重い女を卒業したい
産婦人科のベットで堕胎処置を終えた涼子は、流れる涙を隠すように手で顔を覆っていた。
若い看護師が涼子の側で肩を擦ってくれた。
「林さん、頑張りましたね・・お一人で、よく頑張りましたね・・」
看護師の声は涼子に同情しているようで震えていた。涼子は心の中で看護師に謝っていた。
涼子は悲しくて泣いているのでは無かった。これで、真也と別れ無くて済む事に安堵しての、喜びの涙だった。
夕方に成り 荷物をまとめた涼子に看護師が言った。「今日、出血が多く出たり具合が悪く成ったらすぐ連絡して下さいね」と言いながら診察券を渡してくれた。
涼子は思った。「重い女 認定カードだ」
職場の食品工場で10歳年上のシングルマザーで、涼子の人生を以前から心配してくれる先輩、竹中真弓の言葉を思い出していた。彼女は34歳で、小学3年生に成る息子が居た。
「涼子ちゃんの彼氏、また仕事辞めちゃったんだ。まだ決断出来ない?涼子ちゃん、まだ20代だし、美人なんだから新しい男探しなよ。これで子供出来たりしたら、私と同じに成っちゃうよ。私も別れた方がいいと分かっていながら離れられない 重い女だったの」
涼子は過去の言葉に返答した。『竹中さん、同じには成らなかったけどね、重い女は確定しました』
夜8時を過ぎ、古いアパートの前で涼子はタクシーを降りた。2階のドアを開けると池田真也がスーツのままTVの前に横たわり、空いたビール缶を複数テーブルに並べていた。
「今日残業だったのかー?遅かったな」真也が涼子に向かって声をあげた。「つまみに成る物、何もなくて困ったよ」
涼子は真也に、子供が出来た事も、堕胎した事も言っていなかった。彼が、自分から去るのが怖かった。
「今、美味しいおつまみ作るね」
涼子はエプロンを着けてすぐキッチンに立った。
真也が寝つき、涼子も一緒の布団に入って電気を消す。涼子は真也の少し生えた髭でザラザラする頬を撫でた。
『ほっとする。』
何故なんだろう。何故、自分は、この男から離れられないんだろうと、涼子も思う。大学で告白されてから付き合って5年。特別な容姿をしている訳でもなく、かといって暴力を振ったり借金をして涼子を、困らせるでもなく、ごく普通の男だと、涼子は思った。涼子には、子供を何歳までに持ちたいとか将来はこう成りたい等の形を考えない訳では無いが・・ただ一つ言える事は「真也が居ない人生」が考えられ無いだけだった。
5ヶ月前 生理が来なく成り、妊娠を疑い、千葉に住む両親の家に帰った日の事を思い出した。
豪華な夕食を作って招いてくれた母は、涼子から「生理が来ないの」という一言で、すぐに顔が青ざめた。「真也さんの子供なの?」
涼子は、ムッとした。
「誰の子供だと、言いたいの?」
「だって、半年前、家賃を借りに来たじゃない!」既に母親の眼には絶望の涙が溢れた。
涼子は悟った。体を売ってお金を作ろうとした事が有ったのではないかと母親が疑っているのだろうと。
でも涼子にとってその選択だけは、あり得なかった。それでお金が稼げたとしても、真也だけの自分で居たかったからだ。
涼子は言った。「お母さん、安心して。真也以外、あり得無いし。それと、子供、産もうと思ってないから」
「・・なら、おろす為のお金が欲しい訳ね」
涼子は小さく頷いた。
母親は、悲しさで肩を震わせながらカバンから財布を探しながら叫んだ。
「何が、不満だったの?お父さんもお母さんも、あなたに寂しい想いをさせた覚えは無いわ!高校だって、大学だって、涼子が行きたいようにしたのに・・何が・・何が・・いけなかったと言うのよ!!」
母は泣いた。その言葉は両親が自分達に向けて日頃から自問自答しているものだった。
母は、銀行のカードを取り出し涼子に握らせて叫んだ。
「もう帰りなさい。お父さんが帰って来る前に。お父さんが知ったら、真也さんを殺し兼ねないわよ」母の目は真剣であった。
涼子は、言われるまま家を出た。
眠っている真也の頬を撫でながら、涼子は小さく言った。「お母さん、何でなんだろうね。私にも分からない・・」涼子はすぐに眠りに着いた。
1ヶ月経ち、仕事を終えた涼子が更衣室から出ると、同じ工場で働いている、30代位のガタイの良い男性が工場の門に立って、涼子に気づくと、話し掛けて来た。
「林さん、あのう、えーっと、僕 高橋純一っていいます。」
会話はした事は無いが、涼子は何度も職場で見掛けていたので同僚だと分かったので会釈した。純一は、続けた。
「前から、林さんと同じ工場で働いてまして、僕、夜勤専従でして、お話する機会がなくて・・それで・・」純一が顔を赤らめ、早口で話す様を見て 涼子には直ぐに誠実な男性であると分かった。
