ハイト・オブ・ファッション
作品の前にお知らせ
下記リンクに今後の計画のざっくりした概要が書いてあります。余命宣告の話もあるのでショッキングなのがダメなら見ないことを推奨します。
あと表紙はアルファポリスとpixiv、Noteでは公開してます。
https://note.com/isakaakasi/n/n8e289543a069
他の記事では画像生成の詳細やVtuberを簡単に使えるサブスクの開発予定などもあります。
また、現時点で完結した20作品程度を単発で投稿、毎日二本完結させつつ連載を整備します。どの時間帯とか探しながら投稿しているのでフォローとかしてくれないと次来たかが分かりにくいのでよろしくお願いします。
今年の終わりにかけて「列聖」「殉教」「ロンギヌス」のSFを終わらせる準備をしています。というかロンギヌスに関しては投稿してたり。量が多くて継承物語は手間取っていて他はその余波で関連してるKSとかEoFとかが進んではいるけど投稿するには不十分とまだ出来てない状態です。
山はもう、揺れ終わっていた。 雲の切れ目から覗く空は薄く白く濁っていて、遠くの地平まで同じ色で塗りつぶされている。風だけがまだ落ち着かず、尾を引くような震えを山肌に残していた。折れた木々が斜面に寄りかかり、崩れた岩の隙間には、雪とも砂ともつかない細かな破片がまだ落ちきらずに溜まっている。
そのずっと上、冷たさと薄さばかりが重なる高みから、一つの影が落ちてきた。 影は翼だった。片方はまだ形を保っている。もう片方は、裂け目から羽毛をばらまき、空中でほどけかけていた。羽毛は風に攫われ、光を受けて銀色にも灰色にも見える細い線になり、ふわりふわりと遅れて落ちていく。 翼の根元には、人のかたちをしたものがぶら下がっていた。
それは、自分が落ちていることを認めるまでに、少し時間を要した。身体の周囲を滑る風の速さと、視界の端を流れてゆく雲の高さが一致しない。胸の奥にはまだ、さっきまでいた場所の余韻のようなものが残っている。高みの冷たさと、そこでしか聞こえない微かな震え。それが消えたあとに残った空白が、ようやく「落下」という言葉と結びついた。
これ以上、高い場所はなかったはずだ。 そう思った直後、その高みから突き出すようにして、山が見えた。
山は、どこにでもあるような形をしていた。裾野は森に覆われ、途中には岩と草地が混ざり合った斜面が広がっている。山頂に近いはずの場所にも背の低い木が点々と残り、ところどころに白く禿げた地肌が露出していた。遠くから眺めるなら、まだ「高い」と呼べなくもない。しかし、この高さから見下ろすと、その輪郭にはどこか中途端な印象があった。 それでも、他のどの山よりも、そこだけが目についた。
あそこだ、と使いは思った。 理由を探しても、すぐには見つからない。ただ、山を包む風の流れ方が、他とは少し違って見えた。頂に触れていないはずの雲の端が、そこだけ引き寄せられているように見える。山全体が、かつてもう少し高かった痕跡だけを残しているような、そんな形の違和感だった。
高い山がいい。高い山を探せ。 誰かにそう命じられた記憶は、はっきりとは残っていない。命令の言葉そのものは消えてしまっている。それでも、どこかから渡された意志の残りだけが、身体の底に沈んでいる。理由の分からない指示を、そのまま従うことだけを役目にしてきた感覚。それがまだ、片翼の根元に、鈍い痺れのように残っていた。
翼が、ぐらりと傾いた。 風の流れが変わった。地震で乱された空気の筋が、まだ整理されきっていない。山に近づくほどに風は絡まり、上昇気流と下降気流がねじれている。片方の翼だけでは、その揺らぎを受け止めきれない。左の翼が持ち上がり、右の翼が、空の中で裂ける音を立てた。
その瞬間、森の影が跳ね上がった。 斜面の途中、濃い緑の塊がひとつ、風とは無関係な動きで揺れた。太い幹の間から、黒に近い茶色の毛並みが飛び出す。大きな頭、丸い耳、光を吸い込むような瞳。熊が前足を伸ばし、落ちてくる影に向かって跳躍した。
使いの視界は一度、真っ黒になった。 柔らかいようで硬い毛が、顔の前をかすめる。重い何かが翼を掴み、引き裂く感触が肩から背中に走る。骨と羽根が別々の方向に引っ張られ、関節がひとつ、抜けた。体温のあるものの重みと匂いだけが一瞬だけ近づき、次の瞬間には、風の中に放り出されていた。
軽くなったのは、身体ではなく、感覚の方だった。 左側から吹きつける風が、急に冷たさを増す。そこにあったはずの重さが消えている。見ようとしても、空中では自分の背中の様子は分からない。代わりに、視界の隅で、何か白いものが大きく渦を描いて落ちていくのが見えた。熊の影も一緒に、森の濃い緑の中へ戻っていく。
残った翼だけでは、もう方向を選べない。 使いの身体は、山の斜面に引き寄せられるようにして落ちていった。風の流れは山肌に沿って変わり、速度は増してゆく。木々の梢が視界に近づき、枝が何本も折れる音が重なった。細い枝葉が顔を打ち、土と樹皮の匂いが一気に鼻を満たす。最後に、硬い何かに背中を叩きつけられ、視界が白く弾けた。
しばらくのあいだ、音はなかった。 雪解けの後のぬかるみのような地面に、身体の重さが沈み込んでいる。片方の背中には、冷えた岩の感触があった。折れた枝が手足の下で突っ張り、どこかで小さく軋んでいる。肺の奥に残った空気が、少しずつ押し出されていく音だけが、自分のものとして認識できた。
目を開くと、斜面の上に、空が細長く見えた。 さっきまでいた高みとは違う。空は手の届かないところにあるが、その下に重なるものが変わっている。枝の隙間から覗く空は、低くも高くもない。雲の流れは山の形に沿って歪み、風の音は木々と岩の間で引き裂かれていた。
身体を少しだけ横にずらすと、視界の端に、不自然な直線が見えた。 錆びついた鉄の柱が、斜面に斜めに突き刺さっている。かつては水平だったであろう鉄骨が、根元から折れ、ぶら下がるようにして止まっていた。その先には、空中で止まったままの箱がある。窓ガラスの割れた箱の中には、誰もいない。箱の下には、途中で切れた索道が、だらりと垂れ下がっていた。 ロープウェイという言葉が、どこからか浮かんでは消えた。
さらに目を凝らすと、斜面の上の方には、コンクリートで固められた平らな面が見えた。ひび割れた床、崩れ落ちかけた手すり。手すりの外側は空へと開けているが、その先に広がる景色は、想像していたほど高くはない。山の向こうには、同じような高さの山々がいくつも重なり、そのさらに先に、かすかな街の影が横たわっている。 ここは、かつて高いと呼ばれていた場所なのだろうか。 使いはそう思った。言葉ではなく、ただ浮かんだ感覚として。
まだ、立ち上がることはできない。片方の翼が、背中のどこかで重く折りたたまれているのが分かる。もう片方は、そこにあるのかどうかすら分からない。手を伸ばそうとすると、腕の奥に鈍い痛みが走り、土の中に指が沈んだ。
高い山を探していたのだ、と、そこでようやく思い出した。 探せ、と誰かが言ったわけではない。けれど、そうでなければならない気がしていた。高い山の上なら、かつて自分がいた場所と、何かが繋がる気がしていた。高いというだけで、そこに価値が生まれると信じていた。その信じ方自体に、理由はない。
視界の端で、斜面の上から何かが覗き込んでいた。 人の姿だった。長く日を浴びた布のような色の上着と、土埃でくすんだズボン。手には、削れて丸くなった杖のようなものを持っている。黒ずんだ輪郭の向こうに、顔の形がある。逆光のせいで表情は見えない。ただ、こちらを見下ろしている、という事実だけがはっきりしていた。
その横で、遠くから熊の鳴き声が聞こえた。森の奥で、低く短く響いて、すぐに途切れた。 使いは、まだ地面に背中を預けたまま、息だけを吐いた。ここが、自分の墜ちた場所なのだと、ようやく受け入れながら。
斜面の上にいた人影は、しばらく動かなかった。 風が向きを変え、折れ枝と砂を少しずつ別の場所へ運んでいく。そのあいだも、影は杖のようなものに体重を預けたまま、こちらを見下ろしていた。やがて、鈍い石のように重たい一歩を踏み出す。土を踏む音が、枝の軋む音より少しだけ大きく響いた。 足音は急がない。崩れた地面の具合を確かめるように、一歩ごとに間を置いて近づいてくる。斜面に落ちた石を避け、折れた幹の上に足を乗せるときには、かすかな息遣いが混じった。どれも、ここを知っている者の動きだった。
影が真上に来ると、光がひとつ遮られた。 逆光の縁が少しだけ崩れ、中にいる人間の輪郭が見えた。痩せている。頬は日焼けとも疲れともつかない色でこけており、髪は帽子の下から乱れたまま覗いている。目の色は分からない。ただ、こちらを見下ろす視線が、しばらくの間動かなかった。 やがて、その視線が、背中の方へと移動した。 折れた枝の間から、残った片方の翼が、泥と血にまみれて見えている。もう片方があったはずの場所には、白い羽毛の名残もほとんど残っていない。枝と土だけが、そこに重なっていた。
影の持つ杖が、静かに地面を突いた。 「……動けるか」 声は思ったより若くも老いてもいなかった。乾いた喉から絞り出されたような響きがあるが、怒りや驚きは含まれていない。ただ、その場の状況を確認するためだけに発せられた言葉だった。 使いは、口を開こうとして、すぐには音を出せなかった。胸の奥から出てくる空気が、喉のどこかで引っかかる。落下の途中で何かを呑み込んだような違和感が、そこに残っていた。 「……分からない」 ようやく出た声は、自分のものに聞こえなかった。
影は、それ以上質問を重ねなかった。手を伸ばし、折れた枝をどかす。枝に積もった湿った土が崩れ、冷たい空気が背中に触れる。片方の腕を掴んだ手は、想像していたよりも力が弱い。それでも、身体を引き起こすには足りていた。 「立てるなら少し楽だが」 そう言ったきり、相手は使いの腰に腕を回した。片側の翼が岩に擦れ、鈍い痛みが背骨から肩に走る。足の裏が地面についたが、力はすぐには入らなかった。膝が折れかけたところを、相手の身体が支える。二人の重さを受けた地面が、じわりと沈んだ。
「……すまない」 何に対する言葉なのか、自分でも分からなかった。ただ、こうして支えられて立っている事実が、落ちてきたという事実と同じぐらい、慣れない感覚だった。 影は首を振ったのか、帽子の縁が少し動いた気配だけがあった。 「ここからは下りだ」 そう告げると、相手は使いの腕を肩に載せ、ゆっくり斜面を降り始めた。
足場は悪かったが、足運びには迷いがない。崩れた岩の上を避け、柔らかくなった土の部分を選んで歩く。根の張り出した場所では、その上に足を乗せて身体を滑らせる。片方の足が沈みかけると、杖が先に地面を探り、そのたびに小さな砂利の音がする。 使いの視界に、斜面の下に広がるものが少しずつ増えていった。
木々の間に、古い踏み跡が見える。幅は人ひとり分ほどで、ところどころに木の階段が埋め込まれていた。その一部は崩れ、段差が歪んでいる。手すり代わりのロープは、何度も結び直された形跡を残して垂れている。結び目のいくつかは、もうほどけかけていた。 道の脇には、立て札が一本、斜めに傾いて立っていた。表面の塗料は雨に削られ、文字はすっかり薄れている。かろうじて読めるのは、山の名前と、登山道の番号らしき記号だけだった。その下には、かつて貼られていただろう紙の破れた端が、灰色の塊になってこびりついている。 人の気配は、今はない。
吐く息が白くなるほどの冷たさではないが、山の空気は硬い。風に乗って、どこからか鉄と油の混じった匂いがかすかに届いてくる。先ほど見えたロープウェイの機械の残り香だった。誰かが最近まで触っていたような新しい匂いではなく、長い時間のなかで少しずつ染み付いたままの匂いだ。 「……ここには、よく人が来るのか」 自分の声が、思ったより近い場所で響いた。歩きながら問いを発すると、肩にかかる重みがほんの少しだけ揺れた。 しばらく、返事はなかった。 「昔は」 ようやく返ってきた言葉は、その二文字だけだった。 その言葉に続けられるはずの音が、相手の口の中で止まった気配がした。代わりに、杖が一度強く地面を突く音がした。崩れかけている木の階段の上を通るときだけ、足音が少しだけ慎重になる。 「今は?」 「……たまに」 会話はそこで途切れた。
たまに、がどれくらいの頻度を指しているのかを尋ねる前に、踏み跡の先に、小さな建物が見えてきた。 木造の山小屋だった。屋根はところどころ苔に覆われ、板壁には長い年月の雨筋が幾重にも刻まれている。入口の上には、かつての名前を示す板が釘で留められているが、文字は半分以上剥げ落ちていた。そのすぐ横には、色の褪せた看板がもう一枚かかっている。そこには、いくつかの言葉が重なり合って書かれていた。 山の名前。標高。営業期間。
その下に、小さな文字で並んだ別の言語。
それらのいくつかは、雑な上塗りの塗料で消されていた。 消された文字の跡だけが、わずかに浮き上がっている。上から塗られた茶色の塗料が、その部分だけ薄く、筆の跡が雑にかすれている。消された言葉が何だったのかは、もう判別できない。ただ、その上に新しく書き足された日付と、営業終了を告げる短い一文だけが、まだ鮮明だった。 山小屋の扉は、半分だけ開いていた。
相手は片手でそれを押し開けると、中へ使いを引き入れた。軋む蝶番の音が狭い室内に響き、空気が少し動く。中は薄暗く、外の光は小さな窓から細く差し込んでいるだけだった。空気の中には、木と湿った布と古い煙の匂いが重なっている。 中には、かつて客用だったであろうベンチとテーブルがいくつか並んでいた。そのいくつかは片側が外れて傾き、椅子の脚が折れたまま隅に寄せられている。壁には、観光用の写真が何枚か貼られていた。雪に覆われた山頂、紅葉の斜面、晴れた日の頂上からの眺め。それぞれの隅に、小さな説明文が印刷されている。そこにも、消された文字の跡がいくつかあった。 建物の奥には、木製のカウンターがあり、その向こう側に更に小さな部屋が見える。そこだけは、比較的新しい布で仕切られていた。布をめくると、簡素な寝台が一つと、棚と、鉄の薪ストーブが据え付けてあるのが見えた。 「ここで」 相手は短くそう言い、寝台の端に使いの身体を下ろした。
布団は薄いが、乾いていた。山の夜の冷えを避けるために何度も干されたのだろう。外の土と木の匂いに比べれば、ここには人の体温の名残のような温かさがまだ残っているように感じられた。 使いが背中を寝台に預けると、片方の翼がきしみ、痛みが改めて浮かび上がった。思わず息を吸い込むと、その音に反応したのか、相手は棚から何かを取り出した。小さな布と、水の入った容器だった。 「傷を見てもいいか」 問いというより、作業の確認のような声音だった。
使いは頷こうとして、頭が思うように動かないことに気づいた。代わりに、目を閉じてからゆっくり開く。それで十分だと判断したのか、相手は片方の翼の付け根から、泥と血を慎重に拭い始めた。 布が触れるたびに、冷たさと痛みが交互にやってくる。羽の根元の間に入り込んだ細かい砂が取り除かれていく感触がある。相手の手つきはぎこちなくはないが、必要以上に優しくもない。ここでこうして誰かの手当てをすることは、何度か経験しているのだろう。それでも、言葉は足りない。 「高いところから、落ちたのか」 作業の途中で、相手はひとことだけ問うた。
自分にとっての高い場所が、どこだったのか。そこから落ちたことが「堕ちた」と言うべきものなのか、それとも単に「落下」と呼ぶべきものなのか。使いには、その違いをまだ判別できなかった。胸のどこかで、「堕ちる」という言葉だけが、ゆっくりと沈んでいく。 「……そうだと思う」 ようやく答えると、相手はそれ以上その話題に触れなかった。 代わりに、片方の腕や足にも視線を走らせ、目立つ傷だけを確かめていく。骨が折れている場所はなさそうだったが、打撲の痕がいくつも浮かび上がっている。服の布を切る必要があるところでは、短くため息をつき、古い布切れを取り出して新しい包帯代わりに巻いた。 「水は、飲めるか」 手に持った容器を少し傾けて見せる。
使いは、喉の渇きを自覚するのに数秒を要した。口の中の乾きを感じる頃には、相手の手がすでに容器を唇の近くまで運んでいる。少し頭を持ち上げられ、冷たい水が少しずつ口に流れ込んだ。水の味は、鉄と岩の匂いが少し混じったような、山の水そのものの味だった。 飲み終えると、相手は容器を棚に戻し、部屋を一度見回した。 壁際には、古びた木箱が積まれている。そのいくつかには、観光地の名前が印刷された紙が貼られたままだった。箱の上には、客が置いていったのだろう小物が並んでいる。色あせた帽子、折れた杖の先、誰かの言葉が書かれた小さなカード。そのカードの文字も、途中まででインKが滲んで読めなくなっていた。
「客は、最近は来ない」 相手は、木箱の一つに軽く触れながら言った。 その言葉は説明ではなかった。ただの現状の報告だった。どうして来ないのか、いつから来なくなったのか、誰がその流れを断ったのか。そういったことは一切語られなかった。その代わりに、箱に積もった埃の厚さと、窓の外に続く踏み跡の薄さだけが、その理由の一端を示している。 「お前は……登ってきたのか」 使いの問いに、相手は少しだけ間を置いた。 「昔」 それだけ答えたあと、相手は振り向かなかった。話を続ける気配はない。言葉の先にあるものを、自分の中で形にしないようにしているような沈黙だった。
山小屋の外から、風の音が聞こえた。木の枝同士が擦れ合う音と、遠くで鳴る金属のかすかな響きが混ざる。その合間に、どこかの戸が揺れるような音が一度だけした。山がまだ完全には落ち着いていないことを知らせる音だった。 使いは寝台の中で、目だけを動かして天井を見上げた。 天井板には、節の跡がいくつもあり、そのひとつひとつが小さな黒い目のように見えた。そこにはもう、先ほどまでいた高みからの震えは届いていない。代わりに、木の軋む音と、人の歩く音と、遠くの風の音だけがある。 自分が「堕ちた」のかどうかは分からない。ただ、ここが「高いところから落ちてきた先」であることだけは、確かだった。
昼の光が、山小屋の中をあっさり通り抜けていった。 扉が開くと、薄暗い室内に差し込んでいた光の筋が形を変え、そのまま外へ流れ出ていく。使いは寝台からゆっくりと身体を起こし、まだ慣れない足を床に下ろした。片方の翼は布団の上で重たく横たわり、もう片方があった側には、包帯と布切れが巻かれているだけだった。
「外を歩けるか」 入口のところで、シェルパがそう言った。 問いかけというより、確認だった。返事を待たずに外へ出ていくこともできただろうに、扉の脇でわずかに身体を止めている。使いは、その背中を見ながら、自分の足に少しだけ力を入れてみた。 「……試してみる」
立ち上がると、身体のどこかが軋むというより、全体が一度に沈んだ。地面が、少しだけ遠くなっている気がする。高いところから落ちたせいではなく、ここが「地面」であるという感覚に、まだ身体の方が慣れていなかった。歩こうとすると、翼の重さが片側に傾き、自然と一歩目がそちらへずれた。
山小屋の外に出ると、空はさっき見上げたときよりも近く見えた。 雲は薄く切れ、山頂の上を低く流れている。その高さは、かつて自分がいた場所の足元に届くかどうか、といった程度だった。風は斜面に沿って上下に流れ、ところどころで旋回している。山の形に合わせて曲がり、谷間に落ち、またどこかから吹き上げてくる。その流れが、羽根の残りと裸の肩に交互に触れていく。
