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真珠のコルヌコピア  作者: 猫目石琥珀
飼い犬の回想譚
9/22

4話 雨に打たれた花は摘まれて

 それはご領主さまが、王宮の議会へ出席なさって城に不在だった折。

 ペトロニラが跡取りであるエドマンドさまに対して、恐ろしいほど無礼な言葉を吐いたそうだ。

 伝え聞くところによれば、「騎士にもなれん貧弱なんだから、もっとラテン語に身を入れたらどうなんだい」という内容を面と向かって言ってしまったらしい。もっとひどい言い草で。

 ご本人も病弱さを気に病んでいただろうに、ペトロニラは惨い事実を言い放ったのだ。

 むろん跡取りの若君に対して、暴言が許されるはずもない。

 特に若君の祖母である大奥さまは、怒りに震えていた。さらにペトロニラを苦々しく思っていた侍医や乳母、こき下ろされて腹に据えかねている連中が結託して、重い処罰を望んだのだ。

 ペトロニラは鞭打たれて、牢に入れられる。

 それを耳にした奥方は、信頼していたペトロニラが傍から離れてしまって動揺した。

 ペトロニラの煎じた薬用シロップや按摩のおかげで、心も体も落ち着いていたのだ。ペトロニラ無しでの出産など、もう想像もつかないのだろう。

 侍女たちが宥めたが、奥方の動揺は大きかった。

 その夜、奥方は早産した。

 血がざんざんと流れ、どれほどシーツを取り換えても赤く染まった。母はもはや爪から二度と血が取れぬと思ったほど、出血は並外れて酷かったらしい。

 奥方はウェディング・ガウンを被ることなく天に召され、地上に残ったのは赤ん坊だけだった。

 とはいえ月満ちぬうちに産まれた赤ん坊は、哀れなほど小さく、泣き声も弱々しく、肌は呪わしいほど黄ばんでいた。乳母として呼ばれた婦人の乳も吸わず、砂が零れ落ちるように窶れていく。

 母親の元に昇るのは遠くないだろうと侍医は見立て、司祭は洗礼を施す。

 鞭打たれて呻きもしなかったペトロニラは、奥方の訃報に泣き叫んだ。

「奥方さま! お優しい奥方さま! ああ、ああ、あたしは八つ裂きになっても構やしないから、赤ん坊を見させてくれ! 赤ん坊の生きる手助けができれば、縛り首の台にだって駆け上がってやる!」

 侍医や司祭が匙を投げた赤ん坊を、ペトロニラは必死で看病した。

 大寝室にありったけの薬草を敷き、香を燻らせ、鵞鳥の脂で作ったセージ軟膏を胸に擦りこみ、温めたおくるみ布(スワドル)で包む。

 俺は必死に薬草を刈って、ペトロニラに渡す。母も指示に従って赤ん坊を育てた。

 ご領主さまが帰還された時には、赤ん坊はか弱くとも乳を含むほどになっていた。




 赤ん坊が生き永らえたのはペトロニラのお陰なのに、本人は皺の深い顔をしわくちゃにして泣いていた。

 金壺眼からこれほど涙が溢れるなど、誰が思っただろう。

「ご領主さま。母子ともに無事に取り上げると誓っておいて、奥方さまを亡くしてしまった。どうか縛り首にしておくれよ」

 張り裂けんばかりの嘆きを、ご領主さまは静かに受けとめておられた。

 ご領主さまは四十路をいくつか越えたお方で、樫めいた風合いの髪と髭と瞳、そして威厳を宿していらっしゃる。それほど大柄ではないにも関わらず、並々ならぬ威厳がご領主さまを大きく見せていた。

 まさにこの領地に根付いた樫の大樹エバーグリーン・オークの如き偉大さだった。

「ペトロニラよ。生き死には神の御心。どうしようもできぬ運命を、そなたが気に病んでならぬ。人の身に余るほど悔いるは、神に対して傲慢でさえある。第一、そなたがいなくば、末息子を誰が見るというのかね」

 樫色の瞳に哀しみは含んでいたが、怒りはなかった。

 ご領主さまはペトロニラを罰しなかった。

 末のご子息はエドガーと名付けられ、ペトロニラは献身的に世話を焼く。

 エドガーさまはいつも乳痂に塗れ、発疹や発熱を繰り返したが、ペトロニラがアルム石を粉にして肌に振ったり、薬湯を煎じたりと、寝る間も惜しんで育てた。

 そして下働きだった母は、身なりにも気遣うようになった。

 ご領主さまがエドガーさまの健康を知りたくとも、ペトロニラは気性の激しい老婆だ。会話するに疲れる。エドガーさまの乳母はペトロニラを怖がって近づかない。

 問いかけが母に向けられたのは、必然だった。

 ご領主さまの御前で喋らなくてはいけないため、母は立ち振る舞いや言葉遣い、身支度に隅々まで心を配るようになった。若君を洗った残り湯で身を整えた母は、ほのかに花の香りを纏うようになる。

