2話 狼の牙
円やかな午後、俺と母さんふたりきりで城から出て、新緑萌える森の坂道を上がっていく。
ペトロニラのお使いで、川の上流まで向かうのだ。
お使いとはいえ、心地よい緑の陽射しの中、母とふたりきりで歩くのは楽しかった。歩くたびに踏む若草が、爽やかな匂いを立ち上らせてくれる。
何より、ペトロニラの怒声が聞こえなくていい。
「ペトロニラがいないと静かでいいね」
母は真新しい麻布のヴェールで髪から首元を覆って、修道女みたいに慎ましく微笑む。
既婚女性や未亡人が使うヴェールも、うちは貧しくてぼろ布しかなかった。だから新しくてたっぷりした麻布を、ペトロニラがくれたんだ。気前がいい。
「静かね………でもペトロニラは勢いよく喋らないといけないから。怪我なら一刻を争うものだし、危険な薬草も多いでしょ。毒ニンジンやトリカブトの汁とか。母さんは咄嗟に声が出ないから、ペトロニラは凄いと思うのよ。あれは長所だわ」
「長所なの?」
「たとえ好かれていなくても、長所は長所。愛すべき短所があるように、厭われる長所あるの……」
穏やかに語った。
厭われる長所って分かんないや。
「けちんぼじゃないのは長所だと思うけどさ」
「そうね。あなたにいつも朝食をくれるでしょう……本当にありがたいわ」
「母さんには無しじゃないか」
村にいたころと比べて、食事は豊かになった。魚だって卵だって食べられる。時には肉だって。
今朝なんて小姓のひとりが寝込んだからって、卵入りのポリッジを一皿とスグリ入りアーモンドビスケットを厨房からもってきてくれたんだ。あんなに香ばしくて甘い焼き菓子、初めて口にした。
でも朝ごはんは俺だけだ。
母さんとペトロニラは、大麦湯を啜るだけ。
「………大人は一日二食でいいの。でも子供は胃が小さいし成長しなくちゃいけないから、三食が適しているのよ。あなたのごはんの心配がないどころか、たくさん食べさせてくれて感謝してもしきれないわ」
「そうだけど、でもいつも手洗いとか歯磨きとかさせられるし」
「ペトロニラは瘴気を嫌うから……」
瘴気。
目には見えないけど、空気に混ざっているらしい。
健康な人間は平気だけど、肉体の均衡が崩れていると皮膚の毛穴から入って、病気になってしまう。
普通だったら床に薬草を撒いておくだけで、空気は清らかになる。
でもペトロニラは病人や怪我人に接するから、健康な人間にくっついている僅かな瘴気も許さないのだ。
洗ってない手で薬壺を触ろうとしたら、鼓膜が破れるほどの怒声を浴びせられ、手のひらが剥けるほど小枝で叩かれる。
病的な神経質さで、今まで何人もの下働きを追い出したらしい。
母さんは言われた指示から僅かでも逸れず、作業前には薬草水で爪から手首まで洗い、外から帰ってきたら口も濯いでいる。だからペトロニラの下働きが続いていた。
「でもいつも怒ってるよね、ペトロニラ。怒らなかったらみんなに好かれるのに」
俺が口を尖らせれば、母さんは少し考えるように首を傾げた。
数歩進んでから、躊躇いがちに言葉を継ぐ。
「……怒っているわけではないと思うわ」
「どこが」
「他人の心を勝手に推し量るのは、よくないことだけど………きっとペトロニラは喜びも悲しみも、怒りの形で飛び出してしまうから、いつも怒ってるように見えてしまうのよ。悪い人じゃないの」
「悪い人じゃないのは分かってるよ。でも口調はきついし言い方が意地悪だし、好きじゃない」
「そうね……母さんも好きじゃないわ。それでもペトロニラは嘘はないし、筋は通ってる。優しい言葉で嘘を吐く人より、母さんは働いていて楽よ」
「母さんが辛くないならいいけどさ」
俺は道端の茂みにある枝を拾う。振り回すのにちょうどいい太さと長さだ。
ぶんぶん振り回していると、川の上流に辿り着く。
誰もいないような静けさに、小川のせせらぎとかがやきが満ちている。
今、きらっと光ったのは小魚だろうか。
なんて綺麗なところだろう。
母さんは籠から、マンドラゴラを出した。
川に小石で囲いを作り、マンドラゴラをせせらぎにひたす。
「何をしてるの?」
「マンドラゴラの根っこは悪魔の力があるでしょう。でも清らかな水に一晩ひたすと、悪魔の力が抜けて癒しの力だけが残るのよ。これはとても怖い薬草だけど、良い痛み止めになるの」
