3話 幸せは薬草園で咲いている
ご領主さまの治める土地は平和だが、病や傷の種はどこでも芽吹く。
ペトロニラは腕利きの薬師だった。
腹を壊した小姓や、煮炊きで火傷した女中。物見台から落ちて足が曲がった職人だって、ペトロニラは巧みに骨を接ぐ。
猪の牙に刺されて重傷の騎士が担ぎ込まれても、麻酔薬でたちまち眠りに沈ませて、傷を洗って絹糸で縫い留めていく。
ペトロニラの凄さを知るたび、ここで働けるのが楽しくなっていった。
進んで雑用を果たした。
アルム石を粉になるまで挽いたり、湿布用のキャベツを洗って芯を切ったり、鵞鳥を絞めて脂を取ったり、運んできた薪を薪架で乾かしたり、瓶を洗ったり、鍋をかき回しながら火の番をしたり、刈ってきたイグサの皮を剥いて脂に浸したり。
特に言いつけられなければ、薬草園の草むしりをする。
毎日毎日、夜が明ければ母さんと細々とした雑用を繰り返す。日が沈めば母さんと一緒に藁布団に入る。
俺はそれで幸せだった。
窓の隙間から差し込む太陽で目覚めた。
いつまでも藁に潜っていたら、ペトロニラの怒声と小枝が飛んでくる。寝ぼけ眼でチュニックに袖を通していると、母さんが手伝ってくれた。
大麦の煎じ湯を椀によそってくれる。
「ジェイデン。今日はペトロニラが卵を貰ってきてくれたのよ、パンもあるわ」
炉には黒パン。卵はきっと灰の下だろう。
灰から掘り起こし、熱が通った産みたて卵をナイフで割る。とろりとした黄金と黒パンを大麦の煎じ湯に入れ、ふやかして、ゆっくりと噛み締めて味わった。
おなかが膨れるのってなんて幸せなんだろう。それも美味しいもので膨らむのは最高だ。
「ペトロニラは優しいね。いつも美味しいものをくれる」
途端にペトロニラは鼻白んだ。わざとらしいほど盛大に。
「馬鹿。あたしは不潔なのと貧相な奴はぞっとするだけさ。汚れと弱りは瘴気に付け込まれる。いいかい、ジェイデン。いつも忘れず手洗いをして、たんと滋養をつけて、瘴気に冒されないようにするんだよ」
厳しい口調だったけど、俺は素直に頷いた。
「じゃあさっさと歯磨きしな」
歯を磨くなんて美容に気遣う貴婦人みたいで嫌だったけど、ペトロニラに言わせれば、歯の隙間につまった滓を取るためらしい。この滓をそのままにしておくと汚れになり、さらに瘴気を生み出して、息が臭くなったり歯が抜けたり歯茎が緩んだりするそうだ。
ペトロニラは息が臭い奴が嫌いだから、俺と母さんに朝晩、歯磨きをさせる。
イカの軟骨の粉末と焼いた塩に、刻んだ薄荷と薬用サルビアを練り込んだ塊。これをよく噛んでから、指で歯や歯茎を揉んだ。それから薬草の味がなくなるまで、湯冷ましで濯ぐ。
面倒くさい作業だけど、ここを追い出されたくはない。
「メアリは薔薇を摘んできておくれ。それが終わったら干した菫を広げて、水薬を仕込む支度をしとくんだよ」
母は頷いて、籠を手に取る。
「さ、ジェイデンはクサノオウの乳汁を集めとくれ。これは皮膚につくと爛れるから、こう指につかんように葉を千切って、壺に集めていくのさ」
「うん。これは何のお薬?」
「皮膚の薬だよ」
「爛れるのに?」
「皮膚が爛れるってことは、柔らかくなるってことでもあるからね。よく寝かせた豚脂と混ぜてイボに塗れば、柔らかくなって落ちるのさ。代官の尻のイボは手ごわいから、たくさん作っておかなくちゃね」
代官さまの尻にはイボがあるのか。
母は籠を持って薔薇園へ、俺は石壺を抱えて薬草園へ行く。
クサノオウは黄色い花を咲かせて、ぎざぎさの葉っぱを茂らせていた。いくらでも葉っぱを千切れる。
千切れば、すごく臭い黄色の汁がぶつぶつと溢れた。虫の卵みたいで気色悪い。直接、触らないように、慎重に壺に集めた。時間のかかる忍耐の作業だ。
乳汁で壺がいっぱいになったころ、遠くの回廊で行き交っている人々が見えた。
あれは侍医と、その助手たちだ。やたらと急ぎ足で、長いチュニックが足に絡まるんじゃないかって勢いだった。何を大急ぎで歩いているんだろう。
ペトロニラがやってきた。
「さ、湯冷ましだよ。飲みな」
乾ききった喉に、香りの爽やかな湯冷ましを流し込む。導水路の水をそのまま飲むと腹を壊すから、ペトロニラは林檎酢で香りをつけた湯冷ましを作ってくれる。
やっぱり優しい。
ペトロニラは怒りっぽいし乱暴だけど、ほんとは優しいって力の限り叫びたかった。
でもみんな知ってるのかもしれない。
だって何かあったら必ずペトロニラのところに駆け込むから。