 労働に明け暮れていたせいで気づかなかったが、身なりを整えた母は美しかった。

 俺は嫌だった。

 母親を嫌いになったわけではない。

 城の男やもめたちが嫌だったのだ。母を舐るような目付きや、呼び捨てにされる母の名前が耳に触れるのが嫌でたまらなかった。よくある名前なら素通りもできるだろうが、メアリなんて名前、城にいない。

 以前、森で母が見知らぬ男たちに服を剥がされかけた。

 今ではあれが、服が目当ての追いはぎでなかったと理解している。

 ペトロニラが最初から居たと偽った理由も、察していた。

 未遂ではなかったと勘繰られるのを防いだのだ。母さん名誉のために。

 母さんが美しくなったって、いい事なんてひとつもない。

 もう綺麗にならないで。

 苦しくなるくらい祈っても、母は日に日に洗練されていった。



 

 ある夕べ、母は上機嫌で新しい布を抱えてきた。 

「ジェイデン、新しい脚衣よ。縫い上がったから履いてみて」

 触らずとも分かるくらい上等な麻だった。紡ぎも織りも別格で、縫い目も細やかだ。

 ペトロニラは気前がいいけど、これほど上等な麻はくれないだろう。

「母さん。こんな上等な麻、どうしたの?」

「頑張って働いたのよ」

 母は曖昧に微笑んだ。

 麻布のヴェール(ウィンプル)を留めているピンが、きらりと輝いた。反射に視線を促されてよく目を凝らせば、ピンには紫色の小さな石が填められていた。葡萄の雫みたいな石だ。

 あんな綺麗なピンは持っていなかった。

 石を眺めていると、ペトロニラがやってくる。ひどい仏頂面だ。

「メアリ、ご領主さまがお夜食をご希望だよ。香辛の葡萄酒(イポクラス)を作るから運びな」

 小声で命じる。

 本当だったら大人は一日二食、正餐と夕餉だけだ。

 夜食は悪しき習慣とはいえ、ご領主さまはご多忙であらせられる。裁判や巡視で休まれるのが遅くなる日は珍しくない。城付き司祭にも、日が落ちてからの食事を咎められなかった。

 だから母は週に何度か、ペトロニラ特製の香辛の葡萄酒(イポクラス)をご領主さまの元に運んでいた。蜂蜜と香辛料がたっぷり入って、精のつく飲み物だ。

 母は躊躇いがちに頷いた後、しばし黙っていた。

 俺に微笑みかける。

「………ジェイデンはもう休んでいいわ。わたしは仕事をしてから休むから」

「手伝うよ」

 一瞬だけ、母の瞳が逸らされた。

 長い睫毛が瞳に翳りを描く。

「ありがとう、ジェイデン。いつも助かるわ。でも出来るなら早起きして、ペトロニラを手伝ってあげて。わたしの仕事は大したことはないのよ。ええ、ほんとうに……大したことじゃないの」

 か細く囁いて、俺を藁布団へと誘った。





 ………そうして一年も経たぬうちに、母の腹が膨れた。


 奥方を亡くされたご領主が、慰めを俺の母に見出したのだ。大寝室で過ごされる独りの夜に耐えられなかったのか、ただの気まぐれか。

 俺にとって母は母だった。

 だが世間からすれば、二十一歳の美しい未亡人だった。

 どれだけ美しくても所詮、農奴に過ぎない。

 孕み女など打ち捨てられるだろう。

 母と、そして生まれてくるであろう弟か妹の面倒を、俺が見なければいけない。

 そう決意したのだが、ご領主さまは母を打ち捨てはせず、気を回して下さった。ペトロニラを介して、滋養の富む蜂蜜や砂糖、ナツメヤシのドライフルーツ、清潔な亜麻やエジプト綿が下賜された。

「こんな素晴らしい綿。お前の肌着を縫おうか」

「だめだよ、母さん。勝手にそんなことして、ご領主さまの勘気を蒙ったらどうするんだよ」

「そんな。あのお方に悪く思われる振る舞いなど、出来ようはずがない。城で生きてはいけないわ。いえ、村でも生きていけない……」

 身を縮めて、膨れた腹を抱き締める。

 少なくともご領主さまは母を愛していたのだろう。

 未亡人が子を産むことに、司祭が良い顔をするはずがない。それゆえにご領主さまは自ら司祭に出向き、懺悔をし、贖罪に甘んじた。数日の断食によって、母が世間からも教会からも咎めらぬようにして下さったのだ。

 いったいどこの領主が、ただの農奴の女のために断食をするだろうか。

 だが母がご領主をどう思っているのか伺い知れなかった。城で暮らすため耐えているのか、それとも思慕はあるのか。疑問が喉まで燻っていたが、実の親子だからこそ問うのも憚られた。

「……お前に申し訳ないわ」

 母は項垂れる。

 物憂げな横顔からは、雨に打たれた百合の香りがしていた。

 




 ご領主さまより篤い配慮を賜り、ペトロニラの献身的な世話もあって、母は無事に男の子を産んだ。

 ジョンと名付けられた。


 俺の異父弟のジョンは茶髪で、瞳は森林。

 若君のエドガーさまは金髪で、瞳は大空。

 だが恐れ多い事に、色彩以外はそっくりだった。


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