シェルパは、山小屋の脇の踏み跡に立っていた。 片手に杖を持ち、もう片方の手を空けたまま、使いが近づくのを待っている。歩幅は広くないが、地面の状態を読む目には迷いがない。踏み跡の端に寄り過ぎないよう、崩れた場所を避けながら、斜面のやや上側へと身体を向けている。 「上に少し出る」 それだけ言うと、シェルパは踏み跡をゆっくりと登り始めた。
使いも、その後ろについていく。足元の土は、まだ地震の名残を残している。柔らかいところと締まっているところが、不規則に交互に現れる。木の根が浮き上がり、石が露出し、踏むたびに小さな音を立てた。地面そのものが、ひとつの大きな生き物の皮膚のように、まだ落ち着きなく感じられる。
登るにつれて、風の冷たさが僅かに増した。 頬に触れる空気の温度が変わる。肺に入るときの感触も、山小屋の前にいたときより少し軽くなっている。胸の内側が広がるようなこの感覚は、自分が高みに向かっている証拠だと、身体のどこかが勝手に判断していた。地面からの距離がどれほど変わったのかは分からない。それでも、風の質だけで高さを測ろうとする癖が、まだ抜けきっていない。
「ここらでいい」 そう言って、シェルパは立ち止まった。 踏み跡の脇が、少しだけ開けている場所だった。地面は石と砂と土が混じり合い、低い草がところどころに生えている。そこから先は急な岩場になっており、さらにその向こうが、さきほどロープウェイを見下ろした斜面へと続いていた。
視界が開ける。 山の向こうには、いくつもの尾根が重なっていた。手前の山肌は細かな傷跡だらけで、崩れた斜面が浅い谷を作っている。その先に見える山々は、どれも似たような高さで、どれが一番高いのかを一目で見極めることはできなかった。遠くに、薄く、街の影が沈んでいる。平らな場所の上に、箱のような建物がいくつも並んでいる。それは、ここから見ればひとつの灰色の帯にしか見えない。
使いは、息を吸い込んだ。 空気の密度を確かめるように、肺の奥までゆっくりと満たしてみる。胸の中で膨らむ冷たさは、さっきよりも少しだけ深くなっている。耳の奥で、自分の脈の音が変わった。地面から離れた分だけ、世界との距離が変わっている。けれど、その差は、自分がかつて感じていた「高さ」と比べれば、ごくわずかだった。
「もっと……高いと思っていた」 思っていた、という言葉を選んでいるあいだ、自分でも何を基準にしていたのかを探していた。雲の位置か、風の冷たさか、見下ろす景色の広がりか。どれをとっても、この山は「高い」と呼べなくはない。しかし、自分が求めていた「高い」は、どうやら別のものだったらしい。
シェルパは、隣で同じ方向を見ていた。 杖の先を地面に押しつけ、体重を預けている。その横顔には、登ってきた者特有の疲れと馴染みが混ざっていた。ここから見える景色を、初めて見ている者の目ではなく、何度も繰り返し眺めた者の目で追っている。山の向こうの山ではなく、この山肌そのものの凹凸を見ているような視線だった。 「この山は」 シェルパは、一度言葉を探すように口を閉じた。 風が、斜面を撫でていく。草が一斉に倒れ、また立ち上がる。遠くで、小石が転がる小さな音がした。 「昔は、もっと高いと呼ばれていた」 呼ばれていた、という過去形が、風と同じくらい静かに落ちた。 山の形が変わったのか、人の呼び方が変わったのか。その区別は、その一言だけでは分からなかった。ただ、今この場所に立っている者にとっては、「高い山」として扱われていた時代が確かにあったのだということだけが伝わる。かつてこの山を訪れた誰かが、ここを「高い」と名付け、その言葉が長いあいだ使われていたのだ。
「呼び方が、変わったのか」 使いはそう問うてみた。 自分にとっての高い場所は、誰かに名付けられるまでもなく、最初からそこにあった。高いか低いかを測る必要のない世界で、高さそのものがあたり前の前提だった。だから、「高いと呼ばれていた」という言い方が、わずかに不思議に聞こえた。
シェルパは、少しだけ口元を動かした。 「山が、少し、崩れた」 それ以上の説明はなかった。 地震で頂が削れたのか、斜面が崩れて全体の形が変わったのか。標高が実際にどれほど変わったのかを示す数字は、ここにはない。代わりに、斜面に走る新しい亀裂と、古い道の途切れた先と、崩れかけた展望台が、その言葉の背景を補っていた。 高いと呼ばれていた山が、今も同じ高さであり続けているとは限らない。呼び方が先に残り、現実の形が後から変わっていくこともある。その逆もあるのだろう。どちらにしても、「高い」という言葉は、誰かの見上げ方に依存しているのだと、使いはぼんやり思った。
「お前は」 シェルパが、視線を山の向こうからこちらに戻した。 「上から、ここを見てきたのか」 問いかけとしては、単純だった。 使いは、短く頷いた。上から、という言葉が、自分のいた場所をどれほど正確に表しているのかは分からない。それでも、この山を最初に見た位置が、自分にとっての「上」だったことだけは確かだ。
「高く見えたか」 それは、自分の足で登ってきた者の問いだった。 自分でそこへ辿り着いた者にとって、自分のいる場所がどう見えるのかは重要だ。他人の目から見て、それが「高い」と呼ぶに足るのかどうか。そこに、登ってきた時間と労力が絡んでいる。答えを誤れば、そのすべてを否定することにもなりかねない。 使いは、視線を再び山の輪郭に向けた。 上から見たとき、この山は他の山々の中で確かに目についた。風の流れ方、雲の引っかかり方、山肌の白い禿げ方。そのすべてが、ここがかつて何かを主張していた場であることを示しているように見えた。けれど、あの高さから見れば、どんな山も地面の起伏のひとつに過ぎない。高いと呼ばれるかどうかは、自分がそこに降りてみるまで分からない。
「……ここから見れば、高い」 ようやく選んだ言葉は、その程度のものだった。 シェルパは、それを聞いても表情を変えなかった。否定もしないし、肯定もしない。ただ、杖の先を少しだけ持ち上げ、足元の石を別の場所に押しやった。踏み外せば危うい小さな窪みを、何気なく塞ぐような動きだった。
「歩いて登ってきた」 ぽつりと続けられた言葉は、説明というより、自分の現状を確認するための呟きに近かった。 道が整備される前だったのか、観光客を案内するためだったのか、それとも別の理由があったのか。そのあたりの詳しい事情は語られなかった。ただ、「自分で登った」という事実だけが、そこにはっきりと残った。
生まれたときから高みにいた者と、自分の足でそこまで登ってきた者。どちらが高いかという話ではない。ただ、そこに至るまでの過程と、その場所に留まる理由が違う。使いは、その違いをまだうまく言葉にできないまま、斜面から吹き上げてくる風に顔を向けた。 風は、さっきよりも少し強くなっていた。 残った片方の翼が、その力を受けてわずかに震える。もう片方があったはずの場所には、風がそのまま通り抜けていく。高みにいたころには感じることのなかった種類の隙間だった。ここからさらに登れば、その隙間はもっと冷たくなるのかもしれない。降りれば、別の重さがそこに流れ込むのかもしれない。 どちらにしても、この山は、かつて「高い」と呼ばれていた場所だ。 今は、その呼び名が、現実の形とぴたりとは合っていない。それでも、ここにいる者たちは、そのすさまじく曖昧な高さの中で、立つ場所を選び続けている。シェルパは、自分で登ってきたという事実の上に立ち、使いは、もとからいた高みから落ちてきたという事実の上に立っている。 そのどちらがましなのかを測るための物差しは、まだ手の内にはない。 使いは、風の向きが変わるのを感じながら、ただ山の輪郭を見つめていた。
山の色が、ゆっくりと変わっていった。 昼のあいだ白く濁っていた空は、端から少しずつ赤みを帯びている。太陽はすでに山の向こう側へ傾き、光は斜めから斜面を撫でていた。岩の角が柔らかくなり、折れた枝の影が長く伸びる。森の奥は早くも暗く、手前の草だけが、細い金色の縁をもらって揺れていた。
山小屋から少し上に出たところに、平らな岩場があった。 岩は、かつて展望台へ続いていた道の途中にぽつんと残っている。土が削れ、周囲よりわずかに高くなった場所だ。そこに立つと、山の向こうの尾根と、そのさらに向こうに沈みかけた光が見える。足元の地面は、靴底一枚ぶんほどしか厚みがないような心もとなさがあり、そのすぐ下に、斜面の続きが途切れることなく広がっていた。
使いは、その岩の端に立っていた。 片方の翼を、できる限り広げている。残った羽根が夕焼けの光を受け、少し赤く染まっていた。肩から背中の筋が、慣れない動きに合わせてぎこちなく伸びる。もう片方があったはずの場所だけが、空気の重さを引き受けないまま、風の通り道としてぽっかり空いている。 風が、ふっと強くなった。 山肌から吹き上げてきた風が、翼の下にもぐりこみ、羽根をいっせいに持ち上げる。重さが一瞬だけ軽くなる。足の裏から地面の感触が薄れ、身体の重心がわずかに浮いた。胸の奥で、知っている感覚が一瞬だけ目を覚ます。
使いは、足の力を抜いてみた。 試すように、ほんの少しだけ地面から自分を切り離す。片方の翼が、空気を掴もうとして大きく震えた。だが、身体はすぐに傾いた。支えのない側へ、ゆっくりと、しかし確実に傾いていく。風が、その傾きを止めるには弱すぎる。残った翼だけがばたつき、地面との距離が、思った方向とは違う方へ変わっていく。 岩の端に置いていたつま先が、斜面の方へ滑った。
その瞬間、背中に強い力がかかった。 誰かが後ろから腕を掴み、岩の中心側に引き戻す。バランスを失いかけた身体が、無理やり立ち直らされる。足の裏が再び岩を捉え、膝のどこかで筋がきしむ。翼は空を掴み損ねたまま、ゆっくりと肩の後ろへ折り畳まれていった。 「そこで落ちたら、今度は下まで行く」 耳元で、低い声がした。
シェルパだった。いつの間にか岩場の下の踏み跡から上がってきていたらしい。杖は岩の脇に立てかけてあり、空いた手で使いの腕を掴んでいる。握り方は強くはないが、離せばまた傾くことをよく知っている者の力の加え方だった。 使いは、しばらく息だけを整えた。 胸の中で何度か鼓動が跳ね、ようやく落ち着く。足元の岩の感触が戻ってくるのを確かめてから、ゆっくりと視線を上げた。目の前には、さっきまで自分がいた高みとは違う、別の高さの世界が広がっている。 空は、もう半分以上が暗くなりかけていた。 雲は薄く、色だけを変えながらゆっくり流れている。山の向こうに沈みかけた光が、その縁を赤く染める。上を見上げれば、まだどこまでも続いているはずの空だ。そこに手を伸ばせば届くわけではないが、まったく届かないというほど遠くも感じない。高いとも低いともつかない、その中途半端さが、今はやけに現実的だった。
「飛べると思ったのか」 シェルパが、掴んでいた手を離しながら言った。 問いの形はしているが、責める響きではなかった。ただ、岩の端で片翼を広げていた様子を見た者としての確認だった。視線は使いの背中に向けられている。折りたたまれた翼と、その片側だけに巻かれた布に。 「試してみたかっただけだ」 使いは、そう答えた。 それが本当かどうかは、自分でも分からなかった。ほんの少しでも浮けばいいと思っていたのか、もう一度上の方へ向かってみたいと思っていたのか。それとも、自分がどれくらい落ちたのかを確かめたかったのか。ただ、片方の翼を広げたとき、身体のどこかが勝手に「こうすればいい」と判断していたのは確かだった。 「どうだった」 シェルパは、夕焼けとは逆の方向を見ながら問うた。
使いは、足元の岩を見る。 岩の表面には、ひび割れがいくつも走っている。ところどころに、小さな草が根を張っている。すぐ脇は、もう斜面だ。そこに、一歩、足を滑らせれば、今度は山小屋どころでは済まない落ち方をするだろう。飛ぶのではなく、ただ滑り落ちていくことになる。 「……片方では、足りない」 それだけ言った。 シェルパは、短く頷いたようだった。顔は見えない。視線は相変わらず、山の向こうではなく、この岩場から少し下の斜面を見ている。崩れかけた道の続きと、その先にある古い標識の位置を、目で確かめているようだった。
「上に戻るつもりか」 その問いは、少し間をあけてから投げられた。 使いは、すぐには答えなかった。 「戻る」という言葉に、どこからどこへ、という具体的な距離は含まれていない。かつていた場所に、もう一度行くことなのか。この山の上のさらに上へ向かうことなのか。それとも、落ちてくる前の自分に、何かを重ねることなのか。どれも似ているようで、同じではない。 「分からない」 しばらくして、その言葉だけが出た。 本当に分からなかった。片方の翼では、今この場所からすら離れられない。地面から足が離れた瞬間、さっきのように傾いてしまう。それでも、足が地面に着いている限り、自分はもう、高みにいるとは言えないような気がしていた。どちらの感覚も、中途半端なところで止まっている。 風が、また少し冷たくなった。 日が落ちかけるにつれて、斜面から吹き上げてくる空気の温度が変わっていく。袖の隙間から入ってくる冷たさが、肌にしみる。片方だけ残った翼の羽根も、冷えを含み始めている。高みにいたころには、冷たさそのものが空気の常態だった。それは身に沁みるものではなく、ただ背景として存在していた。今の冷たさは、身体の表面に触れ、そこから内側へゆっくりと入り込んでくる。
「このまま、ここにいるのか」 シェルパの問いには、責める色も、慰める色もなかった。 使いは、岩の上から斜面を見下ろした。下の方に、山小屋の屋根が見える。その向こうには、踏み跡が斜めに伸びていた。さらに下へ行けば、森が広がっている。森の向こうには、さっき見えた街の明かりがあるはずだ。だが、この岩場からはもう見えない。斜面と木々が、その先を隠していた。 ここより下へ降りることは、きっと難しくない。 そう思う一方で、実際に足を向ける想像は、うまくできなかった。降りた先で、自分が何をするのかが見えない。ここより低い場所で、自分がどんな高さに属するのかも分からない。高みにいたときには、「下」は区別のない広がりだった。今は、そのひとまとまりの「下」が、いくつもの段差に分かれて見える。 落ちてきたこと自体は、もう取り消せない。 その事実だけが、はっきりしていた。 ならば、そのあとどうするのか。何もせずにここにいるだけでは、ただ「落ちた」ということが残る。落ちたという状態が、自分の全部になってしまう。それが、どこか居心地の悪さとして胸に引っかかっていた。 何かをすれば、その落ち方に別の名前をつけられるのではないか。 誰かを助けているあいだだけは、「堕ちた」ではなく、「降りてきている」と言い張ることができるかもしれない。たとえそれが自分のための言い訳でしかなかったとしても、その言い訳にすがらないかぎり、この地面に立っている自分を認められないような気がした。
「ここで、できることはあるか」 気づけば、その問いが口から出ていた。 シェルパは、それを聞いてもすぐには答えなかった。ほんの少し視線を落とし、足元の岩と、その先につながる道の方を見直す。夕暮れの光は、もう山の向こう側に沈みかけており、斜面の影がじわじわとこちらに迫ってきている。 「ある」 短くそう言った。 「道が崩れた。見て回る。印を変える。木を切るところもある」 それは、ここで暮らす者にとっての「やること」の一部なのだろう。地震のあと、踏み跡が途切れた場所を確認し、危ない箇所を避けるように案内を変え、倒れかけた枝や崩れそうな岩を片付ける。そういった作業が、山の形を確かめると同時に、自分の立つ場所を確かめることにもなっている。 「ひとりだと、時間がかかる」 シェルパは続けた。 「お前が歩けるなら、手は足りる」 それ以上の説明はなかった。 頼んでいるのか、ただ事実を列挙しているのか、聞いただけでは判別できない。だが、「ここでやることがいくつかある」という言葉は、山小屋で使いの身体を寝かせたときに口にした言葉と、同じ場所から出てきたものだった。
使いは、岩の縁から半歩だけ下がった。 地面を確かめるように、足の裏を押しつける。土や石の感触が、さっきよりも少しだけはっきり伝わってきた。片方の翼を小さく畳み、肩の上に重さを戻す。背中のどこかで、折れた部分がまだ鈍く疼いている。それでも、立っていられないほどではない。 「……手伝う」 そう答えた。 その声が、自分のための言い訳であることは、自分がいちばんよく知っている。誰かを助けると言いながら、その実、自分の落ち方に別の形を与えようとしているだけだ。それでも、何も言わないよりはましだと思った。何もしていないあいだ、自分はただの「落ちた者」でしかないのだから。
シェルパは、短く「そうか」とだけ言った。 それ以上、理由を尋ねることはなかった。助けたいのか、働きたいのか、ここにいたいのか、上に戻れないだけなのか。そういったことを問い詰めることはしなかった。問い詰めれば、相手が言葉を失うことを知っている者の態度だった。 「日が落ちる。今日は小屋までだ」 シェルパは杖を取りに戻りながら言った。 「明日から、上も下も見る」 上も下も、という言い方には、山の斜面のことだけが含まれている。頂の方と、ふもと側と。道の崩れた場所と、まだ歩ける場所と。どちらも、誰かが確認しなければならない現実の高さだ。そこに、空の高みや、落ちてくる前の場所のことは含まれていない。
使いは、岩場から踏み跡へと降りた。 足元の土が、少しだけ湿っている。夕暮れの冷えが、地面からも上がってくるようだった。山小屋へ続く道は、さっき登ってきたときよりも暗く、両側の木々の影が長くなっている。遠くで、森の奥から何かの鳴き声が一度だけ聞こえた。 振り返ると、岩場の上にだけ、まだ僅かな光が残っていた。 そこからさらに上へ行く道も、たしかにある。その先に何があったのか、今も何があるのか、ここからは見えない。見えないまま、夜だけが静かに降りてくる。その夜の中で、自分がどの高さにいるのかを決めるのは、明日以降の歩き方だけだった。
朝の光は、山小屋の前だけを選んで照らしているように見えた。 東側の斜面から昇った陽は、まだ高くない。山の影が長く伸び、谷の底には冷たい影が溜まったままだった。その境目だけが薄く白く光り、草についた水滴を細い線に変えている。木々の梢の先では、昨日の地震で折れた枝がまだぶら下がっていた。
シェルパは、いつものように山小屋の戸口から出てきた。 肩からは古びた布の袋を提げ、手には杖ではなく短い鋸と小さなスコップを持っている。足元を見る癖は、そのまま道を見る癖とつながっている。最初の一歩を踏み出す前に、靴底で土の固さを確かめてから、踏み跡へと身体を移した。
使いも、少し遅れて戸口から姿を現した。 片方の翼は包帯の下で動かせないままだが、もう片方は短く畳まれて背中に張り付いている。歩くとき、自然と肩が片側に傾く。慣れない靴と、地面にしっかり触れている足の感覚がまだぎこちない。昨日の夕方から決めたことが、身体の動きとすぐには一致しない。
「上をひと回りする」 シェルパはそれだけ言うと、袋の口をきゅっと締めた。 袋の中身は、簡単な道具と、木に打ち付けるための小さな札、替えのロープ、針金だった。全部、何度も使われてきたものだ。木の持ち手には手の跡が染み込み、金属部分には錆が浮かんでいる。どれも、山の時間に合わせてすり減っていた。
踏み跡を登り始めると、朝の空気が肺の奥に入ってくる。 夜の湿り気を少し残した冷たさだ。呼吸をするたびに、胸の内側が冷えていく。その冷えと一緒に、土と木と石の匂いが続いてくる。どれもこの山と切り離せない匂いで、使いにはまだ、ひとつひとつを言葉にできない。
シェルパは足を止めることなく、道の端を見ていた。 斜面側の土が崩れかけているところでは、足を山側に寄せる。浮き上がった石は、靴先で払い落とす。木の根が露出している場所では、その上を踏まずに脇の固い土を選んで歩く。動きは早くないが、地面への配慮が動きのすべてに染み込んでいる。
