第10話 白薔薇は海辺に咲く
朝の薬局に、いつもの匂いが満ちている。乾燥棚の薬草と、銅の蒸留器の金属臭と、窓際に置いた白薔薇の花束。
花束は昨日フィオーレが持ってきた。「お祝いです」と言って、大きすぎる花瓶に突っ込んでいった。花瓶が調合台の角に当たって危ない。でも、朝日を受けると綺麗だった。
フィオーレが封筒を持ってきた。厚い紙。蝋で封がしてある。王都の薬師ギルドの紋章。
開いた。
公式な表彰状だった。海生植物を利用した新処方の医学的成果に対する認定。署名はギルド総長。文面は堅くて長い。要するに、ルカと私が開発した処方が、正式に認められたということだ。
「先生、すごいです!」
フィオーレが肩越しに読んでいた。この子の遠慮のなさは、もう治らないだろう。まあ、いい。
「ありがとう。でも、まだ薬局は赤字だからね」
「赤字でも表彰はされるんですよ」
正論だった。返す言葉がない。
表彰状を棚に立てかけた。母の図鑑の隣。侯爵領で八年働いて、一度も表彰はされなかった。あの功績は全部ヴィクトル様の名前で王家に報告されていたのだから、当たり前だが。
今度は自分の名前だ。「カティア・ベルモンテ」。嫁ぐ前の、実家の名前。
指先で自分の名前をなぞった。インクの凹凸が指に伝わる。
◇◇◇
ルカが来たのは、いつもより少し早かった。手に薬草茶は持っていない。代わりに、紙袋を持っている。
表彰状を見て、「ふむ」と言った。
「すごいな、とか言わないんですか」
「言おうと思っていた。先を越された」
彼は表彰状を手に取って、文面を読んだ。長い間、読んでいた。学者の読み方だ。一字ずつ噛み砕く。
「……『海生植物エキスを基盤とした呼吸器系処方の体系的構築』。いい表現だ。俺のレポートより簡潔だ」
「それは褒めてるんですか」
「褒めている」
「ありがとうございます」
「理論を提供したのは俺だが、患者の前で試して、四回失敗して、五回目で成功させたのはお前だ。それは——学術的に言えば、俺にはできないことだ」
ルカが表彰状を棚に戻した。母の図鑑と並んでいるのを、少しの間見ていた。
午前中は患者が多かった。表彰の噂はもう町に広がっているらしく、隣町からも来ている。処方を書き、薬を調合し、フィオーレが包んで渡す。ルカが症状の記録をつける。ルカは字が上手い。マルタとは正反対だ。
忙しい日だった。でも、手が動くのは嬉しかった。薬瓶を取る、匂いを嗅ぐ、配合を決める。八年間やってきたことと同じ手順で、違う薬を作っている。ここでしか作れない薬を。
◇◇◇
午後の患者が全員帰った後、ルカがいつもと違うものを出してきた。
茶碗だ。けれど、いつもの薬草茶ではない。白い花びらが浮かんでいる。薔薇だ。
「何ですか、これ」
「花茶だ」
「効能は?」
いつもなら、ここで説明が始まる。「カモミールと薄荷のブレンドで、睡眠の質が向上する」とか、「利尿作用があるから午前中に飲め」とか。毎朝、学術報告の口頭発表みたいに。
今日は、何も言わなかった。
「……効能はないのですか」
「ない」
「では、なぜ」
「作りたかったから作った。理由はそれだけだ」
ルカが首の後ろを掻いた。それから、朝持ってきた紙袋をようやく開けた。パンだった。焼きたてで、バターの匂いがする。
「腹が減っているだろう。昼を食べていなかっただろう」
見られていた。患者が多くて昼食を抜いたのは事実だ。
パンを半分に割って、片方を私に渡してきた。ルカの手の甲に、昨日の海草採取の時の擦り傷がある。薬を塗った方がいいと思ったが、言うと「言い方が悪かった」の流れになりそうなので、やめた。
花茶を一口飲んだ。甘い。効能はないと言ったが、喉が温まるし、薔薇の匂いは気持ちを落ち着かせる。薬理的に言えばそれも効能だが、指摘したら負けだろう。
蒸留器の水滴が落ちる音がした。パンを齧りながら、窓の外を見ていた。海が光っている。
◇◇◇
フィオーレが帰った後、薬局の片づけをしていた。
ルカがまだいる。調合台の記録をまとめている。この人は、フィオーレが帰ると帰り支度を始める日と、そのまま居座る日がある。基準がわからない。今日は居座る日らしい。
