4話 雨に打たれた花は摘まれて
それはご領主さまが、王宮の議会へ出席なさって城に不在だった折。
ペトロニラが跡取りであるエドマンドさまに対して、恐ろしいほど無礼な言葉を吐いたそうだ。
伝え聞くところによれば、「騎士にもなれん貧弱なんだから、もっとラテン語に身を入れたらどうなんだい」という内容を面と向かって言ってしまったらしい。もっとひどい言い草で。
ご本人も病弱さを気に病んでいただろうに、ペトロニラは惨い事実を言い放ったのだ。
むろん跡取りの若君に対して、暴言が許されるはずもない。
特に若君の祖母である大奥さまは、怒りに震えていた。さらにペトロニラを苦々しく思っていた侍医や乳母、こき下ろされて腹に据えかねている連中が結託して、重い処罰を望んだのだ。
ペトロニラは鞭打たれて、牢に入れられる。
それを耳にした奥方は、信頼していたペトロニラが傍から離れてしまって動揺した。
ペトロニラの煎じた薬用シロップや按摩のおかげで、心も体も落ち着いていたのだ。ペトロニラ無しでの出産など、もう想像もつかないのだろう。
侍女たちが宥めたが、奥方の動揺は大きかった。
その夜、奥方は早産した。
血がざんざんと流れ、どれほどシーツを取り換えても赤く染まった。母はもはや爪から二度と血が取れぬと思ったほど、出血は並外れて酷かったらしい。
奥方はウェディング・ガウンを被ることなく天に召され、地上に残ったのは赤ん坊だけだった。
とはいえ月満ちぬうちに産まれた赤ん坊は、哀れなほど小さく、泣き声も弱々しく、肌は呪わしいほど黄ばんでいた。乳母として呼ばれた婦人の乳も吸わず、砂が零れ落ちるように窶れていく。
母親の元に昇るのは遠くないだろうと侍医は見立て、司祭は洗礼を施す。
鞭打たれて呻きもしなかったペトロニラは、奥方の訃報に泣き叫んだ。
「奥方さま! お優しい奥方さま! ああ、ああ、あたしは八つ裂きになっても構やしないから、赤ん坊を見させてくれ! 赤ん坊の生きる手助けができれば、縛り首の台にだって駆け上がってやる!」
侍医や司祭が匙を投げた赤ん坊を、ペトロニラは必死で看病した。
大寝室にありったけの薬草を敷き、香を燻らせ、鵞鳥の脂で作ったセージ軟膏を胸に擦りこみ、温めたおくるみ布で包む。
俺は必死に薬草を刈って、ペトロニラに渡す。母も指示に従って赤ん坊を育てた。
ご領主さまが帰還された時には、赤ん坊はか弱くとも乳を含むほどになっていた。
赤ん坊が生き永らえたのはペトロニラのお陰なのに、本人は皺の深い顔をしわくちゃにして泣いていた。
金壺眼からこれほど涙が溢れるなど、誰が思っただろう。
「ご領主さま。母子ともに無事に取り上げると誓っておいて、奥方さまを亡くしてしまった。どうか縛り首にしておくれよ」
張り裂けんばかりの嘆きを、ご領主さまは静かに受けとめておられた。
ご領主さまは四十路をいくつか越えたお方で、樫めいた風合いの髪と髭と瞳、そして威厳を宿していらっしゃる。それほど大柄ではないにも関わらず、並々ならぬ威厳がご領主さまを大きく見せていた。
まさにこの領地に根付いた樫の大樹の如き偉大さだった。
「ペトロニラよ。生き死には神の御心。どうしようもできぬ運命を、そなたが気に病んでならぬ。人の身に余るほど悔いるは、神に対して傲慢でさえある。第一、そなたがいなくば、末息子を誰が見るというのかね」
樫色の瞳に哀しみは含んでいたが、怒りはなかった。
ご領主さまはペトロニラを罰しなかった。
末のご子息はエドガーと名付けられ、ペトロニラは献身的に世話を焼く。
エドガーさまはいつも乳痂に塗れ、発疹や発熱を繰り返したが、ペトロニラがアルム石を粉にして肌に振ったり、薬湯を煎じたりと、寝る間も惜しんで育てた。
そして下働きだった母は、身なりにも気遣うようになった。
ご領主さまがエドガーさまの健康を知りたくとも、ペトロニラは気性の激しい老婆だ。会話するに疲れる。エドガーさまの乳母はペトロニラを怖がって近づかない。
問いかけが母に向けられたのは、必然だった。
ご領主さまの御前で喋らなくてはいけないため、母は立ち振る舞いや言葉遣い、身支度に隅々まで心を配るようになった。若君を洗った残り湯で身を整えた母は、ほのかに花の香りを纏うようになる。
労働に明け暮れていたせいで気づかなかったが、身なりを整えた母は美しかった。
俺は嫌だった。
母親を嫌いになったわけではない。
