第5話 港町ノーヴァ
潮の匂い。
それが、初めて港町ノーヴァで嗅いだ匂いだった。
馬車から降りた時、風が顔に当たった。塩辛い、生臭い、けれど清々しい匂い。この匂いは薬にならない。でも、体をしゃっきりさせる。もし薬だったら、処方は「心身の疲労に、一日一回、海辺で深呼吸。量は無制限」くらいだろう。
「お嬢様、荷物をお降ろしします」
馬車夫が後ろから荷台を開いた。トランク一つ。母の薬草図鑑。乳鉢と乳棒。全部だ。
港町は想像以上に大きかった。
建物が密集していて、人が多くて、声が絡み合っている。市場の匂い、食べ物の匂い、汗の匂い。八年間いた領地のどの町よりも、ざわざわしていた。
「薬師ギルド……はどこだ」
地図を持っている。けれど、自分がどこにいるのか、さっぱりわからない。
左に行った。いや違う。右だ。いや、そもそもこの交差点は地図に載っていない。
人が多い。肩がぶつかる。異国人もいる。言葉が聞き取れない。
もう一度地図を見た。薬師ギルドはこっちのはずだ。いや、あっちか。
迷った。
通りを引き返す。別の道に入る。また迷った。
三回目に迷った時、諦めかけていた。
「……侯爵家の元夫人が、港町の路地で迷子になっているとは」
声がした。
背後からの声。低めだが、響きがある。知性がある。話しかけられて、我に返った。
後ろを振り返ると、一人の男が立っていた。三十歳前後。黒い髪に青い瞳。薬師のローブを着ている。
「あ……」
「迷われましたか」
「ええ。薬師ギルドを探しているのですが」
男が地図に目をやった。
「その地図、十年前のものでは」
「え」
よく見たら、本当だった。地図の縁が黄ばんでいる。
「港町は五年ごとに新しく道が開通する。商人街だから。ギルドはこっちです」
男が指差した方向。完全に逆だった。
「ありがとうございます」
「ついてきてください。同じ方向ですので」
男は迷わず、路地を抜けた。私は後ろを歩いた。頭の回転は悪い。この町の構造が全くわからない。でも、この人について行けば着く。その確信があった。
ギルドに着いた。白い建物。扉に薬師の刻印がある。
「こちらがギルドです。中に事務官がいます。新規開業の手続きはそちらで」
「本当にありがとうございました。あなたのお名前は」
「ルカ・マレッティ。ギルド副長。もう一つ」
ルカが口を開いた。
「空いている薬局の物件があります。前の医者が移転した後、今は空いていて。見てみませんか」
「是非」
ギルドの裏通りを歩いた。ルカが導く。
一軒の小さな建物。木造。窓が大きい。日光がよく入る構造だ。
「調合室には机と棚があります。ここで薬を調合して、患者は隣室で待つ。前の医者は眼科医だったので、設備は最小限です。薬師なら一から整備することになります」
「内装はどうですか」
「簡潔です」
建物に入った。
調合室は思ったより広い。窓際に机。壁に棚。天井が高い。採光がいい。
「ここが、私の新しい場所か」
つぶやいた。
「立地はいいです。商人街に近いから、街道の旅人も来ます。定住者の患者も増やせます」
ルカが続けた。
「毎月の家賃は銀貨三十枚。設備の維持費別」
「わかりました。借りたいのですが」
「では、ギルドに戻ります。契約書に署名して」
建物を出た。通りに出た。
太陽が高い。昼間だった。
ギルドに戻る前に、ルカが立ち止まった。
「少し、待ってもらえますか」
ルカが何かを探している。ポーチから何か取り出した。
小さな布に包まれた、茶色い粉。
「これは、白バラの根と、月見草、それに甘草を混ぜたものです。疲労に効きます」
「何を仰ってるのですか」
「あなたが疲れているように見えるので。毎日、一つまみ。温かい水に溶かして」
ルカが粉を渡した。
布から匂いがしてくる。白バラは知っている。月見草も。甘草も知っている。その三つの配合は知らなかった。
「どうやって作ったのですか」
「白バラの根は乾燥後、二日間冷暗所に置いて。月見草は花ではなく、葉を使う。甘草は粉にする前に焙煎する。その三つを一対二対一の比率で」
ルカが続けた。
「白バラの根を乾燥させる時間が重要です。不足するとあまり効きませんし、過剰だと苦くなりすぎる。二日が最適です」
「これは……」
「薬師なら気づくかと」
この男は、言葉で説明していない。配方で話しかけている。
ルカの親切の形。
「ありがとうございます」
布包みを受け取った。
◇◇◇
契約書に署名して、新しい薬局の鍵を受け取った。
ギルドに戻ると、事務官が言った。
「新規医者のための名簿があります。仕入れ先、患者候補、地元の有力者。一通り」
「ありがとうございます」
名簿を受け取った。グランフォール領にはなかった。医療は権力の一部だから、新しい医者に競合他社の情報は教えない。ここは違うのだ。
薬局の一室に、母の薬草図鑑を置いた。
本を立てた。
「ここが、私の新しい場所」
呟いた。
本が光を受けている。母の名前が表紙に書いてある。「ベルモンテ薬学図鑑」。
八年前、父に「これを持っていきなさい」と言われて、持ってきた本。その本が、今、新しい都市で陽光に照らされている。
母は、もう亡くなっている。でも、この本は生きている。
図鑑の上に、手を置いた。
◇◇◇
翌日、町を歩いた。
地元の薬草屋に立ち寄った。
乾燥薬草の棚を見た。
「これ、乾燥が甘いですね」
店主が振り返った。
「そうですか。前の医者にはこれで大丈夫だと言われてたんですが」
「眼科医ですから。薬学的には、もう一日乾燥が必要です。特にこのタイプの植物は、湿度を吸収しやすい。このままだと効能が落ちます」
店主が眉をひそめた。
「長年この方法でやってたんですが」
「それは——申し訳ありません。意見を申し上げるべきではありませんでした」
「いや。あんたが正しいなら、正しいで。この先どうするべき」
「もう一日、乾燥させるか。購入者に『開梱後は乾燥した場所で保管してください』と指示する。どちらでも」
店主が頷いた。
「新しい医者さん。いい目してる。これからお世話になるかも」
「ありがとうございます」
薬局に戻った。
患者はまだ来ていない。開業して二日目だから。
でも来るだろう。港町は大きい。病気は場所を選ばない。
母の図鑑を開いた。
母の手書きの注釈を読んだ。母がこの町にいたことはない。母はベルモンテ領でずっと医者をしていた。でも、この図鑑には全国の知識が詰まっている。
自分が新しく知ることもある。この港町の海浜植物についての記載を見た。「塩分に強い植物。特に根が強い。呼吸器の弱さに効果がある可能性」。
まだ確認したことがない植物だ。
実際に見てみよう。海に行って。
明日、仕事の後、海辺に行こう。
窓から、港町の空が見えた。
海がある。可能性がある。
新しい場所が、ようやく「新しい」ことを感じさせた。