看板を磨きに、店の前に出た。月に一度の手入れ。白薔薇の絵を、柔らかい布で拭く。
夕焼けが海を橙色に染めている。看板の白薔薇が夕陽を受けて光っていた。
「白薔薇の奥様」。グランフォール領では、そう呼ばれていた。ヴィクトル様の妻として。白薔薇は侯爵家の象徴で、私自身のものではなかった。
ここでは違う。この白薔薇は、母の記憶だ。私の薬局の看板だ。
ルカが出てきた。隣に立って、看板を見上げている。
「この薔薇。お前が描いたのか」
「職人に頼みましたけど、デザインは私です。母が好きだったので」
「そうか」
海風が吹いた。ルカの黒い髪が揺れた。この人の髪はいつも少し乱れている。研究に没頭すると櫛を忘れるのだろう。
「名前で呼んでくれないか」
唐突だった。
「え」
「『ルカさん』ではなく。敬語でもなく」
彼はまだ看板を見ていた。私の方を見ていない。耳が赤い。首の後ろを掻きたそうにしているのが、横目でわかる。
「……ルカ」
言ってみた。舌の上で転がすような、奇妙な感触がした。他人の名前を呼び捨てにする機会が、八年間なかった。侯爵領では全員が「様」付きだったし、港町でも「さん」だった。
「もう一回」
「ルカ」
ようやく振り向いた。青い瞳に夕焼けが映っている。
「お前の番だ。何か言ってくれ」
「何を」
「何でもいい。お前の言葉で」
薬師として八年。侯爵夫人として八年。処方箋は何千枚も書いた。仕入れ先への手紙、引き継ぎマニュアル、患者記録。全部、誰かのための文章だ。
自分の気持ちを言葉にしたことが、一度もない。
パンを半分くれたこと。毎朝、茶の効能を説明してくれること。白薔薇精油をこっそり棚に入れていたこと。「俺にとっても」と言ってくれたこと。全部覚えている。全部、棚に並べた薬瓶みたいに、順番に並んでいる。
「ルカの薬草茶が好きです」
口から出たのは、それだった。
「毎朝、効能を説明してくれるのが好きです。今日みたいに説明しないのも好きです」
ルカが黙っている。
「あなたが好きです」
海風が吹いた。声がさらわれなかったか、少し心配だった。
「……根拠は」
「根拠はありません。定量的に説明できません」
ルカが笑った。声を出して。この人がこんなふうに笑うのを、初めて見た。学者が理論の穴を見つけた時の笑い方ではなくて、もっと単純な、嬉しい時の笑い方だった。
「根拠がないなら、いい兆候だ」
「どういう意味ですか」
「俺にもわからない。だから、いい兆候だ」
彼の手が伸びてきた。私の手を取った。薬草を扱う手だ。指先が硬い。でも温かかった。
握り返した。
しばらく、そのまま立っていた。看板の下で。夕焼けの中で。海風が塩辛くて、目が少し沁みた。——塩辛いせいだ。
◇◇◇
翌朝。
ドアの錠を外した。薬瓶を並べた。処方箋の束を確認した。母の図鑑を開いて、今日の患者に使う処方のページに栞を挟んだ。
窓の外に、海が見えている。朝日が水面に散らばって、銀貨をばらまいたみたいに光っている。
ルカが来た。毎朝と同じ時間に、同じ方向から。今日は薬草茶を持っている。
「効能は?」
「カモミールと薄荷。睡眠の質が——」
「向上するんでしょう。知ってます」
「……言おうと思ったのに」
あの時と同じやり取りだ。たぶん、明日も同じだろう。
茶を受け取った。温かい。いつもの匂い。
「カティア」
名前を呼ばれて、顔が熱くなった。困る。患者の前では専門家でいなければならないのに。
「……ありがとうございます。ルカ」
フィオーレが来た。
「先生、今日の患者さんの準備できました。あと、隣町の漁師さんの息子さんも来るって」
「皮膚炎の子?」
「はい。先生の薬でだいぶ良くなったって」
窓の外に、母が見ていたはずの海がある。看板の白薔薇が、朝日を受けている。
「さて、今日も開けましょうか」
患者たちが来る。いつもの顔、新しい顔。処方を書く。薬を作る。フィオーレが包んで渡す。ルカが記録をつける。
まだ赤字だし、夜明け草の代替はまだ完全じゃないし、方向音痴は治っていないし、マルタへの返事もまだ途中だ。
でも、明日もここで薬局を開ける。それだけのことだ。




