第7話 患者に罪はない
「毒です。海産物の」
叫び声で目が覚めた。
まだ朝日が薄い時間だった。薬局の裏の寝台から飛び起きて、表に出ると、人が溢れていた。顔色が土みたいに灰色で、腹を押さえて蹲っている。五人、いや十人以上。まだ増えている。
「昨日の市場の貝です。食べた人が次々と——」
ルカがもう来ていた。いつの間に。白衣の裾が泥で汚れている。走ってきたのだろう。
「状況は」
「港の漁師町を中心に発症。症状は嘔吐、下痢、発熱。重い人は痙攣も出ている」
私は棚に走った。解毒の処方を頭で組み立てながら、瓶を取る。甘草の粉。月見草の根。薄荷油。——足りない。患者数に対して在庫が少なすぎる。開業して一ヶ月の薬局だ、当たり前だが。
「ルカ、甘草の備蓄は」
「ギルドの倉庫に予備がある。取りに行かせる」
ギルドから駆けつけた見習いの少女——フィオーレ、と名乗った——が薬の準備を手伝ってくれた。手つきは荒いが速い。乳鉢の使い方が雑なのは後で直させるとして、今は人手の方が大事だ。
「先生、甘草の粉、これでいいですか」
「もう少し細かく。指で擦って、ざらつきがなくなるまで」
「はい!」
返事だけは元気がいい。
患者を一人ずつ見ていく。食べた量で症状が違う。年齢でも違う。子どもは脱水が早い。老人は心臓への負担が怖い。一人として同じ処方にはならない。
最初の患者は漁師の男。体格がいい分、毒の回りも早い。甘草を多めに、月見草の根で胃壁を守る。二人目は老女。心拍が速い。薄荷油で冷やしつつ、水分を少しずつ与える。三人目は子ども。体重が軽いから、大人の三分の一の量で。母親が泣いている。「大丈夫です」と言った。言いながら、手は次の患者の処方を書いている。
グランフォール領の流行病対応を思い出した。あの時は五つの診療所と十五人のスタッフがいた。今は、この薬局とルカとフィオーレだけだ。
「次の患者を」
「もう三十人を超えている」
ルカが淡々と報告する。この人は緊急時に声が低くなる。慌てないのではなく、慌てを押し殺す癖があるのだ。額に汗が浮いているのを私は見ている。
◇◇◇
昼を過ぎた頃、通りの向こうから荷馬車が来た。
「こちらの薬局で治療してもらえると聞いて。こいつらは——」
御者が言いかけて、口ごもった。
「グランフォール領から来ました」
荷台には五人の患者が横たわっていた。顔に見覚えはない。けれど、症状を見れば、ここの食中毒とは違う。季節病の初期症状だ。咳。微熱。関節の痛み。一人の老人は呼吸が浅くなっていた。放置すれば肺に来る。
マニュアルの最後のページに書いた走り書きが、頭をよぎった。「九月上旬までに白薔薇精油の備蓄を通常の二倍に」。読んでもらえなかったのか。それとも、読んでも間に合わなかったのか。
「先生、どうします」
フィオーレが聞いてきた。食中毒の患者で手一杯だ。侯爵領の患者まで診る余裕はない。
ルカが私を見ていた。何も言わない。判断を委ねている目だ。
侯爵領の患者を治療すれば、結局カティアが尻拭いをした、と言われるかもしれない。あの領地を出てきた意味がなくなるかもしれない。
患者の一人が咳き込んだ。若い女だった。まだ二十歳くらいに見える。
「——診ます」
「いいのか」
ルカが低く聞いた。
「患者に罪はないので」
ルカは何も言わなかった。ただ、棚から白薔薇精油の瓶を出して、私の横に置いた。港町では使う機会のなかった、侯爵領時代の処方のための薬。なぜこれがここにあるのか——ルカが、私のためにどこかから取り寄せていたのだとしたら。
考えている暇はなかった。処方を書いた。
◇◇◇
日が暮れた。
食中毒の患者はほとんど峠を越えた。死者はいない。子どもの患者も熱が下がった。母親が何度も頭を下げて帰っていった。侯爵領から来た五人も、白薔薇精油の処方で安定した。若い女の咳が治まった時、少しだけ手が震えた。
薬局の床は泥と汗の跡で汚れていた。薬瓶は半分以上が空になっている。甘草は残り三日分。月見草はギリギリ。白薔薇精油は——もうない。
フィオーレが薬瓶の残量を一本ずつ確認して、紙に書いている。誰に教わったのか。いや、見て覚えたのだろう。この子は手が先に動くタイプだ。
ルカが床を拭いていた。副ギルド長が床掃除をしている。フィオーレは棚の薬瓶を数えている。
「先生、お腹空きませんか」
フィオーレが聞いてきた。この子は空気が読めないのか、読んだ上で無視しているのか、まだわからない。
「空いた」
「港の食堂から差し入れがあります。魚のスープです」
「魚? 今日は食中毒で魚が原因なのに?」
「火を通せば大丈夫だそうです。漁師のおじさんが言ってました」
笑ってしまった。この町の人たちは図太い。グランフォール領だったら、食中毒の翌日に魚を出す食堂は営業停止だ。ここでは「火を通せば大丈夫」で済む。
スープを受け取った。温かい。塩味が強い。白身魚と根菜が煮込んであって、にんにくの匂いがする。港町の味だ。
一口飲んだ時、涙が出そうになった。疲労のせいだ。八年前、領地で初めての流行病を食い止めた夜も、こうだった。何か温かいものを口にした瞬間に、糸が切れる。
ルカが私の隣に座った。自分のスープを持って。
しばらく、二人で何も言わずにスープを飲んだ。
「白薔薇精油、ありがとうございました」
「何のことだ」
「棚にあったでしょう。私がこの町で使う機会はないはずのものが」
ルカがスープを啜った。顔を上げない。
「……備品リストに載っていたから入荷しただけだ」
嘘だ。備品リストは私が作った。白薔薇精油は入れていない。この人は嘘が下手だ。目を逸らすし、声が低くなる。
でも、追及しなかった。この人の親切は、追及すると逃げる。
「明日、侯爵領の患者の経過を見ます。処方の調整が要るかもしれないので」
「ああ」
スープが空になった。フィオーレが食器を下げてくれた。
薬局の窓から、夜の海が見えた。月が水面に落ちて、銀色の道を作っている。波の音が遠くから聞こえる。静かな夜だ。食中毒騒ぎの一日が、ようやく終わった。
もう関係ないはずの領地の患者を、今日も診てしまった。
まあ、いい。薬師に領地の境界は関係ない。患者がいれば診る。それだけのことだ。
——たぶん、それだけのことだ。