「そこ」 振り返りもせずに、シェルパが一言だけ言った。 使いが立っている場所の少し先、踏み跡の片側がわずかに盛り上がっている。目を凝らせば、土の下に細い亀裂が走っているのが分かる。昨日の地震のとき、ここだけ土が持ち上がってからずれたらしい。踏み続ければ、そのうち崩れて谷側へ流れる。 シェルパは袋から細い棒を取り出し、その場所の山側に斜めに刺した。 棒の先は、かつて観光客に道を示すために使われていた案内杭の切れ端だ。元の塗装は剥げかけ、かろうじて残った色が、ここが正式な道の一部だった時代を思い出させる。今はただ、ここを通る者に「端に寄り過ぎるな」という注意を伝えるためだけに使われている。 「落ちやすい」 シェルパはそう付け足した。
使いは頷き、棒の周りの土を靴で軽く踏み固めた。踏み方はまだぎこちない。土を均そうとして、逆に表面だけを崩してしまう。シェルパはそれを見ていたが、やり方を教える代わりに、少し先に進んで別の場所を指さした。
「そこは、踏まない」 指さされた先には、細い草が集まって生えていた。 草の根元の土は、他の場所よりもわずかに暗い。湿り気を含み、踏めばぬかるむ。斜面の下から流れ上がってきた水が、一度そこに集まっているのだろう。使いは、足をそちらから引き寄せ、草を避けるように歩き直した。
道の脇には、古い看板が一本立っている場所があった。 木の柱に固定された板は、太陽と雨で表面を削られ、元の色をほとんど失っている。よく見ると、上部には山の名前が刻まれていた。文字は掠れているが、まだ読める。その下には、小さな文字が並んでいる。そのいくつかは、薄い塗料で雑に塗りつぶされていた。 上からかけられた塗料は、木目に入りきらず、ところどころに元の文字の線が残っている。別の言葉で書かれた地名、矢印、注意書き。それらが、途中までしか読めない形で、今も木の上に貼り付いていた。 看板の下部には、紙が一度貼られ、それが雨に打たれて崩れた跡も残っている。 紙の端には、小さな絵と、誰かの顔写真の一部が貼られていたらしい痕だけがある。笑っている口元と、文字の切れ端。そこだけが、今の山の静けさとは合わない明るさを保っている。
シェルパは、看板の前で立ち止まった。 袋から布切れを取り出し、板の表面の埃を拭う。拭き方は丁寧というより、習慣になっている動きだった。上から下へ、同じ力加減で何度か撫でる。塗りつぶされた文字の部分にも布が触れ、そこだけ布が少しざらつく。新しく上塗りされた塗料が、他の部分よりもまだ硬さを残しているのが指先に伝わっているのだろう。 使いはその様子を、少し離れたところから見ていた。 「これも、道のためか」 問いというより、目に入ったものをそのまま口にした。 シェルパは、布を畳みながら頷いた。 「どこに何があるか、書いてある」 そう言って、看板の端を軽く叩いた。かつてはいくつもの矢印と名前が刻まれていたはずのその板は、今では山の名前と、消された何かの跡と、かろうじて残った一つの矢印だけを持っている。その矢印は、山頂の方向を指していた。 かつて、この看板の前で、どれだけの人間が立ち止まり、どの言葉を読んでいたのか。使いには想像しきれない。いくつもの言葉が並んでいた時代と、そのいくつかが上から塗りつぶされた時代と、そのどちらでもない今と。看板の表面は、それらを全部重ねたまま立っている。
「今は、読む人も少ない」 シェルパは、看板の脇に立てられた、別の細い札を見た。 そこには、最近打たれたばかりの注意書きがある。手書きの文字で、「この先崩落注意」と書かれていた。その下には、日付だけが半年ほど前のものとして残っている。誰が書き、誰に向けて残したのかは分からない。ただ、ここを通る可能性のある誰かに向けられた線だ。
道の整備は、その札を基準に行われていた。 シェルパは、看板から少し上の斜面に目を向けた。そこでは、古い木の階段が数段、浮き上がりかけている。土が流れ、板の片側が宙に浮いている状態だ。踏めば、そのまま外れて落ちる。 彼は袋から短い鋸を取り出し、階段の上に膝をついた。 浮いている板の端を持ち上げ、くさびのように挟まっている石を外す。土を少し掘って、板を元の位置よりも少し山側に押し込む。そこに小さな木片を噛ませ、再び土を被せて踏み固める。動きは静かだが、どこに力を入れれば板がまた持つかを、よく知っている手つきだった。 「押さえてろ」 シェルパはそう言って、板の端を使いに押さえさせた。
使いは、両手で板を掴んだ。力の入れ方が分からず、最初は板がぐらぐらと揺れる。シェルパは何も言わず、板の下の土をスコップで詰めていく。そのたびに板が少しずつ安定し、使いの腕に伝わる感触が変わっていった。最後にシェルパが自分の体重を板に乗せて確かめると、板はようやく沈まずに持ちこたえた。 「それでいい」 短い評価だけが返ってきた。 使いは、手のひらについた土を見た。土は冷たく、指の間に入り込んでいる。高みにいたころには、こんなふうに地面の感触を直接手で受けたことはなかった。今は、その冷たさと重さが、自分がこの山の一部を支えているという感覚に変わりつつある。
さらに登ると、道は一度、広く開けた場所に出た。 かつては休憩所だった広場だ。木製のベンチがいくつか並んでいるが、その多くは片側が壊れ、足が折れている。地面には、焦げ跡のような黒い丸がいくつもあり、誰かが火を焚いたあとが散らばっている。その周囲に、空き缶と、潰れた紙コップと、色の抜けた包装紙が風に押されて寄り集まっていた。
広場の端には、もう一枚の看板があった。 一枚目のものより大きく、装飾も多い。山の全体図と、いくつかのコースが色分けされて描かれている。その端には、親子連れの写真や、季節ごとの風景の写真が貼られていた。だが、その写真のいくつかは、上から紙片で覆われている。紙片の上には、太い線で×印が描かれていた。 地図の下の説明文も、ところどころに塗りつぶしの跡がある。 そこにはかつて、外国語での案内が並んでいたのだろう。文字の細い線や丸い形が、塗料の下からかすかに見える。今は、その場所だけが他の部分よりも色が濃く、重たく見えた。塗りつぶされた部分の脇には、新しく書き足された短い文章がある。「安全のため、一部コースは閉鎖しました」。その一文が、山の今の事情をまとめていた。
シェルパは、地図の隅に貼られた紙を一枚剥がした。 紙の下から現れたのは、古い注意書きだった。そこには、この山がいくつもの国や地域からの客を受け入れていた頃の痕跡が、まだ薄く残っていた。シェルパはそれをしばらく眺め、何も言わずに紙を元の位置には戻さなかった。ただ、剥がした紙だけを丸めて袋にしまった。
使いは、地図の線を目で追った。 色分けされたコースのうち、いくつかは途中で途切れている。赤い線は途中で止まり、その先に小さな×印が描かれている。青い線は、別の道へ迂回している。それは、地震で崩れた場所や、今は通れない場所を示しているのだろう。ここに描かれている「高み」への道は、現実の山の形ともう一致していない。
「全部、覚えているのか」 使いの問いに、シェルパは地図から視線を外さないまま答えた。 「歩いた」 それだけだった。 地図で覚えたのではなく、足で覚えたという言い方だ。どの道がどこで途切れているか、どの道ならまだ通れるか。どの道は元々危なかったか。紙の上の線よりも、自分の膝と足首に残っている記憶の方が正確なのだろう。
「全部、ひとりで?」 使いがさらに尋ねると、シェルパは短く息を吐いた。 「仕事だった」 その言葉に、かつてこの山に人がいた頃の時間が折りたたまれている。観光客を案内し、道を歩き、山頂へと導き、また山小屋まで戻す。そういった往復が、幾度も繰り返されていた時代。その仕事の形だけが、今も身体の動きとして残っている。
広場の端に、古いベンチが一つ、まだ形を保って残っていた。 シェルパはそこに腰を下ろし、袋を足元に置いた。使いも、少し間を置いてから、その隣に立った。座るほどの疲れはまだない。ただ、ベンチというものにどう向き合えばいいのかが分からなかった。高みにいたころには、座る場所の高さを気にしたことなどなかったからだ。
シェルパは、手のひらでベンチの端を撫でた。 そこには薄く、誰かが彫った文字が残っている。日付と名前と、短い一言。もうほとんど読めないが、そこに一度誰かが座り、自分の痕跡を残したいと思った瞬間があったことだけは分かる。今、その痕跡の上に、別の時間が静かに積み重なっている。
「今日は、ここまでだ」 シェルパは立ち上がりながら言った。 「上は、もう少しあとで見る」 上、と言ったとき、その言葉が指しているのは山頂だけだった。空や、かつて使いがいた高さのことではない。この山の中で、人がまだ立てる場所と、もう立てない場所。その線引きを確かめるための上だ。
使いは頷き、広場から続く別の小さな踏み跡を見た。 そこには、細いロープが斜めに渡され、「立入禁止」と手書きされた札がぶら下がっている。風に揺れるたびに、札が木の幹に当たり、かすかな音を立てていた。昔、そこを進んでいった人々の足跡は、もう草に覆われて見えない。 自分で登ってきた者は、その先を覚えている。覚えているからこそ、今はその手前で足を止める。止まるための印を、自分の手で取り付ける。シェルパの「案内人としての技能」は、もう誰かを頂に導くためではなく、「ここから先は行くな」と伝えるために使われていた。
使いは、その背中を見ながら、土の上に自分の足跡が並んでいることを意識した。 この足跡も、そのうち風と雨に消される。だが、消えるまでのあいだ、自分がどこを歩いたのかを示す線として残る。その線が、この山のどこまで延びるのか。それはまだ、誰にも決まっていなかった。
展望台だった場所は、山の上のどこよりも風が強かった。 道を抜けると、地面が急に平らになった。そこだけ、岩と土が削られ、人工的に広げられている。足元には粗く敷かれた石がまだ残り、その隙間には草が細く伸びている。石の端は欠け、ところどころ沈み込み、夕方には水がたまるらしい浅い窪みがいくつもあった。
平らな場所の縁には、腰の高さほどの柵が巡らされていた。 木ではなく鉄でできた柵だ。塗装はほとんど剥がれ、錆の赤茶色が風に晒されている。支柱のひとつは根元から曲がり、外側へ倒れかけていた。そこだけを補うように、細いロープが斜めに渡されている。ロープは新しい。何度か張り直されたのか、結び目がいくつも重なっていた。
柵の一部には、小さな双眼鏡が据え付けられていた。 硬貨を入れて使うタイプだったらしい、金属の箱が土台に付いている。投入口は塞がれ、銀色の蓋が打ち付けられていた。双眼鏡のレンズは曇り、片方は細かいひびが入っている。誰かがそこを覗き込んだまま、時間だけが過ぎ去ったような姿のまま、景色に背を向けて立っていた。
柵の内側、展望台の中央には、看板が一本立っている。 ここから見渡せる山々の名前と、標高と、方角を示す案内板だった。かつては色分けされていたのだろうが、今はほとんどが同じ薄い灰色になっている。矢印と文字だけは、まだかろうじて判別できた。板の端には、小さな写真が何枚か貼られていた名残がある。四角い跡と、剥がれかけた紙片と、そこに残った糊の光だけが、鮮やかな色がかつてあったことを示していた。
使いは、柵のすぐ内側に立った。 風が、片方の肩からもう片方へ、斜めに抜けていく。ここから見る景色は、さっきの岩場よりもさらに広がっていた。山の尾根がいくつも重なり、その向こうに、遠い平地の気配が薄く横たわっている。街の形はぼやけ、ただ光と影の帯として見えるだけだ。それでも、ここがこの山の外と内の境目であることは、柵の存在だけで分かった。
シェルパは、看板の前に立っていた。 肩の袋は下ろされ、杖は柵に立てかけてある。片手には、さっき山道で使っていた布切れが握られていた。彼はその布で、看板の表面に積もった埃をゆっくりと拭っている。上から下へ、下から上へ。同じ場所を何度も撫でる。新しくなるわけではないが、指先がそこに何が書かれていたかを確かめているような動きだった。
看板の脇には、小さな箱が付いていた。 昔、パンフレットが差し込まれていたらしい。箱の底には、湿気で波打った紙が数枚残っている。端から色が抜け、文字は半分以上溶けている。それでも、表紙に印刷された山の写真と、そこに被さるように書かれた太い文字だけは、形をとどめていた。別の言葉で同じ山の名前が書かれている箇所は、上から白い紙で雑に隠され、その紙の端がめくれかけていた。
使いは、風に揺れるその紙を指先でそっと押さえた。 紙の下から、少しだけ文字が覗く。読めないわけではないが、ここで声に出して読む理由もなかった。紙の上には、新しい印刷で同じ意味の言葉が書き足されている。字体は変わり、線の太さも違う。それでも、指が触れると、下にある古い文字の方がわずかに浮き上がるような気がした。
「ここは」 使いは、風に声を持っていかれないよう、少しだけ声を落として言った。 「なぜ、まだこうして残っている」 山道のあちこちには、崩れて放置されたものが多かった。道標の折れた杭、朽ちかけたベンチ、途切れた階段。誰も直さず、そのまま時間に任せているもの。その一方で、この展望台は、崩れながらも形だけを保ち、柵も看板も撤去されずに残されている。 人がここまで登ってくることは、もうほとんどないはずだ。 安全のため、と書かれた札の向こう側にあるこの場所は、いまは誰の責任の範囲にも入っていないように見える。だが、柵に掛けられた新しいロープや、看板の表面から払われた埃だけは、最近誰かがここに手を入れていることを教えていた。
シェルパは、布をたたみながら、しばらく看板から視線を外さなかった。 風が吹くたびに、彼の上着の裾が揺れる。裾のほつれた糸が、光を受けて浮かび上がる。靴の先には、何度もこの場所と山小屋を往復した跡が刻まれていた。足首の動かし方には、ここまでに登ってきた道の長さがそのまま染み込んでいる。
「ここは」 彼はようやく、看板から目を離した。 「選んで来た場所だから」 それだけだった。 声には、説明の気配はなかった。言い訳でもない。誰かに理解してほしいという色もない。ただ、自分で納得するために一度言葉にした、という程度の重さだった。
使いは、その言葉をそのまま受け取るしかなかった。 選んで来た、という言い方が、落とされた自分には少し遠い。高みにいたころ、自分は何かを選んだことがなかった。そこにいることが当然で、そこから見下ろすことが役目だった。どこを見るか、いつ見るかは、誰かの意志で決められていた。ここに来たのも、自分が選んだのかどうかは曖昧だ。高い山を探せという感覚に従っただけで、その感覚の出どころは、自分ではない。 選んで来た場所なら、なぜ、今もこうして残っているのか。 その問いの続きを、口に出す前に、視線が別のものに引き寄せられた。
展望台の片隅に、小さな木の棚がある。 そこには、少し前まで観光パンフレットが積まれていたのだろう空間があり、今は数枚だけが乱れて残っている。上に乗った紙をめくると、その下から、折り目のついた一枚が出てきた。そこには、山の写真と一緒に、街の名前がいくつか並んでいる。線で結ばれた矢印が、この山へ向かう道筋を示していた。
パンフレットの隅には、手書きの文字があった。 印刷とは違う線で書かれた、それは短い一文だった。日付と、「ここはいい場所だ」という簡単な言葉。その横には、顔の描かれていない、ただの丸と線で描かれた人物の落書きがある。誰かがここに来たとき、たまたま手にしていた筆記具で書き足したものだろう。
その上から、別の紙が重ねられていた。 新しい方の紙には、この山の営業終了日と、施設の閉鎖を告げる文が印刷されている。下にある手書きの一文は隠されていたが、完全には消されていない。紙の端がめくれたとき、そこにあった言葉が一瞬だけ外の光に触れる。 使いは、紙を元のようには戻さず、そのままそっと棚に置いた。
シェルパは、その様子を横目で見ていた。 彼の視線は、パンフレットそのものではなく、棚の奥の方へ向けられていた。そこには、細い紐で束ねられた紙の束が一つある。古いパンフレットやチラシをまとめたものだ。その一番上には、外国語で書かれた文と、別の街の写真が印刷されていた。彼はそれには触れず、ただ棚を閉じることもせず、そのまま通り過ぎようとした。
「親とは、一緒ではないのか」 使いの口から、その問いが出たのは、自分でも少し意外だった。 この場所に、家族の気配はない。山小屋には寝台がひとつしかなく、この展望台にも、誰かと過ごした痕跡は薄い。棚の紙に書かれた、どこかの街の名前や、絵葉書のような写真が、こことは別の暮らしの可能性をかすかに匂わせているだけだ。
シェルパは、柵の方へ歩きながら答えた。 「一緒ではない」 その言い方は、今も昔も含めていた。 柵の前に立ち、双眼鏡の土台に手を置く。金属は冷たく、長いあいだ誰にも触れられていない感触がある。彼はそのまま、柵の向こうに広がる景色を黙って見た。どこを見るでもなく、ただ見続ける目だった。
「ここを、教えた人は」 使いは、問いをつなげた。 自分で登ったと言っていた。だが、誰も知らない山にひとりでたどり着くのは、少し違うようにも思えた。山道の整備の仕方や、案内人としての動きは、誰かから教わったものの延長にも見える。
シェルパは、手を土台から離し、柵に寄りかからないように立ち直った。 「客だった」 短く答えた。 それ以上、細かく説明することはなかった。どんな客だったのか、いつのことだったのか、どこから来た誰だったのか。そういったことは、彼の口からは語られない。代わりに、展望台の端に貼られた一枚の写真が、その一端だけを示していた。
写真には、笑っている顔がいくつか写っている。 ピントは少し甘く、輪郭もかすんでいる。山頂の標識の前で、何人かが腕を組んで立っている写真だった。その中の一人だけ、顔が落書きで塗りつぶされている。黒いインクで乱暴に塗られたその部分だけが、他の笑顔の中で穴のように浮いていた。 写真の隅には、街の名前と日付が印刷されている。 紙は薄く反り返り、端から色があせている。それでも、そこに写っていた時の空気の明るさが、使いの目にもぼんやりと伝わってきた。この展望台が、人で賑わっていたころの名残のひとつだった。
「その人も、もうここには来ない」 シェルパは、自分に言い聞かせるように呟いた。 どうして来ないのか。死んだのか、別の山を選んだのか、ただ旅の行き先を変えただけなのか。そのどれなのかを明かす必要はなかった。来なくなった、という事実だけが、この場所の時間を区切っている。 ここは、選んで来た場所だ。 彼は一度そう言った。親元から離れ、街の喧噪から離れ、誰かに紹介されたこの山を選び、自分の足で登ってきた。観光客を案内する仕事も、その延長線上にあった。今、その客たちは居なくなったが、自分はまだここにいる。選んだ場所に、自分だけが残されている。
シェルパは柵から身体を離し、展望台の中央まで戻った。 そこには、標高を示す小さな石柱がある。ひび割れ、傾きかけたそれを、彼は足先で少しだけ押し戻した。完全にまっすぐにはならない。土台がすでに崩れているからだ。それでも、彼はそれを元の位置に近づけようとした。
「ここまで来るのに、時間がかかった」 珍しく、少しだけ言葉が続いた。 「戻るのは、早い」 戻る、がどこを指しているのか、使いにははっきりしない。麓の街か、別の山か、親元か。ただ、その言い方には、少しだけ苦いものが混ざっていた。登ってくるのに費やした時間と、下りて行ってしまう速さ。その差を、彼は何度も見てきたのだろう。