「僕、林さんとお話したいなと思っていました。竹中さんに、聞いたら林さんは、独身だと、伺いまして、それで・・」
竹中先輩が背中を押したのだろうと、涼子は察した。自分と、真也が別れられるようにと。
しかしながら純一の気持ちは、作り物で無い事は分かった。
涼子は答えた。
「初めまして。声掛けてくれてありがとうございます。でも、私、付き合ってる人が居るんです」
純一は、言った。
「そうなんですか」
純一は残念そうな表情を見せたが続けた。「ただ、結婚とか、されて無いんであれば、もし、気が向いたら、お茶でも行きませんか?」
涼子は、純一の顔を見詰めた。そして思った。
『こういう人を好きに成れば、良いのに』
ただ見詰めるだけの涼子に驚いた純一は、言葉を発した。「あのう、・・どうで、しょうか・・」
涼子は、くすっと笑って言った。
「そうですね、もし、そういう気持ちに成ったら。失礼します」
涼子は頭を下げて、歩き出した。
純一は、祈るように涼子の背中を見送っていた。
「ただいま〜」涼子が帰宅すると、真也は居なかった。新しい仕事が、決まり今日は居ないと、思っても仕事に行かずに家に居たり、居酒屋に出掛けていたりするので涼子は、普段通りに夕食の支度を始めた。
夜中の0時を周ってから真也が帰って来た。
心配していた涼子は、直ぐに玄関に向かった。案の定、真也は泥酔していた。
「おかえりなさい」
涼子はふらつく真也を支え靴を脱ぐのを待った。
「全くよう!何処の上司も、偉そうに!!何処もかしこもブラック企業様ばっかりだ!」
また新しい会社で、嫌な事があり呑んで来たのだろうと理解した。
真也はいつも通りのTVの前の居場所に転がるように座った。とたん、買い物袋から中身がバラバラと出て来た。
涼子が片付けていると真也は続けた。「もう決めた!決めた!あんな会社辞めてやる!課長のヤツ俺の頭をガチガチ ペンで叩くんだぜ!仕事やれねーヤツは早く辞めろって!」
真也は、涼子の顔を覗き込んだ。
「おい、涼子ぉ、あの課長、殺して来てくんないかなー。マジでよー!あんなヤツ死ねば良いのによー!」
いつものボヤキだと思った瞬間、涼子の手が止まった。新品の包丁に金槌に、手袋にビニール袋・・涼子は思った。
真也は本気で課長を殺そうとしているのだと。
「真也、本気なの?!」
「もちろんそうだよ!なぁ、涼子、殺してくんないかなー、俺の代わりに」
真也は、泥酔しきり、目もうつろであったが、何度も何度も上司を殺して欲しい、殺して欲しいとつぶやいている。
涼子の手が、わなわなと震え始めた。
「私が人を殺す・・真也の嫌いな人を刺し殺す・・」
真也は答えた。
「そうだぁ。殺してくれー!殺してくれー!あんな会社辞めてやるー!」
涼子の顔が青ざめた。
ゴクリと唾を飲み込み、袋から飛び出た新品の包丁を取り出す。
「真也・・真也・・」
涼子は初めて号泣した。
彼の子供を妊娠した事を産婦人科で知らされた時も、たった一人で堕胎の処置承諾書にサインをした時も涙を出さなかったのに。
「分かった・・真也の気持ちに・・応えなきゃ・・ね・・」
涼子は真也の顔を覗き込んだ。
酒で真っ赤に成った真也の皮膚に半開きだった瞳が、グスリッ!!という、鈍い音と共に 大きく見開き、ゆっくり青ざめてみるみる変化していった。
「・・ゴフッ!!・・ガフッ・・ゴブッ・・ゴブッ・・」
涼子が握った包丁は、柄の根元まで真也の胸に突き刺さっていた。
1DKのアパートの床が、真也の血で染まって行く。
真也は床に横たわり、ピクピクと小さく動いて、そして止まった。
涼子は、真也の血液の上で、真也の顔の真向かいに横たわった。
「真也・・私が、人を殺したら、警察に捕まって、離れ離れに成るのよ。真也は私と、離れ離れに成って、良かったのね・・・」
涼子は、冷たく成っていく真也の頬を一晩中撫でていた。
朝に成り、真也のケータイが鳴った。
涼子はケータイにゆっくり手を伸ばし、
耳に充て、取った。
「もしもし?兄貴?俺、裕也。朝の6時に、店を出す準備するの、今日からじゃなかったっけ?もしもし?」
「・・え・・」
涼子の声が漏れた。
「あれ?涼子さん?兄貴居ないの?俺、弟の裕也なんですけど、聞いてないかな。今日から、俺と串焼き屋の店舗を準備する日って決めてて、食材持って、1時間待ってるんだけど」
「・・真也が、お店を?・・」
「そう。今までも、ちょくちょく準備に来てたんだけどね。あ!でも、嫁さんには、内緒とか、言ってたかも。怒られちゃうな。・・でも、電話、出れないのかな?兄貴は?」
「・・嫁・・さん・・」
涼子は、愕然とした。
真也の血液の上で。
真也の消え去った、命の上で。