悪魔の力が宿っているのに、水で癒しの力だけが残る。
マンドラゴラは悪魔と天使の力、ふたつ持っているんだ。
「どうして神さまはこんな不思議な植物をおつくりになったの?」
「御心を量るのは畏れ多いけど………悪い人間もいるし、善い人間もいるし、悪かったり善かったりする人間もいるから、植物だってそういうものがあるのよ」
「ペトロニラみたいに?」
母は曖昧に微笑んだ。
「………ジェイデン。あなたは川遊びしていらっしゃい。ペトロニラにタオルと海綿を頂いてきたの。今日はゆっくり身体を流してきていいって、ペトロニラからお許し貰っているのよ」
ペトロニラは怒りんぼだけど、けちんぼじゃない。
俺と母さんを休ませてくれるんだ。
小川の水は冷たいけど、陽だまりになっているところは程よかった。
俺が服を脱いで、陽だまりに飛び込む。母さんが髪や耳後ろを海綿でこすってくれた。
もう俺ひとりで身体を洗えるのに。
「母さんは? 俺はひとりで洗えるし、深いところに行かないよ。見張ってなくても大丈夫だから」
「………そうね、でも足元には気を付けて」
母さんは麻布のヴェールからピンを抜いて解き、豊かな黒髪を流した。
村にいるときはぼさぼさだったけど、城にきたら小まめに櫛で梳いているから、さらさらになっていた。ぼさぼさなままだと虱が湧くから、ペトロニラが口酸っぱく梳けと言うのだ。
黒髪を直視したらいけない気がして、俺は離れて日なたで遊んだ。
川遊びは楽しい。雫を散らして光の反射を増やしてみたり、足元の岩をひっくり返して遊ぶ。静かに遊んでいれば、森の小鳥たちのお喋りが増えてきた。
魚が泳いでいるけど、あれはご領主さまのものだ。
捕まえたら密漁になる。
川底の石を枝で転がして遊んでいると、母は川から上がって身体をぬぐう。母さんは髪がたっぷりしているから、水気を落とすのに時間がかかった。
「ジェイデン。わたしは用を足してくるわ」
「うん」
母が上がったなら、俺も身体を拭こう。
川遊びは名残惜しいけど、おなかも減ってきた。
陽だまりで水を払っていると、不意に小鳥の鳴き声が途絶えて、羽ばたきが梢を揺らす。
なんだろう。森が突然、口を閉ざした。何か拒否するように。
これは嫌な沈黙だ。
大きな獣が訪れたような感覚がする。
まさか狼?
「母さん!」
俺は小枝を片手に、森の奥に駆けた。
ほんの数歩、茂みを掻き分けたその翳に、見知らぬ男たちがいた。
粗末な身なりの男が三人。城でも村でも見かけた記憶がない。きっとよそ者だ。
そのよそ者たちが、母さんの黒髪を掴み、チュニックを剥ごうとしていた。
追いはぎだ。
俺は枝を強く握って、追いはぎ男たちに突っ込む。
「離れろ、追いはぎ!」
枝を振り回す。
だけど俺の背丈じゃ、男たちの頭には届かない。
「なんだ、このクソガキ」
男のひとりに蹴り飛ばされた。倒れた途端に、鳩尾を踏まれて押さえつける。
暴れても身動き取れない。動けば動くほど、ますます強くかかとが食い込んできた。くさびみたいだ。
「なんだ? この別嬪さんの弟か?」
「よお、坊主。追いはぎじゃなねぇから、安心しろや。終わったら、服も返してやるからさ」
粘っこい笑いが森に響く。
「別嬪さんもおとなしくしてな。弟の脚を潰されて、乞食にしたくはねぇだろう」
「や……」
母さんは泣きぬれて真っ青になっていた。
震えているのに動きを止め、目を閉じてしまう。
駄目だ。
俺のせいで母さんの服が盗られるなんて。
俺のせいで母さんが怖い思いをするなんて。
手の届くところに、石があった。ひとつの石。
どうして拾い上げたのか、ただ目の前が真っ赤になった。身体の動くまま、肩を捩じり、腕を振り、後方へ石を放つ。
俺を踏んづけている男の口許に、石がうまいこと命中した。
「痛ェッ!」
踏んでいる脚がふらついた。
脚の下から抜け出して、男の股間に頭突きを喰らわす。
「このクソガキッ!」
振り向けば、別の男の腕が、俺の首元へ伸びてくる。
俺はその手に噛みついた。
肉の千切れる感覚、骨の砕ける感覚が、口に広がる。
鉄臭い血の味。
悲鳴が轟いた。
口の中の指を吐き捨て、倒れた男の股間を蹴り飛ばす。