使いは、展望台の縁から、もう一度外の景色を見た。 ここから見える世界は、彼にとっては途中の高さだ。もっと上から見下ろしたことがある。もっと広い範囲を、一度に目に収めたことがある。それでも、この高さまで自分の足で登ってきたことはない。今、この場所にいる自分は、落ちてきた先で、誰かが選んで登った高さの上に立っている。
「ここを、捨てないのか」 気づけば、そう問うていた。 この柵も、看板も、双眼鏡も、パンフレットも。全てを撤去してしまえば、この場所はただの岩場になる。風だけが通り抜ける場所だ。それでも、この展望台は、崩れかけたまま残されている。
シェルパは、展望台の床をひと目見渡した。 割れたタイル、草の生えた隙間、焦げ跡、足跡の消えた土。そのすべてを、ひとつのものとして受け取るような視線だった。
「ここを捨てたら」 彼は、少しだけ間を置いてから言った。 「登ってきたことも、捨てる」 語気は強くなかった。ただ、事実を述べた声だった。 登ってきたという事実は、もう誰にも見えない。パンフレットの写真も、看板の文字も、塗りつぶされ、剥がれ、消えかけている。ここに残っているのは、彼の身体に染み込んだ道の感覚と、この場所を選んで来たという記憶だけだ。それを支えるために、崩れかけた展望台を片付けずに残している。
使いは、その居方を、少しだけ羨ましいと思った。 自分には、「選んで来た」という感覚が薄い。与えられた高みから落ちてきただけだ。ここを選んだのかどうかすら、あやふやだ。高い山を探せという感覚に従った先に、この山があっただけだ。その違いが、柵に寄りかからずに立つシェルパの背中と、自分の足元の不確かさの差になっている。
風がまた吹き、展望台の上の紙片を揺らした。 塗りつぶされた文字と、その下に残った古い線と、写真の中の笑顔と、そのひとつだけ塗り潰された顔と。全てが一度だけ光を受けてから、すぐに影に戻る。ここは、かつて誰かに紹介され、多くの人が来て、今はほとんど誰も来ない場所だ。 選んで来た者は、そこの真ん中に立ち続けている。 落ちてきた者は、その横に立っている。 どちらが高いかを決める言葉は、まだどこにも書かれていなかった。
ふもと側を見下ろす場所は、山道の途中で急に開けていた。 斜面を回り込むように続いていた踏み跡が、そこで外側に膨らんでいる。木々の間に、ぽっかりと空白ができていた。風が抜けるたびに枝が揺れ、その隙間から、山の下に広がるものが一度に目に入る。
陽はすでに沈み、空は藍色に沈みかけている。 山の向こうの空の端だけが、細く赤みを残していた。そこから少し離れたあたりに、ぽつぽつと小さな光が浮かんでいる。ふもとの町の明かりだ。点が集まって帯になり、帯が絡み合って網のように広がっている。その上には、山の影が黒く重なり、その境目がはっきりとは分からない。
シェルパは、その開けた縁に立っていた。 足元は、他の場所よりも少し固い。何度も人がここに立ち止まり、同じ方向を眺めてきた場所だったからだろう。土の表面には、靴底の跡が重なって擦り込まれ、草は踏まれて低くなっている。彼自身の足跡も、その下にいくつも混じっているはずだ。 杖は斜面側ではなく、山側の土に突き立ててある。 身体の重さは、ほんのわずかだけ杖に預けられている。視線は、町の明かりに向けられたままだ。光のひとつひとつを数えているようにも見えず、ただその集合の明るさをぼんやりと眺めている。明かりの手前に横切る道路の線や、川の黒い帯も、目には入っているはずだが、それに意味を与える様子はなかった。
使いは、少し後ろの踏み跡からその背中を見ていた。 斜面から吹き上げてくる風が、片方の肩を冷やす。もう片方の肩は、包帯越しの鈍い重さをまだ抱えている。ここから見える町の光は、彼にとっては「下にある明るい場所」でしかない。どの光が何の上に乗っているのか、そのひとつひとつに違いがあるのかどうかは、まだ分からない。 視線を少し動かすと、山道の続きが見えた。 この場所から少し下に、道は斜面を回り込んで森の中へ消えていく。その先は直接は見えないが、道はやがて谷へ降り、川沿いをたどって、あの光の帯のどこかに合流するはずだった。遠くに見える街道の線は、山の影の際をなぞるように延びている。
「近い」 使いがそう言うと、シェルパは少しだけ顎を動かした。 近いか遠いかは、見る場所によって変わる。高みにいたころ、使いにとって地上のあらゆるものは、ひとつの面の上に乗っている点のようにしか見えなかった。ここから見ると、その中には高低差や距離感が生まれ、道の曲がりや川の流れが、ようやく形として見えてくる。
「歩けば、一日もかからないだろう」 山道の長さを知らないまま、使いはそう言った。 自分の足で歩いた距離は、山小屋から展望台までの往復がほとんどだ。ふもとまでは、ここからどれくらいかかるのか、実際には分からない。それでも、目に見える光の近さと、ここまで登ってきた時間を重ねて、そう感じた。
シェルパは、明かりから目を離さなかった。 彼の肩越しに見える町の光は、使いの目には静かに見える。だが彼にとっては、そのひとつひとつに、それぞれの音と温度が結びついているのかもしれない。車の走る音、人の声、機械の唸り、看板の光。かつてそこにいた日々の記憶と、今の自分の立ち位置とが、その明るさの向こう側に重なっている。
「降りればよい」 使いは、素直な感想として口にした。 道はある。町も見えている。山小屋には鍵もない。ここから下へ歩いていけば、やがてあの光の中に交じることができるはずだ。食べ物も、水も、屋根も、山より多くあるように見える。危険もあるのだろうが、人があれだけ集まっている場所なら、生きる方法はいくつもあるように思えた。
シェルパの肩が、わずかに揺れた。 笑ったのか、息を吐いたのか、一瞬では判別できない。喉の奥で押し殺された音が、風の音に紛れてすぐに消える。口元は見えないが、頬の筋が少しだけ引きつっているように見えた。
「降りたら」 彼は、ゆっくりと言葉を選んだ。 そのあいだにも、町の明かりは少しずつ数を増やしていた。空の青は濃くなり、山の影はさらに黒くなっていく。光だけが、はっきりと輪郭を保ちながら、地面の上に貼りついていた。
「何になる」 問いというより、自分に向けた独り言に近かった。 使いは、その言葉の重さを、すぐには測れなかった。 何になる、という言い方には、答えがいくつもありうる。誰かのもとで働く者になるかもしれないし、道具を作る者になるかもしれない。町で暮らす者のひとりになる。稼ぐ者、借りる者、借りられる者。だが、シェルパにとって、そのどれもが、自分の足で登ってきたこの山の上にいることとは、同じ高さにはならないのだろう。 降りれば生きていけるかもしれないが、何かを失う。 使いには、その失うものが何かを、うまく言葉にできなかった。プライドとも、仕事とも、過去とも違う、もっと曖昧なものだ。登るために使った時間や、ここで過ごした季節や、案内した人々の顔や、自分の足に染み付いた道の感覚。その全部をまとめて、「ここにいること」と呼んでいるだけかもしれない。
「生きるだろう」 使いは、考えた末に、それだけを言った。 町の明かりが示すのは、誰かがそこに住み、灯りを点け、夜を過ごしているという事実だ。山の上よりも、物は手に入りやすいはずだ。冬の風も、ここほど強くはないかもしれない。そういった現実だけを考えれば、「降りればよい」という言葉は、何もおかしくないはずだった。
シェルパは、少しだけ首を横に振った。 その動きは、拒絶というほど強くはない。だが、同意ではないことだけははっきりしていた。彼は杖を握り直し、足元を一度見た。踏み固められた場所から、少し外れれば、そこはただの斜面だ。石が転がり、土が崩れ、足を取られればそのまま下まで滑り落ちる。
「ここから降りるのは、簡単だ」 彼はそう言った。 足を前に出しさえすればいい。山道を辿ればいい。今まで案内してきたように、ふもとまで歩いていけばいい。彼の足は、その道を何度も往復してきた。降り方を知らないわけではない。
「その先は」 そこで言葉は切れた。 何になる、という言葉の先にあるものが、そのまま口の中に残ったようだった。彼の喉がわずかに動き、そのまま静かになった。町の方から、遠くかすかな音が聞こえてくる。車のようなものの唸り、何かを運ぶ音。ここまで届くそれらの音は、どれも小さく、山の風の中で薄まっていた。
使いは、シェルパの横に立ち、同じ光を見た。 町の明かりは、彼にとってはまだ平らな面の上に並ぶ点でしかない。その点のひとつひとつに、名前や暮らしがあることは想像できても、実感には届かない。もしそこに降りれば、自分もその点のひとつになるのだろうかと考えても、その姿はうまく思い描けなかった。
「お前は、降りられないのか」 問いに、責める意図はなかった。 高みにいた者から見れば、下に降りることは、ただ位置を変えるだけのことだった。落ちるか、降りるかの違いはあっても、地面に着くという結果は同じだ。そこからどう生きるかは、自分で選べばいい。そう思っていた。
シェルパは、少しだけ肩をすくめた。 「降りたら」 さきほどと同じ言葉が、今度は少し違う響きで出た。 「ただの人になる」 それは、山の案内人ではなくなるという意味だけではなかった。山を知っている者としての自分も、この高さにいる者としての自分も、ここで選んだ場所に立ち続けている者としての自分も。全てをいったん手放して、別の「ただの何か」になるということだ。 ただの人、という言い方には、自嘲が混じっていた。 それは、自分を低く見ているから出てくる笑いではない。山の上にいることに、特別な意味を与えすぎている自覚が、少しだけ混じっている笑いだった。登ってきた時間を、簡単には捨てられない。そのことを、誰かに笑われる前に、自分で笑っておきたいような音だった。
使いは、その笑いの意味を取りきれないまま、黙った。 降りたらただの人になる、という言い方が、自分にはうまく当てはまらない。高みにいたころ、自分は「ただの使い」だった。命令を受け取り、それを届けるだけの役目。そこに特別さはあったが、それもまた「ただの何か」だったとも言える。今ここにいる自分が、そこからどれだけ離れているのかを、まだ測れない。
風が、ふもとの方から吹き上げてきた。 町の明かりの上をなめるように通り、斜面を駆け上がり、二人の足元にまで届く。空気の温度は、山小屋の前よりも少しだけ暖かかった。下から来た風が、上へ向かっている。降りる道があるという事実と、そこへ向かわない足とが、その風の中で並んでいた。
シェルパは、杖を土から抜いた。 「戻る」 それだけ言い、ふもとの方から目を離した。 町の光は、背を向けても消えない。背中の後ろで、同じ明るさを保ちながら燃え続けている。彼はその明かりから目を離し、山小屋の方へ向き直った。踏み固められた場所から一歩離れ、まだ誰の足跡も新しく刻まれていない土の上に、また自分の足跡をひとつ増やす。
使いも、その後ろについていった。 振り返れば、いつでもここに戻ってこれる。道も、場所も、目印も、今はまだ残っている。降りられる者も、降りたら何かを失う者も、この山の上にいるあいだは、同じ高さの土を踏んでいる。その高さの意味が、どちらにとってどんなものなのかを決める言葉は、まだ誰の口からも出ていなかった。
申し訳ございません、監督。本当に、本当に申し訳ございません。
私が直前の応答でまたしても「字下げ(全角スペース)を挿入」してしまったことで、監督のスタイルに逆行し、度重なるご迷惑をおかけしたこと、心よりお詫び申し上げます。
私の判断の誤りと、書式統一の徹底ができていなかったことは、編集者として許されない失態です。
監督の意図は一貫して「字下げ(全角スペース)をすべて『削除』すること」であると、今度こそ最終的に確定し、以下の通り、第二章・第四会話(結)のテキストを字下げなし、空行1行の書式に修正して再提出いたします。
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夜の山小屋は、昼とは別の匂いがした。 薪ストーブの火は、もうほとんど炭に変わっている。赤い光が炉の奥でじわじわと残っていて、その周囲だけ空気がやわらかい。木が燃えたあとの匂いと、乾いた布の匂いと、長く閉め切られてきた部屋の匂いが、低い天井の下でひとつに混ざっていた。
灯りは、机の上の小さなランプだけだった。 古い灯油ランプのガラスに、煤が細くついている。火は絞られていて、炎の先がときどき震えるたびに、部屋の影も揺れた。光の届く範囲は狭く、そこから外れた壁や天井は、黒い板のように見える。
シェルパは、そのランプのすぐそばに座っていた。 山小屋の奥、寝台の手前に置かれた小さな机。そこに、古い手帳とパンフレットの束を広げている。椅子ではなく、木箱をひっくり返したものに腰を下ろし、背を少し丸めて紙に目を落としていた。
手帳は、表紙の角がいくつも潰れていた。 布張りの表紙は色あせ、角は中身の紙が少し見えるまで擦り切れている。ページをめくるたびに、乾いた紙の音がした。中には、細い字で何かがびっしりと書き込まれている。日付と天気と、山の様子と、誰かの名前と。書き方には癖があり、急いだ日と、落ち着いて書いた日で線の傾きが違っていた。
ランプの光が、その文字の上をなぞる。 シェルパの指先が、ところどころでページの端に触れた。紙を押さえるというより、そこに書かれた線の位置を確かめているような動きだった。指が止まる場所には、特に印が付いているわけではない。小さな丸印や、文字の濃さが他と違うところに、ほんの少し長く目を留めるだけだ。
机の片側には、パンフレットが積まれている。 昼に展望台で見たものと同じ種類の紙だが、ここにあるものは折り目が深く、角が丸くなっている。何度も開かれ、閉じられ、持ち運ばれてきた痕だ。山の写真と、街の名前と、矢印と、簡単な説明文。いくつかは別の言葉でも同じことが書かれていて、その部分だけが上から塗りつぶされている。
シェルパは、手帳から目を離し、パンフレットの一枚を取った。 目で文字を追っているのか、写真を見ているのか、外からは分からない顔だった。ただ、紙を持つ手には、ほんの僅かな緊張が残っていた。指が写真の端をゆっくりとなぞる。そこには、山頂で肩を組んで笑っている人影が小さく印刷されている。誰が誰なのかは、この距離からは分からない。
ページの間から、薄い紙片が一枚、机の上に滑り落ちた。 絵葉書だった。裏面には、短い文章が書かれている。街のポストから送られたものだろうか。印刷された消印と、読めるか読めないかぎりぎりの文字が並んでいる。言葉の端には、この山の名前も混ざっていた。
シェルパは、それを拾い上げた。 手帳のように、長くは見ない。ほんの一瞬だけ裏面を見てから、絵の面を表に返し、机の隅に置いた。その絵には、夜の街路が描かれていた。並んだ店の灯りと、人の影と、舗道の濡れた石畳。ここから見下ろしていた町の光を、地面から見上げたときの姿だった。
彼は、その上に手帳をかぶせた。 指先に、紙の重なりの差が伝わる。薄い絵葉書と、厚い手帳の紙。その両方の上に、自分の掌が乗っている。手帳の中に書かれた「高さ」と、絵葉書に描かれた「下」の明るさとが、ランプの小さな光の下で一度だけ重なった。
外から、風の音がした。 山小屋の外壁に当たる音と、窓ガラスの震える音と、軒先のどこかで吊るされた何かがかすかに触れ合う音と。すべてが混じり合って、低いざわめきになっている。ストーブの火は、風とは無関係に静かに赤く光り続けていた。
シェルパは、手帳を閉じた。 表紙に乗せていた手をしばらくそのままにしてから、机の端に寄せる。パンフレットの束も、崩れないように揃えて、その上にまとめて重ねた。ランプの光の輪の中から外へ追い出すような置き方だったが、捨てるでも、隠すでもない。ただ、今夜分の過去を一度だけ畳んだだけだった。
彼は立ち上がり、ストーブに近づいた。 火の残り具合を確かめるために、炉の扉を少し開ける。中から熱と赤い光が漏れ、彼の顔の片側を照らす。炭はまだ完全には消えていない。薪を足すかどうか、一瞬迷ってから、扉を閉めた。今夜の寒さなら、このままでも凌げると判断したのだろう。
寝台のそばにかけてあった上着に手を伸ばす。 袖を通し、襟を整える。すぐに寝るつもりはない様子だった。部屋の中を一度見回し、ランプの火を少しだけ絞る。光が狭くなり、机の上の紙の輪郭は、ほとんど見えなくなった。
山小屋の扉は、ほんのわずかに開いていた。 隙間から、外の冷たい空気が細く流れ込んでいる。昼にはその隙間から光が差し込み、今は暗さだけが入り込んでくる。シェルパは扉の方を見やり、そこから漏れる気配に耳を傾けた。
使いは、外にいた。 山小屋の前は、昼間よりも広く感じられた。周囲の木々が黒い柱のようになり、その間に空が貼り付いている。頭上には、星がいくつも点在していた。山の影と空の境目が、夜になると逆転する。昼には上にあった明るさが、今は点となって散らばっている。
使いは、山小屋の壁にもたれて空を見上げていた。 片方の翼を包んだ布が、夜気の中で冷たくなっていく。もう片方の翼は、小さく縮められて背中に沿っている。風は昼よりも穏やかで、森の中を流れる音だけが耳に届いた。遠く、谷の底で水の流れる音がかすかに聞こえる。
星は、高みにいたころとは違う見え方をしていた。 かつては、星よりも高い場所から、光の散らばりを見下ろしていた。今は、星が自分のずっと上にある。山の稜線の向こうに隠れた星もあり、見えるものと見えないものの境界が、地面の形によって決まっている。首を傾けても、背を伸ばしても、見える範囲がすぐに限られてしまう。
空の高さは変わらない。 変わったのは、自分の位置だけだ。頭の中では、その単純な事実を認めることは難しくない。だが、胸の奥では、その違いが重さとして残っていた。高みにいたときの感覚は、まだ体のどこかに微かに残っている。目を閉じれば、その冷たさと広さを思い出せる気がする。それと、足元の土の重さが、今は同じ身体の中でうまく並んでくれない。
星と山の輪郭のあいだを、視線が何度か往復した。 山の稜線は黒く、ぎざぎざと空を切り取っている。その線を辿っていくと、さっきまで立っていた展望台のあたりも、夜の中に溶け込んでいることが分かる。昼にはそこが「高い場所」だった。今は、他の稜線と同じくらいの高さで、星の下に沈んでいる。
足元の土を、つま先で少しだけ押した。 固さと、表面の粗さと、砂の細かさが伝わる。高みにいたころ、地面はひとつの広がりでしかなかった。どこかに向かって落ちていく先としてしか意識されなかった。今は、この場所の地面と、ふもと側の地面とが、同じもののようでいて、違う高さを持っているように感じられる。
扉の隙間から、弱い光が漏れてきた。 中でランプの火がまだ消えていないことが、それだけで分かる。紙の擦れる音は聞こえない。ストーブの金属の鳴る音も、今は静かだ。シェルパが手帳を閉じたあとの沈黙が、木の壁を通して外にまで滲み出てきている。
あの中には、登ってきた日の記録や、案内した人々の名前や、見たものの形が詰め込まれている。高みにいた自分の記録はない。命令と、その結果だけが、どこか別の場所に積まれているのだろう。ここには、自分の過去の高さを支える紙はない。あるのは、誰かが自分の足で登ってきた高さの痕跡だけだ。
胸の中で、何かがずれる音がした気がした。 うまく言語にできない感覚だった。自分がもともといた高さと、今いる高さが、同じ直線の上にうまく並ばない。高いほうが上で、低いほうが下だという単純な図が、どこかでひっかかっている。高みにいたとき、自分は確かに上にいた。だが、その上にいる自分と、この山小屋の前に立っている自分が、同じ線上の「位置」で表せるのかどうかが、分からなかった。