城の男やもめたちが嫌だったのだ。母を舐るような目付きや、呼び捨てにされる母の名前が耳に触れるのが嫌でたまらなかった。よくある名前なら素通りもできるだろうが、メアリなんて名前、城にいない。
以前、森で母が見知らぬ男たちに服を剥がされかけた。
今ではあれが、服が目当ての追いはぎでなかったと理解している。
ペトロニラが最初から居たと偽った理由も、察していた。
未遂ではなかったと勘繰られるのを防いだのだ。母さん名誉のために。
母さんが美しくなったって、いい事なんてひとつもない。
もう綺麗にならないで。
苦しくなるくらい祈っても、母は日に日に洗練されていった。
ある夕べ、母は上機嫌で新しい布を抱えてきた。
「ジェイデン、新しい脚衣よ。縫い上がったから履いてみて」
触らずとも分かるくらい上等な麻だった。紡ぎも織りも別格で、縫い目も細やかだ。
ペトロニラは気前がいいけど、これほど上等な麻はくれないだろう。
「母さん。こんな上等な麻、どうしたの?」
「頑張って働いたのよ」
母は曖昧に微笑んだ。
麻布のヴェールを留めているピンが、きらりと輝いた。反射に視線を促されてよく目を凝らせば、ピンには紫色の小さな石が填められていた。葡萄の雫みたいな石だ。
あんな綺麗なピンは持っていなかった。
石を眺めていると、ペトロニラがやってくる。ひどい仏頂面だ。
「メアリ、ご領主さまがお夜食をご希望だよ。香辛の葡萄酒を作るから運びな」
小声で命じる。
本当だったら大人は一日二食、正餐と夕餉だけだ。
夜食は悪しき習慣とはいえ、ご領主さまはご多忙であらせられる。裁判や巡視で休まれるのが遅くなる日は珍しくない。城付き司祭にも、日が落ちてからの食事を咎められなかった。
だから母は週に何度か、ペトロニラ特製の香辛の葡萄酒をご領主さまの元に運んでいた。蜂蜜と香辛料がたっぷり入って、精のつく飲み物だ。
母は躊躇いがちに頷いた後、しばし黙っていた。
俺に微笑みかける。
「………ジェイデンはもう休んでいいわ。わたしは仕事をしてから休むから」
「手伝うよ」
一瞬だけ、母の瞳が逸らされた。
長い睫毛が瞳に翳りを描く。
「ありがとう、ジェイデン。いつも助かるわ。でも出来るなら早起きして、ペトロニラを手伝ってあげて。わたしの仕事は大したことはないのよ。ええ、ほんとうに……大したことじゃないの」
か細く囁いて、俺を藁布団へと誘った。
………そうして一年も経たぬうちに、母の腹が膨れた。
奥方を亡くされたご領主が、慰めを俺の母に見出したのだ。大寝室で過ごされる独りの夜に耐えられなかったのか、ただの気まぐれか。
俺にとって母は母だった。
だが世間からすれば、二十一歳の美しい未亡人だった。
どれだけ美しくても所詮、農奴に過ぎない。
孕み女など打ち捨てられるだろう。
母と、そして生まれてくるであろう弟か妹の面倒を、俺が見なければいけない。
そう決意したのだが、ご領主さまは母を打ち捨てはせず、気を回して下さった。ペトロニラを介して、滋養の富む蜂蜜や砂糖、ナツメヤシのドライフルーツ、清潔な亜麻やエジプト綿が下賜された。
「こんな素晴らしい綿。お前の肌着を縫おうか」
「だめだよ、母さん。勝手にそんなことして、ご領主さまの勘気を蒙ったらどうするんだよ」
「そんな。あのお方に悪く思われる振る舞いなど、出来ようはずがない。城で生きてはいけないわ。いえ、村でも生きていけない……」
身を縮めて、膨れた腹を抱き締める。
少なくともご領主さまは母を愛していたのだろう。
未亡人が子を産むことに、司祭が良い顔をするはずがない。それゆえにご領主さまは自ら司祭に出向き、懺悔をし、贖罪に甘んじた。数日の断食によって、母が世間からも教会からも咎めらぬようにして下さったのだ。
いったいどこの領主が、ただの農奴の女のために断食をするだろうか。
だが母がご領主をどう思っているのか伺い知れなかった。城で暮らすため耐えているのか、それとも思慕はあるのか。疑問が喉まで燻っていたが、実の親子だからこそ問うのも憚られた。
「……お前に申し訳ないわ」
母は項垂れる。
物憂げな横顔からは、雨に打たれた百合の香りがしていた。
ご領主さまより篤い配慮を賜り、ペトロニラの献身的な世話もあって、母は無事に男の子を産んだ。
ジョンと名付けられた。
俺の異父弟のジョンは茶髪で、瞳は森林。
若君のエドガーさまは金髪で、瞳は大空。
だが恐れ多い事に、色彩以外はそっくりだった。