別の男が、後ろから殴りかかってきた。俺が紙一重で躱せば、男は勢い余ってバランスを崩す。足首を狙って枝で叩き伏せ、倒れかかった耳に齧りつく。
軟骨が俺の口の中で、ごぎゅりと潰れ、皮膚が破れて、血が噴き出す。
「なんだ、こいつ! 狼憑きか!」
「び、ビビッてんじゃねぇよ。ただの躾けの悪いガキじゃねーか」
「何してるんだいッ!」
森に怒声が轟いた。
ペトロニラだ。
見開かれた金壺眼は、火をくべたように爛々と燃え盛っている。視線を合わせた途端に、魂が地獄の業火に食われそうな目付きだった。
唐突過ぎるペトロニラに、男たちは情けない悲鳴を上げた。
本物の悪魔が飛び出してきたと勘違いしたのだろう。
這う這うの体で逃げていく。
ペトロニラは一本眉の中心に皺を刻み、俺のところにやってくる。
叱られる。
お使いの途中にこんなことに巻き込まれたら、げんこつと一緒に殴り飛ばされるのが普通だ。洗濯を盗まれた農奴が折檻されるのは、珍しい光景じゃない。
身を縮ませ、殴られる衝撃に構える。
だけど予想に反して、ペトロニラは俺の脚を掴んだ。
「ジェイデン! 怪我してるじゃないか」
いつの間にか俺の足の指に、枝のささくれが食い込んでいた。素足で森の中を走れば、当然だ。
ペトロニラは屈み、躊躇なく俺の足のささくれを口で吸って吐き捨てた。
びっくりして口が開く。血が溢れてきた。
「ジェイデン、口の中も切ったのかい」
「ううん、俺の怪我じゃない。あいつの耳だよ。食い千切ったんだ」
俺は口の中から血と皮を吐き出す。
「よくやった! 母親を守れるなんて、立派な男だよ! さ、あらいざらい血を吐き出すんだ。瘴気に汚染された血だったら、お前の歯が駄目になっちまうだろ! とっととあっちの清水で傷と口を洗っておいで。帰ったら薬湯を煎じてやる」
ペトロニラの言いつけ通り、せせらぎで足を洗ってうがいする。
「メアリは無事かい? どこか打ち付けちゃいないだろうね」
母さんは髪と衣服が乱れ、足が泥にまみれただけみたいだった。
それでもペトロニラは熱心に、眼球の色合いを観察して手足をさすり、怪我がないか確認している。
「……ありがとう。ペトロニラ」
母の感謝も聞かず、ペトロニラは俺の方へと振り向いた。
「ジェイデン。城に戻ったらあたしが、今回の経緯を説明する。もしあんたが聞かれたら、あたしが最初から一緒だって言いな」
「う、うん」
なんでそういう嘘をつくのか分からないけど、ペトロニラの威圧が凄まじく、反射的に頷いてしまった。
「あたしゃ悪党どもの人相を覚えている。あたしが騎士に報告すりゃ、メアリが辛い記憶を手繰って説明しなくていいだろ。だから最初からあたしがいたことにすりゃいいんだ。いいね、ジェイデン! これは絶対の約束だよ!」
「うん! 約束する!」
母さんのため。
それは俺の腑に落ちた。
あんな汚らしい連中なんか早く忘れればいいのに、繰り返し騎士に尋ねられたら、母さんは辛い思いを忘れられない。そんなこと絶対に駄目だ。
ペトロニラが代わって報告すれば、母さんはゆっくり休める。
「まったくあいつらなんなんだい! 城が見える場所で、まさか密漁してたんじゃないだろうね。騎士どもは何をしているんだい。あんな連中が近づくなんて、威光を守れちゃいないじゃないか。ゴドフリーのじじぃに一言言ってやらなきゃ気が済まないね!」
ペトロニラは追いはぎと騎士たちに怒り狂っていた。
「ゴドフリーのじじぃ……?」
「偉そうな髭の騎士だよ。若造の騎士どもや弓兵たちを采配しているやつ!」
もしかして老騎士さまのことだろうか。
老騎士さまはご領主さまの腹心で、身分の高い旗騎士であらせられる。衛兵や弓兵たちをまとめあげている城の総指揮官に対して、ペトロニラときたら歯に衣を着せなかった。
「さ、帰るよ! メアリはどっか痛くなったら、いつでも言いな!」
目から火花が飛び出るくらい、頭から湯気が沸くほどに怒っていたけど、その怒りは俺と母さんに向けられなかった。城に戻るに否や、老騎士ゴドフリー殿に治安が保たれていないと怒鳴り込みにいったのだ。
母さんが言った通り、ペトロニラは優しさも悲しみも、怒りになって湧き上がる性質なのかもしれなかった。
この日から俺は、調薬小屋に響く怒声は嫌いじゃなくなった。