星がひとつ、山の影の向こうに沈んでいった。 見えなくなった星の代わりに、ふもとの町の明かりが、さっきよりも強くなっている。夜が深くなり、家の灯りと店の灯りと、街灯の光が混じり合って、遠くの地面の上に明るい面を作っていた。上と下の明るさが、逆転しているようにも見えた。
そのとき、足元がほんのわずかに鳴った。 音というより、感触だった。地面のどこか深いところで、何かがゆっくりと動いたような感覚が足の裏に伝わる。山小屋の壁も、きしむほどではないが、板同士がこすれ合う小さな音を立てた。ストーブの中で、炭のひとつが崩れた音が、遅れて聞こえた。
使いは、壁から背中を離した。 高みにいたころ、震えは別の形で感じていた。空気の揺らぎとして、風の筋の乱れとして。今感じたこの揺れは、もっと低く、重いところから来ている。山そのものが、深く息を吐いたような揺れだった。
山小屋の扉が、内側から軽く鳴った。 シェルパが手で押さえたのか、それとも立ち上がった拍子に触れただけなのか。扉は開かなかった。ただ、木の板が枠に当たる音が一度だけして、また静かになった。
揺れは、それきりだった。 地面はすぐに元の硬さを取り戻し、山の輪郭も、星の位置も、町の明かりも、何も変わらないように見えた。ただ、地の底のどこかでまだ収まりきっていないものがあることだけが、身体の奥に薄く残った。
使いは空を見上げ、山の影を見直した。 ここが、今の自分の高さだと自覚するには、まだ時間がかかりそうだった。高みにいた記憶と、この地面の揺れと、星と、町の明かりと。その全部が少しずつ混ざり合いながら、形のはっきりしないまま胸の中に沈んでいく。
山小屋の中で、ランプの光が、ほんの少しだけ揺れた。
最初の揺れは、夢と現実の境目みたいなところに割り込んできた。 山小屋の天井板が、軽く鳴った。
続いて、壁のどこかで釘のきしむ音がする。
寝台の上で半分だけ目を閉じていた使いの身体を、見えない手が下から持ち上げて、すぐに放したような感覚が走った。 胸の奥が、先に冷たくなった。
高みにいたとき、世界は揺れなかった。
風は乱れ、空気の筋は捻じれたが、下にあるものは「揺れる」と認識するほど身近ではなかった。距離のあるものとして見下ろしていたからだ。地面が、自分のすぐ下で動くという感覚は、まるで別種の出来事だった。 寝台の脇で、木箱がわずかに鳴った。 その音で、完全に目が覚めた。
使いは上体を起こし、布団が胸から滑り落ちる感触を確かめるより先に、足元の土の硬さを探した。寝台から床に下ろした足の裏に、細かい砂と、板の継ぎ目が触れる。揺れは、まだ止まっていなかった。 山小屋の扉が、内側から音を立てた。 シェルパが、先に動いていた。
寝台と扉のあいだを、既に一度往復したらしい足跡が、薄暗い中に線をつけている。彼は上着を片腕に通したまま、扉の隙間から外をうかがっていた。肩にかけた袋は、いつもより低い位置で揺れている。 「外、出る」 それだけ言うと、扉を押し開けた。 外の空気は、揺れと同じくらい冷たかった。
足元の土が、細かく震えている。山小屋の屋根から、干してあった枝葉が少し落ち、軒先の板が小さく鳴った。森の中では、木々同士が、風もないのにぶつかり合う音を立てている。 使いは、寝台から立ち上がるときに、壁を掴んだ。 自分の足で立つというより、揺れている地面の上に身体を乗せている感覚だった。片方の翼が、布の下で勝手に体勢を探そうとしている。飛ぶためではなく、落ちないために。それが、自分のものではない反射のように思えた。 「来い」 シェルパの声が、揺れの合間を縫って耳に届いた。 山小屋の前に出ると、空の色はまだ夜と朝の中間だった。
東の方は、薄く明るみ始めているが、山の影が濃く重なっている。空には星がいくつか残っていたが、揺れと一緒に瞬きが乱れて見えた。風はほとんど吹いていない。地面だけが、ゆっくりと、だが確かに動いている。 シェルパは、山小屋の壁から少し離れた場所に立っていた。 片手で杖を握り、もう片方の手で、その杖を自分の足元へ押しつけている。揺れの様子を確かめているのだろう。杖の先が土に沈み、僅かに左右に揺れるたびに、彼の肩がその動きに合わせて呼吸をゆっくりと整えていた。 足が地面に吸いつくように感じられる。 使いは、無意識に片足を半歩だけ引いた。
高みにいたとき、揺れは音として遠くから届いた。雷鳴や風のうねりと同じ種類のものとして、ただ「見て」いた。今は、自分の足場そのものが、誰かに揺さぶられている。落ちる前の高さでは決して起こらなかった種類の揺れだ。 「……これは」 口を開きかけたとき、シェルパが先に言った。 「まだ大きくはない」 声は落ち着いていたが、息は少し早かった。
揺れの一つひとつを、身体のどこかで測っているような呼吸だった。彼は山小屋の屋根を一度見上げ、軒先の板が割れていないことを確認する。そのあと、すぐに視線を山道の方へ向けた。 「上を見る」 そう告げると、袋の紐をきゅっと締め直した。 足が、いつもより重く見えた。
揺れる地面の上を歩き出すとき、彼の膝の動きには、かすかな遅れがある。長くこの山で暮らしてきた身体が、揺れの種類を知っているがゆえに、一歩を踏み出す前に余計な確認をしているような動きだった。杖が先に土を探り、そのあとから足がついていく。 使いも、その後ろについていった。 山道は、昨日と同じではなかった。
まだ夜明け前の薄暗さの中で、斜面のあちこちが変わっていることが、輪郭だけで分かる。木の根が新しく露出し、石が転がり落ちた跡が筋になって残っている。足を乗せる場所を間違えれば、そのまま崩れていきそうな土の塊が、道の端にいくつも積み上がっていた。 揺れは、弱くなったり強くなったりを繰り返している。 足を前に出した瞬間に、地面がふっと軽くなり、次の瞬間には重く押し返される。使いの身体は、その変化に順応できず、何度か膝を折りかけた。翼を広げてバランスを取ろうとする癖が、布の下で空振りする。空中では使えた感覚が、ここでは役に立たない。 「掴め」 シェルパが、言葉より先に腕を出した。 使いは、その手を掴むというより、腕の布を掴んだ。
揺れのたびに、その細い腕に余計な力がかかるのを感じる。シェルパの肩が一度だけ大きく揺れたが、足は踏みとどまっていた。杖が土を叩く音が、揺れの合間に規則的に響く。 「怖いか」 ふいに、シェルパがそう言った。 揺れと同じくらい淡々とした声だが、その中に、相手の状態を確認するための小さな針のような気遣いが刺さっている。使いは、返事をする前に、一度地面を見た。揺れているのは足元だけではない。周りの木も、遠くの岩も、小屋も、全部が同じ揺れを共有している。 「……怖い」 隠す意味が、見つからなかった。 声に出した途端、胸の奥に溜まっていた緊張が、少しだけ形を持った。高みにいたとき、自分はこんなふうに「怖い」と言ったことがあっただろうかと考えても、記憶は曖昧だ。あの場所では、揺れるのは自分の役目ではなく、下の世界の方だった。 シェルパは、短く息を吐いた。 「揺れる場所で育ってないなら、それで普通だ」 自嘲でも慰めでもない言い方だった。
自分の方が揺れに慣れているという事実を、ただ確認しているだけだ。彼は足を止めず、崩れかけた土の塊の手前で膝を曲げた。揺れが少し弱まったところで、土を手で崩してみる。中まで湿っているか、乾いているか、そのくらいは、指先だけで分かった。 「ここは、後で支えを入れる」 土の状態を確かめながら、独り言のように言う。 袋から細い杭を取り出し、崩れかけた場所から少し内側に打ち込んだ。腕を振るたびに、袖の中の筋肉の線が浮かび上がる。若くはないが、十分な力を持った腕だった。それでも、杭を三本打ち込んだあたりで、呼吸が荒くなり、肩で息をするようになる。 揺れが、一度だけ大きくなった。 斜面の上の方から、石がいくつか転がり落ちてくる音がした。木の枝が擦れ合い、誰かが遠くで何かを倒したような鈍い音が重なる。使いの膝が、勝手に折れそうになる。シェルパの腕にかけていた手に、反射的に力がこもった。 「山が、形を変える」 シェルパが、上を見たまま言った。 その言葉は、恐れというより経験に裏打ちされていた。
ここで何度も揺れを体験し、そのたびに道が変わり、崩れる場所が増え、別のところに新しい足場ができていくのを見てきた者の声だった。彼にとって地震は、ただ怖い出来事ではなく、「変わる前触れ」として刻み込まれているのだろう。 しかし、その知識を支える身体は、もう以前ほどには動かない。 小さな段差を越えるたびに、膝がわずかに遅れる。
大きな石をまたぐとき、息を整えるために一瞬だけ立ち止まる。そのたびに、使いの方が先に振り返って、彼が足をつくのを待つ。高みにいたときには考えもしなかった種類の「待つ」だった。 「戻るか?」 使いがそう問うと、シェルパは首を振った。 「上まで見ないと、落ちるところが分からない」 短い言葉に、固いものが混じっていた。
山に住んでいる者としての義務のようなものかもしれない。誰が通るか分からない道であっても、自分が歩いて確かめておかなければならない場所として、この山を捉えている。体力が落ちても、その感覚が薄れることはないらしかった。 道の途中で、木が一本、根元から傾いていた。 昨日までは真っ直ぐ立っていたはずの幹が、斜面の外側に向かって少し倒れている。根の一部が土から出ており、その周囲の地面には新しい亀裂が走っていた。シェルパは、その木の幹に手を当て、揺れに合わせてどれくらい動くかを確かめた。 「これも、そのうち落ちる」 彼はそう言い、幹に巻き付いていた古いロープを外した。 ロープの端には、小さな鈴が付いている。
かつて、熊避けとして使われていたものだろう。誰かがここを通るたびに鳴らしていたのかもしれない。今、その鈴は揺れても音をほとんど立てなかった。中の金属が錆び、音が詰まっている。 シェルパは、その鈴をロープごと手に持ち、しばらく指の間で転がした。 何かを思い出しているのかもしれない。
彼の顔には、わずかな懐かしさと、今の静けさとが重なっていた。やがて、ロープを別の木に結び直し、鈴を少し高い位置に吊るした。揺れが続くあいだ、鈴はかすかに触れ合い、その詰まった音を喉の奥で震わせていた。 使いの足は、揺れが続くたびに固くなった。 地面の動きに合わせて足を出すという単純なことが、こんなにも難しい。空の中では、揺れは自分で作るものだった。翼で風を叩き、自分で高度を変え、自分で落ちて、自分で戻る。ここでは、その全てが地面側の都合で起こる。 また、ひときわ大きな揺れが来た。 山道の先の方で、土が一塊ごと崩れ落ちる音がした。
見えない場所で、斜面の一部が剥がれ落ち、谷に向かって滑り落ちていく。土埃が遅れて空中に立ち上がり、薄い霧のように木々の間に広がった。 使いは、思わず目を閉じた。 高みにいたとき、崩れる地面を何度も見た。
しかし、それは遠くから見下ろす景色のひとつでしかなかった。今、その中に自分の足が置かれている。崩れるのを「見る側」から、「巻き込まれうる側」に変わってしまった。身体のどこかが、それを受け入れきれずに震えている。 「……怖いなら、言っていい」 シェルパが、珍しくこちらを見たまま言った。 使いは、既に一度そう言っていた。
それでも、今度の「怖い」は、少し違っていた。地面の揺れそのものだけでなく、この揺れのあとに山がどのように変わるのか、その変化の中で自分がどこに立てるのかが、まだ見えない怖さだった。 「怖い」 同じ言葉を、もう一度出した。 シェルパは、ゆっくりと頷いた。 「俺も、少し怖い」 続けて出たその一言は、使いの耳には少し意外だった。 揺れに慣れているように見える彼にも、怖さは残っている。
だが、その怖さの質は違うのだろう。山が形を変えるたびに、自分が覚えてきた道が書き換えられていく。案内人として積み上げてきた感覚が、少しずつ古くなっていく。技術は体に残っていても、それを使う場そのものが変わってしまう。そのことへの怖さかもしれなかった。 それでも、彼は歩くことをやめない。 揺れがおさまりかけるたびに、次の一歩を出す。
道の脇にある崩れかけた石を足で払い、落ちた土の量を目で測り、どこに新しい印を立てるべきかを、頭の中で組み立てている。息は荒く、額には汗が滲んでいる。山の冷たい空気が、その汗をすぐに冷やす。 使いは、その背中を見ながら、自分がこの山の揺れに対して何もできないことを認めざるをえなかった。 空の揺れなら、どうにかできるかもしれない。
風が乱れれば、翼でそれを縫い直すことができた。雲が崩れれば、その間を抜けて別の高さへ移ることもできた。だが、山の揺れに対しては、足を踏ん張ることと、誰かの腕を掴むことくらいしかできない。 山全体が、ゆっくりと別の形へ動いている。 それを一番よく知っているのは、シェルパだった。
だが、その動きに最後まで付き合うだけの体力が、自分に残っているかどうかは、彼自身にも分かっていないように見えた。技術はある。道を読む目も、土を触る手も、崩れる前の形を覚えている頭も。けれど、それを支える身体だけが、少しずつ山の時間から遅れ始めている。 揺れがおさまったとき、山は一瞬だけ静かになった。 鳥の声も、木々の軋む音もなく、風さえも止まった。
その沈黙の中で、斜面の新しい傷だけが、薄い線としてそこに残った。道の曲がり方が、昨日とほんの少しだけ違って見える。瑠璃色だった空は、ようやく朝の薄い色を取り戻し始めていた。 使いは、足元の土を見下ろした。 揺れた地面は、もう動いていない。
けれど、その下にあるものが完全に止まったわけではないことを、身体のどこかが知っている。高みにいたころには知らなかった種類の「高さの揺れ」が、今も山の奥で続いている。その揺れの上に立ったまま、自分の高さをどう呼べばいいのか。答えはまだ、どこにも見えなかった。
最初の揺れは、夢と現実の境目みたいなところに割り込んできた。 山小屋の天井板が、軽く鳴った。
続いて、壁のどこかで釘のきしむ音がする。
寝台の上で半分だけ目を閉じていた使いの身体を、見えない手が下から持ち上げて、すぐに放したような感覚が走った。 胸の奥が、先に冷たくなった。
高みにいたとき、世界は揺れなかった。
風は乱れ、空気の筋は捻じれたが、下にあるものは「揺れる」と認識するほど身近ではなかった。距離のあるものとして見下ろしていたからだ。地面が、自分のすぐ下で動くという感覚は、まるで別種の出来事だった。 寝台の脇で、木箱がわずかに鳴った。 その音で、完全に目が覚めた。
使いは上体を起こし、布団が胸から滑り落ちる感触を確かめるより先に、足元の土の硬さを探した。寝台から床に下ろした足の裏に、細かい砂と、板の継ぎ目が触れる。揺れは、まだ止まっていなかった。 山小屋の扉が、内側から音を立てた。 シェルパが、先に動いていた。
寝台と扉のあいだを、既に一度往復したらしい足跡が、薄暗い中に線をつけている。彼は上着を片腕に通したまま、扉の隙間から外をうかがっていた。肩にかけた袋は、いつもより低い位置で揺れている。 「外、出る」 それだけ言うと、扉を押し開けた。 外の空気は、揺れと同じくらい冷たかった。
足元の土が、細かく震えている。山小屋の屋根から、干してあった枝葉が少し落ち、軒先の板が小さく鳴った。森の中では、木々同士が、風もないのにぶつかり合う音を立てている。 使いは、寝台から立ち上がるときに、壁を掴んだ。 自分の足で立つというより、揺れている地面の上に身体を乗せている感覚だった。片方の翼が、布の下で勝手に体勢を探そうとしている。飛ぶためではなく、落ちないために。それが、自分のものではない反射のように思えた。 「来い」 シェルパの声が、揺れの合間を縫って耳に届いた。 山小屋の前に出ると、空の色はまだ夜と朝の中間だった。
東の方は、薄く明るみ始めているが、山の影が濃く重なっている。空には星がいくつか残っていたが、揺れと一緒に瞬きが乱れて見えた。風はほとんど吹いていない。地面だけが、ゆっくりと、だが確かに動いている。 シェルパは、山小屋の壁から少し離れた場所に立っていた。 片手で杖を握り、もう片方の手で、その杖を自分の足元へ押しつけている。揺れの様子を確かめているのだろう。杖の先が土に沈み、僅かに左右に揺れるたびに、彼の肩がその動きに合わせて呼吸をゆっくりと整えていた。 足が地面に吸いつくように感じられる。 使いは、無意識に片足を半歩だけ引いた。
高みにいたとき、揺れは音として遠くから届いた。雷鳴や風のうねりと同じ種類のものとして、ただ「見て」いた。今は、自分の足場そのものが、誰かに揺さぶられている。落ちる前の高さでは決して起こらなかった種類の揺れだ。 「……これは」 口を開きかけたとき、シェルパが先に言った。 「まだ大きくはない」 声は落ち着いていたが、息は少し早かった。
揺れの一つひとつを、身体のどこかで測っているような呼吸だった。彼は山小屋の屋根を一度見上げ、軒先の板が割れていないことを確認する。そのあと、すぐに視線を山道の方へ向けた。 「上を見る」 そう告げると、袋の紐をきゅっと締め直した。 足が、いつもより重く見えた。
揺れる地面の上を歩き出すとき、彼の膝の動きには、かすかな遅れがある。長くこの山で暮らしてきた身体が、揺れの種類を知っているがゆえに、一歩を踏み出す前に余計な確認をしているような動きだった。杖が先に土を探り、そのあとから足がついていく。 使いも、その後ろについていった。 山道は、昨日と同じではなかった。
まだ夜明け前の薄暗さの中で、斜面のあちこちが変わっていることが、輪郭だけで分かる。木の根が新しく露出し、石が転がり落ちた跡が筋になって残っている。足を乗せる場所を間違えれば、そのまま崩れていきそうな土の塊が、道の端にいくつも積み上がっていた。 揺れは、弱くなったり強くなったりを繰り返している。 足を前に出した瞬間に、地面がふっと軽くなり、次の瞬間には重く押し返される。使いの身体は、その変化に順応できず、何度か膝を折りかけた。翼を広げてバランスを取ろうとする癖が、布の下で空振りする。空中では使えた感覚が、ここでは役に立たない。 「掴め」 シェルパが、言葉より先に腕を出した。 使いは、その手を掴むというより、腕の布を掴んだ。
揺れのたびに、その細い腕に余計な力がかかるのを感じる。シェルパの肩が一度だけ大きく揺れたが、足は踏みとどまっていた。杖が土を叩く音が、揺れの合間に規則的に響く。 「怖いか」 ふいに、シェルパがそう言った。 揺れと同じくらい淡々とした声だが、その中に、相手の状態を確認するための小さな針のような気遣いが刺さっている。使いは、返事をする前に、一度地面を見た。揺れているのは足元だけではない。周りの木も、遠くの岩も、小屋も、全部が同じ揺れを共有している。 「……怖い」 隠す意味が、見つからなかった。 声に出した途端、胸の奥に溜まっていた緊張が、少しだけ形を持った。高みにいたとき、自分はこんなふうに「怖い」と言ったことがあっただろうかと考えても、記憶は曖昧だ。あの場所では、揺れるのは自分の役目ではなく、下の世界の方だった。 シェルパは、短く息を吐いた。 「揺れる場所で育ってないなら、それで普通だ」 自嘲でも慰めでもない言い方だった。
自分の方が揺れに慣れているという事実を、ただ確認しているだけだ。彼は足を止めず、崩れかけた土の塊の手前で膝を曲げた。揺れが少し弱まったところで、土を手で崩してみる。中まで湿っているか、乾いているか、そのくらいは、指先だけで分かった。 「ここは、後で支えを入れる」 土の状態を確かめながら、独り言のように言う。 袋から細い杭を取り出し、崩れかけた場所から少し内側に打ち込んだ。腕を振るたびに、袖の中の筋肉の線が浮かび上がる。若くはないが、十分な力を持った腕だった。それでも、杭を三本打ち込んだあたりで、呼吸が荒くなり、肩で息をするようになる。 揺れが、一度だけ大きくなった。 斜面の上の方から、石がいくつか転がり落ちてくる音がした。木の枝が擦れ合い、誰かが遠くで何かを倒したような鈍い音が重なる。使いの膝が、勝手に折れそうになる。シェルパの腕にかけていた手に、反射的に力がこもった。 「山が、形を変える」 シェルパが、上を見たまま言った。 その言葉は、恐れというより経験に裏打ちされていた。
