ではないのか」


「いや、あれはおかしい。還る場所が違う」


 還名神官は銀杖を握りしめたまま、少年を見下ろしていた。彼の顔から、儀式を司る者の穏やかさが消えている。


 成功ではない。


 失敗でもない。


 神官は、そのどちらにも名付けられないものを見ていた。


 海葬桟橋の下で、潮がまた揺れた。


 月の道が乱れ、黒い水面に白い裂け目が走る。


 遠くで、鯨が鳴いた。


 低く、深く、長い声だった。


 それは祝福の歌にも、弔いの歌にも聞こえなかった。


 ただ、記憶の底で何かが目を覚ましたような声だった。


 少年の貝殻護符に、薄い文字が浮かぶ。


 けれど、それは誰にも読めなかった。


 ミナ=ベルカの名にも見えた。


 ノア=リムの名にも見えた。


 そしてそのどちらでもない、海の底でほどけた別の名にも見えた。


 母は泣きながら、少年へ手を伸ばした。


「ミナ……ミナなの?」


 少年は答えなかった。


 代わりに、彼は別人の声で、もう一度泣いた。


「……わたし、あの子を返したの」


 その言葉に、ノアの保護者が息を止めた。


 少年の体が小さく震える。


「だから、わたしの名は……いらないって」


 灯籠の火が、ふいに青から白へ変わった。


 神官が一歩退く。


 母は膝をついたまま、少年を抱きしめることもできず、ただ泣いていた。


 海は何も説明しなかった。


 名を返しただけだった。


 だが、その名は遺品には宿らなかった。


 十年待ち続けた母の手にも、まっすぐには戻らなかった。


 それは、生きている少年の胸に灯り、死んだ少女の声で泣いた。


 その夜、オルカ=ベルの人々は知った。


 還ってくる名が、かならずしも望んだ者のもとへ戻るわけではないことを。


 そして、潮は人の願いを聞くが、人の願いどおりに名を扱うとは限らないことを。


 夜明けまで、海葬桟橋の灯は消えなかった。


 名灯籠は白く燃え続け、鯨骨の鐘は誰も触れていないのに低く鳴った。


 その音は、メルナ=レイの真珠港までは届かない。


 まだ、名拾いの少女はこの事件を知らない。


 けれど潮はすでに、彼女のいる港へ向かっていた。


 ミナ=ベルカの名を乗せて。


 ノア=リムの欠けた名を揺らして。


 そして、さらに深い海の底から、まだ誰にも呼ばれていない名の影を連れて。

挿絵(By みてみん)

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