「ねえ、ペトロニラ。みんなペトロニラを頼りにしているのに、どうして城に侍医がいるんだろ?」
書記たちは酷使した指の軟膏を貰いに訪れ、代官もイボの悩みを相談しにくる。ゴドフリー殿でさえ部下の騎士に何かあれば、担ぎ込むのはペトロニラのところだ。そもそも奥方の滋養薬を煎じているのはペトロニラだ。
侍医は一体なんの仕事をしているのか、不思議でたまらない。
「エドマンドの坊ちゃんを、付きっ切りで診ているのさ。貧弱でどうしようもない小僧だけど、跡取り息子だからね」
長男のエドマンドさま。
お目にかかったことはないけど、噂では甚だ蒲柳の質らしい。
俺と同じ五歳なのに赤ちゃんみたいに何一つ出来ず、朝から晩まで寝台で過ごしているそうだ。
「今日も具合を崩して、吐いたそうだよ。ちょっと気温が上がったり下がったりするだけで吐いて、天気が変わりそうなだけで頭痛で伏せっている。いつものことさ」
「ペトロニラはどうにか出来ないの?」
「まず寝床から追い出すね。部屋に籠り切りなのは最悪だ。澱みは瘴気になるからね。なるべく綺麗な空気と水に触れさせて、日差しの下で身体を鍛えて、生活を根本的に改めさせなきゃね。そうすりゃ騎士になれん貧弱でも、鞍には跨がれるようになるだろうさ。だけど大奥さまは占星術を習得してないあたしになんか診させないし、ご領主さまは手厳しいやり方をお望みじゃない」
「甘やかしてるの? 跡取りなのに?」
「そうさ。ご領主さまは前の奥方……ああ、今の奥方は後添いでね。ご領主さまは最初の奥方とお子を、お産で一度に亡くしているんだよ。今の奥方と再婚されたけど、流産が続いてね。だから長年待ち焦がれて授かった跡取り息子が、大事で大事でたまらないのさ。たとえどうしようもない貧弱でもね」
吐き捨てた最後にだけ、苛立ちが燻っていた。
「ご領主さまは万事お優しい方だ。裁判だって収税だって、慈悲を第一と考えていらっしゃる。だけどねぇ、跡取りに対して甘すぎるんだよ。あんな生きてるだけで頭撫でてもらっちゃ、心が歪むばっかりだろうに。人間ってもんは何かをやり遂げて、さもなきゃ誰かに認められて、誇りとか自信が生まれるもんだ。朝起きて、息を吸って吐いて、飯食ってるだけで褒められちまったら、生きるよすがの誇りを得られやしない。よっぽとの善人か聖人じゃない限り、根っこが水腐れするよ」
悪態をつき続ける。
もしも俺が寝たきりで、母さんが働いていたら……みじめだろうな。
同じ年の奴がお手伝いできるのに、自分が出来ない。その上、そんな状態を褒められたら、劣等な存在になった気分になる。
叱られるのも嫌だ。
でも出来ないままでいいと甘やかされたら、たぶん、もっと辛い。
「日が強くなっちまったね。さ、午後からもこき使うんだから、木陰で熱を冷ましな」
ペトロニラは俺から石壺を奪う。俺が休憩できるように取り計らってくれるんだ。
濃い木陰までいって、導水路に足を突っ込む。さらさらと水が流れていく感覚が気持ちいい。
ぼんやりしているとペトロニラがカップを差し出してきた。
今日はもう湯冷ましをもらったのに?
「さ、ジェイデン。これを味見しておくれ。奥方さまに差し上げるシロップ酢だよ」
「シロップ!」
お砂糖から作られた薬だ。
ペトロニラはヴェネツィアの薬剤師のように砂糖を巧みに扱い、シロップを作っていた。それを生姜の絞り汁や果実の酢と割って、ご領主の奥方さまに滋養をつけるために差し上げていた。
たった一舐めの味見だけで、口いっぱい甘さが膨れ上がった。蜂蜜とは違う、苦味の無い甘さ。続いて果実の酢の刺すような爽やかさ。それから不思議な香りが膨れ上がる。
何の香りだろう。
春に綻んだ菫や、秋の霜で熟れた果実の馥郁さ、それから夏至の蓬みたいな香りも感じる。あと冬至に折った針葉樹っぽい香りまで後味に漂っていた。
シロップの香りに溺れそうになっていると、ペトロニラがずいっと近づいてくる。
「苦味が残っていないだろうね」
「全然ない! 天国みたいな味がする」
「そうかい。そりゃよかった。じゃあ奥方さまに差し上げてくるよ。あんたは手を洗って、メアリと昼食を取っておいで」
ペトロニラはシロップ酢を特別な杯に満たして、奥方さまの居間へ運んでいく。
領主の奥方さまは具合を崩されること無く、それどころかふくよかな頬で臨月に入った。
なにもかもうまくいっているように見えた。
だが、やはり口は災いの元だったのだ。