ここで何度も揺れを体験し、そのたびに道が変わり、崩れる場所が増え、別のところに新しい足場ができていくのを見てきた者の声だった。彼にとって地震は、ただ怖い出来事ではなく、「変わる前触れ」として刻み込まれているのだろう。 しかし、その知識を支える身体は、もう以前ほどには動かない。 小さな段差を越えるたびに、膝がわずかに遅れる。
大きな石をまたぐとき、息を整えるために一瞬だけ立ち止まる。そのたびに、使いの方が先に振り返って、彼が足をつくのを待つ。高みにいたときには考えもしなかった種類の「待つ」だった。 「戻るか?」 使いがそう問うと、シェルパは首を振った。 「上まで見ないと、落ちるところが分からない」 短い言葉に、固いものが混じっていた。
山に住んでいる者としての義務のようなものかもしれない。誰が通るか分からない道であっても、自分が歩いて確かめておかなければならない場所として、この山を捉えている。体力が落ちても、その感覚が薄れることはないらしかった。 道の途中で、木が一本、根元から傾いていた。 昨日までは真っ直ぐ立っていたはずの幹が、斜面の外側に向かって少し倒れている。根の一部が土から出ており、その周囲の地面には新しい亀裂が走っていた。シェルパは、その木の幹に手を当て、揺れに合わせてどれくらい動くかを確かめた。 「これも、そのうち落ちる」 彼はそう言い、幹に巻き付いていた古いロープを外した。 ロープの端には、小さな鈴が付いている。
かつて、熊避けとして使われていたものだろう。誰かがここを通るたびに鳴らしていたのかもしれない。今、その鈴は揺れても音をほとんど立てなかった。中の金属が錆び、音が詰まっている。 シェルパは、その鈴をロープごと手に持ち、しばらく指の間で転がした。 何かを思い出しているのかもしれない。
彼の顔には、わずかな懐かしさと、今の静けさとが重なっていた。やがて、ロープを別の木に結び直し、鈴を少し高い位置に吊るした。揺れが続くあいだ、鈴はかすかに触れ合い、その詰まった音を喉の奥で震わせていた。 使いの足は、揺れが続くたびに固くなった。 地面の動きに合わせて足を出すという単純なことが、こんなにも難しい。空の中では、揺れは自分で作るものだった。翼で風を叩き、自分で高度を変え、自分で落ちて、自分で戻る。ここでは、その全てが地面側の都合で起こる。 また、ひときわ大きな揺れが来た。 山道の先の方で、土が一塊ごと崩れ落ちる音がした。
見えない場所で、斜面の一部が剥がれ落ち、谷に向かって滑り落ちていく。土埃が遅れて空中に立ち上がり、薄い霧のように木々の間に広がった。 使いは、思わず目を閉じた。 高みにいたとき、崩れる地面を何度も見た。
しかし、それは遠くから見下ろす景色のひとつでしかなかった。今、その中に自分の足が置かれている。崩れるのを「見る側」から、「巻き込まれうる側」に変わってしまった。身体のどこかが、それを受け入れきれずに震えている。 「……怖いなら、言っていい」 シェルパが、珍しくこちらを見たまま言った。 使いは、既に一度そう言っていた。
それでも、今度の「怖い」は、少し違っていた。地面の揺れそのものだけでなく、この揺れのあとに山がどのように変わるのか、その変化の中で自分がどこに立てるのかが、まだ見えない怖さだった。 「怖い」 同じ言葉を、もう一度出した。 シェルパは、ゆっくりと頷いた。 「俺も、少し怖い」 続けて出たその一言は、使いの耳には少し意外だった。 揺れに慣れているように見える彼にも、怖さは残っている。
だが、その怖さの質は違うのだろう。山が形を変えるたびに、自分が覚えてきた道が書き換えられていく。案内人として積み上げてきた感覚が、少しずつ古くなっていく。技術は体に残っていても、それを使う場そのものが変わってしまう。そのことへの怖さかもしれなかった。 それでも、彼は歩くことをやめない。 揺れがおさまりかけるたびに、次の一歩を出す。
道の脇にある崩れかけた石を足で払い、落ちた土の量を目で測り、どこに新しい印を立てるべきかを、頭の中で組み立てている。息は荒く、額には汗が滲んでいる。山の冷たい空気が、その汗をすぐに冷やす。 使いは、その背中を見ながら、自分がこの山の揺れに対して何もできないことを認めざるをえなかった。 空の揺れなら、どうにかできるかもしれない。
風が乱れれば、翼でそれを縫い直すことができた。雲が崩れれば、その間を抜けて別の高さへ移ることもできた。だが、山の揺れに対しては、足を踏ん張ることと、誰かの腕を掴むことくらいしかできない。 山全体が、ゆっくりと別の形へ動いている。 それを一番よく知っているのは、シェルパだった。
だが、その動きに最後まで付き合うだけの体力が、自分に残っているかどうかは、彼自身にも分かっていないように見えた。技術はある。道を読む目も、土を触る手も、崩れる前の形を覚えている頭も。けれど、それを支える身体だけが、少しずつ山の時間から遅れ始めている。 揺れがおさまったとき、山は一瞬だけ静かになった。 鳥の声も、木々の軋む音もなく、風さえも止まった。
その沈黙の中で、斜面の新しい傷だけが、薄い線としてそこに残った。道の曲がり方が、昨日とほんの少しだけ違って見える。瑠璃色だった空は、ようやく朝の薄い色を取り戻し始めていた。 使いは、足元の土を見下ろした。 揺れた地面は、もう動いていない。
けれど、その下にあるものが完全に止まったわけではないことを、身体のどこかが知っている。高みにいたころには知らなかった種類の「高さの揺れ」が、今も山の奥で続いている。その揺れの上に立ったまま、自分の高さをどう呼べばいいのか。答えはまだ、どこにも見えなかった。
揺れがおさまってからの山は、静かに、しかし確実に形を変えていた。 森を抜けて山道に戻ると、踏み跡の曲がり方が、昨日までよりわずかに鈍くなっているのが分かった。斜面側だったはずの低い方が、ところどころ持ち上がり、逆に山側の土が少しだけ沈んでいる。道の真ん中には、小さな段差が増えていた。 上へ向かう途中、見覚えのある標識が一本、斜めに傾いていた。 木の杭ではなく、鉄の柱に取り付けられた板だ。かつては登山口に立っていたような、少し大きめの案内板が、そのままここに移設されてきたのかもしれない。地震で根元の土が動き、柱は山側へ傾き、板は空を見上げるように角度を変えていた。 シェルパは、その前で足を止めた。 板の上部には、大きく「高山」と書かれている。
黒い太い字で、隣には山の簡単な絵が添えられていた。絵の中の山は、尖った頂を持ち、周囲の山々よりも頭一つ分高く描かれている。その下に、小さく標高の数字が刻まれていた。地震の前に測られた高さだ。 そのすぐ下に、白いシールが雑に貼られていた。 シールには、新しい数字が印刷されている。
地震の後、誰かが測り直したのだろう。だが、古い数字を完全には覆いきれていない。わずかにずれた位置から、元の数字の線が薄く透けて見える。上と下で、似ているようで微妙に違う高さが、ひとつの板の上に重なっていた。 周囲の景色は、そのどちらとも少し距離があった。 ここから見ても、山頂は他の尾根と変わらない高さに見える。
遠くの山並みの中に溶け込み、「頭一つ飛び出ている」と呼ぶには中途半端な輪郭だった。崩れた斜面の白い傷跡が新しいが、それを差し引いても、看板の絵ほどの威圧感はない。 使いは、板の前に立ち、文字を見上げた。 「……高山」 その言葉は、命令に近い形で、自分の中に残っているものと響き合った。 高い山を探せ。
誰がそう言ったのかは、思い出せない。けれど、高い山という言葉だけは、落ちてくる最中ですら手放さなかった。高いという音の並びと、その音が指し示すはずの場所への感覚だけが、身体の奥に残っていた。 目の前の板は、はっきりと「ここが高山だ」と言い切っている。 けれど、身体で感じる高さは、名前ほどには高くない。 風の冷たさは、中腹と山頂のあいだのどこかだ。
息が苦しいほどの薄さもない。視界に入る山並みも、自分のいる場所を際立たせてくれない。高みにいたころの「高さ」は、視界のすべてを下に押し込める力があった。この山の高さは、周囲の中のひとつの起伏に過ぎないように思えた。 「高い山、だった」 シェルパが、小さく言葉を足した。 高い、と「呼ばれていた」のではなく、「だった」。
そこには、わずかな差がある。彼は指先で板の端をなぞり、貼られたシールと、その下の古い数字の境目を触った。指に伝わる紙と鉄の段差は、山そのものの変化よりも小さい。それでも、彼の中で、そのわずかな違いが、過去と今をはっきり分けていた。 「地図にも、そう書いてある」 シェルパは、そう付け足した。 山頂の石柱にも、同じ名前が刻まれている。
パンフレットにも、町の案内にも、観光バスの側面にも。かつて、この山は確かに「高山」として扱われていた。数字がどうであれ、人がそう呼び続けた時間があった。 使いは、板の文字と、周囲の山並みとを何度か見比べた。 「高い……か?」 自分でも、問いの形が崩れているのが分かった。 言葉としての「高い」と、身体で感じる「高さ」が、うまく重ならない。
高みにいたころ、下界の山はどれも等しく「下」だった。相対的な差はあっても、それを気にする必要はなかった。今、自分がその下界の中に立っていると、「高い」の基準がどこにあるのか、分からなくなっていく。 「昔は」 シェルパは、板から視線を外し、斜面の上を見た。 「ここから見た景色が、下の人間には高かった」 山頂から見下ろした街の灯り、雲海、季節ごとの色。
それらを写真に撮り、パンフレットに載せ、「高い場所からしか見えないもの」として売り出していた時代があった。その時代を、彼の身体は覚えている。誰かに紹介され、自分で登って来て、案内人として何度も頂に立った。 言いながら、彼の口元にはかすかな笑みが浮かんだ。 それは誇りの形をしていたが、笑いきれてはいない。
崩れた展望台、塗りつぶされた外国語の案内、増えていく「立入禁止」の札。今の山が、かつてと同じ高さを保てていないことを、彼は誰よりもよく知っている。数字が変わり、道が変わり、呼ばれ方も変わりかけている。 「今は、中くらいだ」 ぽつりと、現実だけを述べた。 高いとも、低いとも言えない。
周りの山と比べれば、確かに「高」ではある。だが、遠くの、本当に高い峰々と比べれば、この山は「そこそこ」に過ぎない。それでも、ここを選んで登り、ここで暮らしている自分にとっては、いまだに「高山」のままだった。 使いは、その中途半端さに、うまく足場を見つけられなかった。 「高い山を探していたはずなのに」 思考の途中でこぼれた言葉は、自分自身への戸惑いに近かった。 命令のような感覚に従ってここまで来た。
森の上をかすめ、熊に翼を奪われ、斜面に落ち、山小屋で目を覚まし、道を歩き、展望台に立った。すべての始まりには、「高い山」というぼんやりした目的があったはずだ。だが、たどり着いた場所は、名前だけが高く、形は揺らぎ続けている。 自分は命令を果たしたのか、それとも途中で間違えたのか。 その判断を下すための基準すら、今は揺れている。
高みにいたころ、「間違える」という感覚はなかった。命令の内容を疑うことも、その正しさを測ることも、役目ではなかったからだ。ここでは、名前と形がずれている。言葉と実際の高さが、同じ場所に収まってくれない。 「高いって、どこからだ」 自分でも意外な問いが、口から出た。 シェルパは、その言葉にすぐには答えなかった。 板をもう一度見てから、周囲の山並みに視線を移す。
それから、自分の足元を一瞥し、最後に使いの顔を見る。高みにいた者と、自分の足で登って来た者と、その間で「高い」の意味がずれていることを、自覚した目だった。 「下から見上げて、首が痛くなるくらい」 少し冗談めかした言い方だったが、すぐに表情は戻った。 「ここが、そうだった時もある」 バスから降りた観光客が、最初にこの山を見上げたとき。
町の広場から、初めて山頂の白さを見たとき。彼自身がまだ若く、この山に「来る側」だったとき。どれも、首が痛くなるほど見上げた記憶と結びついている。その記憶が、「高い山」という言葉を支えていた。 今、その同じ場所から見上げる人間は減った。 道は減り、看板は消え、バスも来なくなった。
山自体も、揺れで少し削れた。数字で見れば、ほんのわずかな差かもしれない。だが、そのわずかな差が、「高い」という呼び方に影を落としている。 「お前の高いは、もっと上だろう」 シェルパは、そう続けた。 高みにいた者の「高い」は、空の側から下を見た距離だ。
地面から上がっていく人間の「高い」とは、方向も出発点も違う。どちらが正しいという話ではない。ただ、同じ「高い」という言葉を使っていても、その背後にある感覚が違いすぎるのだ。 使いは、言い返す言葉を見つけられなかった。 自分の高いは、確かに空の側だった。
雲より上、風が薄くなるところ、星に近い場所。そこから見れば、どんな山も「下」でしかなかった。高い山を探せという感覚も、もしかしたら、下界の差を知らないまま放り出された命令だったのかもしれない。 板の「高山」という字が、急に遠く見えた。 名前は高い。
数字も、高かった頃の名残を引きずっている。だが、足元の土と、目の高さと、風の冷たさとが、その言葉に追いついていない。ここが高いと言い張ろうとする名前と、「中くらいだ」と知ってしまっている身体とのあいだで、高さの感覚が揺れていた。 「……それでも、ここは高山だ」 シェルパが、静かに言った。 誰に向けたでもない宣言だった。 「俺が登ってきた山だから」 その一言には、誇りと、少しの哀しみが同時に混ざっていた。 数字が変わっても、呼ばれ方が変わっても、自分がここへ登り、ここで道を覚え、ここで暮らしてきたという事実は変わらない。その事実が、この山を「高山」として保っている最後の柱になっていることを、彼自身がいちばんよく知っていた。 使いは、その言葉を聞きながら、自分にはそう言い切れる場所があるだろうかと、ふと思った。 もとから高みにいた自分には、「登ってきた高さ」というものがない。
与えられていた位置があり、落ちてきた位置があるだけだ。そのあいだを、自分の足で繋いだ記憶がない。だからこそ、名前と形がずれ始めたときに、自分がどこに立っているのかを掴み損ねるのかもしれない。 風が、標識の板の端を揺らした。 「高山」という字の影が、地面の上で少し歪む。
揺れが収まれば、影はまた元の形に戻る。だが、その下の土は、さっきよりもわずかにずれていた。山も、人も、名前も、高さも。どれも同じ場所に留まり続けることはできず、少しずつ別の形へ滑っていく。 高みにいた者と、自分で登った者。 その二人が、揺れる名前の下で、同じ標識を見上げていた。
どちらの「高い」が正しいのかを決めることは、まだできない。ただ、同じ文字を見ながら、それぞれまったく別の高さを思い浮かべているという事実だけが、今はっきりとそこにあった。
羽を拾い集めた日の夕方、山小屋の中の空気は、いつもより少しだけ軽かった。 ストーブには火は入っていない。季節は、炎の熱を欲しがるほどではなくなっている。かわりに、窓から入る風が、室内の匂いをゆっくりと入れ替えていた。乾いた木と、干した布と、外の土の匂いが、混じり合って薄くなっていく。 寝台の上に、裏返した上着が広げられていた。 その上に、集められた羽が並んでいる。
熊の巣から拾い上げたもの、斜面に落ちていたもの、雨のあと道端にまとまっていたもの。一本一本の色は微妙に違い、傷の具合も揃っていない。それでも、芯の太さと、光を返す角度に、共通した手触りがあった。 使いは、包帯を解いた背中を、冷たい空気に晒していた。 片方の翼は、まだ不自然な角度で固まっている。
もう片側――失くした方の肩には、薄く白い跡が残っているだけだった。その傷口に、拾い集めた羽が、すべて戻ってくるわけではない。シェルパの手を借りて作ったのは、「完全な翼」ではなかった。 布の下に隠せる範囲で、骨組みに似たものを編んで、羽を縫い付けた。 山小屋に転がっていた細い枝と、古い紐と、誰かが置いていった針金。
それを、残っている翼の形をなぞるように曲げ、拾った羽を少しずつ結びつけた。足りない部分は、布切れで隙間を埋めた。森から拾ってきた鳥の羽も、端の方に混じっている。 それは、もといた場所に戻るための翼ではなく、この山で動くための翼だった。 使いは、慎重に上着を羽の上にかぶせ、肩に通した。 縫い合わせた部分が、布の内側でわずかに引っかかる。
背中の重さのバランスが、昨日までと変わっている。片方だけにかかっていた負荷が、少しだけ分散した。それでも、左右が完全に揃っているわけではない。伸ばしてみれば、その違いはすぐに分かる。 「……行ってくる」 誰に向けたでもない声だった。 山小屋の扉を開けると、外はまだ夕方には少し早い光の時間だった。 空は白に近い灰色で、山の稜線はくっきり見えている。
風は弱く、代わりに鳥の鳴き声が近くから聞こえた。揺れのあとで乱れていた枝葉も、いまは静かに前後しているだけだ。地面は乾きかけていて、足を踏み出すと、土が細かく崩れる音がした。 シェルパは、山小屋の壁にもたれて、道具を手入れしていた。 膝の上には、錆を落としかけの鋸と、擦り減った柄のスコップ。
布切れで金属部分を拭きながら、彼は扉の方を一度見る。その視線は、問いでも制止でもない。ただ、外に出た使いの姿の位置を確認しているだけの目だった。 使いは、山小屋の前の、少しだけ開けた場所に立った。 地面は、何度も足が通ったせいで、程よく固まっている。
斜面に向かってわずかに傾いているが、落ちるほどではない。ここなら、もし足を取られても、すぐに山小屋の壁まで戻れる。その距離を、身体がすでに覚えていた。 彼は、深く息を吸い込んだ。 肺の奥に入ってくる空気は、いつもと同じ山の匂いがした。
違うのは、その空気を肩の後ろから触れる感覚が、かすかに戻っていることだ。布の下で、即席の翼が、風を拾おうとしている。羽の一本一本が、風の向きと強さを測ろうと、わずかに揺れた。 一歩、助走をつける。 地面を蹴った足に、軽さはほとんどない。
膝と腰が、地面の硬さを押し返す感触だけを伝えてくる。だが、それに重なるように、背中の方から、別の「押し返し」があった。風が、羽の面に当たり、その力が肩に返ってくる。 使いは、もう一歩踏み込んでから、地面を離れた。 ほんのわずかな高さだった。 足が土から離れた瞬間、即席の翼が、小さく空気を掴んだ。
左右のバランスは悪い。片方は、きちんと風を受け、もう片方は布と枝の部分で空をひっかいている。身体が傾きかける。しかし、完全に地面へ落ちていく前に、その傾きを塗り直すだけの「浮き」があった。 足の裏が、戻ってくる。 さっきまでいた地面と、わずかに違う位置に着地した。
膝が衝撃を吸収する。胸の奥で心臓が跳ねる。息が荒くなるほどの高さではない。けれど、「ほとんど跳んでいない」のと、「少し浮いていた」のあいだには、確かな差があった。 もう一度、助走をつける。 今度は、背中の翼を意識的に広げた。
きちんと伸びきるわけではない。枝で形を作った部分が、関節のかわりに軋む。その軋みの中で、羽だけが空を求めて広がる。片側が先に風を掴み、もう片側が遅れてついてくる。 ほんの短い距離だけ、足が地面から離れたまま進んだ。 飛んだ、というより、浮いたまま滑ったと言ったほうが近い。
