第1話 奥様の代わりなんて簡単ですわ
「奥様のお仕事の代わりくらい、私にだってできますわ」
茶会の席で、その声が響いた。
銀の茶器がかちりと鳴った。隣に座っていた男爵夫人が、持ち上げかけたカップを盆に戻す音が聞こえた。
伯爵令嬢リゼッタ・フォンターナ。亜麻色の巻き毛に、すみれ色の瞳。社交界では「春の蝶」と呼ばれる美しい人。着ている薄桃色のドレスは今季の流行で、レースの縁取りが日差しに透けている。
そして、私の夫の愛人。
まあ、知っていた。三年前から。
テーブルに並んだ菓子を見た。蜂蜜漬けの木の実のタルト。この蜂蜜、南部産じゃない。甘さが足りないし、色も薄い。——いや、今はそんなことはどうでもいい。職業病だ。
◇◇◇
私の名はカティア・アルヴァーレ。グランフォール侯爵夫人。
もうすぐ「元」がつく。
十五で嫁いだ。薬学の名門、ベルモンテ子爵家の長女として。
先代侯爵の時代、グランフォール領は疫病で壊滅しかけていた。領民の三割が病に倒れ、医師は逃げ、薬草の備蓄は底をついた。王家の仲介で、薬師の血筋を持つ娘を嫁にという話がまとまった。
持参金の代わりに、私の薬学を差し出す政略結婚。
八年。
五つの診療所を建てた。領内の薬草畑を一から整備した。南部の薬商ルグラン商会との取引を開拓し、東方の薬師ギルドから季節ごとの処方情報を取り寄せる仕組みを作った。流行病を三度食い止めた。
領民は私を「白薔薇の奥様」と呼んでくれた。
報告書に書かれる名前はいつも夫のもの、グランフォール侯爵ヴィクトル・アルヴァーレだったけれど。
「ねえ、カティア様」
リゼッタがこちらを見ている。すみれ色の瞳が、無邪気に輝いていた。
「簡単なことでしょう? お薬を並べて、お花を育てるだけですもの。それくらい、私にも——」
「——ええ」
私は笑った。口の端が自然に上がる。八年も仮面をかぶっていると、笑顔は呼吸と同じになる。
「簡単ですとも」
リゼッタは満足そうに頷いた。周囲の令嬢たちが、気まずそうに視線を泳がせている。
私は茶を一口飲んだ。ぬるい。
ふと、窓の外を見た。庭園の向こうに、第一診療所の白い屋根が見える。今朝方、薬師助手のマリアが「来月の薬草、発注書はいつもの通りで?」と聞いてきた。いつもの通り。ルグラン商会に麦茶草を二十束、月見草の根を十束、消毒用の白薔薇精油を五瓶。
その「いつもの通り」が、どれだけの交渉と信頼の上に成り立っているか。リゼッタ様はご存じない。
ルグラン商会の主人は気難しい老人で、取引を始めるまでに半年かかった。私がベルモンテの名を出してようやく会ってもらえた。あの老人は侯爵家の名前では動かない。「薬を扱う人間の目を見て決める」と言った。
まあ、いい。それも全部、マニュアルに書いてある。読んでもらえれば。
◇◇◇
夫の書斎は、相変わらず剣の手入れ油の匂いがした。
壁には軍功の勲章が三つ。机の上に積まれた書類は、全て軍事関連のものだ。
ヴィクトル・アルヴァーレ。二十四歳。十六で先代の急逝により侯爵位を継いだ人。軍事の才能は本物で、剣術大会では三年連続で優勝している。領民の前に立てば堂々たる演説をする。
けれど、領内に診療所がいくつあるかは知らないだろう。
「話がある」
「手短に頼む。明日は南方の視察だ」
顔を上げない。いつものことだ。私の話を聞く時、この人は顔を上げない。
机に封書を置いた。革の表紙に、王家の紋章入りの封蝋。
「白紙婚八年条項に基づく離縁届です。王都の婚姻登録所への届出は、先月完了しました」
剣の手入れ布が、ぽたりと床に落ちた。
「……何だと?」
初めて、顔が上がった。
「八年間、婚姻の実態がありませんでしたので。条項に基づき、届出のみで離縁が成立します。あなたの同意は法的には不要ですが、ご報告まで」
沈黙が落ちた。窓の外で、厩舎の馬が鼻を鳴らす音だけが聞こえる。
ヴィクトルは封書を手に取り、中身を確認し——それから、投げるように机に戻した。
「好きにしろ」
八年の婚姻の結末は、まぁ予想通りだ。
「ありがとうございます。では、引き継ぎを始めさせていただきますね」
「引き継ぎ?」
「ええ。リゼッタ様に。診療所の運営、薬草の管理、仕入れ先との取引、季節ごとの予防計画。三日間いただければ、基本的なことはお伝えできるかと」
ヴィクトルが眉をひそめた。何か言いたそうな顔をして、口を開きかけて——
けれど、彼は何も言わなかった。
いつものことだ。この人はいつも、大事なことを言わない。
書斎を出た。廊下の窓から、夕暮れの庭が見えた。
八年前、ここに初めて来た日のことを覚えている。十五歳の私は、革のトランクに薬草図鑑と乳鉢を詰めて、馬車から降りた。出迎えてくれたのは侍女長のマルタだけだった。夫になる人は、剣の稽古で忙しいと聞いた。
あの日から、ずっと。
でも恨みはない。本当に。恨むほどの何かが、最初からなかったのだから。
◇◇◇
仕事部屋に戻った。
銅製の蒸留器が窓際で鈍く光っている。乾燥棚には今季の薬草が整然と並び、棚の端にはガラスの薬瓶が百本以上。ラベルは全部、私の字だ。
机の上に、押し花がある。
八年前、この領地で初めて咲かせた薬師草の花。青くて、小さくて、日当たりの悪い場所でもしぶとく根を張る。あの年は土壌が悪くて、三回植え直した。四回目で、やっと芽が出た。
乳鉢と乳棒を手に取り、それから棚に戻した。もう片付けなくていい。
棚の羊皮紙の束を見た。処方箋。二百枚以上ある。一枚一枚、私が書いた。患者の名前と体質と、季節ごとの処方の微調整と、「この人は秋に咳が出やすいから八月には予防薬を」という走り書き。
この紙の束がなければ、診療所は回らない。
でも引き継ぎマニュアルは、もう書いてある。二百ページ。目次だけで八ページ。
我ながら、よくもまあ八年も——。
ガラスの薬瓶を一つ手に取った。蓋を開ける。乾燥した薬草の、青くてほろ苦い匂い。指先に粉が少し付いた。この匂いと、この粉の感触が、八年間の私の全部だった。
蓋を閉じる。
押し花を指先でそっと撫でた。花弁の端が、少しだけ欠けている。乾いた花びらは紙のように薄くて、触れると壊れそうだった。
「——さよなら」
明日から、三日間の引き継ぎが始まる。
リゼッタ様は「簡単」だと言った。
なら、どれほど簡単かを、丁寧に教えてさしあげましょう。
一つも隠さず、一つも手を抜かず。
それが私にできる、最後の仕事だから。




