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夫の愛人が「奥様の代わりなんて簡単」と言ったので、どうぞお任せします  作者: 九葉(くずは)


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第6話 足りないもの

「この薬草が、ない」


開業して一週間目の朝。


患者の症状を聞いた時に気づいた。夏の疲労から来ている熱と、微熱。これには「北部産の夜明け草」を処方するのが一番だ。


棚を見た。


ない。


「申し訳ありません。この方の症状には『夜明け草の根粉』が最適なのですが、こちらの地元の供給先が——」


患者が不安そうな顔をした。


「それでしたら、別のもので」


「そうですね。代替でしたら、月見草とウコン、それに薄荷を合わせた処方が」


処方を書いた。


患者が帰った。


その午後、ルカが薬局に来た。


「患者の様子を見に」


「ありがとうございます。実は、問題が」


ルカが椅子に座った。


「夜明け草が、この地では供給されていないんです。薬局の在庫を調べたら、前の医者も使っていないようで。地元では手に入らない」


「眼科医ですからね。呼吸器系の処方は必要なかった」


「そうですね。でも患者には呼吸器系の不調を抱えている人もいます。特にこれからの季節——」


窓の外を見た。商人街。船乗りたちが行き交っている。海の近くで生活する人たちだ。塩辛い空気を吸い続ける。長年そうしていると、肺に塩分が蓄積する。呼吸器が弱くなる。


「患者さん本人の希望もあります。『夜明け草が使いたい』と言って」


「何か理由が」


「家族が使っていたそうです。効くと知っているから」


ルカが頷いた。


「患者の信頼も、処方の一部ですからね」


「その通りです。ですが、手に入らない」


「他の地域産は」


「東方産と北部産がありますが、質が落ちます。処方の効能が五割程度になる。患者にそれを説明してみましたが、『なんで新しい医者には用意できないんだ』と」


ルカが椅子に深く座った。


「南部の仕入先はいかがですか」


「南部には月見草の方が多くて、夜明け草は扱っていないと聞きました。これはルグラン商会という南部の商人に確認したので、確実な情報です」


「ルグラン商会。その名前は知っています」


「名門の薬草商人です」


沈黙が落ちた。


ルカが窓の外を見ている。


「もう一つ」


カティアが続けた。


「グランフォール領で季節病が流行しているという話です。その領地は八年間、北部産の薬草に頼ってきた。その供給が今、止まっているそうで」


「誰から聞きました」


「行商人から。宿で。複数」


ルカが薬局を見回った。棚、机、患者用の椅子。全部、新しい医者の一週間の仕事だ。


「夜明け草の代替——海浜植物を調べてみないか」


「海浜植物ですか」


「この港町には珍しい植物が多い。特に塩分に強い植物の中に、呼吸器系に効く種類がある。そういった調査は、新しい医者がやることも多い」


ルカが母の図鑑を見た。「ベルモンテ薬学図鑑」。


「この本に、海浜植物について」


「いくつかの記載があります。『塩分に強い植物。特に根が強い。呼吸器の弱さに効果がある可能性』」


ルカが本を開いた。特定のページを見つけて。


「ここに。南部の海岸で採取した珍しい種。クズウツボという植物。根を乾燥させると、肺の熱を冷ます効果がある」


クズウツボ。


初めて聞く名前だ。


「この植物は、この地で自生していますか」


「知りません。調べるほかない」


「どうやって」


「海に行く。実際に探す。見つかったら、採取して、乾燥させて、試す」


試す。


つまり、自分で処方を開発する。もう、マニュアルはない。母の図鑑も、参考程度だ。


「それは」


「難しい、とお思いですか」


ルカが聞いた。


「正直に言うと、自信がありません」


「それが正常です。新しい場所では、新しい方法が必要になる。あなたはグランフォール領で八年、地元に合わせた薬学を作った。今回も同じです」


ルカが図鑑を閉じた。


「ただし、一つだけ」


「何ですか」


「焦らないこと。季節病は秋に来る。それまでに一つか二つ、代替処方が見つかれば、十分です」


ルカが帰った後、患者が三人来た。


一人目は、船乗りの子。熱がある。簡単な処方。


二人目は、老女。関節痛。グランフォール領でセルジェに処方していたのと同じ症状だ。月見草とウコンを合わせた。


三人目は、商人。頭痛。


処方を書きながら、思った。


ここでの患者たちは、グランフォール領の患者たちと違う。港町の人たちだ。塩辛い空気を吸う人たちだ。長年そうしていると、肺に塩分が蓄積する。呼吸器が弱くなる。


グランフォール領で処方していた薬が、ここで通用するとは限らない。


夜が来た。


患者たちが帰った。薬局に一人だった。


母の図鑑を開いた。クズウツボのページを見つけた。イラストがある。細い茎。小さな花。根が太い。


「塩分に強い。呼吸器の弱さに効果がある可能性」。


可能性。


確定ではない。試してみなければわからない。


「代替処方がうまくいかなかった時の記録も、つけておこう」


机に新しいノートを置いた。


「グランフォール領では、成功した処方しか記録していなかった。ここでは失敗も含めて、全部記録する。その方が、次の医者が困らない」


自分の言葉にもならない。


母の図鑑を見つめた。


母は、新しい土地に来たことがあるのか。母は、根拠のない処方をしたことがあるのか。


わからない。


母は、私が物心ついた頃にはもうベルモンテ領にいて、そこで亡くなった。故郷の話はほとんどしなかった。だから、母がどうやって新しい土地に適応したのか、私は知らない。


「私の薬学は、あの場所でしか通用しなかったのか」


呟いた。


声が、薬局に響いた。


患者はいない。ルカもいない。母もいない。父もいない。


一人だ。


机に肘をついた。


もし、夜明け草の代替が見つからなかったら。もし、海浜植物が効かなかったら。もし、グランフォール領が本当に季節病で困ったら。


その時、誰が責任を持つのか。


自分じゃない。もう、あの領地の医者ではないのだから。


なのに。


心の中で、また「秋の季節病対策」のことが浮かぶ。マニュアルの最後のページ。走り書き。「九月上旬までに白薔薇精油の備蓄を通常の二倍に」。


あの文字が、ちゃんと読まれたのか。


ルカの言葉が帰ってくる。


「焦らないこと。季節病は秋に来る。それまでに一つか二つ、代替処方が見つかれば、十分です」。


十分。


でも、グランフォール領は十分ではないかもしれない。新しい医者が対応できなかったら。新しい奥様が、走り書きに気づかなかったら。


けれど。


――思い出した。


母と一緒に薬草を摘んだ日のこと。


幼い頃。母の手が太くて温かかった。母は、見たこともない植物を見つけると、その葉をかじった。匂いを嗅いだ。教えた。


「薬学は、本からも学べる。けれど、手から学ぶこともある。この植物は何か、どう使うか。それは、本だけでは絶対にわからない」


母は、そう言った。


手から学ぶ。


薬局の机の上に、手を置いた。


指が震えていた。


「朝、海に行こう」


呟いた。


「クズウツボを見つけるために。自分の目で。自分の手で」


窓の外は暗い。星が出ている。昨日と同じ星。でも見え方が違う。


母の図鑑が、机の隅に置いてある。


手を伸ばして、本に触れた。


温かい。


「ありがとう、母」


誰へ言っているのか、わからない。でも、声が出た。


翌朝、海へ向かおう。


その前に。


棚を見た。備蓄されている薬草。全部、この港町で手に入れたもの。処方の幅は、グランフォール領の時ほどではない。


でも、ここから始まるのだ。


新しい薬学が。


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