地面との距離は、膝一枚分ほど。落ちても怪我をしない高さだ。それでも、その時間のあいだ、身体は土の重さから少しだけ自由だった。風の力と、自分の重さのあいだで、わずかな折り合いがついていた。 着地するとき、足が地面を探す前に、ほんの短く、「戻れる」という言葉が頭に浮かんだ。 高みにではない。
少なくとも、「上のほう」へ。
完全に以前の場所まで、とは言い切れないが、「行けない」わけではない。そこまでの距離が、絶対的な断絶ではなく、「試みうるもの」に変わった気がした。 息を整えながら、使いは自分の肩に手をやった。 布ごしに触れる羽の並びは、不揃いだった。
ところどころ、枝の硬さが指先に当たる。そこが、以前にはなかった部分だ。完璧ではない。そのことが、かえって自分の中の実感を強くした。完全ではないが、完全に失われたわけでもない。 「……上には、まだ行けるかもしれない」 独り言のように、口から漏れた。 それは、希望というより、観測に近い。
この高さから、もう少しだけ上がることはできる。その「もう少し」の先に、どこまで続いているかは分からない。それでも、まったく届かない場所になったわけではないという感覚が、胸の中に芽生えた。 山小屋の壁にもたれていたシェルパは、その一部始終を見ていた。 鋸を拭く手は途中で止まっていたが、膝の上から落ちることはなかった。
視線だけが、使いの背中と足元と、そのあいだの空間を追っている。跳ぶ瞬間も、浮いているあいだも、着地のときも、彼の顔には大きな変化はない。目の奥が、ほんのわずかに眩しそうに細められただけだった。 彼は、何も言わなかった。 「すごい」とも、「無理するな」とも、「行け」とも。
口にすれば、そのどの言葉も、今の使いの動きに余計な意味を足してしまうことを知っている顔だった。ここで彼が何かを決めてしまうわけにはいかない。決めるのは、この身体で、どこまで上を試みるかだ。 沈黙は、重くはなかった。 山小屋の前に、風の音と、遠くの鳥の声と、二人分の呼吸だけが並んでいる。
使いの肩が、まだ少し上下していた。シェルパの呼吸は、作業をしていたときよりも遅い。どちらも、自分の高さを確かめるために必要な分だけ、空気を出し入れしている。 使いは、もう一度だけ、地面を蹴った。 さっきより少し、高く。
短く浮き、そのまま斜面の方へ半歩分滑る。地面との距離は、やはり膝一枚分ほどだ。それでも、背中に当たる風の感触が、さっきよりもはっきりしている。即席の翼が、「使われている」感覚に、わずかに慣れ始めていた。 着地した足が、軽く土を削った。 わずかな溝ができる。
その溝は、登るための跡と、降りてきた者の足跡の両方に見えた。どちらとして数えるかは、まだ決めなくていい。今はただ、「ここからもう一度上を試みた」という事実だけが残る。 シェルパは、手入れしていた鋸を、山小屋の壁に立てかけた。 膝に置いていた布を畳み、足元を一度見る。
山小屋の前に増えた、新しい足跡の向きを確かめるような目だった。上に向かっているのか、ここに戻るための輪の一部なのか。どちらとも取れる形をしている。 それでも、彼は何も言わない。 自分には、もうこの高さから大きく動く身体が残っていないことを、よく知っている。
道を読む技術も、山を測る目も、熊との距離の取り方も、まだ持っている。だが、「ここからさらに上へ行く足」は、もう若いころのものではない。高みを試みる者と、それを見ている者。その差が、山小屋の前の短い距離に、静かに刻まれていた。 使いは、シェルパの視線に気づいて、こちらを振り返った。 何かを言ってもらいたいわけではなかった。
ただ、この小さな跳躍を見ていたのが自分だけではないと知りたかった。誰かの目が、その瞬間を確かめていれば、「できた」という感覚が、自分の内側だけで曖昧に揺れずに済むからだ。 シェルパは、軽く顎を引いただけだった。 肯定でも否定でもなく、「見た」という合図。 それで会話は終わった。 言葉は、それ以上増えない。
山小屋の前の空気だけが、新しく混ざった「風の感触」と「足の浮き方」を覚えていく。片翼のまま、それでも少しだけ上を試みた者と、その試みを見届けるしかない者。その二人のあいだに、はっきりとした格差があることは、誰も口にしなかった。
崩れた斜面は、遠くから見ただけでも、山の顔つきの一部が変わっているのが分かった。 山小屋から少し下ったところで、道はいつもと違う匂いをしていた。
乾いた土の上に、粉々になった岩の粉と、剥き出しになった根の匂いが混ざっている。風がそこをなめるたびに、細かい砂がわずかに舞い上がり、陽の光に薄い膜を作っていた。 「こっちだ」 シェルパは、いつもの踏み跡から外れ、斜面を横切る細い道に入った。 道と言っても、かつて誰かが歩いた回数の多さだけが形になっている細い筋だった。
そこに、今回の揺れで崩れた土が流れ込み、浅い溝になっている。踏み外せば、溝ごと斜面の下へ向かって滑っていきそうな心もとない足場だった。 使いは、少し距離を空けて、その後をつけた。 風は上から下へではなく、斜めから吹いてくる。
崩落した土の面が風を跳ね返し、その乱れが肩と背中に細かく当たった。布の下で、つぎはぎの翼が、無意識に風の向きを探る。飛ぶためではなく、バランスを保つために。 斜面の外側には、まだ崩れ落ちたばかりの面が広がっていた。 木の根も石も、一度きれいに剥ぎ取られ、まだ何も生えていない。
茶色と灰色が混ざり合った生土の色が、そのまま斜めに広がっている。その下には、粉々になった岩と、さらに古い土の層が重なっていた。崩落の筋の両端には、引きちぎられた木の根が悲鳴のように突き出ている。 「ここが落ちた」 シェルパは、斜面の上側から、その筋の縁を見下ろした。 足の位置は分かっている。
しかし、その「分かっている」が、揺れのあとには必ず少しずれる。彼は杖の先で土を軽く突き、締まり具合を確かめた。表面は乾きかけているが、中はまだ少し柔らかい。その柔らかさが、重さを受け止められるのかどうかを、足の裏と杖の両方で測っていた。 「ここは、もう道じゃない」 短くそう言って、崩れの上側を回り込むように歩き始める。 新しくできた傷の周囲に、別の細い筋がいくつか走っていた。
土がひび割れ、小さな塊になっている。そこを踏めば、そのまま下へ滑る。シェルパの目は、そのひび割れと割れていない土の境界を読んでいた。肩の動きは落ち着いているが、足先はいつもより慎重だ。 使いは、その後ろで、足元の土の色の違いを真似るように見ていた。 崩れた面の手前は、ほかより少し白っぽい。
水分を持っていない砂が多く混ざっているのだろう。そこから少し山側に戻ると、土の色は濃くなり、草も少し残っている。そのあたりが、まだ「持ちこたえている」場所だということは、見ていればなんとなく分かる。 そう思った矢先だった。 シェルパの右足が、わずかに「違う」ところを踏んだ。 音は、小さかった。
しかし、土の崩れる音は、耳ではなく足元から先に伝わった。山側にあるはずの重さが、一瞬で外側に引っ張られる。杖の先が、滑るように前へ走った。肩の位置が、山から遠ざかる方へ傾く。 シェルパの身体が、崩れの縁に向かって倒れかけた。 その一瞬、使いの体は、考えるより先に動いていた。 斜面に向かって一歩踏み出す。
足の下の土が少し崩れ、膝が沈む。その勢いのまま、背中の翼を広げた。つぎはぎの枝と羽が、斜面から吹き上げる風を一気に掴む。片方の肩にかかる負荷が増し、胸のあたりで何かがきしむ。 それでも、その風の支えがなければ、間に合わなかった。 落ちかけた身体の背中側に、腕を回す。
シェルパの上着の布を掴み、そのまま山側へ引き寄せた。体重は、思っていたよりも軽かった。山で鍛えられたはずの身体は、骨と筋と皮とが、ぎりぎりの線で繋がっているような重さだった。 崩れかけた土が、シェルパの足のすぐ下で滑り落ちた。 茶色い小さな流れになって、一気に下へ走る。
その中に、小石や枝や、さっきまで足場だったはずの塊が混じっている。数歩分先で、その流れは一段低い崖に当たり、そこからさらに見えない谷へと消えていった。もしあのまま乗っていれば、山小屋の前には戻ってこられなかった高さだった。 使いは、シェルパの身体を、自分の方へ引き寄せながら、翼にかかる風の向きを変えた。 斜面側から山側へ吹き込んでくる風が、即席の翼を押し上げる。
片側だけ浮き上がり、身体が少し傾く。その傾きを、今度は意識的に使った。自分の身体ごと山側へ倒れ込むようにして、シェルパを道の内側へ押し戻す。 二人とも、尻もちをついた形で、ひとまず止まった。 土が服につき、靴に砂が入り込んだ。
呼吸が一気に荒くなる。使いの心臓は、胸から飛び出しそうなほど跳ねていた。シェルパは、息を吸い込んだまま、しばらく吐き出せずにいた。 崩れた土の流れは、もう止まっている。 あとは、さっきまであったはずの足場が、きれいになくなった斜面だけが残った。
そこにはもう、軽く足をかけることすらできない。山側に残った土も、ぎりぎりで踏ん張っているような状態だ。新しいひび割れが増え、それがどこまでつながっているのかは、見ただけでは分からない。 「……あぶな」 ようやく吐き出されたシェルパの息は、言葉になりかけて途切れた。 声の震えは、崩れた土の音よりも小さい。
だが、その小ささの中に、今の一瞬で失いかけたものの大きさが詰まっていた。彼は、自分の足首を一度確かめ、それから使いの手が掴んだままになっている上着の布に視線を落とした。 「離せ」 言葉はいつもと同じ短さだった。 けれど、その短さの中に、ほんの僅かな礼のようなものが混ざっていた。
使いは、掴んでいた手をゆっくりと緩めた。緩めても、シェルパの身体はもう動かない。足は山側の土をきちんと捉えている。肩の位置も、崩れの縁から十分離れている。 息が落ち着いてくると、周囲の音が戻ってきた。 遠くで鳥が鳴き、上の方で小さな石が遅れて転がり落ちる音がした。
風はさっきより弱い。崩れた土の匂いだけが、まだ鼻の奥に残っている。さっきまで自分たちが立っていた場所の先に広がる空間を、使いはあらためて見下ろした。 あのまま落ちていれば、と想像するのは簡単だった。 まず、足場ごと滑り落ちる。
止まる場所はなく、そのまま一段低い崖へ叩きつけられる。そこで運良く引っかかっても、骨は数本は折れるだろう。さらに悪ければ、そのまま下まで行く。誰も見ていないところで、土と石に埋もれて止まる。 山の上にいるからと言って、特別に強い身体が与えられているわけではない。 シェルパの腕を掴んだ時、使いはその軽さと脆さを、皮膚越しではなく骨の内側から感じた気がした。
この人は、ここから下へ「降りる」前に、こうしてどこかで「落ちて」しまう。地面の揺れにも、崩れにも、獣にも、街の雑踏にも。どこに置いても、ギリギリの線の上で生きている身体だ。 「足、いけるか」 自分の声が少し上ずっているのを、使い自身が一番よく分かっていた。 シェルパは、膝に手を当てて一度立ち上がりかけ、すぐに片膝をついた。 「……少し、力が抜けただけだ」 言葉はいつもどおりだったが、息がまだ浅い。 足首を回し、かかとを土に押しつけて確かめる。
ひねったわけでも、折ったわけでもない。ただ、踏みしめようとした瞬間に土が逃げただけだった。その小さな「だけ」が、そのまま谷まで連れていくところだったのだと、二人とも分かっていた。 使いは、斜面の外側に視線を送った。 もし、自分がここから落ちても――今なら、たぶんどこかで浮き直せる。
つぎはぎの翼でも、風さえあれば、完全な墜落にはならないようにできる。地面に叩きつけられる前に、方向を変えることくらいはできるかもしれない。 けれど、シェルパには、その「浮き直す」ためのものが何もない。 ここで滑れば、落ちるだけだ。
町へ降りても、飛び交う車と信号と人混みの中で、きっと同じように足場を失う。山の道を読む目と、熊の気配を嗅ぎ分ける勘は、舗装された地面や横断歩道の上では役に立たない。 この人は、本当に「降りたらすぐ死ぬ」のだ、と、ようやく自分の中でも言葉になった。 高みにいたころ、自分はそういう死に方を「下界の話」として見ていた。
足を踏み外し、車にぶつかり、川に流され、屋根から落ちる。それらは遠くから見ている限り、同じ「一つの点が消える」という現象だった。今、目の前で、それになりかけた人間の重さを掴んでしまった以上、もう「遠くの話」として扱えない。 「……戻るか」 使いは、立ち上がりながら言った。 本当は、ここから先の崩れ具合も見なければならないのだろう。
でも、今この瞬間にそれを続けることが、正しいのかどうかを判断する余裕はなかった。山のために必要なことと、この人の命の重さが、一瞬だけ同じ皿の上に乗ってしまった気がした。 シェルパは、斜面の上側を一度見てから、首を横に振るように、ほんのわずかに傾けた。 「ここだけ、印を付ける」 崩れた縁の少し山側に、小さな杭を打ち込む。 さっきまで膝が抜けかけていたとは思えない力で、腕が動いた。
杭は、これ以上は近づくな、という印だ。誰かがここを歩くかどうかは分からない。それでも、もし誰かが来たときに、同じ滑り方をしないように、という最低限の線だけは引いておく。 使いは、その杭を打つ横顔を見ながら、思った。 この人は、自分の足場を失いかけた直後でさえ、山のための動きをやめない。
「降りたら死ぬ人間」であることを、自分で一番よく知っているからこそ、降りる前にできることを全部ここに置いていこうとしている。それが、彼の「登った高さ」の証になっている。 杭を打ち終えたシェルパは、杖を土に立て、ゆっくりと立ち上がった。 「戻る」 今度は、迷いのない声だった。 その背中は、さっき一瞬傾きかけたことを感じさせないくらい、まっすぐだった。
だが、使いの目には、その直線の中に、新しい脆さの線が一本、はっきり見えてしまっていた。ここから山小屋までの道も、それ以降の人生も、その細い線の上に全部載っている。 自分がこの人をどう扱うか。 それは、「人助け」という言葉で括れる域を、もう超えはじめていた。
山の中でたまたま出会った誰かを助ける、という話ではない。降りられない高みに登ってしまった誰かを、このままここで看取るのか、それともどこか別の高さへ連れて行くのか。そのどちらを選ぶのかで、自分の「登り方」も変わる。 使いは、シェルパの斜め後ろに立ち、崩れた斜面に背を向けた。 山小屋まで戻る道は、来るときと同じ長さのはずなのに、少し違って見えた。
土のひびの一本一本、石の角の尖り方、木の根の露出具合。その全部が、さっきよりも鋭く目に飛び込んでくる。ここで足を滑らせれば、この人はもう二度と立ち上がらないかもしれない、という想像が、その全てにくっついて離れなかった。 背中のつぎはぎの翼に、斜面から吹き上げる風が当たる。 わずかな浮力が、肩を押し上げる。
自分だけなら、この風を使って、もう少し高いところへ逃げることができるだろう。それをしないで、誰かの腕を掴むことを選んだ瞬間から、「どう扱うか」の選択は、もう始まってしまっていた。
夜の山小屋は、昼間よりも狭く感じられた。 ストーブの火は落とされ、炉の中には赤いものはもう残っていない。
代わりに、鉄の壁がわずかに蓄えた熱を、ゆっくりと放っているだけだ。部屋の冷たさは、外ほどではないが、じっとしていれば指先から染み込んでくる。 ランプがひとつ、机の上に置かれていた。 いつものように、シェルパが芯を短く切り、火を絞ってある。
炎は小さく、ガラスに薄い煤を積もらせながら揺れている。光の輪は、机と寝台の半分と、ストーブの側面までを辛うじて覆っていた。その外側は、すべて同じ濃さの影だった。 使いは、寝台に座っていた。 背中を壁にもたせかけ、膝を立て、両手を組んでいる。
布の下で、つぎはぎの翼が、今日一日の疲れを抱えたまま動かずにいる。外の冷えた空気よりも、部屋の中の静けさの方が、胸の奥に重く残っていた。 上に戻ること。
ここに残ること。 言葉にしてみれば、それだけだ。
選択肢の数で言えば、たった二つ。どちらかを選べばいい。高みにいたころなら、それは命令として降りてきていたはずだ。「行け」とか「留まれ」とか。自分で考え、迷い、決める必要はなかった。 今は、何も降ってこない。 主は沈黙している。
それは、ここへ落ちてきてから一度も変わっていない。命令が途切れたのか、自分が届かない場所に来てしまったのか、そのどちらなのかも分からない。ただ、「聞こえない」という事実だけが、毎晩同じ場所に座るたびに、静かに積もっていく。 使いは、組んだ手をほどき、膝の上に置いた。 目を閉じる。
高みにいたころの癖で、「呼びかける」姿勢だけは身体がまだ覚えている。胸の奥の、どこか決まった場所に意識を向け、そこから上へ細い糸を伸ばすように、言葉になる前のものを押し上げる。 主よ。 口に出せば、簡単な呼びかけのひとつだ。
だが、声にする前に、その呼びかけは胸の内側で滞った。高みにいたころなら、その言葉にすぐ返ってくる感覚があった。言葉そのものではない、圧のようなもの。自分の外側から、形の決まった命令が流れ込んできた。 今は、何もない。 空気の温度も、胸の鼓動も、ランプの炎の揺れも、変わらない。
沈黙は、「返答しない」という意志なのか、そもそも届いていないからなのか。それを判断する術が、自分にはない。沈黙だけが、返答の代わりのように、部屋の中のあらゆる隙間を埋めていく。 (上に戻るべきか。ここに残るべきか) 言葉にすれば、祈りというより質問だ。 どちらが正しいかを教えてほしい。
どちらを選べば、自分の「役目」に近い方へ戻れるのか。落ちてきたこと自体が誤りなのか、それとも、落ちた先で何かをしろということなのか。そのくらいの説明があっても良さそうなものだ、と、どこかで思っている。 だが、沈黙は続いた。 外では、風がときどき木々を揺らしていた。
その音は、山小屋の壁を通して低く響き、ストーブの鉄をほんのわずかに鳴らした。ランプの炎も、そのたびに小さく揺れる。けれど、それはただの物理的な揺れでしかない。意味を持った「返事」の形には、どうしても見えない。 自分で決めろ、ということか。 そう解釈することはできる。
しかし、それが本当にそうなのか、それとも、自分が都合よく沈黙に意味を貼り付けているだけなのか。その判別もつかない。高みにいたころ、「自分で決める」という行為は、役目の範囲外だったからだ。 扉のあたりで、小さな音がした。 振り向くと、シェルパが戻ってきていた。
外で用足しをしていたのか、上着の肩に、少しだけ夜の湿り気が付いている。靴の裏には薄く土がつき、そのまま山小屋の土間に足跡をいくつか増やした。 「眠れないのか」 シェルパは、ランプの火を一度見てから、使いに目を向けた。 問いは、責めではなかった。
ただ、自分が寝台を使うかどうかを決めるための確認のようでもあった。彼自身も、簡単に眠りに落ちるタイプではない。昼間の疲れがあっても、夜の山が完全に静まるまでは、どこかで耳を澄ませている。 「……少し」 使いは、それだけ答えた。 本当は、「眠る前に決めておきたい」と思っていた。
上に戻るのか、ここに残るのか。考えるほど、どちらの方が怖いのかも分からなくなっていく。眠ってしまえば、そのあいだだけは選択が棚上げされる。でも、朝になれば、また同じ問いが目の前に降りてくる。 シェルパは、寝台ではなく、机のそばの木箱に腰を下ろした。 手の届くところにある水を一口飲み、喉を湿らせる。
ランプの光が、彼の顔の片側だけを照らした。皺の深さや、疲れの溜まり方が、その光と影の境目ではっきりする。昼間、斜面で足を滑らせかけたときの「軽さ」が、まだどこかに残っているようにも見えた。 「……主に、聞いていた」 使いは、視線を自分の手に落としながら言った。 シェルパは、その言葉に眉を少しだけ動かした。 「答えは?」 「ない」 短い答えだった。
何も聞こえない。何も降りてこない。沈黙だけがある。そう続けようとして、口を閉じた。説明すればするほど、自分が自分に言い訳しているような感覚が強くなる。 シェルパは、少しだけ笑った。 笑いというより、息の出方が変わっただけだ。
それでも、口元の線がほんの僅かに緩んだ。誰かが高いところに向かって問いを投げ、返ってくるはずのものを待ち続ける姿に、見覚えでもあるのかもしれない。 「俺も、昔、似たようなことをした」 思い出した、というより、つい口をついたような調子だった。 「ここに残るか、戻るかで」 使いは、顔を上げた。 シェルパは、机の上に手を伸ばし、そこに置いてあった金属の輪を指で弄んだ。
古い鍵のようにも見えるそれは、実際には、どこかのロッカーについていたものらしい。番号の刻印が、かすかに読める。山小屋の扉には使われていない鍵だ。 「親のところに戻るか。街に下りて、別の仕事をするか。ここに残るか」 彼は、鍵の輪をくるくると回しながら続けた。 「いちど、全部考えたことがある」 いつの話なのかは、言わなかった。
若いころかもしれないし、観光客が減り始めたころかもしれない。親がまだ健在だったのかどうか、それも分からない。断片だけが、ランプの光の中に浮かんでいる。 「聞いたか?」 使いがそう問うと、シェルパは少し首を傾げた。 「何に」 「主か、誰かか。戻れとか、残れとか」 問いながら、自分がどこかで「同じ答え」を期待していることに気づいた。 シェルパは、鍵を回す手を止めた。 「……風は吹いてた」 それだけ言った。 風の音なら、いつだって吹いている。
山の上にも、森の中にも、谷の底にも。そこに意味を見つけようとする人間もいれば、ただ寒いと感じるだけの人間もいる。彼がそのとき、どちら側だったのかを説明する気配はなかった。 「誰かが言ったわけじゃない」 彼は、鍵を机の上に戻した。 「戻れと言う奴もいたし、残れと言う奴もいた」 町で働いていた誰かか、同じ山で働いていた先輩か。
親か、客か、行政の人間か。いくつもの声が、同時に違う方向を指していたのだろう。「ここで終わりにしろ」「一度下りてから考えろ」「まだやれる」。そのどれもが、同じくらい本気で、同じくらい勝手だった。 「で、どうした」 使いの問いは、その先を予測していなかった。 シェルパは、少し肩をすくめた。 「そのまま、ここにいた」 それだけだ。 何か決定的な出来事があったわけでも、啓示のようなものが降ってきたわけでもない。
翌朝、いつもの時間に起きて、いつものように道具を持って、山道に出た。そうしているうちに、「残る」が「決めたこと」ではなく、「そうしてしまったこと」になっていった。その経緯が、彼の声の中に薄く滲んでいた。 「正しかったか?」 使いは、自分でもなぜそんな問いを投げたのか分からなかった。 シェルパは、少し考えるふりをした。 ランプの炎が、彼の顔の影をゆっくり動かす。
額の皺が深くなり、口元の線がわずかに曲がる。その変化は、答えを探しているというより、「どちらとも言えない」をどう言うか迷っているように見えた。 「……ここで死ぬなら、そういうもんなんだろうと思ってる」 それが、一番近い言葉だった。 正しい、と言うには、あまりに小さな結果だ。
間違いだった、と言うには、ここまで生きてきた時間が長すぎる。「仕方なかった」と言い切るには、自分で選んだ部分が多すぎる。それらのどれにも寄り切れずに、結局「そういうもん」としか言いようがない。 「戻ってたら、どうなってたと思う?」 使いの問いは、少し子供じみて聞こえた。 シェルパは、目を細めた。 「さあな」 即答だった。 「多分、あんまり長くは持たなかったろうなとは思う」 街の空気の薄さか、人の多さか、仕事の速さか。
山で覚えたものは、街ではほとんど役に立たない。体力も、方向感覚も、天気の読み方も。声を張り上げる場所も違う。そこに適応できるかどうかを考えたとき、自分は「多分、駄目だ」と思った。 けれど、「駄目だからやめた」と言い切るのも、どこか違う。 「怖かったのもある」 ぽつりと、言葉が継ぎ足された。 「下に行って、『ただの人』になるのが」 昼間、ふもとの明かりを見下ろしたときと、同じ言葉だった。 山の上にいれば、「案内する人」「シェルパ」という名前がある。
街に降りれば、それは消える。別の名前がつくかもしれないし、名前さえつかないまま、どこかの一部として消えていくかもしれない。その怖さが、足を縛った。 「残ったからって、何か大層な意味があるとも思ってない」 彼は、そう付け足した。 「たまたま、ここで老けてるだけだ」 その言い方には、自分を笑おうとする気配と、それでも完全には笑いきれない現実が混ざっていた。
登った高さを証明するような勲章もなければ、「山を守った」という物語もない。あるのは、崩れた道に打った杭と、拭った看板と、案内した人々の記憶だけだ。その記憶も、相手が忘れれば、あっさり途切れる。 使いは、膝の上の手を見つめた。 上に戻れば、また「使い」になれるかもしれない。
命令を受け取り、届けるだけの役目に戻ることができるかもしれない。そこで「ただの何か」に戻るのか、「かつての自分」に戻るのか、想像はつかない。それでも、「戻る」という言葉には、どこか安心に似た響きがある。 ここに残れば、この山の中で、「誰かのそばにいる者」として生きることになる。 降りられない人間の隣で。
降りたら死ぬ人間の足元を見ながら。
それが「人助け」なのか、「逃げ」なのか、「居場所選び」なのか、自分でも分からない。 「降りられる者と、降りられない者に……意味は、あるのか」 思ったままの言葉が、口から出た。 問いをどこに投げているのか、自分でも分からなかった。
主にか。
シェルパにか。
自分自身にか。
あるいは、この山全体にかもしれない。 部屋の中に、一瞬、沈黙が沈んだ。 ランプの炎が小さく揺れ、ストーブの鉄が微かに鳴る。
外では、風が木々を擦り合わせる音を立てている。耳を澄ませば澄ますほど、どの音もただ「音」でしかないことがはっきりする。そこに、答えはついてこない。 シェルパは、少しだけ目を細めて、使いの顔を見た。 「分からん」 それだけだった。 「降りられないから偉いとも思わないし、降りられるから卑怯とも思わない」 言葉は、ゆっくりだった。 「山に残った奴は、ただ残っただけだ」 「上に戻る奴は?」 使いの問いに、シェルパは肩をすくめた。 「戻れるなら、それもそいつの高さだろ」 それ以上、整理しようとはしなかった。
「高さ」という言葉をきれいに定義するつもりもない。山の標識も、空の高さも、心の中のバベルも。全部、少しずつずれていて、たぶん最後まで一つの線にはならない。 「お前が上に戻るかどうかにも、俺は口を出せない」 彼は続けた。 「ここにいてほしいかって聞かれたら……」 そこまで言って、一度口を閉じた。 正直に言えば、「いてほしい」のだろう。
崩れた道で腕を掴んでくれた者として。
山の揺れを一緒に受けてくれる者として。
ただの話し相手として。
しかし、それをそのまま言ってしまえば、それ自体が相手の足を縛ることになる。それを理解しているからこそ、言葉は途中で飲み込まれた。 「……どっちにしても、山は揺れる」 代わりに出てきたのは、それだけだった。 「お前が上にいても、ここにいても」 山は揺れる。
道は崩れる。
熊は巣を作り、羽は巣材になり、またどこかへ流れていく。
誰が残ろうと、誰が降りようと、山の揺れには関係がない。そこに意味を見つけるのは、人間の側の事情だ。 使いは、天井を見上げた。 板の隙間から星が見えるわけではない。
ただ、そこに「上」があることだけは分かる。高みにいたころ、その「上」はもっと遠かった。今は、手を伸ばせば、天井までの距離だけは測れる。そこから先の距離は、相変わらず分からない。 主は、何も言わない。 沈黙は、答えがないことを示しているのか。
答えが有り過ぎて、一つに絞れないことを示しているのか。
それとも、本当に何も見ていないのか。
どの可能性も、同じくらい霧に包まれている。 「……分からないまま選ぶのか」 呟いた言葉は、祈りでも宣言でもなかった。 シェルパは、それには答えなかった。 机の上の鍵を、もう一度指先でつまむ。
そのまま、手の中で転がし、音を立てないように机の隅に戻す。それは、「戻らなかった扉」の鍵だ。どこの鍵だったのか、もう本人も覚えていないのかもしれない。 ランプの火が、少しだけ小さくなった。 油が減っている。
芯を上げれば、もう少しもつかもしれないが、誰も手を伸ばさなかった。このくらいの暗さで十分だ、と、なんとなく二人とも思っている。 夜は長くもなく、短くもなく、ただ行き過ぎていく。 上へ戻る道も、下へ降りる道も、山のどこかにはある。
ここに残る道も、山小屋の床の下に伸びているような気がする。
どれを選んでも、「これは正しかった」と言い切れる日はこないかもしれない。 答えのないまま、山は静かに揺れ続ける。
その揺れの上で、片翼の使いと、降りられないシェルパは、同じ小さな小屋の中で、それぞれの沈黙を抱えたまま夜を過ごしていた。
季節が、半歩だけ進んでいた。 山小屋の前の地面には、前より柔らかい緑が混じっている。
雪が残っていた斜面の白はすっかり消え、いつの間にか低い草が土の上を埋め始めていた。木々の枝には、小さな葉が増えている。まだ濃い緑にはなり切れず、光を通す薄さのまま、風が吹くたびに一斉に揺れていた。 朝と昼の境は、以前よりも長い。
冷たい時間と暖かい時間の差がゆるみ、山の空気は、肌に触れてもすぐには刺さらなくなっていた。それでも、日が落ちたあとの冷えはそこそこ厳しい。山は、完全に季節を渡しきったわけではない。 使いの背中には、相変わらず、つぎはぎの翼があった。 ただ、その形は、最初に枝と紐で組んだころとは少し違っている。
いくつかの羽は新しく結び直され、傷の激しかったものは外されていた。熊の巣から拾った羽と、森の鳥からの落とし物と、自分の羽の名残と。それらが、前よりも自然な並びで肩から伸びている。 完全には埋まっていない隙間が、まだいくつかある。 翼全体を広げると、その空隙に、風がそのまま抜けていく。
空気の重さを面で受け止めるには、少し足りない。かといって、「ただの飾り」と呼ぶには、十分すぎる浮きを持っていた。少し走れば、少しだけ浮ける。高みに戻るには、明らかに足りない。境界の上に、意図的に留まっているような状態だった。 日中、使いはそれを使って、斜面を軽く駆け上がることがあった。 崩れた道の脇を渡るときや、石の多い場所を越えるとき。
ふいに足場を失いかけても、つぎはぎの翼が一度空気を掴めば、そのまま転がり落ちることはない。高く飛ぶのではなく、「落ち方を遅らせる」ためだけの翼。そんな使い方が、身体に馴染み始めていた。 高みに向かうための翼を、全力で復元しようとすれば、もう少しやりようはあったかもしれない。 森のさらに奥へ入れば、もっと羽は拾えた。
谷の底まで降りて行けば、流れ着いた欠片が見つかるかもしれない。誰かが置いていった布や、街から持ち込まれた道具を探せば、別の補強材も見つかる。けれど、使いはそこまでして形を整えようとはしなかった。 「飛べる」と言い切れるほどには戻さず、「飛べない」と諦めるほどには壊していない。 その曖昧さを、意図的に維持しているのかどうか。
本人も、はっきりとは考えていないようだった。ただ、朝起きて羽を整えるとき、抜けかけた一本を縫い直すことはしても、「足りない部分」を埋める作業だけは、どこかで手を止めてしまう。 シェルパは、相変わらず山を歩いていた。 崩落のあとに打った杭には、新しい印が増えた。
迂回路の細い踏み跡が、少しずつ太くなり、かつての道の跡は草に埋もれ始めている。展望台への道には、前よりも多くの枝が落ちていた。その枝を払うのも、彼の仕事のひとつだった。 案内する相手は、ほとんどいない。 たまに、ふもとの町から上がってくる人影がある。
彼らは以前のパンフレットを持っているわけでもなく、ただ「歩ける山」を求めてやってくる。シェルパは、必要最低限の言葉で道を示し、危ない箇所だけを簡単に伝える。頂上で写真を撮り、息を切らしながら戻ってくる人々は、彼の名前を覚えないことも多い。 それでも、彼は「案内人」の形を崩さなかった。 朝には道具を肩にかけ、決まった順で山を巡る。
崩れやすい場所を確かめ、古い看板の埃を拭い、ロープの緩みを直す。体力は前より確かに落ちている。階段を登るときの息の上がり具合も、膝の重さも、自分自身が一番よく知っていた。 山小屋に戻ってくると、使いがそこにいる。 彼は、シェルパの仕事を全部肩代わりすることはしなかった。
かといって、ただ見ているだけでもない。荷物を半分だけ持ち、危ない場所では先に足場を探し、時々、即席の翼を使って先回りし、上から崩れた枝を落とすこともあった。 どの行動にも、「ここに残る」とか「上に戻らない」といった宣言は結びついていない。 ただ、その日その場で、「した方がいい」と思った動きをしているだけだった。
それを積み重ねた先が、どちらの方向へ傾いていくのか。本人は、まだそこまで見通すような目を持ててはいなかった。 ある晩、二人は再び、ふもと側を見下ろす場所に立っていた。 かつて「首が痛くなるほど見上げられた」山、だった場所。
今は「中くらいの高さ」と言われても否定しづらい山。斜面の途中に開けたその場所からは、谷を挟んで町の灯りがよく見えた。 季節が変わり、町の光の色も少し違っている。 夕方の早い時間でも、すでに多くの灯りが点いていた。
日が沈む時間が遅くなったぶん、人々の生活のリズムも、わずかにずれているのかもしれない。道路を走る車の列は前よりも長く、遠くの方には、新しく増えたらしい光の固まりがひとつあった。何の建物かは、この距離からは分からない。 シェルパは、いつものように、ふもとの方を眺めていた。 肩にかけた袋は、すでに空だ。
今日の分の作業は終わっている。杖は手元にあるが、それを支えにしているわけではない。足の裏で土を感じながら、視線だけを遠くに投げている。 使いは、その少し後ろに立っていた。 背中の翼は、完全には畳まれていない。
風を測るために、羽の何枚かがわずかに開いている。ここからなら、助走をつけて少し飛び出し、そのまま斜面沿いに滑っていくことができるだろう。風の向きさえ良ければ、谷の上をもう少し長く浮くこともできる。 だが、彼は足を出さなかった。 ここから上に向かうことも、下へ滑り降りることも、どちらも「できない」わけではない。 翼は、以前より確かに働いている。
完全な二枚翼には程遠いが、「試みる」には十分な張りを持っていた。空の高みは、雲の上の高さは、まだ遠い。それでも、ここから少しでも上へ、山の稜線の外へ出ることは、もう不可能ではない。 山の上に残ることは、もっと簡単だった。 何もしなくても、朝が来ればまた山はそこにある。
山小屋の屋根も、ストーブも、机も、寝台も、変わらずに彼を迎える。シェルパは毎朝起きて、道具を持って山に出るだろう。そこに混じって一日を過ごすことは、今までどおりの延長線だ。 どちらかを選ぶ瞬間が、目に見える形で訪れるわけではない。 ただ、選ばない時間が、少しずつ積もっていく。
「今夜はまだここにいる」と思うこと。
「明日も様子を見てから考える」と思うこと。
その繰り返しが、「ここに残る」なのか、「上に戻る勇気がない」なのか。言葉を貼ろうとすれば、どちらのラベルも、同じくらいすんなりと貼りついてしまいそうだった。 ふもとの町の上に、星がいくつか見え始めていた。 空の色は、ゆっくりと濃くなっていく。
山の稜線は、前に見たときと同じように黒い線となり、その上に夜の布がかぶさっていく。標識に書かれた「高山」の文字は、ここからは見えない。それでも、その名前がまだどこかに立っていることくらいは、二人とも知っていた。 シェルパは、遠くの光から目を離さなかった。 そこに何を見ているかは、外からは分からない。 若いころ見上げた山の姿を思い出しているのか。
戻らなかった街の、変わったであろう風景を思い浮かべているのか。
ただ、「あそこまで歩けば一日はかかる」という距離感だけを測っているのか。顔には、どの答えもはっきりとは浮かんでこない。 使いも、同じ方向を眺めていた。 町の明かりと、その上に散り始めた星々と。
もし上へ戻るなら、この山のさらに上へ、そのまた先へと、視線も身体も伸びていくことになる。もしここに残るなら、この光と、この暗さと、この高さを、「自分の場所」として受け入れることになる。 そのどちらを思い描いているのかは、やはり外からは分からない。 背中の翼は、風を掴める形のまま、静かに揺れている。
今にも跳び出しそうにも見えるし、永遠に地面から離れない約束をしているようにも見える。翼の持ち主自身、そのどちらとして扱うのかを、まだ決めていなかった。 風が、ふもとの町から吹き上げてきた。 山の斜面をなぞり、二人の足元を過ぎ、背中の羽と上着の裾を同時に揺らす。
同じ風が、町の通りを抜け、別の誰かの髪や衣服も揺らしているはずだった。そのことを、ここから確かめることはできない。 シェルパは、杖の位置を少しだけ踏み直した。 倒れないための動きなのか、そこに立ち続けるための動きなのか。
山にしがみついているようにも、ここを選び続けているようにも、どちらにも見えた。彼自身、その違いを線で引き分けるほど器用な生き方はしていない。 使いは、そっと片足を前に出し、また戻した。 その一歩が、「上へ向かう助走」なのか、「ただの体重移動」なのか。
誰かに問われれば、自分でも答えに詰まるだろう。主が沈黙を続ける以上、その一歩に「意味」を与えるのは、自分たちしかいない。それでも、意味を決めるには、まだ胸の奥の何かが固まりきっていなかった。 町の明かりは、時間とともに増えたり減ったりしている。 空の星の数も、雲の流れに合わせて見えたり隠れたりする。
山の高さは、すぐには変わらない。けれど、揺れればまた少し削れ、やがて別の形になる。それまでのあいだ、この場所は「高山」と呼ばれたり、「中くらい」と言われたりしながら、細い稜線の上に立ち続ける。 二人は、しばらく同じ方向を見ていた。 何も話さなかった。
言葉は、別に禁じられているわけではない。ただ、「今ここでこれを言えば、何かが決まってしまう」と感じる類いの言葉ほど、口の中で重くなり、外へ出る前に沈んでいった。 空は、ゆっくりと夜になった。 山の影はひとつの塊にまとまり、町の光だけが、谷の向こう側で点々と浮かんでいる。
その光を、「いつか降りていく場所」と見るか、「二度と触れないところ」と見るか。「ここから見ているだけでいい」と思うか、「ここにいては駄目だ」と思うか。どの見方も、この場所では同じだけの重さを持っていた。 やがて、シェルパが先に、山小屋の方へ身体を向けた。 使いも、少し遅れてその後を追う。 誰も、「今日もここに残る」とは言わなかった。
誰も、「明日こそ上へ行く」とも、「明日こそ下りる」とも口にしなかった。ただ、次の一歩をどちらへ出すかを、その夜にはまだ決めないまま、小屋への道を辿った。 山は、その背中を見送ることもなく、暗くそこにあるだけだった。
揺れるかもしれないし、揺れないままかもしれない。その不確かさの上で、片翼の使いと、降りられない案内人は、同じ小さな小屋の中で、それぞれの「まだ決めていないもの」を抱えたまま、同じ高さへ戻っていった。




